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レディ・エレオノーラ〜箱入り侯爵令嬢のまったく優雅ではない恋愛譚〜  作者: 林檎
レディ・エレオノーラと琥珀の令嬢~恋とはどんなものかしら?~
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17.失うもの

 

 自室に戻ったベアトリーチェは、今日クラウスに借りてきた経済学の本をデスクに置いてその表紙をなぞる。

 脅して縋って漕ぎつけた結婚なのに、決して彼からは愛されることはないと分かっているのに、ベアトリーチェの心はどんどんクラウスに惹かれていく。


 ”条件”の話をした時クラウスはまるでベアトリーチェを射殺さんばかりに睨みつけていたが、婚約成立後の彼は役目を全うすることに決めたらしく必要以上の余所余所しさはなくなった。それどころか、彼女や父男爵の事業について問題点を指摘したり、ベアトリーチェに足らない知識を教え込んでくれたりととても親切にしてくれる。

 夜会に出れば、パートナーとして高貴な淑女のように扱ってくれるし、人目のないところで何か嫌味を言われることもない。

 勿論態度は素っ気ないし、ベアトリーチェと必要以上に親しくするつもりがないことは徹底しているが、クラウス・バッファは宣言通り、彼女の婚約者として申し分のない役割を果たしてくれていた。

 役割の演じてくれているのだとは思っていても、彼のまるで大切なものを見るかのような眼差しや、触れてくれる紳士的な掌、ふとした時に彼女を優先してくれる様子などに、どうしても想いが募らずにはいられない。

 恨まれて当然のことをしている身で厚かましいとは思うものの、何だかんだ言ってもクラウスは優しい人なので、結婚して一緒に暮らす内に彼の方でもベアトリーチェに少しずつ情が湧き、心を寄せていってくれたら、などとそんな淡い期待を抱いてしまうほどだった。

 けれど、それは勘違いだった。ただの、ベアトリーチェの都合のよい幻想だったと改めて思い知らされた。


 玄関ホールにエレオノーラを認めた瞬間、クラウスの瞳は深みが増した。


 まるで紅茶に入れた角砂糖のように甘く溶ける。それを間近で見ていたベアトリーチェには、彼のその変化がよく見えた。

 彼だけを観察していると他の人と会話をしながらでもそれとなくずっとエレオノーラに意識を向けているのが分かって、ひどく切ない気持ちになった。

 この一カ月と少し、という短い時間ではあるがクラウスと最も一緒にいたのはベアトリーチェだという自負があった。彼女をエスコートしている時のクラウスはまるで王子様のようだった。

 けれど、全く違った。以前、出会ったばかりの頃よりもクラウスの細かな変化に気付くことが出来るようになった為により一層、見えるものがある。

 こんなにも違う。

 ベアトリーチェに向けていたのは、仮面のようなものだったのだ。婚約者という、彼の用意した役割用の仮面。優しさも、親しさも、ひょっとしたら熱を伴う好意のように感じられていたものの全てが。


 打ちのめされたベアトリーチェは、アンジェを連れてすごすごと家に帰ることしか出来なかった。

 自分のしたことが恥ずかしい。クラウスを脅して契約で縛り付けて、挙句の果てに好意が通うのではないか、と勘違いまでして。


 ベアトリーチェは、勝手に恋をして、勝手に失恋したのだ。


 優しい彼は最初に言っていたではないか、”お前のことを愛することは生涯あり得ない”と。

 彼女の頬を一筋の涙が伝う。


 なんて愚かなのだろう。

 彼は常に徹底して役目をこなしていて、最初に約束した時から彼の立ち位置は何一つ動いていなかったのだ。

 クラウスは、自分を脅したベアトリーチェを責めたり詰ったりしない。代わりに、彼女に心を向けることも、決してしないのだ。当然だ。


 ”あの時”、ベアトリーチェは交渉の手札にもならない条件を持ち出して卑怯にもクラウスを脅して結婚することを約束させたのだから。


 クラウスが頷いたのは、ベアトリーチェの交渉が上手くいった所為ではない。彼が、最も大切にしているものを彼自身が守ることを選んだからだ。

 普通に出会えばひょっとしたら、ベアトリーチェとクラウスは友人ぐらいの関係にはなれていたのかもしれないというのに、あの時点でクラウスの信頼を永遠に失ったのだ。


「本当に、わたくしは馬鹿だわ……」


 それでも一度走り出してしまった時間は後戻りできない。

 恋心を殺してでも、ベアトリーチェには守らなければならないものがある。父の残した男爵家と、商会だ。


 暗い気持ちを振り切るように気を取り直して、彼女は今日の分の書類仕事をしてしまおう、とデスクについた。

 今まではユリアナに任せてばかりで形程度目を通していた書類も多い。新規登録の寡婦の名簿や、顧客の要望書に収支報告書。今まであまり意味の分かっていなかった数字もあったが、それらはクラウスから受けた教育により、きちんと把握出来るようになった。

 こんな知識で経営を続けていたなんて、馬鹿か、と冷たく言われたことを思い出して、べアトリーチェはふふ、と暗く笑った。

 彼の悪態はどこか面映ゆい。きっと口うるさい兄がいたら、こんなカンジなのかもしれない、と思って彼女の瞳には薄く涙の膜が張った。

 動機はどうであれ、ベアトリーチェはクラウスに大切にしてもらっていると思う。彼に恋をしているのも事実だけれど、彼の庇護はとても心地よかった。

 自分で試行錯誤して、思う通りにやればいいのだと教えてくれる。そして、少し離れたところできちんと見守ってくれていて、ベアトリーチェが大きな間違いをしそうな時はそれとなく教えてくれる。

 そんな風に彼女に接してくれた人は、父以外にはいなかった。だから、より執着してしまったのだ。

「……もっと普通に出会いたかったわ……そうすれば」

 否、普通の令嬢として出会ったならば、クラウスはベアトリーチェには目もくれなかっただろう。すぐ隣にあれほど輝かしい存在がいて、他に目移りなど出来よう筈もない。



 しかし、いくらか書類を捲る内に手が止まる。

「……これって……どういうことかしら……」

 何度見ても、数字が合わない。俄か知識ではまだ自信がないが、まるで途中でどこかに金が消えているかのように使途不明金があるのだ。何かしら項目を設けられているが、ベアトリーチェには覚えのないものばかりだ。

「え、待って……これって……横領……?」

 今までこんなことにまで気づかなかった自分に愕然とする。

 クラウスには当然、事業の実際の書類などは見せていない。モデルケースなどを用いてどのように運用しているかなどを説明していて、彼の方でも架空の事業の話として収支報告書などを作って説明してくれていた。

 もしも、クラウスが一目見たならば、この収支報告書の歪さと拙さはすぐに看破されただろう。

 そして彼ほどの頭脳と知識がなくとも、この収支報告書を誰か作成したかを知っているベアトリーチェには、おのずと横領をした犯人が誰なのか分かる。

「……こんなことって……」

 彼女が喉を詰まらせたその時。


 コンコン、という扉を叩くノックの音がする。

「……はい」

「ベアトリーチェ?わたくしよ、開けてくれる?」



 聞えてきたのは、ユリアナの声だった。



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