6.特別な夜
渋るブルーノと別れて二人が階段を昇っていると、踊り場で一人の令嬢がうろうろとしていた。
「……ユリアナ様?」
「エレオノーラ様!ヒッ!シルバ子爵も!」
ひっ?と思いつつ、エレオノーラはシャフール男爵令嬢、ユリアナ・ラッセンの前に立つ。
「どうなさったの?もう夜も遅いし、供を連れずにこんなところにいらしてはいけませんわ」
「あの……でも探し物を……」
エレオノーラと同い年の、けれど少女のようなあどけない令嬢はぶるぶると震えていた。
「探し物?何か落とされたのですか?お手伝いしますわ」
エレオノーラは震えるユリアナの手を取って安心させるように言う。優しく微笑む彼女を見て、ユリアナは頬を赤らめた。
「何をお探しなのです?」
「あの……ペットの、フェレットが……逃げ出してしまって……」
「まぁ……」
ペットを連れて来た、と聞いてエレオノーラは目を丸くする。
確かにペットを連れてきてはいけないわけではないが、実際に連れてくる人は稀だろう。
「イジーはわたくしの手からじゃないと餌を食べないので、つい連れてきてしまったのですが、世話を頼んでいた侍女がうっかり逃がしてしまって……!」
「その子はイジーというのね。主催の公爵様にお話は?」
「い、いえ、あの、執事の方にはお伝えしたのですが……フェレット一匹の為に公爵様を煩わせるわけにもいかず……」
震えるユリアナに、エレオノーラはそう考えるのも無理はない、と頷く。
「それで、何故ここに?この辺りで見かけたの?」
「い、いえ……その、この上は上級貴族の方の宿泊エリアなので、イジーがここを通って上に行ってしまわないように見張っていたのです……」
「ユリアナ様ご自身で?それはいけませんわ、どなたか使用人の方に頼みましょう、令嬢がお一人でこんな時間に部屋の外にいて何かあってはいけませんもの」
エレオノーラはすぐに判断して、廊下に配置された使用人の一人に事情を話して見張るように頼む。
「でも……イジーが既に屋敷の外に出てしまっている可能性もありますわ……」
「その場合は……もう諦めるしかないと思っています」
ユリアナはしょんぼりと項垂れる。郊外のこの屋敷の外は、広大な森だ。フェレット一匹、探すのは無理だろう。
「問題は、上級貴族の方のお部屋に入ってしまってご迷惑をおかけしないことが一番かと思いまして……」
「そう……」
エレオノーラが悲し気に顔を顰める。確かに上級貴族の部屋のクロゼットをフェレットに荒らしでもされては、シャフール男爵家にとってはたまったものではないだろう。他に彼女の為に出来ることはないだろうかと悩むエレオノーラを見て、クラウスは顎に手を当てた。
「……では私とエリィの連名にして、最上階の客に事情を説明しておこう。あと使用人の通路などに逃げ込んだ可能性もある、そちらにも連絡を。この寒さだ、窓を開ける客は稀だろうから外部から侵入する可能性は低い、人の通り道を警戒するように通達を」
「ヒッ、シルバ子爵にそこまでしていただくわけには……!」
ユリアナは慌てるが、クラウスは躊躇なく使用人達に指示を与えていく。
この件は一通り采配が済まないと、エレオノーラは部屋には帰らないだろう。それでは彼女の休む時間が遅くなってしまう。
「構わん、使えるものは使うべきだ」
あっさりと言って、クラウスはエレオノーラを見遣った。彼女はクラウスの采配に感心してほっと溜息をつく。
「ありがとう、クラウス。私では使用人通路のことなんて思いつかなかったわ」
「こちらの令嬢は部屋まで送らせる。私が公爵に話をするから、お前は部屋に戻れ」
「私も一緒に行った方が……」
彼の腕を掴むが、クラウスは首を横に振った。
「今日はもう遅い。私に任せておけ」
「う……」
ぬくもりを馴染ませるように頭を撫でられて、エレオノーラは頷いた。
ユリアナの方で少し要望があったが結局使用人の一人に先導されて彼女は部屋に帰ってゆき、エレオノーラはクラウスに送ってもらう。
自分が引き寄せた事なのに、クラウスに持たせてしまったことを彼女は申し訳なく思っていた。
「ごめんね、クラウス。巻き込むどころか、任せちゃうことになって……私はいつもあなたに甘えてばかりだわ」
申し訳なく思って、エレオノーラは頭垂れる。クラウスはそれが気に入らない。
彼女にだけは、クラウスの時間を浪費することを許しているからだ。
「構わんと言った筈だ。明日はフィオと大公と朝食を取るんだろう?その為にも早く休んだ方がいい」
そう。
朝食を、大公に宛がわれた部屋で一緒に摂る約束をしていたことを思い出してエレオノーラは、表情を和らげる。
「ふ、少しは上向いたか」
「うん……姉様と一緒に朝食なんて久しぶりだもの。あ、でも、クラウスはひょっとして、朝ぐらいゆっくりしたかった……?」
当然のようにクラウスも一緒に朝食を摂ると思っていたので、話を持ち掛けられた際、彼の意見を聞かずに返事をしてしまったことに今更ながら気づいてエレオノーラは慌てる。
「今頃気付いたのか」
「う……ごめんなさい」
しゅんと頭垂れるエレオノーラに、クラウスはやれやれと溜息をついた。別にカロッツァの大公夫妻と親しく付き合うことは、次期侯爵であるクラウスにとっても利のあることだ。
普段の無茶は我儘だとは認識していないのに、こういう時だけ反省してみせるエレオノーラはひょっとしてひどく策士なのではないかと、何年かに一回ぐらいの割合でクラウスは気が迷う。すぐに馬鹿な考えは打ち捨てるのだが。
「……構わん。大公とは私も個人的に話してみたいしな」
「ほんとう?」
「くどい」
「……ありがとう、クラウス」
へにゃり、と笑って、エレオノーラはクラウスの手を握る。
「あのね、義兄様とお話するのはまだ緊張するから、ほんとはクラウスと一緒じゃなかったらちょっと怖いな、て思ってたの」
「ほう?大公はお前のことを随分可愛がっているようだったが」
「うーん……義兄様のことは好きよ、それにとてもお優しいのは分かるんだけど……まだちょっと緊張する」
男性に慣れていないエレオノーラは、家族とクラウス以外の男が苦手だ。ラザールは姉との結婚式の際に顔を合わせたきりなので、人見知りがぶり返しているのだろう。
繋いだままの手を、親指の腹で慰めるように撫でてやるとエレオノーラはフフ、と笑う。
「……クラウスは優しいね」
きゅっと繋ぐ力を込めてエレオノーラがそう言うので、クラウスもそっと握り返す。
やわく、小さな手だ。手袋越しにほのかに温かい。
「誰にでも、というわけではないがな」
「……?…………ひょっとして、私にだけ?」
「……そうだと言ったら?」
すい、とその手を引き寄せると、エレオノーラが一歩、クラウスに近づく。真っ直ぐに見てくる紅茶色の瞳を見上げて、彼女は不思議な気持ちを抱いた。
「たぶん……すごく嬉しい、と、思う……」
知らない男の人のようだ。
でもちっとも怖くない。だって、彼はクラウスだから。
「へぇ?」
彼は目を細めると、エレオノーラの手を持ち上げて、手袋越しにその小さな掌にキスをした。
「クラウス?」
「部屋に着いたぞ」
ぱっ、と手が離れ、エレオノーラの元に戻ってくる。
彼女に宛がわれた客間の扉が開き、オルガが姿を現した。主とクラウスの顔を順に見て、彼を睨んでくる。
「おやすみ、エリィ」
「……おやすみなさい、クラウス」
戸惑いつつ声を絞り出すと、彼はすぐに踵を返して来た道を戻っていく。そのまま廊下を去っていくクラウスの背は躊躇がなく、あっという間に角を曲がって見えなくなってしまった。
「…………」
「お嬢様?お体を冷やします、どうぞ中へ」
オルガに促されて、エレオノーラは室内へと入る。
中は温かく保たれていて、少し廊下は肌寒かったのでほっと彼女は吐息をつく。
メイド達がやってきて、手早くエレオノーラの衣装を着替えさせると、贅沢にも部屋付きの風呂へと案内された。
湯の張られたバスタブに浸かり、ほぅ、とため息をつく。
手を持ち上げると、先程手袋越しにキスされたのは僅かな感触で、今は何も残っていない。
「……クラウス」
彼に優しくしてもらえることは、特別なことなのだ。
彼を、他の誰にも奪われたくない。
そんなことを思ったのは、初めてだった。