32章 65日目 フリッツァー・パラスト 新王の居室 3
エーリヒが頬を染めて退出してから、おれはしばらく世間話なんかしてゾフィー殿に声をかけた。
「それでは、今宵もあなたに命を預けるぜ」
部屋に持ち込まれたでっかい箱の蓋を開けて潜り込む。ごつい樫の木製で、斧でも持ってこないと傷一つ付かない。空気孔はちゃんと空いていて、中もちゃんと羽根布団が入れてあるおれの安眠ベッドだ。ちょっと右を向いて膝を曲げるぐらいがおれのベスト・ポジション。それを見定めたゾフィー殿が蓋を閉める。
「命をもちまして。では、ご安眠を」
鍵をかける音が響いた。嫁入り前の令嬢を宿直に取るからにはこちらも変な噂を立てられたくないので。その昔、古き良き時代に婚約者同士が操を守りつつも2人きりの時間を持つために作られた「親愛の箱」とかいうのを持ってこさせて改造させたのだ。もともとは仕切りがあって、手を握りあったり人に聞かれない話をするためのものだったらしいけどね。お蔭で広々してるのはいい。エーリヒにも見せてやれば良かった。ってことでほんとに清い間柄です、ゾフィー殿やそのご友人たちとは。
少しの準備期間を経ておれはアレクサンデル3世の死を公表し、法定相続人として自らの即位を宣言した。不名誉な病で病臥し、政務を執れぬこと、脳を病に冒され、正常な判断力を欠いていること、その状態で王の権限でもって次々落ち度のない側近を処刑して、国家の運営に損失を出していることなどを挙げ、王家の法定相続人の判断と責任でアレクサンデルに死を願い、それを執行したと。
センデ公子フランツは病を発したと断って伺候せず、おれはそれらの国務をレオノーレとリヒャルトに手伝って貰って行った。
「兄の罪はおれが負い、おれが国のために働いてその罰を受ける。
兄殺しの悪人であるおれに従うことを拒むなら、以下に定める期限以内に定められた様式で不満を申し述べるがよい。
古式ゆかしい馬上槍試合の形式で挑戦を受ける。
負けた場合、並びに、期限以内に不服申し立てをしない場合はおれを王と認めたと判断する。
これを好機と外国と結び、王位を手に入れんとすることは許さない。近衛全軍と、国軍、北部ウルシュベルク辺境伯軍、南部ヴェレ伯軍精鋭をもって全力でこれを叩き、反逆者として一族全てを処刑する。
文句があればおれ一人に来い。これ以上国を荒らすことは断じてゆるさん。
国と王家の名誉を損ない、国の優秀な人材、国土を損なった兄アレクサンデル3世は国に対する犯罪者として聖ゲオルギオス教会の王家の墓に葬ることを禁ずる。
死体は東部、グリューネヴァルトの森に晒すが、衛生上の見地もあり、また、肉親として忍びないので、大悪人といえども死体に触れ、尊厳を冒すことは許可しない。主の恩寵によりこのまま地に還るのを待つ」
あまりにも弟として非情との批判も覚悟したのだが、そういうことは教会関係から控えめに出されただけだった。やっぱ、すぐ大司教に形だけでも懺悔しといたのが効いた。念のため、レオノーレの手の者に護衛を頼んだのだが、兄の遺体を辱めるものは居なかったようだった。
そしておれは、法定相続人として、先王妃エリーザベト・ド・シャッフェ=リースに求婚した。古式ゆかしき婚約の使いとしては、同族から選りすぐりの美男が使わされるならいだったが、おれの親戚で一番の美男というとアレだ。それはさすがにむごいので、センデ公の甥に行ってもらった。求婚のしるしの銀のばらは代理で女官長が受けとってくれた。その後も、ほぼ毎日花やら菓子、その他貴婦人の好きそうなさまざまな品物を届けさせているが、儀礼以上の返答は帰ってこなかった。
恋を手に入れたクラウスやクリスの顔を見るのが辛い。ノーレともぎこちない。マグダに慰めて貰う資格もないと思い詰めると、おれにはもう誰もいなかった。一心同体だと思っていたのに、友達なんて半端なものだ。おれはリヒャルトと政務の話ばかりした。じっさい、フランツがいなくてはおれは赤子同然だった。
寒い、寒いというのがおれの口癖になった。即位を宣言したというのにおれは背を丸めて歩いて、威厳に乏しいと女官長にお小言を貰った。
だって寒いんだよ、メイラン夫人。
言い訳するおれの目の前を風が吹き抜けた。カーテンがざわざわ揺れた。なんて寒々しいんだろう、王宮ってやつは。ため息をついた女官長は下がると、あとで人を遣わしてチョコレートを差し入れてくれた。