表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

冬と風と涙と

作者: フジミツ タスク

僕は全力でペダルを踏み込んだ。その力に応えるように、自転車は前へ前へと進む。チェーンが錆びているためか、時折甲高い悲鳴のような音を上げる。向かい風が目に染みて、涙がこぼれる。素早く左腕の袖で軽く目をこすり、また前を見据える。すると赤信号が視界に入り、慌てて急ブレーキをかける。額に浮かんだ汗を拭い、一息ついた。いくら薄ら寒くなってきたからといっても、厚着のまま自転車を全速力で飛ばしたら身体が火照る。

 左手首に身につけているシンプルなデザインの腕時計を確認する。十五時十分。ここから駅まで五分弱かかる。時計から信号に目線を移してみたが、まだ青に変わっていなかった。ほんの少しの時間さえ無駄に出来ないのに、足止めをくらっている状況に苛立ちを覚えた。

十五時十五分の電車で、彼女は旅立つ。見送りに行こうかどうしようか悩んでいるうちに時間だけが過ぎ去り、迷いを振り切るように家から飛び出したのが、たしか十五時頃だった。普段から通学する際に使っている駅だから、家から自転車で二十分ほどかかることは分かっていた。間に合うか間に合わないかの瀬戸際で、僕は彼女の元へ向かっている。

信号が青になったのを確認し、再び自転車を走らせ始める。このすぐ先の坂道を登り切れば、駅に辿り着く。

 急な傾斜を登り始めると、目に見えてスピードが落ち始める。力を入れていた両足が重くなる。サドルから腰を上げペダルの上に立ちあがり、踏み込むたびに身体を左右に振ってバランスを取りながら、自転車を漕いで進める。

一週間前、彼女を自転車の後ろに乗せてこの坂道を下った。事故が起きないように慎重になり、度々ブレーキをかけながら走った。頬を撫でる気持ちの良い風と、後ろから聞こえた彼女の笑い声を今でも鮮明に覚えている。彼女が遠い場所へ旅立ってしまうのを聞いたのは、坂道を下り切った後だった。塞ぎ込んで彼女に会おうとしなかった僕が原因か、それとも気を遣って僕に会おうとしなかった彼女が原因か。あの時以来、僕らは顔を合わせていない。でも、黙って旅立とうとしている彼女に、僕は最後にもう一度会いたかった。その想いに引っ張られて、ここまで走ってきた。

 思い出に後押しされる形で、再び身体に力が漲る。ついに坂道を登り切り、そのまま一直線に目的地へと向かう。駅にある駐輪場に自転車を乗り捨てて、地下の階段を駆け下りる。腕時計を横目に確認する。十五時十四分。電車はバスとは違い、事故や点検が無い限りは時間通りに運行する。あと一分で、電車は動き始めてしまう。

 周りの目を無視し、地下の通路を走る。先ほどの坂道を含め体力が限界に近く、息が切れ始める。そんなことに構わず、ただただ交互に足を前へと踏み出す。

 改札口の前で一度立ち止まり、肩で息をする。彼女が乗る電車の電光掲示板を見上げると、まだ「十五時十五分」の文字が点灯していた。まだ間に合う。ポケットから電子カードを取り出し、改札機にかざす。ドアが開くと同時に、また無我夢中に走り出す。頼む、間に合ってくれ、と念じながらホームを目指す。

 目の前に立つ彼女が、ホームに着いて息を荒げている僕を見てきょとんとしている。何でそんなに大急ぎで来たの、と彼女が問い掛ける。もう電車が発車したと思って、と途切れ途切れに言う僕を彼女は不思議そうに見つめ、ホームの電光掲示板にある時計を指差した。その指の先を確認した僕は、目を疑った。十五時十分。次に自分の時計を確認する。十五時十五分。未だに電車が来る気配を見せないということは、どうやらこちらの時計が間違っていたらしい。

 安心と疲弊を一気に感じ、とりあえずベンチに座る。お疲れ様、と隣に来た彼女が軽やかに笑みをこぼす。いつもと変わらない笑顔だった。

 幸せな時間も束の間、電車がホームに着くベルが鳴り響く。彼女はベンチから立ち上がり、大きなトランクの取っ手を右手で掴む。息を整え終えた僕も立ち上がり、彼女の空いた方の手を握って力をこめる。彼女は一瞬驚いて目丸くしていたが、すぐはにかんで握り返してきた。掌から伝わる温もりが、心まで満たしていた。

 ゆっくりと到着する電車を、乗車位置で待っていた僕らが迎える。彼女は名残惜しそうに繋いでいた手をほどき、一歩踏み出してドアをくぐる。僕はそのドアの先に、足を踏み入れられない。扉際に立った彼女がこちらを向く。

 さよなら、と今にも泣きそうな声で、俯きながら彼女が言う。つられて僕も泣きそうになったけれど、精一杯我慢した。弱音や嗚咽を飲み込んで、またね、と返す。彼女はその言葉で顔を上げた。涙を流したまま笑顔で、またね、と言い直した。

 扉の閉まる音が、言葉を交わす終わりを告げる。言葉が届かなくなり、お互いに手を振り合う。遠くなって行く電車が見えなくなるまで、僕は手を振り続けた。

 駅を後にして、数十分前に乗り捨ててしまった自転車にまたがる。漕ぎ始めると、乱雑に扱い過ぎたせいか、行きに聞いたのとは異なる低めの悲鳴が響いた。空は既に夕陽が沈んでいて、辺りでは電灯がまばらに光っていた。

ブレーキを度々かけながら、坂道を下って行く。もう後ろから笑い声が聞こえることは、ない。それでも僕は独りで、前を向く。

 だからきっと、涙が止まらないのは、目にしみる冬風のせいだ。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ