31章 60日目 王子のお召し馬車内 2
ノーレは両手を広げて、改めてきつく抱いてくれた。そして、自分は、身を滑らせて、床に降りて跪いてしまった。
「お恨みはしません。ダッフォン=ウルシュベルクの娘の忠義を軽く見てくださいますな。
恐れ多くもフリードリヒ陽気王陛下の御恩は、我ら忘れたことはございません。
ただのジープフェルの田舎の警備隊長を、心利くもの、武勇に秀でたるものとして端近にお召し頂いて、数多の戦にお連れいただいて、天晴れダッフォン、忠義といえばダッフォン、ダッフォンといえば律儀者とお褒めいただいて、そなたでなければ治められぬ、遠ざけたとはゆめ、思ってくれるな、と手を取って辺境伯に封じてくださったかたじけないお心を、幼き頃からフリードリヒ王陛下のお誕生日とお命日には一族の長老より一言一句違わず説いて聞かせられるのでございます。
わたくしも、一族の生き残りとして、この血の最後の一滴まで殿下に捧げるつもりでしたとも! 妃になりたいとか、晴れがましい身分になりたいとか、そういう気持ちなど持ったことはございません!」
「悪かった。うん。そういうのがなくても、おまえは第一の臣だ。心の友だ。
リヒャルトともよく相談して、おまえの家が安泰になるように計らうからな、絶対!」
おれは小さな律儀者に言ってやった。そうだ、学友と言うより、お妃候補というより、ノーレはおれの側近なのだ。
でも、おれはノーレがいいんだよ。
ぶっとい眉毛も、小さい手も、こしゃくな細い顎も、ほとんど黒い髪もみんな。
エリーザベト様もすてきで憧れるし、マグダは気持ちいいことを教えてくれるけど、おれの隣で政治をみて、おれと同じものを食って、おれの子供の母親になってくれるひとは、ノーレしか考えられないんだ。
「ノーレ、もうちょっと頑張って、……しきたり変えたりできないか?」
おれは、ノーレの手を取って引き上げて、側に座らせようとした。キスしようとしたとき、ノーレは強く、しかし礼儀をもっておれを押し返して、また床に滑り降りた。
「殿下がこの先お迎えになるお妃様に対して、露ほどの疚しいところがあってはなりません。
ダッフォンの娘として、それはご辞退申し上げます」
そして、窓の外を見て、声音を別人のように明るく変えて言った。
「さあ、お約束通りお連れしましたよ。殿下のご威光をもって、そう荒らされてもおりませんでした」
馬車が着いたのは、摂政宮だった。おれは晴れて「ちっちゃい方」のおれの宮殿に帰り着いた。召し使っていたものどもが、残らず並んで迎えに出ている。
「ごめんな」
そこまでで、おれはレオノーレと別れた。おれは王になる。王の妃はリースの公女と定められている。ジークフリート王子が心と体を許すべき寵姫はマグダレーネ。そう決められているから。
おれとレオノーレは、結ばれえぬ定めということだ。
おれは昨夜、マグダを召して、王の権限で「寵姫」に「物語」をするよう命じた。
「お尋ねにならないから気を揉んでおりました。そうでなければ、とうにご存知かと。
コンスタンツェ様の許嫁は、センデ大公の公子、フランツ様ですわ」
マグダレーネは笑った顔のまま声を潜めて言った。
「まことか?」
リヒャルトから聞いていたというのに、聞くなりおれの喉は潰れた。苦労して、それだけを口に出した。
「願ってもない良縁と、それはお小さい頃から誇らしげにしてらして。若い娘ならみんな知ってますわ。……でも、その年頃の娘はもう宮中には出入りしておりませんし……アレクサンデル陛下のおかげで。
ですからよくフランツ様は平気で陛下のもとにおられると。やはりご婚約者には情を持っておられないのかと拝察しておりましたの。お小さい頃からご一緒ですから、陛下との友誼の方を取られたのだと。王族として正しくもございますわ」
「ああ……そうだ、な」
クリスティーナも、知っていたのだろう。知っていて、フランツを面罵した。そして、おれには何も言わずに左遷された。
もう一度、おれはマグダに慰めてもらって、心を決めたのだった。