第1話 聖女って何?
「さあ、行こうか……」
静かに月に向かってそう言った。
月明かりが降り注ぐ、聖女の塔の最上階の一室。その塔は、王城の中でもひときわ高く、まるで王国の監視者のように空へ突き立っていた。
窓辺に腰掛けたセルフィーは、艶やかな亜麻色の髪を一本の革紐で束ね、微笑んだ。腰には、相棒の一丁の魔法銃と、旅の道連れとなる小さな水筒。それだけを携え、籠の中の鳥であったセルフィーは、その夜、籠である王城を抜け出した。
夜気はひんやりと肌を刺し、遠くに広がる王都の無数の灯りが、まるで星のように地上で瞬いている。静寂に包まれた塔の窓から身を乗り出し、彼女は風に髪を揺らした。高鳴る心臓の鼓動が、静けさの中でやけに大きく響く。それは恐怖ではなく、解放への期待に満ちた高揚感だった。
皆に崇められ、民のために身を捧げ、祝福を与え続けてきた…はずだった。
それは、ただ与えられた役割をこなす、人形のような日々。嫌じゃなかった。
ある時、教会でのお勤めの際、一人の子どもが、叫びだした。
「聖女様の魔力は人々を苦しめている!祝福を受けた者たちは皆、魔物になった!じいちゃんを返せ!」
すぐにその子は外へ連れ出されたが、彼の言葉は私の心に深く刺さった。確かに私は言われるがまま、聖女として崇められ、魔力で皆を祝福し、病を治療してきた。何も疑うことなく、ただ自分に備わった魔力を使っていただけだった。
よく考えれば、私ってなんだろう。元はただの町娘だ。さらに遡れば、どこにも縛られず、世界を気ままに旅する行商人。定住したのは、王都から遠く離れた山間の小さな町、アルタイル。そこへ王都の一行が立ち寄った際に、何気なく受けた魔力検査で、突然「聖女13号」にされた。町の人達は皆、我が事のように喜んでくれた。心のどこかで安定を求めていた私も、「まあ、これもいいことなのかもしれない」と流されてしまったのだ――
聖女になってみれば、何の不自由もなく、何の規制もない。ただただ、祝福や治療という「お勤め」をこなすだけの生活。疑問を持つことすらしなかった。
そんな流されるだけの人生だった私を、あの少年の言葉は私の心を深く揺さぶった。
――私って、何?
――聖女って、何?
――私の魔力って、何?
答えはどこにも見つからない。この王城の、重厚な壁に閉じ込められていては、決して見つかることはないだろう。
「こんなとこで、おしとやかなお姫様みたいな顔して暮らしてて、何が分かるの?」
セルフィーは、頭の上が疑問符だらけになった。そして、その疑問符は、彼女の冒険心を再び燃え上がらせた。
――私の使う「魔力」とは…
分からないなら、自分で見つける。間違っているなら、自分で正す。これこそが、私がたどり着くべき、本当の聖女の道だ――
塔は高かった。しかし、それはセルフィーにとって何の問題にもならなかった。
聖女として生きる間も、夜な夜な塔を抜け出しては、城壁や尖塔をよじ登るのが日課だったからだ。わずかな突起や、指先が入るほどの凹みがあれば、どんな場所でも上り下りできる。野盗のようなその技術。世界を旅して鍛え抜かれた身体能力は、王都に来てからも少しも錆びつくことはなかった。
足元を照らす月明かりを頼りに、ひらりと身をかわしながら壁面を降りていく。恐怖は一切ない。感じるのは、夜風が肌を撫でる爽快感と、これから始まる旅への期待だけだ。
城内を巡回する衛兵たちのルートも、毎日の「散歩」で完璧に把握済みだ。
「この時間帯なら、西の門は手薄のはず。チョロいもんよ」
口元に楽しげな笑みを浮かべ、セルフィーは軽やかに地面に着地した。土を踏みしめる感触が、彼女の心を自由へと導く。
西の門に近づくと、予想通り衛兵は二人だけだった。
「やっぱり、チョロいもんね」
そう呟き、セルフィーは慎重に物陰に身を潜め、様子をうかがっていた。すると、まるで彼女の旅立ちを後押しするかのように、門がゆっくりと重厚な音を立てて開く。よし、と心の中で呟き、門番が馬車の通行を許可したのと同時に、彼女も風のように身を滑らせ、外へと出た。
その時、ふと、門をくぐる馬車の中が気になり、目を向けると、そこにいたのは、もう一人の聖女、「聖女10号」ミラだった。地方への「祝福」の旅から戻ったのだろうか。窓から見えるその疲れた横顔を見て、セルフィーは安堵と同時に、少しの寂しさを感じた。
しかし、その安堵も束の間、目が合ってしまった。
ミラは一瞬、疲労の滲む目で首を傾げた。その瞳が、虚ろながらもこちらを捉えた瞬間、馬車を止めようと、御者に向けたかのように見えた手が、微かに宙を掻いた。
「え?セルフィーちゃん…?まさかね……」
そう呟く声は聞こえたが、その直後、疲労で深くため息をつき、御者への指示を諦めたかのようにすぐに手を下げた。
「そんなわけないわよね」
首を横に振り、遠い目をしながら馬車の奥へと身を沈めていった。
(ヤバッ!ミラじゃん!)
心臓がドクンと跳ね上がる。バレたか、いや、疲れていて虚ろなだけか、でも目は合った、どちらにせよ、これ以上ここにいるのは危険だと直感した。
「仕方ない!逃げよ!」
彼女は振り返ることなく、一気に闇の中へ駆け出した。
ミラは、セルフィーが聖女13号に認定されて初めてできた友達だった。底抜けに明るく、何も知らない彼女に聖女としての生活のあれこれを教えてくれた。漁師の娘で、港町をあげて聖女になったことを喜んでくれたという、責任感の強い子。だからこそ、何も言わずに去るのは少し心苦しかった。
(また会おうね、ミラ。今度会うときは、全部話すから)
心の中でそう約束し、セルフィーはひたすらに街の中を駆け抜けた。その足取りは、もはや「逃走」ではなく、自由を求めて進む「旅」そのものだった。




