15.別れの言葉
エレオノーラだけは、不思議そうに顔を上げる。
そこには、階段を降りてくるべアトリーチェと、彼女に手を貸して並んで降りてくるクラウスの姿があって、エレオノーラは喉が干上がるような心地がした。
長身のクラウスと、同じく女性としては長身のベアトリーチェが並ぶとしっくりときているように見えて、二人が婚約したという事実を改めて痛感させられたのだ。
「…………・エリィ。もう来ていたのか、待たせてすまなかった」
「アンジェ!あなたどうしてここに……!」
二人はそれぞれに言い、ベアトリーチェはそのままアンジェに駆け寄る。無邪気な妹は、クラウスに向けてにっこりと微笑んだ。
「クラウス様を、今夜の我が家への晩餐にお招きにあがりましたの」
「急に何を言うの、アンジェ!クラウス様はお忙しい方なのよ」
ベアトリーチェが言うが、アンジェには本当に意味が分からないらしい。
「どうして?婚約者の家で夕食を一緒に摂る時間ぐらいあるでしょう?」
クラウスにとっては、会食も仕事の一つだ。そして実際今夜は別の貴族男性との食事会が予定に入っていた。
騒ぐ姉妹とオロオロする執事、怒りを蓄積する侍女。エレオノーラは一人、まだ干上がった喉を潤すころが出来なかった。
挨拶の言葉一つ、出てこない。クラウスが傍にいるのに、こんなにも寄る辺ない気持ちになるのは初めてだったのだ。
いつだって、手を伸ばせば抱き寄せてくれた、温かくて力強い腕。それがこんなにも近くて遠い。
一方階段を降り切ったクラウスは闖入者であるアンジェが作った惨状を見て、頭を抱えたい気分になった。
今まで確かにエレオノーラはこの屋敷に先触れもなく訪れることが多かった。だが、小言こそ言うもののそれをクラウスが許していたのは相手が他ならない彼女だからだ。そしてエレオノーラの方でも、当然他の屋敷に先触れなしで訪れるようなことはしない。
可哀相に、そのエレオノーラはオルガに守られるような形で立ちながらも展開に着いていけずに目を白黒させている。誰よりも美しく繊細な、いとけないクラウスの宝石。
「エリィ」
クラウスが彼女に呼び掛けると、ハッとした様子で紺碧の瞳を向けられた。彼女は迷子のような顔を、またしていた。咄嗟に抱き寄せたくなる腕を止めることに、クラウスは珍しく労力を割く。
今更だ。彼女にこんな顔をさせているのは、自分の甘さと弱さなのだと自戒することで嘆くことを放棄させる。
エレオノーラはゆっくりと不思議そうに自分の腕と、クラウスの手を見遣って、それからまるで一旦何もかも壊すように無表情になる。
その後、蝶の羽ばたきのように、花が咲きほころぶように、ゆっくりと美しい笑顔を浮かべた。その変化に、クラウスは目を見張る。
「シルバ子爵、コークストー男爵令嬢」
響く声は銀嶺のようだ。彼は理解する前に瞬間的にゾッとする。
エレオノーラには、アンジェの無礼もマルクの不手際も何とも感じなかった。彼女の侯爵令嬢としての矜持が侮られたのだから憤るべきだと主張していたが、それよりもクラウスとベアトリーチェの姿にくぎ付けになった。他の感覚は遠く、まるで麻痺してしまったかのようだ。
音も、香りも、何もかもが、遠い。
「ご婚約おめでとうございます。末永いお二人の幸せをお祈りしております」
柔らかな笑顔を完璧な美貌に張り付けて、エレオノーラはひどく美しい所作で礼をした。
その場にいた全ての者の目が奪われ、そして動きが止まる。ゆっくりと身を起こしたエレオノーラは、オルガに視線で合図をした。
心得た侍女は、持参していた本をマルクの手に無理やり押し付ける。
「……今日は子爵にお借りしていた本を返しに来ただけですので、これで失礼いたします」
軽く会釈をして暇を告げると、皆が固まっている間に優雅に歩き出す。オルガがそれに続き、逸早く硬直から逃れたクラウスが口を開いた頃には、二人は堂々と玄関から出て行ったところだった。
「…………」
はくり、と彼の口が閉じられて、僅かに瞼が震える。
この惨状は、結局のところ彼自身が招いた結果なのだ。分かっていた筈だ、恋愛という意味でエレオノーラがクラウスのことを愛しておらずとも、幼馴染として誰よりも愛されていた。
こんな風に急にクラウスの方から突き放したような形になれば、あのいとけない子供がどれほど傷つくのか。わかっていた筈だ。
あんな、作り物のような笑顔をさせたかったわけではない。
誰よりも、何よりもエレオノーラの無邪気な笑顔をいとしく思うからこそ、守りたかったのに。
さようなら、と言われた気がした。
「……クラウス様?」
ベアトリーチェの声に、すい、と視線をそちらにやる。
心配そうな姉と、不思議そうな妹。エレオノーラを守る為、彼が選んだのはこちらの現実だ。
「……ベアト、用事は済んだ。妹を連れて帰るといい」
「……はい」
クラウスの冷たい声に、ベアトリーチェは青褪めて膝を折る。が、事態を全く把握出来ていないアンジェは不満の声をあげた。
「ええークラウス様ぁ!我が家へ食事に来てくださる約束は?」
「アンジェ嬢。何か勘違いしているようだが、私が結婚するのはベアトリーチェだ、貴女ではない」
言下に、馴れ馴れしくするな、と言うとさすがにこれは伝わったのか、アンジェの可愛らしい顔が怒りに顰められる。
「何それ……」
「行きましょう、アンジェ。お約束もないのにひと様の屋敷を訪ねるのはとても失礼なことなのよ」
ベアトリーチェは慌てて挨拶を述べると、半ばアンジェを抱きかかえるようにして屋敷を出て行った。
玄関ホールには、ようやく客がいなくなりクラウスはそこで盛大に顔を顰める。そんな主に、マルクが歩み寄ると深く頭を下げた。
「申し訳ございません、クラウス様」
「……構わん。あれが義妹になるのかと思えば頭が痛いがな……」
本来であらば執事にも罰を与えるべき場面なのだろうが、クラウスはひどく疲れていた。そもそもの発端は、自身の選択の結果だ。
それに波及した使用人の不手際を、今の彼には責めることなど出来なかった。
「……出掛ける時間まで、少し休む」
「はい……あの、クラウス様、これを」
エレオノーラが返却に持ってきた本を掲げられて、クラウスはそれを受け取る。
ほのかにエレオノーラが好んで使う香の香りが残っていて、彼は深い溜息をついた。
選択が過ちであったとは思わない。既に選んだ後なのだ。
それでも、




