致命的なミス
その日の深夜。
レインは「誰も近づけるな」と厳命してから、アデルの部屋へと踏み入った。
「父君から話は聞いたぞ童。ぬし、やけに卑屈だと思ったらそういう事情があったのだな」
「……また来たのか」
横になっていたようだが、こちらが足音を立てて近づくとアデルは身を起こした。
「あんたには関係ないだろ。放っといてくれ」
「いいや。妾はぬしの治療を受け持ったのだからな。そんな調子の病人を放置しておくわけにはいかん」
肉体的な病状は改善されたようだが、アデルの気力は未だ死人同然である。これを放っておけばまたすぐに別の病を発症することだろう。
「だいたい、何をそんなに死に急ぐ? 人間なんてちょっと待ってりゃあコロっと死ぬもんだろうが。そんな風に死にたい死にたい言わなくとも、あと数十年すりゃ死にたくなくたって絶対死ぬぞ」
「うるさいな。そんな説教ならもう何回だって聞いたよ」
「うるさくとも聞け。いいか、そんな調子でどうするのだ。死んでしまっては、ぬしを命がけで産んだ母の気持ちはどうなる」
は、とアデルが薄く笑った。
「そりゃあ、喜ぶだろうさ。きっと母さんは僕を恨んでる。だからこんなできそこないの身体で生まれたんだよ。早く来いって呼んで――がっ!」
アデルが舌を噛むのも気にせず、レインはゲンコツを叩きつけた。
「馬鹿が。あんな病気は、恨みでも何でもなくただの早産に伴う形成不良だ。そりゃあこの世には我が子を殺すような畜生のごとき親もおるがな――ぬしは己の母親をそんな畜生と同列にするつもりか?」
痛みに唸るアデルを前に、レインは憤慨する。
と、涙目になりながらもアデルがこちらを睨んできた。
「いいさ、好きなだけ殴れよ。でもそんなのでこっちが怯むと思ったら大間違い――」
とりあえず二連発で殴ると、アデルは寝台に顔を沈めた。
少しは腹の虫が収まったが、これでは根本的な解決にはならない。ますますこの捻くれた少年が反発を強めるだけだろう。
案の定、歯を噛みながらまたアデルが身を起こした。
「くそ……好き勝手殴りやがって」
「ぬしが殴っていいと言ったからな」
「本当にボコスカ殴る奴があるか!」
「腹が立ったらすぐ手ぇ出すぞ妾は。それでもう一度聞くが、本気でぬしは自分が恨まれているなどと思っているのか?」
「……当たり前だろ」
が、そのとき少年の瞳が揺らいだのをレインは見逃さなかった。
――ああ、そうか。
この少年だって、母にも父にも恨まれていないなどということは分かっている。
だが、それを分かってなお、自分で自分を恨んでいるのだ。だから己の命を必要以上に軽んじて見ている。
「……分かった。そこまでぬしが自分を責めてやまぬなら、手助けをしてやろう」
「手助け?」
レインは部屋の窓に歩み寄った。飛び降りを防止するためか、目の細かい鉄格子が打ち付けられている。
それを、片手で強引に引き剥がした。
放り捨てた鉄格子がガシャンと床で大音を立てる。
こちらの怪力にアデルが呆然としている間に、その手首を掴む。
「行くぞ」
「行くって……どこに」
そしてレインは翼を広げた。
蝙蝠のごとき禍々しく黒い翼である。
「ぬしの望んでいるところだ」
羽ばたきとともに飛翔。
一瞬で部屋の光景は置きざりとなり、窓から月の浮かぶ夜空に向かって舞い上がる。
「う、わあぁぁああっ!」
案の定、引いた手の先からは悲鳴が上がる。
それを無視してレインは上昇を続ける。月が間近となり、宮殿がちっぽけな豆粒ほどに見えるほどの高度まで。
「ほれ。お望み通り、簡単に死ねる場所にまで連れてきてやったぞ。あんな部屋に見張り付きで軟禁されてちゃ死にたくても死ねんだろうからな。ここなら、妾の手を払いのけるだけで確実に死ねるぞ」
未だアデルは混乱状態にあるようだった。
こちらの翼や眼下の街を錯乱気味に何度も見比べ、口をぱくぱくとさせている。
「ほれどうした? 死にたいというのは口だけか?」
だが、こちらの挑発で彼の眼が見開かれた。
そしてぐっと手が強く握られた次の瞬間、彼は大きく手を振り払って――落下しなかった。
手を離して落下しかけた彼の襟首を掴み、レインが引き止めたからである。
「は。口ばっかりではなかったか。なかなか見上げた小童じゃの」
「なんだよ、離せ。そのために連れてきたんだろ」
「ああそうとも。妾はぬしのような卑屈で小生意気な奴は大嫌いでな。うちの助手みたいに馬鹿ではあっても元気な奴のが百倍好きじゃ」
だが、とレインは続ける。
「妾はぬしの母の気持ちがなんとなく分かるからな。それを想えば、ここで見殺しにするのは気分が悪かっただけじゃ」
「分かるって、何が分かるっていうんだよ。どうせ『恨んでない』とか安っぽいことを……」
「そりゃあ分かるさ。妾も母親の身じゃからな」
アデルはやや驚いたような表情を見せた。
「なんじゃ? 若く見てくれたか? だが、妾はけっこういい歳なのだぞ。眷属もそりゃあたくさんいたものだ。みんな、妾を残していなくなってしまったがな」
「え?」
「親不孝とは思わんさ。眷属らとて、懸命に生きたろうからな。じゃが、子に先立たれてしまうというのは親としてこの上なくキツいことだぞ。妾は今でも胸にぽっかりと穴が空いた気分だ。たぶん一生塞がらぬ大穴だ」
人間は憎むべき仇敵ではある。
しかし、親が子に抱く気持ちは人間であろうと吸血鬼であろうと変わらないだろう。
「もし妾がぬしの母だったら、こう言うだろうよ。妾よりも長生きしてくれて――『ありがとう』とな。恨んでいないどころか、感謝も感謝だ」
「感謝……?」
「ああ、妾は羨ましいよ。こうして立派に子供が生き残ってくれているのだからな。ぬしはよく頑張った。大いに誇っていい」
そこでレインは気付いた。
アデルの瞳に微かな涙が浮かんでいるのを。
「なんじゃ、ぬし。恥ずかしい奴だな。このぐらいでメソメソしおって」」
「う、うるさい! 泣いてなんかいるか!」
からかってやると、反抗するようにアデルは腕で涙をぬぐい始めた。
少しは伝わっただろうか。きっと母親なら、苦難に耐えて息子が生き延びてくれたことを心から感謝するだろうと。
「ああ、ハンカチを貸してやるからさっさと拭え」
レインは右手を白衣のポケットに突っ込む。ハンカチは入っていない。
忘れたか? と思いつつ今度は左手を白衣のポケットへ。こちらにも入っていない。
「んー……? ああそうだった。洗濯したまま忘れていたのだったな。はっはっは」
両手を白衣のポケットに突っ込んだ状態でレインは己の迂闊を笑う。
しかし違和感。
何かもっと重大なことを忘れている気がする。
「うぁぁあああっ――!!」
直後、直下から悲鳴が湧き上がってきた。