第八十七話 お姉ちゃん休業日
ガタガタと石畳を鳴らして、四つ車輪の馬車が過ぎ去っていく。
仄かに香る磯の匂いは、南の港街から運ばれて来た魚だろうか。荷台に乗った獣人の冒険者たちが肩を抱えて歌い合いながら街道を過ぎ去っていく。
ふむ、と木製の杯を置く。雨の匂いはしない。冒険には――まぁ、いい日よりだろう。
「お姉ちゃん休業日です」
「お姉ちゃん休業日」
なんか始まった。
「という訳で今日ボクはお姉ちゃんを休業します」
「お姉ちゃんを休業」
パワーワードだ。
休める日があるのか。姉とは、兄とは違うらしい。
「そうだよ? わかるかい? シラノくんが冷たいからボクも考えたんだよ? わかるかい? 今日はお姉ちゃん休業日なんだよ? これがどういうことかわかるかい?」
「……先輩がいつも通りどうしようもない人だということは」
「そうそう、ボクはいつも通りどうしようも――――どうしようもないって何さあ!? どうしようもないもないってどういうことだい!? なんでそんな酷いことを言うんだい!? もっとお姉ちゃんに愛が必要じゃないかな! お姉ちゃん愛を存分に見せ付けるべきじゃないかな!」
「じゃあお姉ちゃん」
「う――……うんっ! うんうんっ! な、何かなっ! ボクに何かな! ど、どうしたのかなシラノくん! お姉ちゃんに何かな!」
「食事中なんで静かにしてください」
「うぇぇぇぇぇぇ……なんでそんな酷いこと言うんだよぉぉぉぉ……」
「……食事中なので、お静かにお願いします」
「お姉ちゃん敬えよぉ…………なんで敬わないんだよぉぉぉ……敬えよぉぉぉぉぉ…………」
机に突っ伏して嘆かれた。お姉ちゃん、休業ではないらしい。
「妹休業日です」
「廃業どうぞ」
「女中休業日です」
「うす、いつもお疲れ様です」
「え、えっと――……ええと、その……」
「いや、無理に付き合わなくてもいいからな」
ボリ、と頭を掻いて杯を傾けた。
これが今日の食事だ。
これから、難行だ。死後に無様を晒さぬよう、昨晩から白湯と塩だけを取るようにしている。
「ほらそれ! それ! それだよシラノくん! それ!」
「…………どれですか? まだ、追加で何か食べるんスか? ……その、注文しますか?」
「違うよ! それだよそれ! シラノくんはボクに対して冷たい! 皆には優しいのにボクだけに対して冷たい! すごくボクに対して冷たいと思うんだよ!」
「私に対しても冷たいです。セレーネ悲しい。戦いたい」
「……」
湯が急に冷めた気がする。ドラカガルドの技術はすごい。白湯もあっという間に冷水になるらしい。猫舌でもなんとも安心である。
吐息を漏らせば、フローは黒の三つ編みを揺らしながらここぞとばかりに人差し指を突き出してきた。
「いいかい? ボクは師匠なんだよ? 先輩なんだよ? お姉ちゃんなんだよ?」
「……休業日では?」
「うぅぅぅぅ――――今だけは開店! 開店だよ! いいね! えっとね、だから、お姉ちゃんは思います! シラノくんはもっとボクに構うべきだと! 『うやまい』とか『そんけー』とか『お姉ちゃん大好き』とかとかとかとかっ、もっと表に出すべきだと思いますっ!」
「いや、無い袖は触れないんで。……それにこれから、冒険者開業日なんで。いや……再開日っスかね、この場合?」
「どっちでもいいよぉぉぉ……。かまえよぉぉぉ……ボクにかまえよぉぉぉ……。かまわないとお姉ちゃん休業しちゃうんだぞ? お姉ちゃんやめちゃうんだぞ? もうお姉ちゃん営業続けないからなぁ……!」
「うす」
「…………いいの、ほんとに休業しちゃうよ? お姉ちゃん休業だよ? お姉ちゃん休業しちゃうんだよ? お姉ちゃんやめちゃうんだよ?」
「うす。……先輩がそうしてえんなら、止められないんで」
是非もない、という話だ。
もとより他人がどうしたいかどうするか、口を挟めるほどシラノは偉くない。
そうしているとフローは顔をしかめて大きく両腕でバツを作り(休業の証だろうか)、そして満面の笑みを向けてきた。……満面の笑み?
「さて、シラノくん。ここにお姉ちゃんを休業した女の子がいます」
「うす」
「お姉ちゃんを休業しちゃった女の子がいるんだよ? 暇そうなボクがいるんだよ? かわいい先輩が――あっ、先輩は休業してないからねっ――いるんだよ? 師匠だよ?」
「……うす」
「何をやるべきか、シラノくんは判るよね?」
「うす。……冒険の準備を整えねえと。仕損じる訳にはいかねえ」
「どうしてそうなるんだい!? 違うんじゃないかなあ!? それは違うんじゃないかなぁ!? お姉ちゃんに優しくすべきなんじゃないかなぁ!? これがお別れになっちゃったらどうするのかなぁ!? 今かまっておくべきじゃないかなぁ!? いっぱい優しくするべきじゃないかなぁ!?」
「いや、これをお別れにしないためにもっスね……」
準備は万全に整えねばなるまい。
とは言っても魔剣とやらは概ね受けたら死ぬと決まっているようなものなので、鎧を着込んで備えることも実際のところあまり意味がない。
せいぜいが腹の中の糞が漏れて腹膜炎や敗血症にならないようにするぐらいだ。あとは仮にできても、唇に紅を引き頬に白粉を塗りいざというときの死に顔を整えるぐらいか。
他にできることは何かないかと思えば――……ちょこんと椅子を降りたフローが、何故だがてこてこと隣まで歩いてきた。
……普段、大体頭一つ分の身長差だ。
そんな彼女が逆に椅子に座るシラノを見下ろしながら、これまた何故だか両手を広げた。
「ほら、お姉ちゃん力を充電してあげるよ!」
「お姉ちゃん力」
「ほらほら、充電してあげるよ!」
「…………………………休業じゃねーんスかね、お姉ちゃん」
「うぇぇぇぇ……なんだよノリ悪いなぁ……。せっかくシラノくんを元気づけてあげようと思ったのに……ボクだって悩んだのに……」
「その……悩む要素が、一体どこに?」
そんなことで悩まれる方が、よほど悩ましいというものである。
相変わらず胡乱である。だからこそ遺して逝けねえと思わせるのは――……それもまたある種の人徳なのだろうか。
吐息を一つ。
空になった杯が、コトンと机と音を立てた。
◇ ◆ ◇
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
風に靡く草原、明けなずむ空に響く猿叫。
触手の横木めがけて振り下ろした野太刀の切っ先が飃と音を立てる。既に、幾合となろうか。
日の登る前から今まで、ひたすらに死力を尽くして振るった。ひたすらに全力を叩き付けた。
爽やかな空気の中こうしていると心が冴えていくようで――――……なんてことはなく、喉と肺活量は鍛えられる。ついでに腹筋もだ。
始めたばかりのときは、実は酸欠になりかけたのだが……今ではもうすっかりと慣れた。これが重ねられた罪人の胴だとて断ち切れるだろう。
(……)
傷が消えた、しかし赤く皮膚の色の変わった右瞼を撫でる。
…………徐々に、片目での距離感も掴めてきた。そのことに、安堵があった。
そして再び蜻蛉をとったその時、背後から声がかけられる。
《雄獅子を伴いし者よ。かくも慈悲なる者よ。定命にして不屈の勇者よ。……どうやら貴殿に客らしい》
「お取り込み中すみませんが、ちょーっといいでしょーかー?」
唸る石壁の巨竜の下、腕を組みつつ足で隣のセレーネを制するメアリであった。
コツコツと、石畳に三人の足音が響く。
茶色の崖めいて高層住宅が左右に連なる大通りであるが、人影はまばらだ。まだ、眠りにつくものが多い。
そんな訳もあって解放されている冒険者宿の中庭でなく、街の外を選んでいた。竜とは、すっかりと世間話を交わす仲になっている。
「……んで、という具合に、まぁ、奴らの所業もボチボチと色々と明かされては居るんで」
「ああ、サウナにアレクサンドさんが居たのはそういう……」
向けられる無感動気味の半眼。頭一つ分は下のメアリが頷いた。
レイパイプという淫魔。その悪行と、地獄めいた人間の飼育場。その調査を任されているのがアレクサンドと聞けば――……驚きもあるが、それよりも納得が強かった。
人間牧場、人工交配、短期間処理――……生後数日で、ヒトの次世代を作るというおぞましい冒涜的な所業。
魔物による人為的な淘汰と性や精神を操る淫魔の権能を重ね、純化した完全なる使い手を作るという悪魔的計画。
その全容は未だに明らかにならぬが、メアリたちはそれでも何か掴んだらしい。うんざりだと言わんばかりの口調のまま、それでも彼女の顔には僅かばかりの確信的な光が見受けられた。
「ええ。とにかく、奴らの狙いは完全には不明でやがりますけどね……かなり大変なことがわかりました。……例の街、人を急に育てるそのためになかなか多くの食料を用意してた――それはいいですね?」
「うす。俺も喰ったんで判ります。身体の元になる食いもんばかりでした。……それがどうかしたんスか?」
「ええ……問題は、その流れを追おうとしてもすぐに調べが付かねーことなんですよ。……剣士さん、意味が判りますか? やべえのはね? こんだけ食料を確保しときながら、巷に微塵も怪しいところがないことなんです」
シラノが眉根を上げれば、メアリは首肯する。
そして、続けた。
「あるなら判るんです。あるってんだったら――……例えば本来別のところに届く筈の食い物を分捕ったり、無理に運ばせたり集めたり……洗脳して無理矢理やってるってんならまだいい。それはね、仮にどんだけ器用にやろうが……不自然な人や物の動きってのは消しきれないんです。どっかに破綻が出る」
「……」
「なのにまるで尻尾が出ねえってことは……怪しくない量で真っ当な取引をしてやがるってことです。不自然に思えねえぐらいの微量を……そんな微量を束ねて“大量にできるぐらい”の基盤があるってことなんですよ。……この意味、判りますよね?」
背筋に氷柱の杭を入れられたようにおぞけが走る。それほどまでに根深く――……そして計画的であるのだ。戦略的と、言い換えてもいい。
敵は持っているのだ。ネットワークを。竜の大地を覆うような大きなネットワークを。
「……そんな奴らが、魔剣を?」
「ええ。ま――……言われてみりゃあそうですね。金で集められるんですよ、魔剣使いも魔剣も。奴らが使えもしない魔剣を集めたいってんなら、理に叶ってる。……流石は人間社会への寄生虫です。まったく社会を体良く使いやがる。……ナメ腐りやがって」
相変わらずの無表情ながら、メアリの声のトーンが下がった。執行騎士として、治安維持者としての怒りだろう。
しかし、シラノには気になっていることがあった。
魔剣を集める――……確かにあのイリスのような使い手をみれば、恐ろしいとしか言えない。だが、そもそも何故己で使わないのか。
どれだけ洗脳を加えようと、まさに隣を歩くセレーネのような者がいる。剣へと純化させて行けば、彼女の如き……天然にして淫魔への大敵となる剣鬼が生まれてもおかしくはなかった。
その疑問を嗅ぎつけたかのように、まさに当のセレーネが口を開いた。
「シラノ様、以前も申しましたが……当然ではありますが、魔剣と魔剣の併用ができぬように……“卑”に属したる者は“貴”たる魔剣を使えませんわ」
「……でも、俺やリアムは? 俺は触手使いで、あいつは死霊術師だ。使えないんじゃ、ないんスか?」
「ええ。そこには二つの理由がありますわ。まず一つ、聞く話によるとその方もシラノ様と同様――“卑”たる者としての素質が薄い。つまり、あまり“外れていない”。そしてもう一つ、魔剣の持つ力が強大でない。……故に卑たる者でも魔剣を握れたのです」
「……ただ、淫魔は」
「ええ、尋常なる手段で死することのない不滅の者など、世の理から外れすぎている。……おそらく使えば、たちどころに消し飛ぶでしょう。『世から外れた外法』と『世を規定する規範』の矛盾に、耐えられませんわ」
脳裏を過ぎったのは、“卑”の先鋒たる魔物――あの街に蔓延る穢小人だ。奴らも魔術仕掛けの武器を使うとき、自己崩壊を起こしていた。
纏めるように、半眼を細めながらメアリが呟いた。
「とにかく……なんで奴らが魔剣を集めるかは、まぁ、こないだそこの女剣士さんがやった通りです。いくら不滅と言っても、不死殺しの魔剣に斬られればそれまで……。使えないにしても、危険は排除したいでしょーし……」
「……自分が使えないだけで、戦力としては使える」
「ええ、そーです。組まれた王兵や軍より……魔術の兵よりも厄介な一騎当千の暴力を我が物にできる。奴らには、実に一石二鳥でやがりますね。……くたばれってんです。国家の羊泥棒が」
悪態をつき終われば、小さな身体のメアリが精一杯に伸びをした。
そして向け直される若草色の瞳に、シラノも然りと頷いた。
最早、これほどまでの敵――――……冒険者などには拘ってはいられない。速やかにその首級を断ち、以って組織を壊滅させるしかない。
が、彼女の口から飛び出した言葉は違った。
「という訳で剣士さんは、冒険者を頑張ってくださいな」
「…………え。いや、いいんスか? その、戦わなくて……」
「ええ、ですから尻尾が掴めねーんですよ。まさか手当たり次第に商売人を襲って、片っ端から首を刎ねる訳にもいかねーでしょう? そんなことしたら、まさにアイツらの思い通りでやがりますから」
「うす。……それに確かに、俺が情報を集めようとしても……メアリさんたちに勝てる訳ねえっスよね」
「ええ。という訳で、こっちのことはこっちに任せてください。……勿論、淫魔と同じ世界から来てるってんであんたさんの発想を聞きたいときもありますけどね。そこは、か弱いか弱いおねーさんを助けてくださいねー?」
送られる流し目へと、然りと頷いた。
膨大な試行錯誤や犠牲の流血を以って定着した概念や教養を歴史から逆引きして使用できる――――それが、シラノや淫魔という転生者が当たり前に得ている基礎能力だった。
獅子丸の鞘を正した。
やはり、油断ならない。その暴は魔剣にこそ及ばずとて、社会を蝕むという意味では一騎当千の害悪であった。
「……ま、あんたさんはあんたさんの人生のために、難行を頑張りましょう。難行を乗り越えたってことは、それだけあんたさんの力が世にも替え難いって知らしめることにもなる」
「ええ、そうですわ。いずれも概ね本来ならば〈銀の竪琴級〉の複数人で行うべき依頼ですので。等級にも難行超えと彫金されれば、多少の素行にも目を瞑られますわ」
「……なるほど。傾奇御免状みたいなもんスね。なるほど……傾奇御免状か……なるほど……」
そう言われてしまえば、男として燃えざるを得ない。男ならばかくも豪放にして闊達、花鳥風月の風流を愛でて生きたいものである。
ところで実際のところ、あの時代の風呂というのはこの竜の大地と同じくサウナ形式が主流であり、流石の天下御免の傾奇者の前田慶次郎利益であろうとも存在しない氷風呂に利家をハメることはできまい。
いくら創作といえども、かの槍の又左がああもいい様にされてしまうのは悲しいものではあるが……まぁ、そんな逸話が生まれてしまうぐらいの男だったのであろう。
傾奇者の前田慶次郎利益。或いは婆娑羅大名の佐々木佐渡判官道誉。
男である以上は、ああも傾いてみたいなぁ……と思ってしまうのは仕方がないのだ。
「聞いてやがります、剣士さん? この分だとあたしだけが王宮に報告に向かうんじゃなくて、あんたさんも謁見していただくかもしれません。そこでまぁ、邪推されないためにもあんたさんの難行達成に公として祝辞という形は望ましいでしょーから……」
「なるほど。……うす、判りました。頑張ります」
「ええ。……淫魔なんてつまらないことじゃなく、あんたさんの人生のためにも頑張ってくださいね。ヒトの生は短くて早くても長いんです。国家の大切な大切な羊さんのあんたさんは、あんたさんだけの大切な人生を生きるんですよ? おねーさんもそれを願ってますから」
「……うす」
無感情ながらもどこか慈愛を込めた眼差しに、小さく頷き返した。
とはいえシラノは触手剣豪だ。ならば、世に仇なす淫魔を討たねばならぬのだ。それがこの身に負うた使命であろう。
……いや、一つ。
まるで関係ないのだが、先程から疑問があった。
「ところでなんでその……微妙に距離を? ……やっぱり、その、汗臭いっスか?」
「いや…………とやかく言うはずのあたしが色々と自分本位で教育に悪いことしちまってたんで…………まぁ…………。いやまあ…………ええ、まぁ…………その、襲われたらごめんなさいね」
「…………? ……うす。なんかは判らねえっスけど、白神一刀流に敗北の二字はないです。俺は触手剣豪です」
「……………………うん、いっそ負けちまってくれたら大団円なんですけどね。いや、どんな顔をしたらいいか判らなくなりやがるんであたしも困るんですが。いや、うん」
「……? うす……なんか判らないっスけど、気を付けます」
その後宿に戻れば部屋を間違えたのであろう、エルマリカがシーツに包まれてシラノのベッドでヨダレを垂らして寝ていたが……まあ特筆すべきことではないだろう。
それを尻目に上裸で懸垂をしていたら目覚めた彼女に奇声と共に顔を真っ赤にされて逃げられた。
……またクソセクハラロリコンクズ手汗クソ騎士クソ野郎と思われたかもしれないと思うと、少し心が重くなったのは正直な気持ちだ。
◇ ◆ ◇
(難行……淫魔……それに、魔剣狩りの“黒死風”か……)
今朝がたの会話と、サウナの折にリウドルフから――結局暗殺者はヤツ狙いだった――齎された不穏な情報。
いずれも困難。平坦な道などないと、察せられる。
「そこでおれは窟人族の山賊に言ってやったのさ! おれを倒したければ、魔剣の十や二十を持ってこい――ってな!」
「はは、ふかしやがる! そういえば聞いたか? 千年古龍が蘇って、しかも――――討伐されたって話をよぉ!」
「千年古龍だと? 超級の冒険者か? それともエセルリック殿下の〈雷桜の輝剣〉か? ただの冒険者の仕事じゃないぜ……あんな図抜けた街一つ分の巨竜を倒すなんて」
「さあな、とにかく爆発四散して肉片だけが降ってきたって……いいよなぁ、おれもそんな大手柄を上げてみたいぜ! これから魔物退治だけどよぉ!」
賑やかな冒険者宿の面々は、彼らもまたシラノと同じくこれから死出の旅だろうか。
とてもそんな風に笑い合う境地には至れず、さりとて幾度の激戦の成果か。心は多少、平常を保てている。
そういう意味では、一端の剣士にはなれたのか。
かつてのエルマリカとの邂逅のような事態になっても、冷静に投石で叩きのめしてから釣り出して各個撃破できるだろう。
分かりづらいが確実に堅実に、きっと成長はしているのだ。
「お姉ちゃん営業再開します!」
「営業再開」
「ふふっ――うん、というわけでシラノくん頑張ってね! 必ず帰ってくるんだよ? お姉ちゃんは信じてるからね!」
花が綻ぶようなフローの笑み。
五月ではないがまさに皐月晴れだと――酒場の外の眩い天気を透かすように横目で眺め、シラノはマフラーを引き上げた。
「ええと、その……昨日も約束はまァ――したんで。……なるべく頑張ります」
「うん、『ゆびきりげんまん』だったよね! ちゃんと約束したからね! ふふん、ちゃんと帰ってくるんだよ? お姉ちゃん置いてっちゃ駄目だからね?」
「うす。……善処します。いえ――……白神一刀流に敗北の二字はないです。戻ってきます」
「うん! 約束したもんね! ちゃんと信じてるよ!」
ニコニコと音が出そうなほど笑みを浮かべたフローへ頷き、さてと腰を上げる。
今回は事情により、アンセラも同行する。あまり彼女を待たせすぎるのも良くない。
「シラノ様、では――御武運を。留守居は任されましたので、後顧の憂いなく存分に戦場へ」
「応。……先輩のこと、頼んだ。頼りにしてる」
「剣士さん、んじゃーおみやげ話を待ってやがりますんで。……あ、例の件は調べ勧めときますからね」
「うす。……お願いします」
「し、シラノさん……ええと、その、頑張ってくださいな……。怪我なんて、絶対だめよ……? 絶対に、シラノさんがこれ以上傷付いちゃうなんて……駄目、なんだから……。ええ、本当に駄目よ……そんなの、許せないわ……」
「ああ。……その、心配かけて悪いな」
この世界に来て色々とあったし、これからも色々とあるな――とは思うが、同時にシラノは考える。
怜悧に冴えた銀髪と、月の女神めいた美貌の眼帯剣士――天下御免の魔剣使い。
若草色の無表情な半眼と、白い前掛けの上で踊る朝焼けのような鮮やかな橙色の髪――冷徹無比の執行騎士。
金細工のような膨らむ金髪と、天上の青の如き碧眼――――天地創世の魔剣使い。
改めて一同を見回していれば、気付けば僅かに黙していた。
「うん? どうしたの、シラノくん?」
「いや、俺は幸せ者だと思って。……仲間に……出会う人に恵まれたな、って」
「…………し、シラノくんが壊れた」
「……………………………………………………このぽんこつ師匠」
「うぇぇぇぇぇぇぇぇ!? なんでボクだけそんな扱いなのさ!? なんで!? いくらなんでも酷くないかい!? ボクのことそんなに嫌いなのかい!?」
感情を全面に表して黒髪を振り乱してぴょんこぴょんこと騒がれると、色々と頭が痛くなってくる。
出会ったときから変わらず未だにどことなく少しばかり残念な人だが――……自分が旅に出るきっかけとなった恩人で、戦える力をくれた師匠だ。
彼女の期待に見事応えるためにも、やはりこの剣を頼りに高みを目指さねばならないだろう。
「いえ。じゃあ……行ってきます」
晴れやかな気持ちで一歩を踏み出す。
ここが死地――いつだって目指す場所は、逃れもできない死地である。
だが、進むと決めたならば進まねばならない。
自分は触手剣豪だ。白神一刀流に、敗北の二字はないのだ。
(……あァ)
目を細めて、入り口で手を振るアンセラの元を目指す。
覚悟は定まった。動じることはない。後にも先にも、己は剣と共にあるだけだ。
なお、
「ところであれ、嘘ついたら指を切るとか……げんこつで一万回叩くとか……針を千本飲ませるとか……シラノくんの故郷ってやっぱり野蛮だよねぇ……」
「ふむ。やはり生粋の戦士の土壌なのでしょうか。……ええ、なんとももう少し話を聞きたいものですわ」
「わたしも、シラノさんが昔どうしていたか聞きたいわ……。でも、きっと昔から凄く約束を大事にされてたんだわ……ふふ、ええ、そうよね……」
「…………いやー、それにしたって過激すぎると思いますけどね。なんででしょーね? どんな由来なんでしょーね、これ」
あまりの小っ恥ずかしさで壁に頭を打ち付けたくなったのは、何とか耐えた。
……いやあんな由来のものをすっかりと一般的な約束の風習にした時の流れが悪いし、とにかくそんなものが約束ごとの風習として広まってるのが悪いのだ。他意はないのに。
ここが現代でなくてよかった。目の前で由来を検索されていたら、あまりの恥ずかしさに腹を掻っ捌いていただろう。
「…………あんたどうしたの? 風邪引いた? ……うつさないでよね。お肉美味しくなくなるから」
「あァ、まぁ……」
とにかく――――冒険である。
◇ ◆ ◇
影が動く。影が、動く。
立ち込める深紫の濃霧に響くは死の咆哮。切り立つ岩を削り作った住居で、影なる黒犬が吠える。
満ちしは死。
蔓延るも死。
住まう影がことごとく死に絶え、朽ち萎びた岩場の廃村とて未だ蠢くは死の猟犬。
純黒の体毛。あかあかと灯るおびただしい複眼。
輪郭が歪む。その身体の内から無数に湧きいでしは泡。怨念が、穢れが作る不浄の泡。
死犬たちは喰らい合う。恐れを、嘆きを、踏み入れし人の業を――――。
竜の雲が立ち込める……否、雲の竜が立ち込めし黒峰を進みし先の岩間の廃村。
その名は、ガルドヴァレイ。
かつてドラカガルドに君臨せし魔剣の王の、所縁の地である。




