28.諦めない
エレオノーラの馬車で屋敷まで帰ってきたクラウスは、着替えをしてから執務室に向かった。
そこではすっかり寛いだ様子でお茶を飲む図々しいエレオノーラがいて、彼はほんの少しだけ目を和ませる。もう二度と目にすることはないだろうと思っていた光景に、飢えるように乾いていたことを自覚した。
マルクから先にざっと教会での出来事を聞いたエレオノーラは、静かにこちらを眺めるクラウスが落ち込んでいるのかと思って心配した。きっと彼が十全に情報を知り得ていたならば、事が公になる前にベアトリーチェにとって最も良い形で収めることが出来ただろうからだ。
「クラウス、落ち込んでるの?」
「……エリィ、抱きしめてもいいか?」
クラウスがソファに座るやいなやそう訊ねられて、エレオノーラは困ったように眉を寄せる。
「私、ベアトリーチェ様みたいに……柔らかくないわよ?」
「?ベアトではなく、お前のことを抱きしめたいのだが」
そう言われて、エレオノーラはムッと唇を尖らせる。
ひどく疲れ、飢えている彼はエレオノーラのサクランボ色のそれに口づけたらどんな味がするのだろう、と考えていた所為で何故彼女が怒ったのかということにまで頭が回らなかった。それ程に、己の情けなさに打ちのめされていたのだ。
エレオノーラは、単純にべアトリーチェのことをクラウスが愛称で呼んだことになんとなくムッとしたのだが、彼女の方も自分のその機微を追及することはしなかった。
今は目の前で、大切な幼馴染が見たこともないぐらい落ち込んでいたからだ。
すくっ、と立ち上がった彼女はトトト、とクラウスの座るソファまで駆け寄り、彼の隣に座ると金糸の頭を胸に抱え込んだ。するとクラウスは身を丸めるようにしてエレオノーラの膝下に腕を差し入れ、彼女を自分の膝に乗せてそのまま細い腰を抱きしめる。
彼の腕の中で、驚いたらしい細い体はびくんと震えたが、やがて弛緩しクラウスの頭を優しく撫で始めた。
確かにベアトリーチェの抱き心地とは全く違った。隙間なくくっつくにはエレオノーラは華奢すぎるし抱き寄せる力も弱い。けれどそれがなんだというのだろう。
この形が欲しかった。エレオノーラだけが欲しかった。
だがそれは何を犠牲にしてもいい、ということではない。ベアトリーチェのことも傷つけた。自身のエレオノーラに対する思いを見誤った所為だ。
この気持ちを、エレオノーラ自身の為ならば捨てることが出来ると思っていた。彼女が他者と幸せになる姿を、支えていくことが自分ならば出来ると思っていた。
実際には、彼女が欲しいと言って叫ぶ獣に屈したのだ。なんと浅はかだったことだろう。
おまけに自身を信頼して何もかも任せ自由にしてくれている両親にまで迷惑をかけた。今日のことは侯爵家の瑕疵になる程の醜聞ではなり得ないだろうけれど、それでも何もかもなかったことには出来ない。
何もかも、自分で処理出来ると過信していた所為だ。
そこでふわり、と頭を撫でられる。
「よしよし、クラウス。大丈夫だよ」
よしよし、と言って、エレオノーラは子供のような手つきで彼の頭を撫でる。彼女自身は末っ子なので、こういうことをした経験はほとんどないのだが、兄や姉にこうして慰められたことがあるのだろう、それをなぞるように優しく囁かれる。優しい声。あたたかくてやわい体。
「誰も怒ってないよ。皆クラウスのこと大好きだから、心配しただけだよ」
よしよし
「誰も、クラウスにがっかりなんてしてないよ。今までクラウスが頑張ってきたことを皆知ってるもの」
よしよし。合間にそう呟いて、エレオノーラは優しく彼の頭を撫でた。
「大好きだよ、クラウス。大丈夫だよ」
どうして、エレオノーラには何も教えていないのに、何もかも分かるのだろう。
大丈夫だと言って欲しかった。
失望していないと、言って欲しかった。
頑張ったね、と言って欲しかった。
好きだから、何も心配しなくていいよ、と言って欲しかった。
ずっとずっと。
ずっと、エレオノーラが欲しかった。
「…………どうしても欲しいものがあったとして」
「ん?うん」
「……手に入れてはいけないものだったら、お前ならば、どうする?」
「手に入れてはいけないものが、欲しいの?……んーと、どうして手に入れてはいけないの?」
「……人のものだからだ」
「なるほど。じゃあ、頂戴、て言ってみたら?」
「………………は?」
「顔こわ!や、だって、人のものだけど、どうしても欲しいんでしょう?ひょっとしたら、持ち主よりもクラウスの方が必要としてるかもしれないし、まずお願いしてみたらどうかな……」
いかにも甘やかされて育った末っ子らしい提案に、クラウスは溜息をついて力を抜く。
「持ち主は、私が頼んだら……恐らく譲ってくる」
「お。いい人だね」
「ああ、いい人だ。……だがそれは……持ち主に必要ない、という意味じゃなく、私の方が欲しがっているから、という理由でくれるのだろう」
「ふーん?欲しがってる人の方に必要なら、あげてもいいと思うけど……」
エレオノーラはちょっと考え込んで、クラウスの頭の上に自分の頬を置く。より密着することになり、彼は小さく息を飲んだ。
「……一度手に入れてしまったら、いつか、必要になったから返せと言われても、私は二度と手放すことは出来ない。……だったら、最初から譲られるわけにはいかないだろう?」
「え。クラウス、そんなに難しく考えてるの?や、顔が!怖い!怖いから睨まないで!」
思わずエレオノーラが言うと、ギロリと下から睨みつけられて彼女は思わず体を離す。が、当然逃げられる筈もなく、再び抱き寄せられた。
「最悪を想定するのは基本だ」
「えー……悲観主義ねぇ……」
クラウスの金の髪は、見た目は冷たそうなのに触れるととても柔らかいのだ。エレオノーラは手慰みにくしゃくしゃと髪をかき混ぜて、ううん、と唸る。
「あくまで私の場合だけど……私が持っているもので、クラウスが欲しいっていったら、きっとあげちゃうわ」
「……お前はいい人だからな」
疲れたようにクラウスが言うと、彼女はふふ、と笑った。抱きしめている所為で、笑う振動すら伝わってくる。
「でもそれって誰にでも何でも、てわけじゃなく、大好きなクラウスだからだよ」
「…………」
「だから、私に必要な時がきても、クラウスが返してくれなくてもいいよ」
「は?お前は馬鹿か、必要だから返せという前提だぞ」
「だから、私の場合は、だよ?クラウスが返したくないっていうなら、返さなくてもいいよ!」
「…………お前は馬鹿だ」
「ばかばか言い過ぎじゃない?ばかって言う方がばかなんだよ」
知ってる?とエレオノーラに覗き込まれて、クラウスは目を細めた。
美しく、いとけない、クラウスの宝石。
望んで手に入れてもいいのだろうか。そして、二度と手放すことが出来なくなっても、彼女は不幸にはならないだろうか。
「よしよし。大丈夫だよ、クラウスなら、大丈夫だよ」
まるで心を読んだかのように、エレオノーラはそう言って微笑んだ。
「きっと、そのいい人も、許してくれるよ。クラウスだから譲ってくれたんだよ。だから、大丈夫だよ」
「……は、馬鹿な。何も解決にもなっていない……」
往生際悪くクラウスがそう言うと、存外短気なエレオノーラは彼の両頬に手を添えてぐい、と顔を上げさせた。
「まだ起こってもいないことを今から心配して、手に入るかもしれないものを諦めてしまうのは、ばかって言うと思わない?」
エレオノーラの銀の髪が、まるで更紗のカーテンのようにクラウスの視界を囲い、きらきらと輝く紺碧の瞳に惹きつけられる。
「……諦めなくても、いいのだろうか」
「いい。きっとクラウスなら大丈夫!」
この無邪気で愚かな女は、クラウスが何の話をしてるのか、ちっとも理解していないのだ。だから、こんなにも安請け合いが出来てしまう。
だけど、クラウスの最も愛する宝石が諦めなくてもいい、と言うのだ。そして彼は諦めたくない。
だとしたら
「そうか……では、諦めないことにしよう」
「うん!」
頷いて笑った、その笑顔が何よりも眩しく美しくて、クラウスを幸福な気持ちにしてくれた。




