25.守護
木造の小さな教会。街の中心街からも離れているし、そこを訪れる信仰者も稀だろう。
祭壇の前に立ったクラウスは、今にも笑いだしてしまいそうだった。
なんの冗談だというのだろうか。ほんの二カ月前までは知らなかった女と、今や神の御前で生涯を誓おうとしている。
侯爵家に生を受けて18年。
己の為すべきことに迷いはなかった。人は生まれた場所で生きていくしかない、無論それを覆し別の場所で生きていくことを選択することも可能だろうが、クラウスはそれを選ばなかった。
彼が生まれた場所は、多くの領民によって支えられている高く重い場所だった。ここで育つということは、最初からこの場所の恩を受けて育つということだ。
ならば、その恩に報いる為にクラウスは、恩を返し続ける。己を生かしてくれた苗床を、今度は彼が守るのだ。
そう決めて今まで来たというのに、唯一抱いた我欲の為に軌道修正を強いられている。
婚姻するには、本来ならばもっと侯爵家の役にたつ女を選ぶべきだった。エレオノーラならば身分も条件も、クラウスの感情としても申し分なかった。
けれどどうしようもなかった。クラウスは誰も犠牲にしたくはなかった。もし、誰かを犠牲にするならば、一番最初に犠牲になるべきは、クラウス自身だと考えていた。
彼は持って生まれた優秀な才能と頭脳があり、生まれた場所にも恵まれた。
己の持ちうる全てを十全に使い、己に与えられた仕事をこなし、その為に努力することを厭わない。
けれど、ただ一度唯一抱いた我欲…エレオノーラを愛したが故にこのような事態になっていることの皮肉に、笑いだしたくてたまらない。
エレオノーラを愛したことは後悔していない。彼を唯一我儘にさせる感情。それを捨てたいと思ったことはあっても、出会わなければよかったとは思ったことはない。
領民は守る。エレオノーラのことも、誰にも傷つけさせはしない。これからも、ずっと。
では、クラウスこのとは、誰が守ってくれるのだろう?誰が、助けてくれるというのだろう?
「……ああ」
小さく呟くと、隣に立つベアトリーチェが不思議そうにこちらを見上げていた。
琥珀の瞳を持つ、愚かで哀れな女。彼女のことも、クラウスは苛烈に怒ってはいたが、恨む気にはなれなかった。
人は生まれた場所で生きるしかない。彼女の生まれた場所は、今の彼女には優しくなかった。だったら、こんな手段ではなく素直にクラウスに助けを求めてくれればもっと違う道を探したのに。
あの時、彼女がクラウスに突きつけたのはこの道だけだった。
「クラウス様?」
何かしようとしているのは分かる。けれど、クラウスにはカードが明かされていない。カードが配られていないのだ、この場において、クラウスはプレイヤーではない。
選択も、対策を練る余地もない。
動く理由がない。
元々領民とエレオノーラに関すること以外で、クラウスは自分にあまり関心がない。それゆえに疎かになる弱点を、気づいてはいたが改善する気もなかったのだ。何故ならそれは領民と、エレオノーラに関係がないからだ
そのツケがここに回ってきているのかもしれない。
クラウスが、意識すればもっと上手く立ち回ることは出来たのかもしれない。ベアトリーチェに降りかかる問題を解決し、クラウスに婚姻を強いる必要をなくす方法が。
だが、それももう遅い。今更現状を嘆いても仕方がない、対処出来なかった彼の落ち度だ。
「少し、疲れたな」
そっと瞼を閉じて更に小さく呟いた声は、もうベアトリーチェにも届かなかった。
”忘れないで”
そこで唐突に、クラウスの心の中に響く柔らかい声があった。
祭壇上で司祭の前へと進む足が止まり、腕を組んでいたベアトリーチェが再び彼の方を向いて、驚く。クラウスの紅茶色の瞳が、色を深めていたのだ。
まるで、彼の最愛の宝石を目にした時のように。
ああ、なるほど、とクラウスは感心する。
彼の宝石は、事程左様に素晴らしい。彼女は常にクラウスに福音を齎してくれる。何せ、言っていたではないか、エレオノーラは。
”あなたが誰にも助けてもらえない、と思ったとしても、どうか忘れないで。私がいるわ”
と。
そしてそれを聞いた時、クラウスはどう感じただろう?
誰も守ってはくれない、誰も助けてはくれない、と思い、どうしようもなく困った時がきたとしても。
エレオノーラが、彼女だけは自分の味方でいてくれるというのならば、クラウスはまたそこから立ち上がり、足掻くことが出来る。
何故なら、彼はエレオノーラを愛しているから。唯一の我欲は、クラウスの弱点でもあるが最大の強みでもあった。
まだ、足掻く余地はある。
「……仕方がない。時間がないので対策は後手でたてることになるが、まぁ、私ならばどうとでもなるだろう」
「クラウス様?」
突然朗々と喋り始めたクラウスに、傍にいたベアトリーチェと司祭がぎょっとする。彼は憑き物が落ちたかのようにさっぱりとした様子で、花嫁から腕を離し肩を回した。
「お前とは結婚出来ない。すまない、契約不履行は恥ずべき行為だ、先に謝罪しておくコークストー男爵」
クラウスに真っ直ぐに見つめられて、ベアトリーチェはゆるゆると事態を把握したのか意外にも微笑んでみせる。最初に抱いた印象通り、彼女はこうして堂々と微笑む方がずっと魅力的だ。
「……い、いえ……いいえ!そうです……我々の間でのあの”約束”はそもそも最初から不成立でした」
彼女の言葉に、クラウスは確信を持つ。
おかしな様子だとは思っていたが、ベアトリーチェはやはりここで何かことを起こすつもりだったのだ。クラウスの言葉に頷いたところを見ると、自ら結婚を破棄する、といったところか。まさかそれを手放すとは思わなかった。
だが、何故そうするのはかはまだ分からない。だからあれほど材料を寄越せと言ったのに。
「その通り。だが、まぁ私にも矜持はあるのでな……何か無茶な筋書きを用意しているのだろう?この場で役目を見事に果たしてやるから、それで手打ちにしろ」
「貸したなんて思ってません、わたくしはあなたのおかげで力を得ましたので」
クラウスの言葉に、ベアトリーチェは大きく頷いてみせた。そして、彼女はくるりと参列者の方に向き高らかに宣言する。
「わたくし、コークストー男爵は、シルバ子爵との結婚を破棄することをここに宣言します!!」
「まだ結婚しとらんから、正確には婚約破棄だ、馬鹿者が」
ニヤリと笑ったクラウスの冷静な声が、一瞬静まり返った祭壇に弾けるようにして踊った。




