想定外の事態
「こりゃあっ! 勝手にお菓子を食べてはいかんとあれほど言うたであろうがっ! 留守中だからといって妾の目を盗めると思ったかっ!」
「ごめんなさぁいっ!」
診療所に戻ってすぐ、レインは予想外の裏切りに遭っていた。
忠実なる下僕と思っていた助手が、留守番をエンジョイして戸棚の糖蜜菓子を盗み食いしていたのである。
「だって先生がこんなに早く帰って来ると思わなかったから……」
「バレなければ何をしてもよいというものではないぞ!」
ぺこりと頭を下げた助手だったが、すぐ興奮気味になって目をキラキラとさせ始める。
「でもやっぱりすごいね先生! 都まで本当にあっという間で行ってきたんだ!」
「え? まあ、そりゃあ妾は名医じゃからなあ。はっは」
「これからもいろいろ教えてくださいね!」
「うむ任せておけ。あ、しっかり歯は磨いておけよ。甘いものを食べたのじゃからな」
「大丈夫です! さっき磨きました!」
どうやら日頃からの言いつけは守っていたようだ。
その律儀さに免じて、今回の不祥事は不問に付してやることとする。
「しかしまあ、派手に散らかしたのう。これは何じゃ? 絵巻物か?」
「うん! もらったお給料で買ったの!」
留守番中の菓子のお伴として密かに運び込んでいたのだろう。休憩室のテーブルの上に散らかっているのは、白黒の絵が刷られた古紙の束巻である。
束を上から順にめくっていけば、絵が一連のストーリー性をもっていることがなんとなく察せられる。
「これはどういう話なんじゃ?」
「うん! 魔法使いさんのお話!」
魔法使い、と聞いてレインはぴくりと耳を動かす。
「魔法使いとな……? そやつらが悪逆非道を尽くすのを、みなで協力して討ち倒す話か?」
「ううん、そんなお話じゃないよ。優しい魔法使いさんが、いろんなところで困ってる人を助けていくお話」
しかめっ面でレインは紙束を捲る。
古紙に版刷りされているためかなり粗いが、おおよその内容は分かる。
黒い外套を着た人物――『魔法使い』が、超常的な力を振るう場面を描いたものだった。
ある絵では、『魔法使い』は岩を浮遊させて大河に橋をかけていた。
次の絵では、『魔法使い』は日照りで荒れ果てた畑に雨雲を呼んでいた。
そんな調子の絵が続く中、レインはある一枚で捲る手を止めた。
「む、これは……?」
「そのお話はね! 魔法使いさんがこわーい熊さんを退治したときの絵なんだって!」
描かれているのは、『魔法使い』が指先から出した光で巨大な熊を撃ち抜いている絵である。仕留められているのは熊のようだが――しかし、
「牙がやたらと大きく描かれているな……」
人食い熊、というのを誇張して表現しているのかもしれない。
だが、これが吸血鬼のシンボルでもある牙の隠喩とも解釈できないだろうか。
彼らが滅ぼした『吸血鬼』たちが、こうして大衆にも理解しやすい『怪物』らしい見た目に仕立て上げられてしまったのでは。そうなるとこの絵は、かわいい眷属たちの最期を娯楽的に描いたものだということに――
この場で紙をすべて破り捨てたい衝動に駆られるが、ぐっとこらえた。
これは助手が自分の給料で頑張って買ったものである。雇い主だからといって、そんな非道は許されない。
「あ! そうだ! わたしが一番好きなお話はね、この紙の……病気で困ってる人たちを助けるお話で」
「いや……すまん。ぬしが魔法使いを好きなのは分かったが、妾はちょっと調子が悪くてな。できれば早めに持って帰ってくれるか」
「そうなの? 先生、大丈夫?」
「少し眠ればよくなるでな。そう心配するでない」
不安そうにこちらの顔を覗き込んでくる助手に、笑って応じてみせる。
この場で『魔法使い』がいかに惨い連中であるか主張したいのは山々だった。だが、あんな絵巻が出回っているということは子供にとって憧れの存在なのだろう。
夢を壊すのは忍びない。
それに、王からの使者も『魔法使い』の存在を好意的に捉えていた。世間的にも高い評価をされている『魔法使い』をあまり悪し様に罵っては、自分の正体が吸血鬼だとバレかねない。
助手を肩車して家まで送り届けてから、レインは一人で夜道をぶらつく。
「見ておれよ。必ず仇は討ってやるからな……」
今日は王子の治療という仕事も経て、医者としての信用を大きく向上させることもできた。この調子でいけばこの国すべてを傀儡にできる日もそう遠くはあるまい。
この偉大なる吸血姫・レインフェリアを敵に回したことを、全人類に後悔させてやる。
――が、それからおよそ10日ばかり経った頃。
「申し訳ありません、魔法使い殿。先日の件なのですが、改めて診てはいただけないでしょうか? どうやら、まだ完全に治っていないようでして……」
王宮からの使者たちは、悩ましい顔で再びレインの元を訪ねてきたのだった。