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【Night 55】ピアノ




人々に紛れてよく見えなかったが、群衆の中心にいるテリカは、他の人たちが立っているだけなのに対して、何かに座っているのか頭の位置が低かった。

だから、正直ちゃんと確信したわけじゃない。でも、わかっていた。

この人は、テリカだと。

「テリカさん!」

ヒカリは群衆の方に駆け寄ると、まず無理矢理押しのけて中心に向かおうとした。だが大人たちは地面にのり付けでもされたかのように、全く動かない。仕方なく、人々の脚と脚の間をくぐり抜けるようにして、どうにかテリカの元までたどり着いた。

そこでヒカリは、幼稚園の先生がたまにするように、ピアノを弾いているのだとわかった。先生が弾くオルガンとは違うが、きっと同じようなことができるのだろう。それはそれは見事な響きで、我を忘れて聞き惚れてしまいそうだった。

「テリカさん!」

ヒカリはもう一度、その名前を口にした。

しかし、声は空虚に広がるだけだった。

ヒカリはさらにテリカの元に近づき、とうとう手を伸ばせば触ることのできる距離まで近づいた。不思議なことに、そのテリカからは生物の温もりというものが感じられなかった。ヒカリに気づく素振りも見せなかった。

そのテリカは、やはりコンビニで初めて会った時と同じような長く美しい黒髪をしており、その口角は少し上がっていた。ヨウタと違い、表情がある。ただし目は髪の陰になるようにして見えなくなっていて、笑っているはずの口が幾分不気味に感じた。

「……」

そのままヒカリは少しの間固まっていたが、やがて何かを思い出したかのように口を開いた。

「いっしょにかえろう」

そして、テリカの体に触れようとした。指先がテリカの肩と接触するまで、残り10センチ、5センチ、3センチ……。

突如として、耳をつんざくような不協和音が鳴り響いた。ヒカリがそれを知覚したのとほぼ同じタイミングで、ヒカリの体は強風にあおられた紙のように吹き飛んだ。一瞬だけエレベーターの初動のような浮遊感を感じた後、背中に鈍い衝撃が走り、床を滑ったのか擦れるような痛みを感じた。

何が起きた?

ヒカリは起き上がり、テリカの方を見た。彼女は何事もなかったかのように、再びピアノの上の指を滑らかに動かし、美しい旋律を奏でていた。いつ消えたのか、あの大勢の大人達は皆、いなくなっていた。

「っ……!」

ヒカリはそれでも、前に進んだ。今度は吹き飛ばされないように、慎重に、柱を掴みながら遠回りに近づくことにした。

またしてもテリカがこちらを向いた。

鋭利で不快な音が大きく鳴り響いた。

しかし今度は柱に掴まっていたおかげか、吹き飛ばされることはなかった。だが、強烈な衝撃が全身を叩きつけた。

「テリカさん!」

その少ない体力で何とか耐えしのいだ後、叫んだ。2人以外誰もいない空間の中、ヒカリの声がテリカの奏でる旋律をかき消した。それでもテリカは、ヒカリの方こら目線を外し、一心不乱に鍵盤に目を落としている。終始笑みを浮かべていた。

「やめて! テリカさん! かえろうよ!」

隙を見つけたのか、それとも耐えられなくなったのか、ヒカリは柱から手を離し、一気にテリカの元まで駆けていった。しかしまたしても、テリカの腕が頭の高さまで上がり、鍵盤に叩きつけられた。

先ほどよりも後ろに飛ばされた。天井の模様がものすごい速さで上から下に流れていった。実際は天井を向いてのけぞるようにして吹き飛ばされていたのだが、ヒカリはそんなこと知るよしもなかった。

そしてこれが、どうやら致命傷となったらしい。

ヒカリはその頭では起きようと考えた。

だが。

動かなかった。

体が自分の物でないように感じられた。

「え……?」

ヒカリは知らなかった。自分の体に限界が来ていたことを。それはそうだ。普通の5歳児なら意識を失っているであろう怪我を、足と頭に負っていたのだから。

テリカの姿が視界の中に見えなかった。白っぽい天井だけが映っていた。

動け。動け。動け。

目の前にテリカがいるんだ。


───来ないでほしい。


突如、頭の中に声が響いた。

テリカの物ではなかった。テリカにしては低すぎた。父親よりも低い声だった。


───今のままの方が、満足できるから。もう疲れたから、傷ついちゃったから、そっとしてほしい。


同時に力がどんどん抜けていくのを感じた。

だめだ。

ヒカリはあたりをめちゃくちゃに見回した。といっても、どんなに首を動かしても、天井と壁の上の部分しか見えなかったが。

だがそれで十分だったらしい。

ヒカリの目に、自分の姿が映った。

それは厳密に言うと天井についている四角い銀白色の金属の排煙口に映った虚像だったのだが、ヒカリは見た。

自分の足に巻かれている包帯を。

それは、テリカが元に戻った後巻いてくれた、ヒカリを助けてくれた包帯だった。

そうだ。

誰かが傷ついていたら、包帯を巻いてあげなくてはならない。

誰かが、助けてあげなくてはいけない。

起きろ。

起きろ。

ヒカリは必死に手を動かした。そして仰向けの状態からうつ伏せになると、両手で体を起こし、膝立ちになってテリカを見た。彼女はこちらを見ずにまだ手を動かし続けていた。

ヒカリは走った。前へ踏み出す度に、足が悲鳴を上げた。

すぐに、テリカが腕を上げるのが見えた。あの手が振り下ろされたら、おそらくもう、立ち上がれない。それはわかっていた。しかし、今更引き返すわけにもいかなかった。

そしてその手が、みるみるうちに下降していく。ヒカリにはそれがスローモーションのように見えた。

間に合え。

ヒカリはほぼ飛びつくように、テリカの体に触ろうとした。いける。あと少し、本当に数ミリの差だ。

だが。

ヒカリの手が、急に動かなくなった。

ヒカリはまず自分の手を見た。テリカが、ヒカリの手首を右手で掴んでいた。次に、テリカを見た。唖然とした目で。うっすらと笑みを浮かべているその顔は、じっとヒカリを見つめていた。そして、左手が、鍵盤に下ろされようとしていた。

ヒカリは死を覚悟した。覚悟というか、体がこわばっただけかもしれない。

目を閉じた。まぶたが痛んだ。

目を開けた。

なんともなっていなかった。

見ると、テリカの左手、まさにヒカリを吹き飛ばそうとしていたその左手は、鍵盤に触れるか触れないかのギリギリのところで止まっていた。

「……?」


───何で、諦めてくれないんだろう。


あの低い声が、また響いた。しかし今度は、どこか懐かしく温かい何かが混じっていたような気がする。


───そうか。彼女が言っていたからだね。テリカ、いいよ。協力しても。


正直、何のことかわからなかった。

だが、これ以上苦しまずに済むようだ。自分も、テリカも。

そしてテリカは、左手をピアノからヒカリの方へ移すと、ヒカリの体に触れ、たぐり寄せ、抱きしめた。力強く、かつ優しかった。

ヒカリもテリカの体に手を伸ばし、ゆっくりと抱きしめた。

これでようやく、あと一人だ。ヒカリは安堵感と、もう一つ、使命感に似た何かを感じていた。

そのまま、意識を失った。

そう、あと、一人だ。

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