言い伝え
またしても更新が開いてしまいました。これからは時間も空くと思いますので、毎日ではないにしろ、投稿ペースを上げていく予定です。
アラン・ヒルヴァベルは、小規模な村、コッピロックの小さな病院の、木材に少し厚い布を敷いたものの上で、眠っていた。一見けが人を酷くかたい床で寝かせているように見えてしまうが、糸や獣毛などが不足しているこの村では、最高品質の寝床なのである。アランは致命傷を負っていた。大量の出血と左側の肋骨全て、足首の骨折、たった数分の出来事であったはずなのに。敵を一撃でねじ伏せたはずなのに。アランはしばらく動けぬ状況にあった。不意打ちでかつ、ソレを見ては行けないという厳しい戦況ではあったが、膨大な魔力量と魔術を無詠唱で唱えられる能力を持ってしても、魔族との戦闘はとても危険な物であるということを、その体で証明していた。
女神は、ただじっと、目を瞑ったまま動かない少年の目覚めを待った。あの戦闘から既に五日が経過していたが、アランの様態は回復することは無かった。
「……この世界の医療のレベルじゃ、流石に厳しい、かな」
女神はそういうと、自身の手に謎の光を宿し、それをアランへと飛ばした。その光がアランに付着すると、アランの全身へと広がり、ゆっくりと消えて行った。
「私のせいで、こんなにしちゃってごめんなさい。治しておいてあげたから、ゆっくり休んで」
女神はそう呟くと、俯き、暫く考える。それには特に意味はないが、それが少年へ後ろめたさや申し訳なさを感じているが故の行動であると、女神は理解していた。
「次こそは、助けてあげるからね……」
女神はそう言うと、少年から目を背け、じっと、天井を見つめた。何もない。そこから得られる情報は、板が八枚使われているということ、シラカンバを素材にしている事。それだけだった。
――
それから三日後に、アランは目を覚ます。アランが目を覚ましたことを聞きつけったコッピロックの住人たちは、アランの元へ我先にと押しかけ、感謝を示すことに全力を尽くした。突然現れた魔族をすぐさま撃退し、村が護られたのだ。感謝してもし切れない。起きて数分しか経っていないのにも関わらず、延々と住人達から感謝の言葉を滝のように浴びせられているこの状況に、アランは相当困惑していた。
「えっと、とりあえず、落ち着きましょう……」
アランの声は住人達にかき消され、情けなく消えて行く。しかし、それは次の瞬間、完全に停止することになる。突然少年の背中に衝撃が走る。背中に何か柔らかく、重たいものが思い切りぶつかった事を、数秒後に発せられた、喜びに満ち溢れた、自身を呼ぶ声で理解する。
「あらぁ~ん!」
第二次成長を迎えた少年は、赤面した。嫌いと言えば嘘になってしまうが、少年はソレが苦手だった。あれ程までに賑やかだった病室内の時間が停止したように静かになる。住人達の前には、村を死守してくれた恩人の背中に、今までに見たこともないような美しい少女が、自身の豊満な胸部がこれでもかと当てられていたのだから。
「本当に良かった…! 本当に!」
そんな周囲の視線を気にも留めず、その美しい少女は涙を浮かべながら、少年を抱きしめていた。
「めめめ、めが、が……」
少年は、今自分の身に起こっている事を理解していた。とても恥ずかしい。それだけが、少年の頭をぐるぐるといたずらにかき回していた。どんどん熱くなる体と、回らない呂律で必死にやめてくれと抵抗するが、それは女神に届くことは無かった。
「ごめんなさい! 本当にごめんなさい!」
女神のその言葉で、少年はようやく冷静さを取り戻し始めた。そして思い出す。魔族の恐ろしさ、自分の非力さ、このとてつもない力を持つ魔族達から大陸を奪還したレペアート達。何故かはわからないが 、少年の中で、どばどばと記憶が脳に思い切り掛けられる。無能の二文字と仲間だと思っていた者達の悪意ある行動。あの時の表情。
「……ッ」
少年は女神の胸の中で苦痛を覚えた。身体的なものではない。精神の奥の、深く遠い、そんな場所に、治らない傷がついていた。
「あ、えと、ごめん! その、苦しかった……よ、ね?」
少年は我に返る。この女神は悲しませられない。そう思っていた。自分を絶望から救い上げ、幸せを与えてくれた、母や父以上に大切な存在だ。
「すみません、起きたら村の方々総出でこんなことになっていて、何かあったのかなと考え事を……」
アランは少し困ったような笑顔を見せると、村の人々はあははと盛大に笑い、村を守ってくれたのだから当たり前だと、この村では貴重な布や米、そして硬貨の山をアランへと渡し始めた。
「急に襲来した魔族を討伐し、村を護ってくださった貴方様には、なんとお礼をしたらよいやら……」
村人たちが礼の品を私終えた頃に、一人の老婆がアランの元へとやってきた。コッピロックの長、ヴェリヴァであった。
「ヴェリヴァ様……そんな、僕は何も……」
アランはそう言って村人たちの礼の品を返そうとする。しかし、ヴェリヴァはしわだらけの手で、優しくアランの手を握り、それを辞めさせる。
「いいえ、それは貴方様のものでございます。それより、貴方様のお名前をお伺いしたいのです」
「は、はい……」
ヴェリヴァの抑止はアランに効果絶大だったようだ。アランはこの状況を受け入れることにした。そして、自分の名をヴェルヴァに伝えた。
「本当に、それがあなたの名なのですか……」
ヴェリヴァは何かに怯えるように、体を震わせた。そしてアランの返事を聞いて、話を始めた。
「今から300年前、魔族がこの平和だった世界に闇を与えました。沢山の動植物は死に絶え、この世界の半分以上を壊死させたのです。魔族が蔓延ったのには原因がありました。それは魔族の王の生誕祭という、魔王、エイランのとてつもない魔力が生み出したのだそうです。この魔王エイランの名は、とある賢者様によって解読された魔族達の歴史書に乗っていたそうです。魔族文字で書くと……」
ヴェリヴァはアランの手のひらを出させ、そこに指で記号のようなものを書いていた。A、r、a、n。
「この文字は二通りの呼び方ができるそうです。一つはエイラン。そしてもう一つは」
アラン。少年の名前だった。少年は思い出す。あの時の、受付嬢の言葉を。
「その名前は人に付けちゃダメなんですよぉ!」
きっと受付嬢の目には、自分の事を魔王だと思っている痛々しい少年が映っていたのだろう。だからこそ顔を真っ赤にして笑ったのだと、アランは理解した。そして少しいらだちを覚えた。今度会ったら尻でもはたいて天日干しにでもしてやろうと思った。
「アラン様……貴方は呪われている事でしょう。だからこそ、魔族が貴方様の元へと現れたのかもしれません。王の気配を感じ取ったのでしょうか。私めにはわかりませぬが、アラン様、貴方のその呪いは世界を、そして貴方様をも飲み込んでしまうことでしょう」
ヴェリヴァはそこで話を止めた。そして、これはあくまで言い伝えです。と付け加え、再度アランの手を握った。先ほどの優しさはそこにはなく、それはまるで、アランへ何か力を送っているようだった。ヴェリヴァは震えを抑えながら、アランの右手を、小さい両手で力いっぱいに握りしめた。その光景を、村人たちはじっと見つめていた。その目はまるで少年を慰めるように悲しい目だった。
* * *
「さっきの話は、本当なんでしょうか……」
黒く青い空には星が点々ときらめいている。星は少年の気持ちさえ置き去りにし、光り輝いていた。そんな星を少年はぼんやりと見つめ、数時間前の事について、一番よく知っているだろう存在に語り掛けていた。
「うん……残念だけど、本当。でも、魔族が集まってくるってのは違うから、この村がまた危険にさらされることは――」
「違うんです。もし本当に僕が魔力を引き寄せてしまうなら、それから命を賭けて世界を守ります。その覚悟はしているつもりです」
アランは目を見開き、女神の目を見ていた。両の手はこれでもかと握られ、その握りこぶしは震えていた。
「怖いんです。僕の魔力が……僕が暴走してしまうかもしれないことが……」
アランの震えは全身に流れていた。アランの様子を見た女神は、アランを抱きしめ、ゆっくりと頭を撫でた。そうしないと、少年の心がまた壊れてしまうのではないのかと思ったからだ。魔族との戦闘から、女神はこの少年だけはどんなことをしてでも守りたいと思っていた。
「大丈夫。私はそれを防ぐために君の所に来たんだから」
女神のその言葉はアランの精神の、強張った糸のような何かを断ち切った。瞬間、アランの頬には、川が出来ていた。アランは思い出す。男は女の前で絶対に泣いてはいけない。という祖父の言葉を。そして更に思い出す。本当に心を許した女の胸の中でなら、いくらでも泣いても良いのだ。という祖父の言葉の続きを。アランは生まれた時以上に。泣き声を上げた。自身が背負っていた責任と見つめあい、それを背負い、世界の為に生きる日々。それに伴う精神への大きな負担。それらを何とか漏らさぬようにとしていた器が完全に消え、全てが溢れ、流星のように早く、土砂のような勢いで流れ始めた。女神はそれを全て、受け止めていた。少年の心を蝕んでいたものを全て。
その夜はいつもと変わらない夜だった。何も変わらない。いつもの夜だった。
――陽が昇り、命たちが起き始める頃。少年の傷は無くなっていた。
「アラン! 納品書のここ、間違えてるよ!」
「えー! 修正位お願いしますよ!」
「何言ってるの! 私は女神だよ! 女神に雑務をやらせるとか罰当たりな事させる気?」
宿は朝からとても騒がしかった。少年はいつも通り、納品証明書の発行を、女神は最終確認を行っていた。しかし、あまりに女神の仕事が楽すぎる為に、二日に一回は争いが起きていた。
「いい加減なんかしてくださいよ! 女神、なんですから!」
「女神だからこそなんもしないの! 第一に、神は人間の文明や文化にはあまり触れてはいけないんだからね! アランのは世界がかかってるから特別なだけなの! わかる?」
「これ書くのが文明に触れてるわけないじゃないですか! あ、もしかして、僕たち人間程度の文字が書けないとかですか?」
「はあ! なに言ってんの? 君が寝てる間私がこれ書いてたんだけど?」
二人の言い合いはどんどん激しくなり、そして時間がどんどんと過ぎて行った。納品書は、ギリギリ期限内に完成した。