第2話 とにかく逃げるわよ
夜中の街を歩くのは初めてだった。
昼間の賑やかさとはまるで違い、街路は静まり返っている。誰も歩いていない。どの民家も人の気配はあるものの、静まり返り、まるで時間が止まってしまったかのようだ。
不気味だ。こんなに遅い時間だとしても、夜通し賑わっている店が一つもないなんて。
セルフィーは違和感を覚えながら、足を一歩踏み出した。
少しばかり散策すると、歓楽街へと続く道に差し掛かった。そこだけは明かりが煌々《こうこう》と灯り、かすかに人々の話し声が聞こえてくる。しかし、足を踏み入れてみると、その違和感は確信に変わった。
客の姿は、街の住人たちではなかった。 そこにいるのは、王国の騎士団員や、王城に関わる人間ばかり。制服を着た男たちが酒を飲み、大声で笑っている。ここは本当に歓楽街だろうか。まるで騎士団の詰所にしか見えない。
(一般の人がいない?お城の人ばっか…?)
身の危険を感じたセルフィーは、その場を離れた。
その後、いくつかの民家の窓を覗き込んだ。確かに人はいる。子供も寝ている。食事もしている痕跡はある。だが静かすぎる。
なんだろう、この違和感は。
「祝福」に満ちた平穏な街。そう教えられてきたはずの王都は、夜の闇に隠れて、どこか奇妙な空気をまとっていた。
しかし、今はその謎を解き明かしている場合ではない。捕まる前に、一刻も早くこの街から離れなければ。 セルフィーは、再び走り出した。
「今はまだ、わからない。分からないから、出てきたんだ」
心の中でそう言い聞かせ、セルフィーは再び走り出した。足が向かうのは、王都の城門ではなく、地下へと続く細い通路。聖女になって初めて、こっそり城壁の外へ出た際に発見した、秘密の抜け道だった。
彼女は、聖女としての城下での「お勤め」の合間に、街の民を祝福して回るという名目で、散歩の時間を頂き、王都を散策し、その地理を頭に叩き込んでいた。その知識が、今、彼女の逃走を助けている。
地下通路は、ひっそりとしていて、湿った空気が漂っていた。カビの匂いと、時折聞こえる水の滴る音。地上とは全く異なる世界だ。迷路のように入り組んだ通路を進み、ようやく出口の重い扉を押し開ける。
扉の外は、木々に覆われた薄暗い森だった。王都を囲む、手入れされた森だ。夜風が頬を撫で、土の匂いが鼻腔をくすぐる。
「……久しぶりだわ」
故郷の山を思い出し、セルフィーは静かに呟いた。
「自由って、こんなに気持ち良かったのね。忘れてたわ」
彼女は満面の笑みを浮かべ、空を見上げた。王都の光に隠されていた星々が、今、彼女の頭上で輝いている。
(まずは、この王都から離れよう。そして、人目につかない場所で、この魔力の秘密を探るのよ)
そう決意を固めた彼女は、森の奥へと足を踏み入れた。
森の中をどれほど歩いただろうか。夜が明け、太陽の光が木々の隙間から差し込んできた。
その時、彼女の耳に、かすかな悲鳴が届いた。
「う、うわああああ!」
叫び声は、森のさらに奥から聞こえてくる。
(……魔物?)
セルフィーは、相棒である魔法銃に手を伸ばした。
森の奥から聞こえてきた悲鳴に、セルフィーはすぐさま駆け出した。草木をかき分け、わずかな獣道を進む。
そして開けた場所に出た瞬間、彼女の目に飛び込んできたのは、地面に倒れ込む一人の男と、その男に今まさに襲いかかろうとしている、巨大な熊の姿だった。
だが、それはただの熊ではない。その体躯は黒く変色し、爪も牙も異常なほどに長く伸びている。見るからにただならぬ獰猛さを放つそれは、おそらく魔獣の類だろう。
「助、助けてくれえ!」
男の悲痛な叫び声が、森に響き渡る。
考える余裕はなかった。セルフィーは腰に下げた相棒、魔力銃を素早く引き抜いた。引き金に指をかけながら、彼女は魔力を集中させる。
重要なのは、イメージ。何を撃ち出したいか。鉛の弾丸か、鋭い氷の刃か、灼熱の火炎か、轟く雷撃か、あるいは癒しの光か。
一瞬の静寂の中、セルフィーの脳裏には、研ぎ澄まされた一つの形が浮かび上がる。
「氷の刃……」
彼女の魔力が銃身に流れ込み、銃の先端に透き通るような青い光が宿る。それは、冷気をまとった、氷でできた鋭利な刃の形を取った。
「来い!」
セルフィーが叫んだ瞬間、魔獣が咆哮と共に飛びかかってきた。
彼女は巧みに身をかわし、その巨体を紙一重でかわす。魔獣の爪が地面をえぐり、土煙が舞い上がる。その一瞬の隙を見逃さず、セルフィーは再び走り出す。
魔力銃から放たれる氷の刃は、魔獣の分厚い皮を切り裂き、その動きを鈍らせる。彼女はそれを囮に使い、魔獣の攻撃を誘いながら、その動きを観察した。
彼女が狙うはただ一つ、急所。 頭を狙うべく、魔力銃を構え、狙いを定める。彼女は魔力銃を構えながら、まるでダンスを踊るかのように魔獣の周りを駆け巡る。そして、魔獣が再び咆哮を上げて頭を振り上げた瞬間、セルフィーは動いた。
「一撃よ!」
それは、彼女が故郷で野盗や魔獣を相手に、幾度となく重ねてきた経験が導き出した、確信の一撃だった。
狙いを定めた銃口から、最後の氷の刃が放たれる。その刃は、風を切り裂き、正確に魔獣の額を貫いた。
魔獣は短い悲鳴を上げて、そのまま沈黙した。巨大な体が地面に崩れ落ち、もう動くことはない。
「久しぶりの戦闘だけど、なまっちゃいないわね!」
セルフィーは微笑み、使い慣れた相棒を愛おしそうに撫でた。
「あ、ありがとう…」
男が震える声で感謝を述べた。




