30章 60日目 センデ大公のオストブルク内宮殿 9
ふと、先ほどので封印が解けたのか、幼き日のことがまた蘇った。アデライーデ殿下はよく母を訪れてくれた。この者達に聞かれぬ話を致しましょう、などといって、リースの言葉で心おきなく会話していた。アデライーデ叔母上がお連れになるあにきによく似た子供がフランツだった。最初は何を話しかけても返事をせず、困ったように微笑むばかりで、耳が不自由なのかと思っていたが、お母君とは会話するので、リースの言葉しか話さないのだと次第に判断した。おれは、その頃、リースの言葉ができなかった。
その日もおれは、凝りもせず菓子の盆を持って近づいてフランツに一緒に食べようと勧めていた。
【お菓子、たべる、ない?】
【わたしはよそではものをいただかないのです】
【よそ、……ない?】
【お気持ちは嬉しいのですが】
あの頃から、フランツは微笑みが板についていた。
「うれしいならくえばいいじゃないか」
つい、グンペイジ語で言ってしまって、しまったと思ったが、どうせ通じないと思った。
「しかられるのですよ。それに、おなかはすいていません」
ところが、ついうっかり、フランツも口を滑らせた。
「しゃべるんじゃないか!」
おれは嬉しくなって大声を出していた。
「大きなこえを出さないで。ないしょですよ」
辺りを見回して、フランツは小声になった。
「ないしょなのか!? わかった」
困ったように、フランツは笑った。そのうち、フランツはおれとはおおっぴらにグンペイジ語で話すようになってしまった。
【こんなところにいらしたのですか】
特別な礼装をしていたから、それは母上の葬儀の日のことだと思う。
【フランソア?】
あにきそっくりの姿に一瞬怯えたが、リース語の柔らかい響きと微笑んだ顔でフランツと判って、おれはほっとした。その姿はすぐに涙で歪んだ。
【皆が探していましたよ】
フランツは距離を取ったまま言った。
【かあさま、起きる、ない】
幼いおれには母上様が亡くなられたということが理解できていなかった。綺麗な服を着せられるわけも、大聖堂に連れてこられたわけも解らず、自分の問いに女官どもがはっきりと答えぬのにかんしゃくを起こして控え室を飛び出したのだった。幼いときから人に構われるのが当然と思ってきたおれは、頭が冷えると寂しくなって、心細さを感じてもいた。衝動のままに駆け回って、自分のいる場所がどこかも判らなくなっていた。途方に暮れてべそをかき始めたその時に、フランツが現われたのだった。
喪の正装は、フランツの白い顔を引き立てていた。
【おなくなりになったのですよ。もう、お目覚めにはなりません】
【どうして?】
【お命を使い果たされたのです】
【いのち、終わる?】
頭のわるい子供と長く会話する根気は子供のフランツにもなかったようだった。近寄って、作法どおりハンカチを出してくれたが、やつもお坊ちゃま育ちだから、おれの顔を拭ってくれるまでは思いが及ばないようだった。ハンカチはしばらく宙にとどまっていた。おれが手を伸ばしてそれで顔をごしごし拭くと、少し引いた様子だった。レースのいっぱいついた贅沢なハンカチは頬に痛かった。
【お忘れなさい。貴人は過ぎたことを考えすぎてはなりません】
【きじんってなに?】
【ジーク様のように尊い方のことですよ】
【わかんない。かあさま起きるない?】
【とりあえずこちらへ。
お忘れなさい。それがよいです】
フランツは手をさしのべてくれた。フランツの手は温かかった。
【お忘れなさい】
フランツは自分にも言い聞かせるように繰り返した。それは呪文のようだった。
手を繋いでおれたちは皆の控える部屋へ戻った。
「このあほうが! おまえのせいで母上様が、母上様が! この食い意地の張ったまぬけめが! よりによってこいつなどに手を引かれて楽しげにしやがって!
父上様! このような思慮の足りない愚か者をおれの次の継承者とお定めになるのはいかがかと存じます……!」
あにきの怒号は誰かに制せられて止んだ。
遠い記憶は、ようやっと蘇っておれの胸をやるせなく満たした。