9.停滞と前進
件の話を終えたエレオノーラは、オルガを伴って一度自分に宛がわれた部屋に戻り、改めて支度を整える。そうしておいて、朝食の約束に向かう為に彼女はクラウスとの待ち合わせの大応接室に来た。
天井は白い石のアーチ型になっていて足元の同じ石造りの床は見事な織りのカーペットが敷かれ、足音は吸収されていきざわざわとした空気がふんわりと反響している。
ここでは他にも待ち合わせをしている者が大勢いて、あちこちで談笑の輪が出来ていた。
寝室のみの部屋が宛がわれている客は、このまま一階の大食堂の方へ向かうらしい。そちらは王都のレストランから料理人を招いているらしく、滅多に街で食事をすることのない貴族達も興味深々でぞろぞろと階下に降りていく。
エレオノーラは街のレストラン、というものに行ったことがないので、明日の朝はクラウスにお願いして食堂の方に行きたいな、と考える。
人がまばらになった部屋をぐるりと見回すと、窓辺の席に座るクラウスを見つけて彼女の紺碧の瞳が輝いた。
クラウスは先程彼の部屋で会った時とは違い、深いグレーのスーツにタイは濃い青のものを締めている。長い脚を組んで、退屈そうに窓の外を見ている姿は溜息をつきたくなるほど美しい。
声を掛けようと歩き出したエレオノーラの視界に、さっと飛びこんできたのはユリアナだった。
彼女はクラウスの前で丁寧にお辞儀をして、何事かを話し出す。距離があるのでエレオノーラには聞こえなかったが、ユリアナの横顔、頬は薔薇色に染まり大きな瞳は潤んでいた。
彼女と特別親しいわけではないエレオノーラにも、これは分かる。
ユリアナは、クラウスに恋をしているのだ。
クラウスは、夜会に出ても大抵はスモーキングルームやビリヤードルームで男性の貴族と話し込んでいることが多いし、エレオノーラと共に出席した際にはほとんど彼女と離れることがないので、令嬢達からすればクラウスと話す機会を得ることは稀だ。
昨夜指摘された通り、彼に近づきたい令嬢の僅かなチャンスをエレオノーラが遮ってしまっているのだろう。
少し時間を置いて合流すべきだろうか、とエレオノーラが悩みつつ二人を見ていると、何の切欠だったのかクラウスがふ、と笑ったのが見えた。
窓から差し込む、朝の柔らかな光を受けていた所為なのか、その笑顔は短い時間だったにも関わらず彼女の心を射貫く威力があった。
とても優しくて、とても愛情に満ちた表情だった。
「…………あれ?」
「お嬢様?」
奇妙な感覚がして、エレオノーラは自分の胸に手を当てる。
「お加減でも……?」
オルガが気づかわし気に主に寄り添って声を掛けるが、エレオノーラは眉を寄せて唇を噛んだ。
「……平気」
そう返しつつも、顔が上げられない。
何故か、胸が、痛いような気がしたのだ。一瞬。今はもう痛むことはないが、その一瞬の痛みの残滓を確かめるように彼女は瞼を閉じる。
「エリィ」
と、耳に馴染んだ低く、甘い声に呼ばれて、次いで胸にあてているのとは逆の手を大きな掌が握る。
エレオノーラが顔を上げると、僅かに眉を寄せたクラウスが目の前に立っていた。ユリアナも心配そうに傍に立っていて、エレオノーラの心は複雑に絡んで揺れる。
「あ……おはようございます、ユリアナ様」
「おはようございます、エレオノーラ様……」
二人の話時間を邪魔してしまった、という罪悪感と、クラウスに触れられたことによる安堵がない交ぜになってエレオノーラの心を重くさせる。
「ごめんなさい、お二人のお話の邪魔をしてしまって……」
「構わん。シャフール男爵令嬢、悪いが我々はここで失礼する。先程の件は私の方からエリィに伝えておく」
「あ、は、はい!」
ユリアナとの挨拶もそこそこに、クラウスはエレオノーラを抱きかかえるかのようにエスコートして手近な部屋に入った。使われていない小応接室はシン、としていて壁際にオルガと、クラウスに同行していたマルクが並んで立つ。
1人掛けのソファにエレオノーラを座らせたクラウスは、自分はその前に跪くと、下から検分するように彼女の顔をじっと見つめた。
「今朝は分からなかったが、具合が悪いのか?熱はないようだが……」
首元を幼子にするように触られて、エレオノーラは羞恥に顔を赤くする。
「クラウス……平気よ、私は」
「あんな辛そうな顔をしておいて、どこが平気だ」
耳の裏や額に確かめるように触れて、クラウスは秀麗な顔を顰める。
「少し脈が早い、か?この屋敷に医師は……」
「クラウス!」
エレオノーラの小さな叫び声に、クラウスはふと手を止めた。改めて彼女を見ると、顔を真っ赤にして羞恥に震え、目元を潤ませて眉を寄せている。
驚くべきことに、壮絶な色気があった。
クラウスは無表情でスッと手を除けて、一歩、後退する。
「……具合が悪いわけではないのなら、いい」
「うん……心配かけてごめんなさい」
ほぅ、と吐息をついたエレオノーラは、恥ずかしそうに自分の頬に触れる。
僅かに色づいた白い首筋や、華奢な肩のライン、まだ少し潤んでいる紺碧の美しい瞳は目に毒だ。
「……大公との朝食は断るか?」
「ううん……姉様と義兄様にはお会いしたいもの……」
再びそっと差し向けられたクラウスの掌が、ほんの少しだけ躊躇してからゆっくりとエレオノーラの頬に触れる。
彼女はその手に自分の小さな掌を重ねて、安堵の溜息をついた。この掌は馴染んだものだ。他の誰よりもエレオノーラを安心させてくれる。
うっとりと瞼を伏せるエレオノーラに、先程の痛みの残滓はなく。クラウスは紅茶色の瞳に不思議な光を湛えながら、徐々に落ち着いていく彼女の様子を見守っていた。




