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【Night 29】テリカ(中編)




「……?」

彼女は呆然としていた。

しかし、突然現れたその男性は、すぐに彼女に安心感を与えた。まるで、元々父親だと言われても納得できるような人だった。

「迷子かな? 大丈夫。怖がることはない」

そう言うと、彼はポケットから、黄色い包装紙に包まれた玉を取り出し、彼女に差し出した。何なのかわからなかったが、空腹だったのもあり、とりあえず口に入れてみた。

すると不思議なことに、なんとも言えない甘い味が、口の中に充満した。今まで食べたものの中で、一番おいしい。

「………」

「さて……君、何かあったのかい? おじさんに全部離してくれないかな?」

「……あの……」

彼女はそこから、全てを話した。母親のこと、父親発言のこと、そして家を出ていたこと……上手くは話せなかったが、単語を繋ぎ合わせ、会話として成立させた。

男性はその間、ずっと彼女の話を聞いていた。たどたどしく、時々言葉として成り立っていない場所があっても、最後まで聞いてくれた。

「……ちょっとそのバッグを見せてもらってもいいかな?」

すると男性は、彼女が持っていた母親のバッグに目を向けた。

彼女がいぶかしみながら手渡すと、男性はチャックを開け、中を見た。そして、少しばかり動きを止めたかと思うと、

「ありがとう」

と言って、彼女に返した。

男性の意図はわからなかった。ただ、バッグを見せた後にこう言っていたことが印象に残った。

「……大丈夫だよ。君のしたことは、決して間違っていない」

当時の彼女には、これもわからなかった。

「それと、もう一ついいかな」

男性は続ける。

「名前はなんて言うのかな?」

「……?」

名前……特定の人のことを指す単語だとは理解していた。母親がたまに誰かの名前を言っていたのだ。母親曰く、「遊び仲間」。遊べる仲間がいるのかと、うらやましがったものだ。

だが、肝心の彼女の名前がわからなかった。彼女自身も知らなかったのだ。母親からは常に「お前」「あんた」と呼ばれていたので、知る機会がなかった。

仕方なく、彼女は首を横に振った。

「そうか……」

彼は残念そうに言った。

すると突然、彼は今度は何かに気がついたかのような素振りを見せた。

「……さっき、お母さんに『無い子』って言われてたよね?」

「……?」

首をかしげてから少し経って理解した。自分で言ったことを忘れるとは。

「多分、『戸籍が無い』ってことじゃないかな? 戸籍が無かったら学校にも行けないし……」

そう言って彼は私を見た。

「……あ、ごめんごめん。わからないよね。こんなこと言われても。『戸籍』というのは、その人が『この世に存在している』ことを示すものだよ」

戸籍……。

戸籍が無かったら、この世に存在していない、つまり死んでいるのと同じ。

───生まなきゃよかった……。

「じゃあ………」

彼女は口を開いた。体がどうしようもないくらい震えていた。

「わたしは……存在しちゃだめってこと……?」

すると、彼は突然しゃがみこんだと思うと、彼女に抱きついた。幸いにも、人通りは無かった。

「……いいや。そんなことないよ……君は被害者なんだ」

彼は彼女から手を離し、しばらく考えるような素振りを見せた。

「戸籍がないのなら、新しく名前をつけないとね」

そして、彼は彼女を真っ直ぐ見て、命名した。

「今日から君の名前は、テリカだ。良い名前だろう? あの絵本の人物に似ていたんだ」




そこから、テリカはいろいろなことを彼から教わった。

まず、喋り方。たまに日本語かどうかも怪しい単語が出てきていたテリカは、敬語を教えられた。この敬語というものは、だいたいの人は拒絶反応を示さない。つまり周りに溶け込むことができる、といった算段だった。それと、敬語を強調することで、曖昧あいまいな日本語を誤魔化ごまかそうという魂胆こんたんもあった。彼女にとっては不自然極まりなかったが、我慢した。

そして次に、店の存在を知った。たくさん食べ物が並んでいる場所へ連れて行かれ、色とりどりの商品の中から、好きな物を選べ、と言われた。彼女はなんだか美味しそうに感じたサンドイッチを選んだ。すると彼はそれを人がいるカウンターまで持っていき、何かと交換していた。こんなに近くにあるのだから、そのまま取ってしまえばいいのに、と思った。

何はともあれ、そのサンドイッチはとても美味しかった。噛んだ瞬間にパンの柔らかさと挟まっていた橙色の何かのみずみずしさが絶妙にマッチし、夢中になった。フルーツサンドイッチだと、後で知らされた。

「美味しかったかい?」

「はい!」

早速敬語を使った。彼は満足そうだ。

と思うと、彼は急に真剣な表情を浮かべた。

「……どうしたんですか……?」

彼は答えなかった。

代わりにポケットに手を入れると、何やら四角い板のようなものを差し出した。

「……何ですか、これ……」

「……持っていてくれ」

途端、彼は冷や汗を流しはじめていた。

「これは、君にしか託せない。あの絵本の人物に似ていた君にしか……何かあれば、電源ボタン……その右にあって孤立しているボタンを押して、パスワードを入れるんだ」

テリカは実感した。これが、かの「スマホ」とかいうやつだろう。母親が触っては叫んでいたのを覚えている。母親が使っているところを盗み見ていたので、不思議なことに使用法は知っていた。

「今日の内に、世界は闇に包まれる。なに、心配するな。必ず迎えに行く。じゃあ、頼んだよ」

「あっ、待って……」

気がつくと、彼の姿は無かった。

代わりに、冷たい風がテリカに打ちつけた。




そして、その夜。

テリカは行くあてもなく、ふらふらと歩いていた。

家を出たはいいけれど、その後どうするかも決めずに出てきたものだから、どこに行けばいいのか、自分は助かるのかがわからなかった。

このまま自分は、どこまでも歩くのだろうか。

ただ歩き、力尽き、大地の糧になるのか。

ただ目的もわからないまま、その命を無駄にするのか。

嫌だった。なぜかこの時のテリカには、生の実感というものが強く表れていた

……すると、前方に光が見えた。

(何だろう……あそこに行けば、助かる気がする)

テリカはその光に向かって歩いた。どれだけ疲れていても、目的があれば感じないんだ。そう思った。

それは服屋だった。中に入ると、まず驚くほど清潔な店内、次に見たことのない大量の服がテリカの目に入った。しかもなぜか、誰もいない。

テリカの中に、独占欲が生まれた。

これは全部自分の物だ。全部、自分が好きにしてもいい。母親との生活の反動からか、そう考えるようになっていた。

そうして店内を歩き回ってるうちに、1つの輝きを見つけた。

それはカフェオレのような色のコートだった。まるで、私を見ろ、と言っているかのようで、少しおそれおおかった。

手に取ってみる。中にあった白っぽいもの───この時まだテリカは「タグ」という物を知らない───に、見たことがない記号がたくさん書かれていた。辛うじて読めたのは、「紫電服飾」という文字だけだった。

テリカはそれを、自分のぼろ布の上に着てみた。少し大きい。袖から手が出ない。でも構わなかった。「自分で選ぶ」ことに喜びを見出していた。

後はひたすら服を見てまわり、服屋を出た。

すると、腹が鳴った。

他の人から見れば、些細なことだったかもしれない。しかしテリカにとって、空腹とはもはや恐怖となっていた。

どうしても、あの黒い何か、そして母親のことを思い出してしまった。

テリカは走った。食物を求めて。

生存欲を発しながら。

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