30章 60日目 センデ大公のオストブルク内宮殿 8
「ああ、芳醇な。天使ににっこり微笑んで抱きしめられたような香り。うっとりとして、そして、あとにほんの少し後ろめたいような苦みが来るのです。この後味にはもうなれました。これは動物の臓物を腐らせて、細心の注意で抽出して作るのですよ。手間も暇も掛かった貴重品です。幼い頃から当大公家では投資をしておったのですから、回収させていただかないと。管理を誤って、召使いがひとりふたり死んでもいますし」
「フランツ! おまえの家のそういうところがおれは昔からなんだかイヤだったぜ」
「亡きアレクサンデル2世陛下も、そういう正々堂々としたお方だったそうですね」
微笑みの貴公子。兄によく似たフランツは、この期に及んでも微笑みを浮かべている。
「どうだかな」
「しかし早死になされた。これは正真正銘の病死。もったいないこと。我が父としてはもう少し頑張っていただくつもりだったとか」
「知るか」
コストバァル・アレク。けっこう男前だったのと、気の優しい各方面そつのない性格なのに早死にだったことから、父王は「もったいないアレク」と呼ばれている。文語で言うと可惜王。じいさんのアレクサンデル一世は、「おれのせがれにしては上出来」と曾じいさんがいったとかで、シエナー・アレク。文語にしたって「アレクサンデル秀才王」だ。ほんとうちは歴史がない分、王の異称も身も蓋もない。あにきはどうせ狂王にしかならないだろう。
「さあ、お上がりなさい。それとも、尻尾を巻いて帰られる? そうして、あなたのあの可愛らしい参謀殿に、このことを告げ口なさる?
あの子とはいつか本気でやり合ってみたかったですよ。よろしい。先だっては出し抜かれておりますしね。グンペイジの丘を、さらに屍で覆って見せましょうか。もともとあのバカのおかげで宮廷は空っぽです。いいえ、そもそもリースの大遠征に応じたときから……物の道理を弁えぬ王を戴いた国は、みな死に絶えてなくなるのが筋でしょう」
「フランツ!」
「さあ、どうなさる? 殿下、いや、ジーク」
フランツの茶色い眼がじっとおれを見据えていた。
おれは、グラスに手を伸ばした。ハッタリと言うこともある。悪ふざけかも。いや、フランツはいつもほやほやしていたが、自分の家とそれにまつわる責任だけはちゃんと理解して、ゆるがせにしなかった。おれにどんなに勧められても、同じ焼き菓子を手にとらないように。どんなに愛しいと思った女でも、妃にはしないくらいに。
「フランツ」
おれは、兄の恥ずべき行いを詫びたかった。コンスタンツェという乙女に、エリーザベト様に、当主を、跡取りを、愛しい妻を、大切な娘を奪われた家々に。それが出来るのは、血を分けた弟のおれしか居なかった。そして、それがおれの責任の取り方だと思った。おれが死んで、この内戦が終わるというなら、そういう選択肢もあるかと思った。
あにきに対する怒りを恨みを完全に押し隠して。フランツはたいしたやつだ。
リースの言葉も達者に操る。今まで、目立たないように控えていたのかも知れないと思えば、もっとフランツの能力は、各方面もっと秀でているのかも知れない。王としてはフランツのほうが向いているかも知れない。
国を、フランツに譲る。
それがよいのかも知れない。