35章 140日目 フリッツァー・パラスト 控えの間 そして大聖堂
戴冠式用の大聖堂脇、儀式の前の一番最後の控えの間でおれは思わず溜め息を吐いていた。襟の詰まった服は苦手だ。背もたれのない椅子に、ズボンに皺が寄らないよう浅く腰掛けて、おれはほんの少し休憩をもらっていた。
「陛下、お襟がきつうございましょう?」
ブリュンヒルデだった。女官の第一礼装で、黒一色で簡素ながら裾を引いた格式の高いドレスだった。これがよく似合う。水を持ってきてくれ、杯に注いだそれを一礼して味を見た後、差し出してくれた。流れるような所作の美しさは並ぶものがない。後宮の、エリーザベト様にお仕えするリース生まれの女官たちにも勝るだろう。年は30まで行っていない筈……いや、越えたかな? 15、6の頃から宮廷入りして父上のお側に仕えていた古参の女官だ、家柄も由緒正しく、こういう一世一代の儀式を取り仕切るに相応しい身の上なのだ。だから、こういう場にも控えていてくれる。地下牢から出してやれて良かったとおれは少し気分が明るくなった。
「だが、第一礼装だからしょうがないんだろ?」
笑って言ってやると、ブリュンヒルデも謎めいた笑い方を見せた。ブリュンヒルデだって、今日は特に襟の高い服で髪を高く結い上げて特別な頭巾を被っていて。優雅な首の長さが引き立つ。
「しかしながら。お待ちを」
近寄ると、襟のうしろから指を差し込んで、分厚い芯地を抜き取ってしまった。
「へっ?」
急に襟周りが楽になった。
「陽気王陛下が即位の折、襟の堅さに音を上げられて、
『どうせおれを立ててくれた連中は、おれが恰好なんか気にしないってことを解ってるさ』
そう仰せになって、お側にお仕えしておった我が高祖母、ヒルデガルド・フォン・デュッセルドルフ=シュナウザーに命じて衿芯を抜かせて戴冠に臨まれたのでございます。次代、アレクサンデル秀才王陛下も、お窮屈そうにお見かけしたので、その高祖母の昔語りを聞いておった曾祖母アーデルハイドが同様にその場で襟をほどいて芯地を抜いて差し上げて。以来第一礼装は芯地を外すことができるようにお仕立てすることに相成ったのでございます。そして、威儀を正すためにはじめは芯地を入れたままお過ごしいただいて、戴冠の儀式の間際に、陛下に心やすく式にお臨み頂くために芯地を取り外すよう代々私どもデュッセルドルフ=シュナウザーの女がお側に侍ってお世話申し上げるようになったのでございます。お父上様、アレクサンデル可惜王陛下のおん時も、兄上様のおん時も。
此度はわたくしが罪に問われ、あいにく縁者も未だこちらにお仕えできるほどには年を重ねておらず、陛下の礼装のお世話をできる者がおらなくなるのではと面目なく哀しゅう思っておりましたところを、かたじけない陛下のお優しき御心に拠りましてかようにお役に立てまして、先祖に顔向けができて嬉しゅう存じます。
陛下、本当にありがとうございました」
誇らしげに芯地を捧げ持ちながら、ブリュンヒルデはいっそう優雅に礼を取って見せた。
「おまえがそれで嬉しいならいいけどさ、実際助かったのはおれだぜ。ほんと、楽になったよ、ありがとう。
ああ、今行く。
これからも、よろしくな、ブリュンヒルデ」
フィリップから催促されて、おれは最後の通路へと足を向けた。大聖堂はまばゆいほど明るかった。
内乱の時には知らんぷりだった教会が、戴冠にはすり寄ってきた。大陸諸国においては聖教会に王権を担保してもらうのが通例なのでこちらは無視できないのが辛いところだ。血を分けた兄を殺したことについては、聖典にも例があるとか言って主の意に添った行いをする義務がどうとかいう説教をもったいつけて長々語った挙げ句に大司教はおれの頭に戴冠式用のでかい冠を載せた。襟まわりが楽になっていたので、おれはそれを堂々受けることができた。ありがとうよ、ブリュンヒルデ。
重い。重いけど、おれは耐えられる。耐えていけると思う。
立ち上がって、顔を諸侯に向けると、ヴェレ伯の第一声から王を讃えるかけ声が続き、規定の数だけ続いたあと、式次第の通り戴冠式の歌が始まった。あにきのときには何を言ってるのか解らなかった歌詞も、胸にしみいった。
主よ、王を護り給え
祝福された国土を保ち 国民を安んじる我らが王
教会を守護し 正義を世に示す大いなるこの世の剣
我らは輝かしい王を戴き 永遠に国の繁栄を祈念する
グンペイジの野に平和を グーツヴェル王家に栄光を
グンペイジの野に平和を。おれはそれによってこの先いろんなものに赦してもらわなくてはならないのだ。
ジークフリート王ばんざい
もうちょっとだけ続くんじゃ。