【Night 1】お外は危ない
「ねーえ、いつ、そとにいけるの?」
少女は母親にこう言った。
母親に抱きつき、濁りなど何一つない目を輝かせて。
「そうねぇ……いつ行けるのかしら」
母親は少女にこう言った。少女とは裏腹に、寂しそうな目を見せながら。
「わかるでしょう? お外は危ないから……」
ヒカリ、5歳。玉舵幼稚園きく組。
3月15日生、うお座、好きなものはオムライスとプラレール。
そして、外で遊ぶことも大好き。たとえ雪が降るくらいに寒くても、お構いなし。
「おかーさーん!」
ヒカリは庭の中、大きな声で叫んだ。近所一帯に響き渡るような大声で。
「ヒカリ、あんまり大きな声出さないでね。どうしたの?」
母親はそれに反応するように駆け寄る。
「これ、おちば」
ヒカリはどこから取ってきたのかもわからない茶色の物体を母親に差し出した。
「す、すごいね~、ヒカリ……どこで見つけたの?」
「こうえん!」
満足げに言うヒカリ。その顔を見て、母親もにっこりと微笑む。
「あーあ、ずっとこうしてあそべたらいいのに」
すると、母親が言った。
「……夜はだめよ、ヒカリ。夜のお外は危ないって何度も言ってるでしょ?」
「ええー」
「お昼にたっぷり遊びましょうね。夜は絵本を読んであげるから」
「……はーい」
その夜。
ヒカリが両親におやすみなさいを伝えてから、およそ30分後。
ヒカリは階段を静かに下っていた。
「ふふん。おかーさん、そりゃあ、だめっていったらいきたくなるよ」
ヒカリの足の裏に、階段の冷感が伝わる。それがより一層、ヒカリの好奇心を高めていた。
「……ユースケくんだって、つくえにらくがきしてた。マリンちゃんだって、えほんをひとりじめしてた。だから、ヒカリだって」
階段をそろそろ降りていく。慣れない動きに、思わず体が痛くなる。でも我慢することは容易だった。その痛みは、夜中に外に出るという好奇心に勝るものではなかったからだ。
ヒカリは、階段を下がりきった。彼女は既に小さな達成感を感じていたが、ここで終わりではない。まだ外にも出ていないのだ。
ここから右に行けばリビング、左に行けば玄関。ヒカリは迷わず左に進んだ。すると、右のリビングから、何やら会話が聞こえてきた。声から察するに、どうやらヒカリの両親のようだ。
「…我々だって外に出たいんだ!」
「で、でも……」
(……おとうさん……? こわい……)
父親は、普段は温厚で優しい性格の持ち主だった。しかし、ヒカリは、今の声以外で父親の怖い声を聞いたことが無かった。
ヒカリは逃げるように、玄関へ向かった。
幼稚園児には重すぎるドアをなんとか開けて外に出ると、冬のひんやりとした空気がヒカリに触れた。
「へっへーん……してやったり!」
そして、家の中で見つけた「戦利品」を取り出した。
「かいちゅうでんとう!」
寝室に置いてあった、大きめの懐中電灯。これが、秘密兵器だ。
しかし、勢いよく言ってみたはいいものの、いざ手に持ってみると、ズシリとした重みがヒカリを襲った。
でもそんなことは気にしていられない。
「どうしよう…こうえんにでもいってみようかな……」
そう言うと、ヒカリはいつも公園に行く道を、懐中電灯の細かな光を頼りに歩き始めた。
「あれ……」
歩き始めてから10分後。ヒカリの幼い脳でも、流石に違和感を理解できていた。
普段なら歩き始めて1分後ほどに近所の公園に着くはずなのだ。
でも、全く公園に着かない。それどころか、変な場所に来てしまっていた。大きな建物が建ち並んで、もくもくと排気ガスを出している───いわゆる「工場」だが、その存在をまだヒカリは知らない───場所だった。
「とにかく、かえらなきゃ……」
ヒカリは来た道を引き返した。
(まっすぐのみちだっだから、すぐおうちにつくはず)
だがその純粋な希望も、打ち砕かれることになる。
「……なんで……!?」
歩いても歩いても、家に辿り着かない。さらに知らない場所にどんどん潜り込んでしまう。
彼女は完全に「迷子」になっていた。
迷子の彼女は、その場にへたり込んだ。アスファルトが冷たい。おそらく階段より冷たいだろう。
「だれかぁ……」
ヒカリは大粒の涙を流した。こんな状況でも、星々は燦々と輝いている。
すると、その星の下に、1つの黒い影が見えた。
「!」
(ひとだ!)
ヒカリは涙を袖で拭き取って、その影に向かって走った。
「すみません、ヒ……あ、いや、わたしのいえは……」
しかし、影の元まで辿り着いたヒカリは、その言葉を飲み込んだ。
黒い影は、手を持っていた。足もあった。
ただ、どれだけ近づいても、懐中電灯を照らしても、黒い影のままだった。
黒い物体が意志を持ったように、うごめいている。
「うっ……」
黒い影は、細かく震えながら、田んぼのあぜ道を歩いているように見えた。
ヒカリは動けなかった。「蛇に睨まれた蛙のよう」。例えるなら、まさにその言葉がぴったりだった。
すると、黒い影が急に立ち止まった。
(……?)
1秒。2秒。3秒。
……ヒカリに向かって歩き出した。
「…うわあああああっ!」
ようやく、ヒカリの体に「逃げろ」という信号が送られた。
「はあ、はあ……」
ヒカリは無我夢中で走った。走って、走って、走って……そして再びへたり込んだ。いつの間にか、大きな道に出ていた。後ろを振り返っても、あの影は追ってきていなかった。
体力を回復させていると、今度はだんだんと恐怖が迫ってきた。
(ここはどこ? おうち、かえりたい。でも……)
あの影に捕まってはいけない。
直感がそう伝えている。
ヒカリは途方に暮れた。星を見てみる。いつもより多く見ることができた。しかし、今の気分の足しにもならなかった。
(よるはそとにでちゃいけないって……こういうことだったのかな……おとーさん、おかーさん……)
その時。
向こうの暗闇から、何かの音がする。
しかも、その音はだんだんと近づいてくる。
「えっ…」
ヒカリは懐中電灯を即座に構えた。嫌な予感が、なんとなくあった。
暗闇を切り裂く低い音は、やがてヒカリの目の前で止まった。
「ばけものっ!」
ヒカリはそう叫び、正面を懐中電灯で照らした。足はすでに、後ろを向いていた。
すると。
「うわっ! 眩しっ!」
自転車に似ていたそれ───バイクに乗っていた人が、たまらず目を覆っている光景が見えた。
「え? ひと……?」
「おいおい、いきなり何すんだよ」
その人はバイクから降り、ヘルメットを脱いだ。
女の人だった。髪は長くて、茶色い。黒いジャケットを雑に着て、バイクに乗っていたというのに、マフラーを大雑把に巻いていた。
しかし、何より怖かったのが、彼女の顔だった。
「こわぁい……」
影ではなかったものの、ヒカリには別の恐怖が襲いかかった。
「だれぇ……?」
「いや、お前こそ誰だよ。そしてこんな所で何してるんだ?」
女の人はヒカリに訊ねた。ヒカリはより怖くなった。
しかし、彼女は無理矢理恐怖をねじ伏せた。
「ヒカ……わたしはヒカリ……です」
「そうか、ヒカリっていうのか」
(かおはこわいけど、わるいひとじゃなさそう……)
ヒカリから、押さえ込んでいた恐怖心が消えた。
「で、こんなところで何してるんだ?」
「あ、あの……」
「あ?」
「いえにかえりたい……です。まいごに……まいごになっちゃって……」
ヒカリは母親からよく、「迷子になったら近くの大人にききなさい」と言われていた。それを初めて実践した。
しかし、その女の人は、しばらくきょとんとしていた。
「お前……迷子になったのか?」
「うん」
すると、女の人は、くっくっ、と笑い始めた。しかも、3秒ほど経つと、ははははは、と、大笑いに変わった。いや、それにしては乾いていたが。
「ちょっと! わらわないで!」
「ああー、すまんすまん」
すると、女の人は、ヒカリに顔を近づけた。ヒカリは少し嫌悪感を感じた。
「お前……家に帰りたい、って言ってたよな」
「う、うん」
女の人が遠くの方を見る。ヒカリは同じ方向を向いてみたが、彼女には何も見えなかった。
「そりゃあ無理だ。諦めな」
あまりにも素っ気ない返事だった。
生ぬるい風が、2人に当たった。