20.陽の光
「ベアトリーチェ様?」
鈴の音のような、耳に心地よい声に名を呼ばれ、ベアトリーチェはハッとした。
向かいのソファに座るエレオノーラが、心配そうにこちらを見つめている。
「どこかお加減でも……」
「いいえ、ご心配をおかけして申し訳ありません。少し、疲れているだけですわ……その、結婚式の準備などで」
変な意地を張ってベアトリーチェがそう言うと、エレオノーラは目を丸くしてからふんわりと笑った。
「それは、楽しい”疲れた”ですね」
今日は、ベアトリーチェはベファタン商会の出資者として正式にエレオノーラを迎える書類を持参して、ウェルシュ侯爵邸に来ていた。
以前挨拶の為に行ったバノーラ侯爵邸は少し武骨な感じのする荘厳な建物だったが、大通りを挟んで向かいに広大な敷地を誇るウェルシュ侯爵邸は、どこか女性的な優美さのある瀟洒な屋敷だ。
その中でも女性の客を招く為の応接室だという、通された部屋は庭に面した大きな窓があり、家具はどれも白木で統一されていてあちこちに生花が飾られている、エレオノーラにぴったりの部屋だった。
「でも、そんなお忙しい時に当家まで来ていただいて申し訳ありません。私がそちらに伺うべきでした」
「いいえ、そんな。エレオノーラ様には出資に先だって多額の寄付もいただきましたし、書類を持って伺うぐらいわたくしにさせてくださいませ」
ベファタン商会に正式な事務所はなく、エレオノーラに来てもらうとしたらコークストー男爵邸になる。
こんな豪邸に住むお嬢様を歓待出来る自信はなく、ベアトリーチェは自分が訪問したことを心から安堵していた。
ベアトリーチェが差し出した書類をエレオノーラが確認すると、部屋の隅に控えていた二人の男性が近づいてきて書類を受け取る。
予め聞いていたことだが、侯爵家の家令と事業への出資部門を任されている執事が内容を確認するとのことだ。
「物々しくてごめんなさい。私が頼りないので、父がどうしても確認してもらえと言うものだから……」
「いえ。無理からぬことだとは思います」
「そう言っていただけると、少しほっとします……どうぞ、待っている間にお菓子を召し上がってください。ボンボンショコラはお好き?」
エレオノーラは気を取り直して、朗らかにテーブルの上のガラスの器を示す。まるで宝石のような艶のあるボンボンショコラは口に入れるとほろ苦く、大人びた味がした。
自分でも一つ口に放り込んだエレオノーラは、部屋の隅で書類を確認しつつこそこそ話す家令と執事を眺めやってから、にっこりと微笑んだ。
「私の方の事情でなんだか煩雑になってしまいましたが、これでようやく寡婦の方達の支援が出来ると思うと、とても嬉しいです」
「……自己満足かもしれませんけれどね」
言ってしまってから、ベアトリーチェは慌てて口を押えた。
先日ユリアナに言われた言葉が泥のようにべったりと彼女の心に張り付いていて、取り除くことが出来ないのだ。
こんなにも素晴らしい豪邸に住み、クラウスがいなくても多忙な父親が不在でも、彼らに代わって家令や執事が気を配ってくれる。そんな生まれながらにして恵まれているエレオノーラが羨ましかった。夫なる人を脅し、義母に脅される生活をこれから送っていく自分とは大きな違いがある。
だからついあてこするような言い方をしてしまった。だが、当然エレオノーラ自身は何も悪くない、ただの八つ当たりだ。
「も、申し訳ありません……」
ベアトリーチェが恐る恐る顔を上げると、視線の先でエレオノーラはまたふんわりと微笑んでいた。
「そうですね。自己満足だから、自分だけは後悔しないように頑張らなくちゃ」
「……どうして、そんな風に思えるんですか?寡婦達は、喜んでなんかいないかもしれない……貴族の気まぐれだって、思っているかもしれないのに……」
ベアトリーチェが視線をあちこちに彷徨わせながら喋る。穏やかに微笑むエレオノーラを見ていられなかった。
どこまでも凪いだ海のような、透き通った紺碧の瞳を見てしまったら、自分の今犯している罪を全て洗いざらい彼女にぶつけてしまいそうだった。
絶対にエレオノーラには言わない、と”約束”したのに。
「誰かにそう言われたのですか?貴族の気まぐれの、自己満足だと」
「……ええ」
「意地悪な言い方をする人がいるのですね」
エレオノーラの唇がへの字に曲がる。子供のような仕草だが、とても愛らしく感じられてそんな状況ではないのに、ベアトリーチェは少しだけ笑ってしまう。
「でもその人の言うことも、間違いではありませんね」
「え……?」
「だってどれほど頑張っても、全ての人に受け入れてもらうことは出来ませんもの」
あっさりとエレオノーラは認める。驚いたのはベアトリーチェだけだった。
「え、でも……その人の為を思って努力していけばいずれは……」
「その特定の方にとってよいことが、他の方にとってよいとは限りません。一方に寄れば、どこか一方からは離れることになります」
「……」
エレオノーラは不思議な、完璧に美しい笑顔を浮かべた。




