青と空
「うーん、眠たくなるほどいい天気だな」
青く、雲一つない空。いや、飛行機雲が一筋だけ、空に航跡を残している。そんな空を眺める男が一人、校舎の屋上にて手すりに腰かけている。白衣が風に吹かれ、揺れていた。
「ふぁ……」
男は、大きく欠伸をした。眠気に呑まれつつあるのか、無精ひげを撫でるように、口の前に手を持って行った。ふわっと、顔を空へと向ける。青と、飛行機雲が溶け合い、同じ空になっていく。
空を眺め、物思いに耽る男の耳に、キーンコーンカーンコーンと、午後の始業を告げるチャイムが鳴り響いた。少し、男の表情が曇る。綺麗な青空と対になる様に、男の顔は影の中に落ちていく。
「今日は、誰も来なければいいな」
そう呟いて、腰かけていた手すりに、今度は寄りかかる形で向いた。男の目には、授業を受ける生徒たちの姿が映っていた。
男の期待を裏切るように、二枚ある唯一の出入口の扉が、ギイッと音を立て、片方だけがゆっくりと開かれた。開かれた扉から出てきたのは、制服姿の少女であった。中ぐらいの身長に、自信の無さげな顔、何より特徴的なのは、その釣り気味の三白眼であった。屋上におずおずと入って来た少女は、男が居ることに気が付くと、ひぃ、っと声を上げた。
「ごめんね、驚かせちゃったかな」
手すりを離した男は、少女の方に向き直ってそう言った。
「い、いぇ……ひ、人がいると思ってなくて……」
男に向かって右手を控えめに振る少女。気まずい沈黙が流れる。男は静かに少女を眺めている、その雰囲気は、どこか緊張を孕んでいた。それを知ってか知らずか、少女はその特徴的な目を強く泳がせる。ややあって、少女は男に向かって口を開いた。
「あの、ここで何をされてたんでしょうか……?学校の方、ですよね……?」
「それは勿論、とりあえず、お互い自己紹介から始めないかな?」
そう言って、男はにこやかに笑みを浮かべた。少女は一歩、後ずさった。
「あぁ、そう警戒しないで。僕は青山、この学校で一応、カウンセラーをさせて貰ってる。君の名前は?」
「わ、私は、空井といいます……」
「空井さんか、よろしくね」
「あ、はい……」
再び、沈黙が場を支配する。なぜこんなにも警戒されるのか、と青山は首を傾げた。にこやかな男の笑顔は不器用であった。しかし、それだけではないことを経験から青山は洞察していた。思わず、周りを見渡す。青い空、少し広がった飛行機雲、緑色の床、授業を受ける生徒たち……青山はハッとした。時間割によると、今は午後の授業中である。まさか、説教を受けるのを恐れているのか。青山は、困惑のあまり、顔を絞ってしまった。それを見た空井は、やはり一歩後ずさる。青山は確信を得た。
「別に、説教をする為にここにいる訳じゃないんだ。僕は悪い職員さんだから、眠くなるとここにくるのさ。だから、大丈夫」
「ほ、本当ですか……?信じますよ?よかったぁ~」
青山が安心させるように、そうやって語り掛ける。そうすると、空井は一気に気が抜けたのか、屋上の中心に置かれているベンチに、へなへなと座り込む。しかしまだ、背筋を伸ばした上で所在なさげに髪の触角をくるくると巻いている。お互い、別種の緊張感を持っているようだ。
「安心して貰えたようで何よりだよ」
深くうなづく空井。その様子からは、あまり負の雰囲気を感じないようだと、青山は感じていた。
「いい天気だよね。絶好の昼寝日和だ」
「はいぃ、今日は、青色が良く見えますから……」
「おぉ!じゃあ、僕らは仲間ってことだね」
「仲間……そうですねぇ」
かなり心理的な距離感を詰めて来る青山に押されつつあるものの、空井も内容自体には納得しているように見えた。それを見た青山から、さっきまでのにこやかな笑顔では無く、ふわっとした笑顔を浮かべる。それを見た空井も、伸ばしていた背筋が、丸くなった。空井はふわぁ、と腕を組んで伸びをした。
「空井さんは、よく屋上に来るのかな?」
「今日みたいな日だったり、星が綺麗な日はここに来たくなってしまって」
「へぇ、いいなぁ。ん?夜に、此処まで来るのかい?」
「そうなんですよ~。あ、勿論、許可は貰ってますよ?」
そういってへにゃっと笑う空井。その笑顔はあまり似合ってないように青山は感じたが、それはお互い様かと、またにこやかな笑顔を浮かべる。
「天文部ってこの学校にあったっけな?」
「それが、無いんですよぉ。だから、私が一人で楽しんでるだけって感じです」
そう言った空井の顔に、影が落ちる。
「寂しくは無いのかい?」
「少しは、寂しいですけど~。私、興味があると止められないタイプで……だから、一人の方が楽でもあるんです」
「こんな風に空が見たくなって、授業を放り出して屋上に来ちゃう子なのでぇ。友達に、空みたいなやつだな、なんて」
まなじりを落としながら、そう言った。
「僕も、星を見るのは好きなんだ。というか、空が好きなんだよな」
「先生も、そうなんですか?」
「詳しくはないけどね。夜、眠れないタイプで」
「それは、大変ですねぇ。」
心の底から心配そうに空井は言った。青山の目元には、かなり濃い隈が浮かんでいる。
「そんなに大事って訳じゃないんだ。でも、心配してくれてありがとう」
「いえ……では、先生も星を見ませんか?眠れないなら、いっそのこと遊んでしまいませんか!?」
「おぉ……そうだなぁ。悪くないかも」
少しの困惑と、少しの期待。青山は、腕を組んで顎に手をやる。空井は、にこにこしている。純粋に、仲間が増えることを期待している雰囲気だ。しばらく青山は考え込んでいたが、やがて、恰好を崩した。
「いいね、迷惑じゃなければ、僕も仲間に入れてくれるかな?」
「勿論です!」
色よい返事を貰えてうれしいのか、左右に身体を揺らしている空井。その気配からは、最初のおどおどした感じは無い。こっちの方が素なんだろうな、青山はそう思った。
「では、早速今日から始めましょう!」
「はは、お手柔らかに頼むよ……。でも、楽しみだな」
明るい表情を浮かべる青山。空井は、にこやかに笑っていた。
「まぁ、とりあえず。この青空を楽しもうか」
「そうですねぇ」
のんびりと、時間が過ぎる。お互いに言葉は無い。そうやっていると、空井がふと、口を開いた。
「実は、今も星は光ってるんです。太陽に隠されているだけで」
「そうなのか?空っていうのは不思議だなぁ」
「何といえばいいか、分からないんですけど。私、空に憧れているんです。どこを切り取っても絵になって、自由にあるだけで意味を生む……そんな、存在に憧れているんです」
上を向いたまま空井は言う。その表情は窺い知れないが、声そのものに強い憧憬が込められていた。
「空は在り様だよ。そうなりたいなら、自由にやっていいんだ」
青山の声に、力が籠る。
「何も見えないような空でも、星が浮かんでる」
「確かに……ふふっ、ありがとうございます。やっぱり、先生を誘って正解でした」
変わらず、空井の表情は見えない。青山も、空井に背を向けるように空を眺めている。
「僕も嬉しいよ。話を聞くと一層、良い空に見えるな」
「そう言って下さると、話してよかったと思います」
二人が見上げた空からすっかり飛行機雲は消えた。そして、澄んだ青と見えない星々が空に満ちていた。