序章 オストブルク レゲンデ・パラストの食事室 3
「嬢様ッ! 来ました!」
レオノーレをお嬢様と呼び、摂政宮のお仕着せを着ていないこの男は、辺境伯の子飼いのものと見えた。
「控えよ、殿下の御前で……なに?」
フィリップがおれの前に飛び出した。その間にレオノーレはハンカチで顔を拭って髪もささっと整えた。
「表門も裏門も固められております。旗印はしかとは見えませぬが、れいの伯爵家かと」
男はおれを無視してレオノーレの前に跪いて報告していた。
「解りました。公子様は既にご退出を?」
レオノーレは感情をすぐに押し込めて冷静に尋ねていた。いとこのフランツは王族、センデ大公家の跡取りだ。王位の継承順はおれの次で、大事な身の上なのだ。
「1刻ほども前に宮殿にお入りに」
「ネルバッハ公夫人は?」
「今宵はまだいらしておられません」
レオノーレはあっぱれなやつだ。ライヴァルの身の安全まで心配してる。
「では殿下だけ?」
「左様で」
「フィリップ殿」
レオノーレは向き直った。その間にフィリップはおれの背後の暖炉の縁を、決められた順に押して秘密の通路を開けていた。
「使うのか? 『幸せにいたる小道』」
おれは、その設備の名を祖父王に教えられた通りに口に出したが。
「殿下、これは逢い引き用の通路ではございませんので」
フィリップが感情を感じさせない声で言った。
まあ、外まで続いて裏の馬小屋脇に出ることは知ってるけど。当然レオノーレと探検済みだ。あ、なくしたことにして出口脇に隠しておいた短剣、まだあるかな?
フィリップは近寄っておれにやややつしたマントを着せ掛けた。目立つ金づくりのブローチやら襟飾りは外して袋に詰め直して身につけさせた。
「子孫がこれを逢い引きにだけ使うようなら幸せなこと、そういう皮肉でございます」
そう言いながら、レオノーレがきびきびと卓上のパンや葡萄酒をバスケットに詰めていた。そこまでする?
「この際だからフリッツァー・ティーシュにしてくれ。後で食う」
「殿下、お行儀悪うございますよ」
曾じいさん好みって食べ方じゃないの? お行儀悪いって、フリッツ墓で泣いてるかもよ?
レオノーレはおれを無視してバスケットを詰め終わって覆いを掛けた。
「馬は?」
「用意できております。白影号も黒炎号も」
従者がきびきび答える。
「では参りましょうか、殿下。楽しい夜の逢い引きでございますよ」
向き直ったレオノーレはよっつの目を光らせていた。さすがはダッフォンの娘、こういうときが一番生き生きしてる。
「お気を付けて」
あ、剣は一応吊るのね。フィリップに手を回されて、腰が一瞬で重くなった。
「フィリップ、お前もな? 無駄な手向かいはするなよ? 時間だけ稼いだら逃げろよ? カールとか、女官どもまで手荒なまねされないよな?」
「かたじけのうございます。どうか、御身の安全だけをお考えになりますよう」
フィリップの声はここまで来てもいつも通り感情を感じさせなかった。
「参りますッ」
レオノーレがおれの手首を取るなり駆け出した。脱出路は所々に雲母が使ってあって、ちいさな手提げランプの明かりにも微かに光って道を教えてくれた。
所々天井の下がっているところがあって、慣れないものを威嚇するつくりだが、おれ達は慣れているし、なにしろレオノーラは小柄なので速度を落とさないまま距離を稼げた。
「つぎ、下がってます、これが5箇所目」
「おう、そろそろじゃないか?」
「ええ。ここです、跳んで!」
落とし穴の位置もバッチリ。おれたちは走りながら手を固く握りあった。
いきなり命を狙われる王子です。ノーレちゃんは冷静。