30章 60日目 センデ大公のオストブルク内宮殿 3
【どうでしょう? ジークにはまだ早いのではございませんか?】
なめらかなリース語。優しい響きは、これは母上のものだ。
【さあ、フランソアに毒味もさせましょうほどに。お上がり、フランソア。王子様に差し上げても大事ないと言っておあげなさい】
にっこり笑って、その貴婦人、アデライーデ様はフランツにボンボン入れに入った黄色いボンボンを差し出した。フランツは行儀良くそれを口に入れて微笑んで見せた。
【ミモザの香りが口いっぱいに溢れて春の心地が致します】
【よろしいでしょう? では、ジーク様、どうぞめしあがれ。どれでもお好きなものを。一つと言わずお好きなだけ】
今でこそリースの言葉での会話の流れが解る。何故か逆らえない威のようなものを感じて、おれは従っていた。
【あい】
おれは手を伸ばしかけた。その時、誰かが遮った。誰? それは……
【まあ、アデル様、わたくしはミモザのボンボンが大好きなのです。どうかわたくしにそれを頂戴】
そうだ、母上様はこのお方のことを愛称で呼んでおられた。王妹で大公妃でもあられる方を親しく呼べるのは王妃だけ、そういった格式のこと以上に、心を許しあった友としての付き合いであったとおれは覚えていたし、確かにそういい伝わってもいた。母上様のご葬儀の時には王族としての品位を損ねるくらいに取り乱して嘆いていたと申し伝わってもいる。
母上は声を挙げて席を立つと、奪うようにおれからボンボンを取上げ、口に入れた。
【なんて、素敵! ほんとうに、目が覚めるよう! もっと、みんな戴くわ! よろしいでしょう?】
返事も聞かずにボンボン入れを抱え込んでしまって、ぱくぱくとみんな頬張って見せた。ごくりと飲み下す。これは母上のような貴婦人にはあってならないことの筈だった。しかし、この宮廷で一番身分高い筈の女性の内輪の場での行いゆえに、咎めるものもいなかった。
【まあ、シュザンヌ様ったらいやなお方。でもそんなに喜んでいただけて嬉しいわ】
アデライーデ様は目を見張って、それから扇を優雅に使って笑って見せた。
【ああ、なんてこと! わたしはかねて、大の好物をこうやって口いっぱいにいれてみたかったのです! こんな子供のような真似をしてしまって、恥ずかしいわ、アデル様、皆も、見なかったことにしてくださいね?】
激しく咳き込みながら頬を上気させて、母上は眼を煌めかせて言った。
【ジークも、誰にも言ってはなりませんよ?】
重ねて言い含められ、おれはそのことを忘れていた。アデライーデ様の扇が忙しく翻った。今となっては解る。その扇言葉は、「全テハナカッタコトニ」……。
その夜から、母上は病を発し寝付いた。