【Night 19】神授人(前編)
『大丈夫だよ。心ぱいすることはなにもない』
ヒカリにそっくりな影は、白い目でヒカリを見つめながら言った。
「ヒカリの……影……?」
ヒカリの体は宙に浮いていた。おそらく影に抱えられているのだろう。それにしても、影が空を飛べたとは。
いや、そんなことよりも。
「テリカさん!」
ヒカリはテリカと距離が離れていくのに焦りを感じた。〈ゲッタ〉と名乗る影と戦った時、〈ゲッタ〉はヨウタを殺そうとした。
(ヒカリも、ころされる……? だれもたすけてくれない、そらのうえで……?)
ヒカリは次第に息苦しくなっていくのを感じた。息を吸って吐く一連の動作がだんだんと速くなっていく。こんなにも肺は酸素を取り込んでいるのに、まるで空気のない真空な空間の中にいるかのようだった。
ヒカリはもがいた。今出せる最大限の力を出し、影の束縛から逃れようとした。
『あばれないで』
「はなしてっ! テリカさんのところにもどして!」
落ちたら確実に死ぬことはヒカリもわかりきっていた。でも、このまま影と一緒にいることの方が、さらに致死率が高いように思えた。
『……あの人のところに行きたいの?』
「かえして!」
『……見てよ。あの人を』
すると影は、ヒカリに目配せをした。どうやらテリカの方を見ろということらしい。といわれても、どこにテリカがいるのかわからなかった。
しかし、その必要はなかった。
「ふざけんなぁぁぁ! 待てぇぇぇ! 返せぇぇぇ!」
下の方から誰かの声がした。ヒカリは思わず耳を塞いだ。
『ほら、あの人の本しょうはあんなかんじ』
ヒカリの影はその声のする方向を向いて、ヒカリに言い聞かせるように言った。
「あのひと……? ほんしょう……?」
『まだピンときてないみたいだね。今のこえは、あの人……あなたが、テリカさん、とよんでた人のもの』
「テリカさん……?」
あの乱暴な声が?
あの、優しさを微塵も感じられない声が?
「待てって言ってるだろ!?」
はるか下からは相変わらず粗暴な声が飛んでくる。
「あれが、テリカさん……」
『ざんねんだったね。今までのテリカさんはうそなんだよ。あのけいごを使うテリカさんはどこにもそんざいしない、作られた人かく。本とうのテリカさんは、あれ』
「……うそ」
嘘だ。
今までのテリカは、偽りの存在。
あの粗暴な人物が、本来のテリカ。
(うそだ。うそだうそだうそだ)
「うわぁぁぁ!」
ヒカリは取り乱してしまった。
『っとと……』
ヒカリの影はヒカリを腕から落としそうになるものの、しっかり掴んで飛んでいた。
やがて、テリカの姿は、そびえ立つ建物に隠れてしまった。
『……やっとじゃまな人がいなくなった。ヒカリちゃん、おちついた?』
ヒカリの影はヒカリに呼びかける。ヒカリはまだ、意味をなしていない小さな声を上げながら、暴れている。
『……ふふ。神授人といえど、まだまだわたしよりかは子どもだね』
ヒカリの影は小さく笑うと、
『ふっ』
暴れるヒカリと目が合う一瞬、その目に力を込めた。
「………」
すると、不思議なことにヒカリは落ち着きを取り戻した。いつの間にこんな所まで上がったのか知らないが、建物がかなり小さく見えていた。
『ようやくおちついたね』
「………ぎふてっど」
『え?』
「ぎふてっどって、なに?」
『……あんなじょうきょうできいてたんだ。やっぱり、さすが神授人だね』
ヒカリの影は、観念したかのように呟いた。
『いいよ。おしえてあげる。神授人っていうのは、うまれつきものすごくあたまがいい人のこと。わたしのおとーさんが名まえをつけたんだ』
「………」
すると、ヒカリを抱えた影は、急に高度をぐんぐんと下げた。
「うわ!?」
針のような風が顔に当たる。息ができない。痛い。
ヒカリの影は何も言わずに、どんどん降下していく。建物の大きさはどんどん大きくなり、速度もますます上昇していく。風は強く、勢いは増し、地面は近づき、そして……地面に激突した。
「……あれ?」
かと思うと、ヒカリの視界には灰色のコンクリートの地面が映っているだけだった。浮遊感も残っている。どうやら地面すれすれで、頭を下にして浮かんでいるようだ。
しかし、次の瞬間。体にまとわりつく感触が、急に消えた。
「えっ…」
そして、あっという間に地面とぶつかった。
『不しぎだね。ヒカリちゃんはたしかに5さい。でもかんがえていることは、まわりにいた人たちよりもっともっとふくざつだった』
うつ伏せに倒れるヒカリの背後に、影が近づく。ヒカリは生きていることに喜びながらも、またすぐ死ぬかもしれないという恐怖に駆られた。
『あん心して。まだ大丈夫』
ヒカリはうつ伏せの状態から、手を地面について上半身を起きあがらせた。影との距離は、手を伸ばせば届きそうな距離だった。
(このヒカリにそっくりなばけもの……てき? みかた? どっち?)
『知りたそうにしてるね。いいよ。おしえてあげる。神授人のこと』
そうして、ヒカリの影はヒカリに顔をゆっくりと近づけた。
白い目が、一瞬細くなったような気がした。