世界の開始
「さて、落ち着いたところで、気分はどうかな?」
数分の内に、雨は止んだようで、濡れていた女神と少年の体はすっかり乾いていた。空だった少年の心は満たされ、少年は自分を取り戻すことが出来た。だがそれは、同時に、少年の心を揺さぶっていた。
「えっと、その……」
第二次成長期を迎えた十五の少年に、目の前に広がる楽園は、かなり刺激的過ぎたのだ。
「ん~? あ、もしかして――」
言わないでください! と、少年は不吉な笑みを浮かべている女神に言う。それでも女神はやめることは無い。胸を押し当て、少年の耳に顔を近づけ、とても女神とは思えない悪魔の誘惑をし始めるのだ。
「ちなみにね、私が君の所に来たのは、君にお願いがあったからなんだ……」
女神は少年の耳元で、妖艶に囁く、少年は耐えきれないのか目を思い切り瞑りながら、下唇を強く噛んだ。
「そのお願いを君が受け入れてくれたら、そのお礼として、願いをなんでも叶えてあげようと思ってるんだけどさ」
少年は体を震わせる。荒くなった息を整えるために数回深呼吸をし、女神との交渉に応じる準備をした。
「わかりました……受けます、だから……叶えてください……」
「交渉成立だね。それで、何を叶えたいのかな?」
女神は、少年の想いを見透かしながらも、わざと少年の口から言わせるように誘導する。それに感づいたのか、少年の震えは更に激しくなった。
「僕、が……言うんですか?」
少年の勇気を最大限に振り絞ったであろう言葉を聞いた女神は、少年の顔を両の手で抱えると、鼻がくっついてしまいそうなくらいに自身の美しい顔を近づけ、少年に目で訴える。そうだ、と。
「それじゃあ……あの、服を、着てくれませんか?」
「は?」
女神は少年の願いに対して、先程の女性的な魅力を一切感じさせない素っ頓狂な声を出した。少年は、願いを言い終わった後なのに、目を瞑っていた。
「え? そんなんでいいの?」
女神は少年に問う。
「はい」
少年は目を瞑ったまま答える。
「ほんとに? ほら、男の子は大好きでしょ? おっぱいだよ?」
女神は少年の腕に胸を押し当てる。
「ぁあと! 胸も小さくしてください!」
少年は赤面しながら答える。それを見た女神は少年から離れ、肩を落としはあっとため息を吐くと、目を瞑っている少年を見ながら、その願いの対価が何なのか、少年に伝える。
「私がアランにお願いしたいこと、それは、さっきも言った通り、三年後に起こる、この世界の私と君の接触によって起こる魔族の王の生誕祭をの阻止。どこかを彷徨っているこの世界の私の撃退だよ」
アランのジェネクトリア国内三つの指に入る頭脳でさえ、今の話の処理が出来なかった。二人の女神ルシフェリオンの存在と、自身が三年後に起こす世界の崩壊の阻止。あまりのスケールの大きさに、絶望する。
「簡単に言うとね、今君が暮らしてる世界、ここ以外にも、同じような世界が何個もあるんだ。他の世界の私の役目が何かは知らないけれど、私は時空を超えてでも世界の穢れを浄化する役割があるんだ。それで、ここに来たってわけ。仕事で出張みたいな感じかな」
女神の説明でアランはとりあえず理解することは出来た。しかし、それでも疑問が残る。
「でも、その、言うなら、この世界を救いに来たルシフェリオン様が、貴女である証拠はあるのですか?」
「この世界の書物に共通している女神ルシフェリオンの容姿は?」
神学は、基本的に解釈がバラバラで、著者によって全く違う。人間がリンゴから生まれたと書く者も居れば、生命の神と知恵の神によって造られたという者も居る。だが、ある一点だけ、全ての著者の解釈が一致している内容がある。 希望を喰らいつくし、世界を終局に導く、破滅と滅亡を司る女神ルシフェリオン。その容姿は空のような青い髪に、宇宙のような漆黒の瞳。
「それで、私の容姿は?」
現在、アランの目の前に存在している女神ルシフェリオンの髪色は黒、そして瞳は空色。少年は納得した。信頼できる決定的な証拠が、そこにあった。
「わかったみたいだね。それで、君は命を世界の為に賭ける覚悟はある?」
「もちろんで――」
アランは閉じていた目をバッと見開いた。目の前に広がる肌色、忘れていた。自身の目の前には、神とは言えど、異性の裸体が存在していることを。
「とと、とりあえず願いを叶えてください!」
「まったくウブだなあ君は。まあまあ焦らず焦らず……」
瞬間、アランの目の前が、先程のように輝き始める。しかし、先程より光は強くなかった。柔らかい、暖かみがある光が、女神ルシフェリオンの体を包んでいた。アランはその光景に、この女神は本物だと、再度実感した。
「ふう、さてと……」
光がゆっくりと消えると、そこには、森に入ってきた男を無差別に襲いそうな変質者の姿はどこにもなく、清潔な淑女の姿があった。白色のエンパイアドレスに身を包み、首にはくさび石のネックレス、頭にはゲッケイジュの花の髪飾りが添えてある。その少女らしさの中に、どこか神々しさを感じた。目の前の少女の姿に、少年は言葉を失った。
「どう? 似合ってるかな?」
その少女の問いに、少年は答えることが出来ずにいた。言葉では言い表せない美しさが、そこにはあった。手を伸ばして掴もうにも、届かない、自分とはあまりに離れた存在。
「アラン?」
少年ははっと目を覚ますように目を見開いた。美しい、少年はそう呟いた。それを聞いた女神は。声が小さいのでもう一度と言わんばかりの笑顔で、少年の顔を覗く。少年はその期待に応えるように、息を深く吸って、吐き出す息に、思いを目いっぱい乗せ、ゆっくり、優しく吐き出した。
「とても、美しいです!」
* * *
数日後――ジェネクトリア王国最強の冒険者パーティでは、不穏な空気が流れていた。
「今日も失敗か……」
レペアートは部屋の中心に置かれた、品のある革のソファに腰を降ろし、テーブルの上に置かれた紙の束に目を通す。
「さて、準備期間だな」
レペアートその資料を整えた後、普段肌身離さず持っている本を取り出す。その本の表紙は普通の本とは少し違うようだった。
「アンタ、またそれ見てんの? 過去にすがり過ぎよ」
「そうかもな、まあ、あんなことがあったらな」
レペアートは軽く笑い、本を丁寧に閉じる。
「ところで、どうする?」
デイヤがテーブルの上の紙を数枚取り、パラパラとめくり始る。そこには、ジェネクトリア国王の名前と、苦情のような文章が書かれていた。
「あと何日だ?」
「十日」
デイヤはレペアートの隣に座る。そして、レペアートの肩に寄りかかる。座高に差があるせいか、デイヤの頭は、レペアートの肩の上には乗らなかった。普段は人に触れあわないデイヤのその行動に対して、レペアートはいつものように、煽るようなこともせず、何も言わずに、デイヤの肩に手を回し、デイヤの肩を、何かを受け入れるように撫でる。
「しばらく、このままでもいい?」
デイヤのその言葉にも、レペアートは言葉で返さなかった。ただそっと、デイヤを包むように、肩を撫でる。慰めるように、安心させるように。
「私……嫌だよ。もう……」
普段高飛車なデイヤの姿が、怯えて蹲る子供のようだった。デイヤは別人のようだった。デイヤではない、誰か。その誰かに、レペアートは、レペアートではない誰かが話しかける。
「そうだよな……ごめんな」
レペアートではない誰かは、ただ謝った。申し訳なさそうに、哀しそうに。それを聞いたデイヤではない誰かが、自身の膝に涙を零した。彼女は同じ言葉を何度も何度も繰り返していた。二人の空間には、切なさがゆったりと漂っていた。
* * *
「さて、これからどうしようか?」
女神は無邪気に森をパタパタ走り回っている。それに対して少年は、この女神をあてにして大丈夫なのだろうかと、心配だった。まさか、今まで自分より上の存在であると思っていた神が、子供のようにはしゃぎ回っているのだから。
「ん~? 今失礼な事考えてたね?」
女神はそれを見透かしたように、眉間にしわを寄せ、少年の顔を見つめる。
「いや、えっと、そんなことは……」
少年は必至でごまかそうとするが、そのぎこちない言動が、女神に更に不信感を与える。女神は更に少年に顔を近づけ、顔を少し膨らませる。しかし、それから少年に問い詰めることは無く、少年の目を見て微笑んでいた。
「感情戻って、どう? 楽しい?」
意外な問いかけに、少年は少しその場に硬直してしまった。しかし、答えはすぐに導き出せた。
「はい、とっても!」
笑ったのは久しぶりだ。少年は思った。それは現状が今まで以上に楽しいということを意味しているが、逆に、笑えないほどに辛い期間が久しぶりと感じてしまうほどにあったことも意味していた。しかし少年はそんなことを気にしてはいなかった。そんなものは、この先体験するであろう幸せの量に比べれば、塵に匹敵するだろうと思っていたからだ。この先、この目の前に確かに存在している女神と共に、幸せを手に入れるのだから。
* * *
魔族、それは今から約二百年前に突然現れた謎の種族である。魔族はもともと生息していたエルフや獣人、そして人間の住処を荒らして回り、やがて、世界の半分を魔族が占領していた。しかし、ある時、人間が強力しあうことで、何とか魔族に占領されていた土地の三分の一を取り戻すことに成功した。しかし、残り半分というところで、魔族達の力や文明の発達により、現在まで、その土地を取り戻すことは出来ず、今も魔族が占領しているのだ。魔族のあまりの強力さと、そこに向かった者の生存報告が現在に至るまで二件しかないことから、そこは暗黒と呼ばれ、恐れられている。そこの一部分であるサグリャニハラ大陸を、たった四人で、しかも無傷で取り戻したのがレペアート達であった。
そんなサグリャニハラ大陸の隅に、まだ魔族の生き残りは存在していた。
「接触を確認したそうです」
「ふむ、予定よりかなり早いな。今までの統計から答えを導き出せ」
男がそう言うと、ボロボロのローブを羽織った男が本棚から、壁の厚さと同じくらいの分厚い本を取り出し、パラパラとページをめくる。
「ありました。今のところパターン3です」
「3か、右腕の損失だな、彼の元へ食料品を送っておけ、イレギュラーが起こる可能性も否定できない。出来るだけ早い段階で送るんだ。」
「しかし、3では、彼は同じ場所に停滞できません」
ローブを羽織った男の言葉に、横に円形の何かを着けている男が唸りだす。
「様子を見ることしか出来ないか……」
男は額に手を当て、どうしたものか、と呟きながら、暫く同じ体制のまま、何かを考えていた。
「パターン3での死亡率は?」
「今のところ死亡が確認された事例はありません」
「よし、これで少しの間は様子を見ることが出来る……」
男は立ち上がると、ティーカップを手に取り、そこに注がれているコーヒーを口にする。そして、薄暗い部屋の天井の一点を見つめていた。
「全く、本当に好きなんだな。君は」
お読みいただきありがとうございます。次回から第一章予定です。