13.それぞれの事情
「先日はありがとうございました」
後日、約束通りの時間にクラウスの屋敷を訪ねてきたベアトリーチェは、応接室のソファに座る前にまずお礼を言った。
今日は明るい橙色にクリーム色のレースのタイトなデザインに、黒曜石の耳飾りをつけている。
これまではコークストー男爵夫人は後見人という立場を利用し、ベアトリーチェが稼いでいるにも関わらず彼女は嫁ぎ先が決まっているのだからオシャレして男性にアピールする必要がない、と言ってドレスを買い与えることをしなかった。
経理事務は元々平民である金銭感覚に優れたユリアナが担っていたので、ベアトリーチェは自由になる金は少なく、仕方なく実母のドレスをリメイクするなどして着ていたのだ。
それが、クラウスと婚約して一転、家名をアピールする為なのか次にアンジェを社交界に売り込む為なのか、とにかくベアトリーチェにドレスや宝飾を買い与えるようになったのだ。
「……いや、こちらこそ馳走になった。……当家の方は、不調法ですまんな」
クラウスはそれを受けて礼を返しながら、彼女に席を進める。
本来ならばめでたい次期当主の婚約だ、彼の実家であるバノーラ侯爵家の方でも同じような食事会もしくは夜会などを催すべきなのだろうが、クラウスが言うには現侯爵はあまり華々しい席が好きではないし、侯爵夫人はむしろ大好きなのだがシーズンいっぱいはあちこちの夜会へと赴く予定があるのだという。つまりは多忙で、急に決まった息子の婚約を祝う時間はない、と。
そしてシーズンが終わる頃には、クラウスとベアトリーチェは結婚している。きっと彼はベアトリーチェを家族になるべく会わせるつもりがないのだ。
まるで歓迎されていない花嫁だとは弁えていたが、さすがに傷つく。
「……この前ご両親にはご挨拶させていただきましたし、お忙しい侯爵夫妻に何か開いていただくなんて恐縮してしまいますもの、助かったぐらいです」
それでもベアトリーチェは、まるでなんでもないことのように肩を竦めて苦笑を浮かべる。
彼女としても、あまり義母と義妹を侯爵家の方に近づけたくないのだ。どんな失礼な要望をするか分かったものではない。
その日のパンに困るほど困窮しているわけではないが、コークストー男爵家は元々さほど裕福な貴族ではなかった。
けれど義母娘が来てからは、明らかに出費が増えた。ベアトリーチェには買い与えられなかったが、ユリアナとアンジェは贅沢が好きで、様々な場所に嬉々として新しいドレスを着てはしょっちゅう出掛けている。ユリアナが食事会の夜に黒いドレスを着ていたのはただのパフォーマンスだったのだ。
所領を持たない男爵家であることから、父の行っていたいくつかの事業とベアトリーチェの寡婦支援事業が基本的な男爵家の収入であり、現在はどちらもベアトリーチェが采配を振るっている。
その為、ユリアナはベアトリーチェを自分の親戚と結婚させることで事業は引き続き彼女に任せ、義母娘はその収入を得ようとしていたのだ。
クラウスからすれば、どこをどう考えれば嫁いだ後のベアトリーチェの収入を自分達のものに出来ると考えたのか甚だ疑問なのだが、とにかくユリアナとアンジェの思惑はそういうことであったらしい。
呆れた意地汚さだが、現状ベアトリーチェが働いて得た金を財源に贅沢な暮らしをしている義母娘からすれば、浅はかな考えに辿り着くのも無理からぬこととも言えた。
そのついでに、バノーラ侯爵家に金の無心でもされてはたまらない、というのがベアトリーチェの懸念だ。
「……正式な手続きを取れば、男爵の事業はともかくお前の商会の収入を義母娘に渡す必要はなくなるが?」
「ええ……ですが、それも全てわたくしが18になってからのことですよね」
「そうなるな」
クラウスは溜息をつくようにして言った。
亡き男爵の遺言で、ベアトリーチェは18歳になるまでは義母を後見人とし、彼女は男爵位を継ぐことも出来ない。ただし嫁ぐことは出来る為、それまでに結婚させられそうになっていたのだが、クラウスとの婚約でそちらの線は消えた。そしてこの国の法では、ベアトリーチェが侯爵家に嫁いでしまえば、彼女に男爵家を継ぐ資格はなくなる。
ユリアナの目論見としては、ベアトリーチェが嫁いた後にアンジェが同じく18歳になれば彼女に男爵位を継がせるつもりなのだろう。
杜撰な計画だが、まだ何も起こっていない現在では義母娘を咎める手立てもまた、ないのだ。
「……頭の痛いことだ」
「ええ。父は、義母のことを本当に信用していたようですので……それはわたくしも同様ですけれど」
「それでも、自分の意見を伝える努力はするべきだったと思うのだが。後見人だからといって一方的に搾取される状態がおかしい、ということは子供でも分かるだろう」
現在の困窮を招いたのは、ユリアナとアンジェの所為であるということは明白だが、ベアトリーチェ自身が反抗してこなかったこともクラウスからすれば納得いかない。
「……ええ、今になって思えばわたくしもそう思いますが、一年前に父を亡くした当時はただ自分の商会と父の残した事業を潰してしまわないことに必死で、家庭を顧みる余裕はなかったのです」
ベアトリーチェの沈痛は表情を見て、クラウスは内心で溜息をつく。
「気づけば今のような状態になっていたし、わたくしの方も未だにさほど余裕があるわけでもなく……」
準備の出来ていない者が、思う以上に早く大人になること、一人前になることを強いられた弊害なのだろう。
そうだとしても、今現状を一人で打破することが出来ずにいるのはベアトリーチェの弱さだと感じる。そして、それに巻き込まれるクラウスにはとんだとばっちりだ。
とはいえ、彼の唯一絶対の弱みを理由に従わざるえない状況は、ある意味ベアトリーチェと似たようなものなのかもしれない。
「……本当に、頭の痛いことだ」
クラウスの個人の屋敷は、歴史と伝統を誇るバノーラ侯爵家本邸とは違い家具も調度もシンプルなもので纏められている。壁紙にしても細かな装飾のあるものではないし、執務机などもがっしりとした樫木製だが凝った細工などはない。
けれど、今二人のいる応接室だけは来客用に精緻な装飾の天井や金の唐草模様のあしらわれた壁紙、滴るような飴色の家具にゴブラン織りのクッション、といかにも貴族の応接間らしい設えがなされていた。
今は時期柄火の入っていない暖炉、その上に置かれた時計を確認してからクラウスは手元の本を数冊ベアトリーチェの前に置いた。
「これは?」
「この前言っていた、経済学の論文を編纂したものだ。随分前に出たものなので実務にはさほど役立たないが、これを読んでいる経営者は多いからな。流し読みでもいいから中身をさらっておいて損はないだろう」
最初にこの屋敷を訪ねて以降、クラウスはこうしてベアトリーチェに事業主としてのアドバイスを続けてくれていた。
比較的若い頃から事業を展開しているベアトリーチェだったが、そのやり方は父に教わったこと以外は我流であり、時折周囲の男性事業主との齟齬を感じていた。その辺りの常識的な部分は大学を出ているクラウスの方が精通していて、彼にこうして教えを請うている現状だった。
「助かります……わたくしに何かお返し出来ることがあればいいのだけれど」
「不要だ」
そう言って、彼はあっさりと断る。
クラウスからすればべアトリーチェに望むことは”約束”を守ることだけでなのだが、自分が無理を言っての現状である彼女からすればせめて出来ることならなんでもしたい、と思ってしまうのだ。そして、拒絶される度にそんな資格はないと知りつつ傷ついてしまう。
「……そう。では、これをお借りします、ありがとうございます」
「ああ」
時計を気にしたということは次の来客の約束でもあるのだろう、ベアトリーチェは婚約者との逢瀬には相応しくないほど事務的な会話だけで終わったことに、一方的に寂しさを感じていた。
この前の男爵家の食事会以降、ベアトリーチェの気持ちがクラウスに傾いていることに、彼女は自覚的だった。彼女も年頃の女性であり、クラウスは見た目だけなら完璧な貴公子だ。
会えばこうして冷たい言葉ばかり並べられるが、助言や男爵家の面々とのやり取りを見ているとクラウスはベアオリーチェを気遣ってくれていることが伝わる。
本来は情の深い、とても優しい人なのだろう。心の距離は少しずつ近づいているような気がして、まるで自分達は所謂普通の政略結婚でやがて多くの夫婦がそうであるように、本当に思いあう仲になれるのではないか、と考えてしまう時があるのだ。
だがそんな夢想を、彼女はすぐに打ち消す。
そこに残るのは、公園の咲き誇る花々の前ですら霞むことのなかった、美しい令嬢の姿。
エレオノーラ・ヴォルンテール。クラウスの心を占めるのは、彼女ただ一人だ。
時折そのことを思い出しては、ベアトリーチェは無力感に打ちのめされるのだった。




