8.朝のおとない
約束通り朝食を一緒に摂ること、その際ラザールには首飾りの件は気取られないようにすることを約束して、フィオレンティーナは部屋に帰っていった。
姉を見送りエレオノーラはすぐに行動を開始する。
「オルガ」
「はい、お嬢様」
オルガは自分のすべきことが完全に分かりきっているらしく、エレオノーラに先んじて廊下を進む。屋敷の雰囲気は和やかで、誰もフィオレンティーナの首飾りが盗まれたとはまだ気付いていないようだった。
オルガの先導でクラウスの部屋にたどり着いたエレオノーラは、ノックをして中からマルクに入れてもらった。
「おはよう、マルク」
「おはようございます、エレオノーラ様。随分お早いお越しで……」
部屋に通されたエレオノーラは、マルクに挨拶をしてどんどん歩いていく。執事は戸惑ったが、エレオノーラを止められたことなど彼には一度もない。
「ごめんなさいね、無礼はお詫びします」
彼女はそう言って、続きの間の扉に手を掛けた。寝室の、扉に。
「クラウス!大変なの!!」
バン!と扉を開くと、彼女の視界に映ったのはクラウスがベッドに半身を起こした姿で、執事に持って来させた複数の新聞を読んでいるところだった。寝間着にガウンだけを羽織り、髪はまだ梳られていないのかふわりとしている。
「…………………エリィ」
ものすごく低い声で呼ばれて、エレオノーラはビクン!と震える。
これはダメなやつだ!ダメって言われたのに、またやってしまった!!
先触れもなく部屋に入るな、男の部屋に勝手に入るな。
「あ、あのね、クラウス……」
めちゃくちゃお説教される!と固まるエレオノーラを、上から下までゆっくりじっくり眺めたクラウスはフッ、と笑った。
「……何だ、こちらに来るか?」
「ひゃっ!?」
上掛けを捲って、クラウスが誘うように微笑む。その滴るような色気に当てられたエレオノーラはボン!と音がしそうな程勢いよく顔を赤くさせて固まった。
オルガがそっと大切なお嬢様の腕を引いて隣の部屋の方に移動させていく。その後、オルガはひょっこりを顔を出した。
「クラウス様、お戯れを」
「飛び込んできたのは向こうだぞ」
クラウスが扉の方を指さす。オルガは顔を顰めたまま、姿を消した。
次いでマルクが寝室に姿を現すと、彼の主はため息をついてベッドから降りる。
「マルク、エリィに茶を。荷物の中に、花茶の茶葉があっただろう」
「はい、お嬢様のお好きな銘柄ですね。……クラウス様、お召し替えは……」
「よい。自分でする」
ガウンを脱ぎながらクロゼットの方へ向かう主の、惚れ惚れするような男ぷりに、マルクは感激して頭を下げた。
続きの部屋の方でソファに座ってクラウスが着替えるのを待っているエレオノーラは、出された茶の香りに微笑む。この屋敷で予め用意されている茶葉は、高級品だがスタンダードなものだった筈だ。
エレオノーラの好きな茶葉で淹れられた花茶は、クラウスが持参してきてくれたに違いない。こういう細かな優しさが、いつも彼女の心を温めてくれる。
カップを両手で包むと、適温に調節されたそれがエレオノーラの掌をもじんわりと温めてくれた。いつの間にか随分と手が冷たくなっていたようで、ほぅ、と吐息が零れる。
一口飲むと、柔らかな花の香りが広がり、うっとりと彼女は微笑んだ。美味しい。
すると、間もなく寝室の扉が開いて、シャツとスラックスというラフな格好のクラウスが姿を現した。
「クラウス、朝早くにごめんなさい」
「それ自体は構わん。何があった」
暗に寝室に押し入ったことは許されていないのだとチクチクと言われて、エレオノーラは唇を尖らせる。緊急事態だったので、大目に見て欲しい。
ともかく向かいのソファに座ろうとするクラウスの手を引いて、隣に座らせた。彼は特に逆らうことなく、エレオノーラの招きに応じる。
「あのね……大変なの」
「そうか」
ひじ掛けに肘をついて、自分の頭を掌に乗せた彼はさして緊迫感を感じた様子もなく頷く。
何せ彼女にかかればこの世の大抵のことは”大変”な出来事なのだ。その傍に顔を寄せて、エレオノーラはこっそりと囁く。
「……姉様のエメラルドの首飾りが、盗まれたの」
「そうか。それは確かに大変だな」
クラウスはそれを聞いて内心うんざりとする。
せっかくエレオノーラと軽い旅行気分で郊外の屋敷まで来たというのに、フィオレンティーナの所為でのんびり過ごすどころではなくなりそうだ。いっそクラウスに対する遠回しな嫌がらせの自作自演なのではないか、という疑惑にまで思考が及ぶ。
とはいえ。
「クラウス、お願い。力を貸してくれる?」
この紺碧の瞳の懇願に勝てたことはないのだ。
「……詳しく話せ」