第八十六話 サウナ・ニンジャ・サウナ その三
◆「サウナ・ニンジャ・サウナ」その三◆
「………………暑ィ」
誰が、そう、漏らしたのだろう。
さらに、もう、何分経っただろう。
俯こうとすれば纏わりつく湯気が煩わしい。熱病に魘されるように頭を振れば、他の皆もまた膝に肘をついて思案顔でいる。
鼻息すらも熱い。
体内の水分の何パーセントが失われれば人は死ぬのか。転生した直後は気になっていたが、調べる方法がないため忘れていた疑問が鎌首を擡げてくる。
唸った。
死ぬのか、こんな場所で。また脱水症状が原因で。
天地創世の魔剣を斬ろうとも、サウナに殺されるのか。サウナで死ぬのか。こんな半ばで。
なんだか泣きたくなってきた。意地も誇りもない死に様。くだらなすぎる。なんの報いなのだ。神様とやらが実在するなら、相当に意地が悪い。
(…………)
なんとかこの窮地を脱そうと眉間に皺を寄せるも、何も浮かばない。熱のせいで全く思考が纏まろうとしなかった。
「なぁ、狼のお兄さん……ところであんた、随分と傷が増えたんじゃないか? 妬いちまうね、おれ以外があんたを斬り刻んだと思うと……。だが……いいねぇ、ますます強くなってるってことだろう?」
「よしてくれ……」
「……ふむ。シラノ殿は天地創世の魔剣を斬ったのだ。強さなど、言うまでもなく当然だろう」
憮然とアレクサンドが言い放てば、死んだように俯いていた二人が跳ねた。
「……て、天地創世!? えっ……いや、えっ……いやえっ!? シラノさん!? 天地創世の魔剣を!? ええっ!? いやええっ!? ええっ!? どの剣を!? えっ!? というか出会うことあるんですか!? えっ!? 伝説の!?」
「なんと……そこまでの益荒男とは……たまげたな……。なんたることだ……凄まじいな……というか実質二人もの伝説の剣の使い手に……いや、うむ。いや、その、いや……大した男だ」
「………………アレクサンドさん?」
それオフレコじゃねーのか、と目線をやればアレクサンドはおもむろに隣の男を指差した。
「いや、その……………………その、この男が口にするのが悪い」
「いやあ、おれは天地創世とは一言も言ってねえんだよなあ……一言も言ってねえんだよなあ」
「……………………むぅ。むぅ…………なんたる迂闊か。すまない……」
髪を掻き上げ、アレクサンドが呻いた。どうやら彼も相当にサウナが堪えているらしい。
ぴちょんと、水滴が落ちる。
いい加減汗すら出なくなってきた加減の中、重々しく口を開いたのはバルドゥルである。
「それで、どうしましょうか……正直このままここに居たら、かなり苦しい死に方になると思いますけど」
「……っスね。脱水はまずい。本当にまずい」
「ははっ……水ならそこにあるじゃねえか。最悪、生き残ることはできるぜ? 恵みの水だなあ……」
「いえできませんよ。内臓の温度下がりませんから。苦しんで死にます」
「……そもそも飲みたくねえ。お前が飲め。溺れ死ね。今死ね。顔突っ込んで死ね。腹ァ切れ」
誰が突っ込んだか判らねえ足湯のお湯を飲む。自殺志願者にしても、もう少し意地も名誉もあるだろう。
沈黙が満ちる。
……また、数分経った。
本当に数分なのか。十数分、或いはもっとそれ以上に耐えている気がする。
あまり肌の色の変わらぬグントラムが、ゆっくりと首を傾げた。
「思ったのだが……その、力づくで砂時計を裏返してしまっては……ならぬのか……?」
「それだ……!」
「ふむ、貴殿の言う通り……なんとも単純な方法があったとは……。これは盲点だった……何故気付かなかったのだ、俺は」
「落ち着いてください二人とも。落ち着いてくださいシラノさん。落ち着いてくださいアレクサンドさん。落ち着いてください二人とも。拳を鳴らさないでください。落ち着いてください」
やおら腰を上げれば、バルドゥルの追求は終わる。
彼も立ち上がる気力がないのか。それともシラノが音も聞こえなくなったのかは判らぬ。だが、妙案に思えた。
アレクサンドと目配せをする。気持ちは一つだった。
赤き右手に力を込め――……
『あっ……』
ちょっといい音がした。嫌な音と言ってもまあ、いいかもしれない。
むしろ大体嫌な音だ。ほぼ嫌な音。嫌な音そのもの。極めて嫌な音と呼べる。
バルドゥルから呆れたような半眼を向けられながら、すごすごと座った。耐えるしかなさそうだった。
◇ ◆ ◇
ちゃぽん、と湯の音が響く。
「いや、あたしも……その、興味はあるのよ? きょ、興味はあるんだけどこう……なんかこう、言うわりに大した男がいなくてその……腰抜かして逃げるやつとかもいるし……」
いじいじと、均衡の取れた胸部の前で指が突き合わされる。
体温が僅かに高いアンセラの肌はほんのりと赤く、顔はそれ以上に何とも言えない朱気を帯びていた。
「うぅぅ……あたしだってその、興味はあるし……その、素敵な恋をしたいなって思うし……も、物語的なのとかは望まないから……お互いに想い合っていけたらいいなって……。無駄口叩かないでやることやって人にも優しくてとにかく根性ある男とか、どっかにいないかなぁ……」
「……ふむ。人を斬るのがどんな食事よりも好きで、と付いても良いのなら多少は心当たりが」
「却下。論外。……………………なんでいないのよぉ〜〜〜〜〜! 冒険者になればモテるって聞いたのにぃ……お肉食べ放題でしかもモテるって聞いたのにぃ…………なんで怖がられなきゃいけないのよぉぉぉ……」
「ええと、あのーそのー……何をやったんだい、アンセラさんは?」
フローは助け舟を出した。
正直なところ、気風がよく外見も麗しいアンセラが恋に不自由するのは予想外だ。
長い睫毛と、不敵な意思を瞳に灯す大きく鋭い赤い目。背筋を伸ばし、ハキハキと喋る自立した態度。年下ながらも常に凛としたその表情は、同性ながら憧れてしまうものであった。
「いや………………なんか初めて冒険者登録した街に権力にものを言わせて女の子集めてる奴がいて……コナかけられたから、その、ものすごく腹が立ってそいつの前で生肉喰い千切って服を焼き払ってやったら神殿に逃げ込まれて……それを追いかけて首根っこ掴んで街の中引きずって聖火台に叩き込んで……」
「うぇぇぇぇ…………うぇぇぇぇ…………」
「……なんとも凄まじい話ですね。もう少し、貞淑に振る舞われた方が良いのでは?」
「あんたに言われたくないのよねぇ……この地上であんただけには言われたくないのよねぇ……。……ね、フローさん大丈夫? なんか斬りかかられたりしてない? この女本当に危ないのよ?」
思いっきり眉を顰めてセレーネを指差すアンセラを前に顔を見合わせ、
「んー、そんなことないよねー? ねぇセレーネさん? セレーネさんボクに優しいもんねー?」
「ええ、そうですわ。まさか私がフロー様に斬りかかることなど、あり得もしないでしょう? 嫌ですわ、そんな危険人物のように語られるなど……」
「うわ納得いかない。すごく納得いかない」
女湯は和気藹々と過ごしている。平和である。
とても平和である。
◇ ◆ ◇
火竜の原理を知っているだろうか。
竜の大半は、洞窟や墓所などの地下に住まう。ダンジョンの奥などで財宝を蓄え、それを求めて来た冒険者を喰らう。
果たして、その量で食事が足りるのか。いや、そもそも、純然たる生物が炎などを本当に吹くのか。
いいや、吹くのだ。竜は、火を、吹くのだ。
ダンジョンの奥には、世に満ちる“貴”の気が鉱物化した結晶が満ちる。結晶が満ち、彼らはそこに住まう。
この“貴”の気や或いは魔力とは、この世の規範だ――――いや、あらゆる規範ある世のものの大元だ。すなわちその力は無形にして万能であり、これに指向性を与えることこそが、魔術なのだ。
万物が分子から成り立ち、分子が原子から成り立ち、原子は中性子・陽子・電子から成り立ち、それらはクォークから成り立つ。
そんな分化の進む前の透明にして純粋な力こそ、“貴”の気であるのだ。
故に、地下深くで結晶をその身に蓄えた竜は、僅かな食物で生きることも可能であり、翼には上向きの“加重”を与えることで巨体にして空を舞う。
しかし――――魔剣のように神が宿らぬ故に、天地創世からこの世を支えたもう力ではないゆえに、魔剣には及ばないのだ。
(……)
……なんてことだったらいいな、などと思いながらシラノは足湯を見る。
我ながらだいぶ足も日に焼けてきたなあ、と他人事のように思った。それ以上に皮膚は赤くなって張っている。このように湯につけなければ、罅割れるだろうと錯覚するほどだ。
水面に、縦に走る海賊傷で片目が塞がった自分の顔が反射する。
……まだ飲んではいない。人としての尊厳は捨ててはいない。大丈夫だ。正気だ。大丈夫だ。
「流石に……そろそろ、僕たち……本当にまずいです……ね……」
「うす」
「このまま続くと……本当にじわじわと、僕らは殺さねかねない……」
「うす」
「…………。……そういえば、あの街の子たちのうち……イリスさんとイネスさんを引き取ることになりまして」
「うす」
「イリスさんは将来シラノさんと結婚したいって、言ってましたよ? 待ってて欲しいって……」
「うす」
「……………………駄目だ。これはまずいですね」
額を抑えたバルドゥルは銀髪を揺らして辺りを見回した。
アレクサンドは完全に虚ろな目でいる。リウドルフは涼しい顔をしているが、起きているのか寝ているのか判らない。
かく言うバルドゥルももう身体から汗が止まり、目眩や虚脱感が襲いかかってきていた。
だが、彼は己を奮い立たせた。まともなのは、苦痛に強いのは今や自分しかいない――……そんな武術家としての自負である。
「うぅむ……」
一方心なしか赤鬼めいて赤ら顔になったグントラムが、呻くように天井を仰いでから漏らした。
「思ったのだが……バルドゥルよ。淫紋で感度を引き上げれば、内に居ながら外の術式を探れるのではないか?」
「そ……それだ! それですよ! それだ!」
「なるほど……流石グントラムさんっスね。頼りになる……!」
「そうか? ふ、ふ……そう褒められると悪い気分ではないが……」
禿頭を撫でるグントラムと、深く息を吸うバルドゥル。
朦朧とするシラノも思わず拳を握った。ついに、終止符が打たれるのだ。この限りなく馬鹿馬鹿しい死地に。
そして、固唾を飲んで見守る――……眼前でバルドゥルが息を吸う、吸う、吸う、吸う、吸う、吸う――――――いや吸い過ぎでは? 風船か?
「た、大変です……シラノさん、グントラムさん……!」
「ど、どうしたのだ!?」
「まさかそんなに厄介な術式なんスか!?」
「い、今ここで感度を三千倍にしたら…………」
「したら?」
「暑さで……死んでしまいます……」
「なん……だと……!?」
「く、なんと冷静で的確な恐ろしい罠なのだ……! その可能性に思い至らなかった我を許せ……!」
全員で床に膝をついた。駄目だった。
おお、仏陀よ寝ているのか。天照大御神は既に閉じこもられた。神は言った、ニーチェは死んだと………いや逆だ。
とにかく起死回生の策はなくなってしまったのだ。何たることか。
思わずシラノも地面を叩こうとすれば、肩をつつかれた。アレクサンドだった。
「大変だシラノ殿」
「どうしたんスか?」
「……実行したら、淫紋を刻んだ少年をサウナのような薄暗い密室で男四人で取り囲んでしまうことになる。それも既婚者の少年だ。大変なことだ」
「……………………クソ、酸素が足りてないせいでアレクサンドさんまで」
「なんと、酸素が足りてないせいで私まで? ……許せぬな、淫魔」
「あァ許せねえぞ淫魔。斬るしかねえ」
脱水症状なんて人のトラウマを抉るなどやはり許せぬ天下の大敵である。万民の害である。族滅である。
というか、本当に、不味い。
「……なんか、言い遺すこととか今の内にねえっスか」
「不吉なことを言わないでください……僕には帰る場所があるんです……」
「ふむ。我が雷神に誓って如何なるときとて悔いはないが……そうであるな。敢えて言うなら、是非ともシラノと戦場で肩を並べてみたかったのが心残りか」
「かしわもち」
「……………………おい誰スか今の。マジでやべーぞ誰だ」
状況は、まな板の上の鯉ならぬ熱湯のカエルか。
一同が死屍累々に項垂れる中、リウドルフだけは普段通りのニヤつく顔で頬を吊り上げた。
「…………はは、全く面白いねぇ、狼のお兄さん。おれとあんたの結末がこれなんて……こいつぁ予想できないねぇ。ああ、向こうについたらやり合うしかないなぁ」
「……何が面白えんだ。お前、その……左腕とやらの力を使う気はないのか?」
「いいや? こいつぁ、お兄さんをぶった斬るときのとっておきさ。……この力にここで頼ってお兄さんを斬れねえなら、生きてても死んでても同じだろう?」
一人だけ涼しい顔しやがって。
生きてても死んでても同じというならやはりここで斬るべきでは? 口撃でフローを照準にしたばかりか、あまつさえフローに剣を向けたのだ。やはり死ぬべきでは? 腹を切るべきでは? そんな非礼には腹を切って詫びるべきでは? すぐにでも打ち首にすべきでは?
「まだ……あなたは、そんなことを…………。このままだと、本当に焼け死んでしまうというのに……!」
隣でバルドゥルの弱々しい批難が飛ぶ中、粛々と鋭い刃の野太刀を用意するシラノは、
(…………!)
顎先から水滴をしたたらせつつ、思わずその手を止めた。
焼け死ぬ――――……そうだ。その手があった。
濡れた裸が致死に繋がると言うならば……。
難行を切り抜けた、その手があった。
◇ ◆ ◇
ちゃぽん、と湯の音が響く。
「ふふ、ねえ、メアリさん……愉しい、でしょう? シラノさん……どんな顔をするのかしら……しているのかしら……? ふふ、あはは……ええ、とってもとっても愉しそう……わたしもしてみたいなぁ……あははっ、うふふふふっ」
「あ、あのお姫ぃ様……ご、ごめんなさい……」
「ふふ、嫌だわメアリさん……わたし、怒ってなんていないのよ? ふふふ、ええ、本当……ただ気になるの……そういうときのシラノさん、どんな顔をするんだろう――って。考えるだけで、胸の奥と……お腹の奥がきゅってしちゃうわ……ふふふ」
「あ、あの……その……ひゃっ、や、やめてくださいお姫ぃ様」
つぅ、と。湯の中で、滑らかなメアリの腹を白魚のような指先が撫でた。
思わず背筋を強張らせた。
今は浮かばずに隠されている、同じ氏族へ害を及ぼすそのときに内臓が腐り落ちるよう施された呪印のせいではない。刺激に敏感だから、というものだけでもない。
細められたエルマリカの碧眼。妖艶な流し目。
人形めいた端正さである砂糖菓子の少女の美貌に、男を惑わせる毒婦のような妖しい色気が入り交じる。
「ああ、でも――……そうやって怯えてしまうメアリさんも、とってもかわいいわ……。ええ、本当に……かわいくて、かわいくて、ついつい頭から食べてしまうかもしれない……。ふふ、あはは、ええ……そうね、メアリさんもいけない人なんですもの……」
「あっ剣士さん」
「ひゃっ、だ、だめよっシラノさん!? わたしたちまだ結ばれてもいないし二人で馬に乗ってもないしお花の冠もお花の指輪も作っていただいていないし、いえシラノさんが望むならわたしはいつでも受け入れるけどだけどやっぱり段階が必要いえいいえでも今すぐでもわたしは貴方を受け入れ――……あれ?」
「……………………じょ、冗談でしたーとか。ほ、ほら。笑顔笑顔。ね、お姫ぃ様……ね?」
「ふふふふふ、あははははははは、ふふふふふ…………メアリさんって……本当にズルい人ね……いけない人だわ……! ふふふふふふ、あはははははっ、あはははははははははっ!」
「………………………………………………………………やべーたすけて」
女湯は和気藹々と過ごしている。平和である。
平和である。
平和である。
◇ ◆ ◇
サウナの中に金属鎧で入ったら流石に死ぬ。
だが、浴場ならば死ぬことはない。そしてあまりにもその場にそぐわぬものを見付けた人間は、各々のうちで理屈をつけて忘れていく。
木を隠すなら森ではなく、むしろ道化師満ちる街の広場なのだ。生えていることに気付いたとしても、誰も深くは考えない。
これぞまさに百戦錬磨の伏撃猟兵のアンブッシュであった。
……しかし、だ。
それはそれとして暑い。
鎧の中には熱が籠もり、常に棒を振っているこの状態では汗すら拭えない。いや、拭った瞬間に露見するのでどのみち拭える訳がない。
だが、この場を離れる訳にはいかなかった。
そして一息に殺す訳にもいかない。これは伏撃猟兵を知る者には『見せしめだ』と判らせる必要があり、そしてそれ以外には不慮の事故だと思わせねばならない。
故に、サウナ中の事故死なのである。
(ぐ……我にもう少し魔術の素質があれば……)
そうすれば今頃鎧の中を快適な空間と相似にさせていただろう。しかし、サウナに刻印を刻むのが精々だった。
そも、魔術的な素質があるなら伏撃猟兵にはなっていない。早々に足抜けである。
……だが、それにしても暑い。
サウナの中はその苦しみの数倍を味わっていると思えば腹から笑いが出てこようというものだが――……いや、やはり暑いのだ。
そう思っていれば、後ろから兜を叩かれた。
何かと考えるより先に、紫色の杯が突き出された。
「ほら、お水」
「む、かたじけない。この御恩は……………………ん?」
振り向けば、そこに佇むは星が埋め尽くす満天の夜空の如く光沢を持つ深紫色の装甲。
極限まで無駄を削ぎ落とした流線型の戦闘体。
鬼火じみて赤き光を漏らす右目と、そして何より――二本の角を突き出した鬼めいた面頬。
恐るべき鬼神を思わせるそれは、
「どーも、触手剣豪です。…………それがお前の末期の水となる。覚悟はできたか?」
「ぜ、全身鎧!? 全身鎧だと!? なんで!?」
「手前ぇがそれを言うな。……イアーッ!」
触手で四肢を拘束するなり、ギルディエリナヌスをサウナめがけて勢い良く投げ込んだ。
受ける彼が知っておればまさしくカーリングめいてと称しただろう。ギルディエリナヌスは氷の上で蹴り飛ばされた亀の如く大理石を滑る。
そして、ああ、何たることか。
足湯の手前でやっと止まった鎧の鈍亀ことギルディエリナヌスは気付いた。
「……!?」
いないのだ。
標的を閉じ込めた筈のそのサウナの石室の中には、標的どころか人影一つすらない。
……いや、違う。
宙に浮くが如く四方八方を触手の柱に支えられたおぞましき六面体――極紫色のその立方体の四辺が開き、現れたのはぎゅうぎゅう詰めの汗だくの筋肉――――いや、怒れる顔のむくつけき武人たちである。
「貴殿が暗殺者か。……なるほど、よほど人に見せられぬ顔なのだろう。薄汚い暗殺者らしいと言える」
「ずっと会いたかったぜ? 当然、おれたちと同じ分だけサウナに入って貰わねえと釣り合わないよなあ?」
「ええ……とは言っても、逃げ出してしまうかもしれませんね……ええ、もう扉は開いているのですから」
「うむ、ほら……ならばそこに丁度良く重しがあるのではないか? 多少熱されているが、何、文句などあるまい」
おもむろに指さされたのは、備え付けられた焼石――それも魔術により火力の細工をした焼石である。
「ひぃぃぃぃぇぇぇ!?」
あまりにも精神耐性を直葬する狂気的な光景かつ神をも恐れぬ残虐非道極まりない暴力的な会話を前に震え上がったギルディエリナヌスを、更に絶望へと追いやる音が密室に響く。
パタン、と。
扉が閉まった。
濡れた人体相手にしか殺傷能力を持てぬ電気流れる扉が、閉まった。
そして、やおら仁王立ちするその鎧の周囲に溢れ出したのは、
「いあ」
あまりにも冒涜的な悪魔の蔦――――触手であった。
幾本も幾本も空間から湧き出たそれら蔓状の物体は互いに触れ合い、擦れ合い、絡み合いながらもその身を波打たせている。
狂気が侵食する。正気が侵害される。
耳障りな這い動く音が響く。それは異質な礼賛であり、それは奇怪な讃美であり、それはあまりに醜悪な饗宴だった。
ああ! ああ! なんたる事だろう! なんと冒涜的なのだろう! それは紛れもなく恐るべき饗応への祝福であり、悍ましき魂の憤怒であった!
「ひぃぃぃえぇぇ……」
ギルディエリナヌスにまだ理性が一欠片でも残っていたなら、『触手なんで!?』と叫んだかもしれない。
しかし、浴場や裸体という肌色蔓延る空間で触手に出逢う人間が果たして正気でいられるだろうか?
まさに急性触手現実浸食症状。
過呼吸気味に首を振る彼の前で、四人の男が仁王立ちで揃い踏みを果たした。
「……ついでに、色々と狙った相手と雇われ先を吐かせた方がいいと思うんスよ俺ァ。今日だけは俺が新撰組だ……! 俺が鬼の副長だ……!」
「ふむ。……シンセングミとやらが何かは判らんが、前後関係を洗うのには私も賛成だ。ここは風呂だ。互いに胸襟を開いて、どこまでも正直に話し合おう。……ああ、どこまでも正直にな」
「ああ、大丈夫です。利子として感度を二十倍くらいにしておきますね。大丈夫、狂って死ぬことはありませんから。……死なせませんから」
「ふむ。……あいにくとシラノやバルドゥルのような器用なことはできんが、骨を折り砕くのは私も得手でな」
「ひぃぃぃえぇぇぇ……」
あまりにも情けない声を鳴らす伏撃猟兵と怒れる四人を尻目にリウドルフは、
「んじゃ、ごゆっくり」
術者の精神破綻で瓦解した電撃罠ごと一足先にサウナから脱して、ひらひらと後ろ手を振った。
直後――歓楽地たるサウナに、ブザマな悲鳴が響き渡った。
◇ ◆ ◇
観光客へと話しかける竜の像を眺められる待ち合わせ場所。
夕方の風に目を細めれば、その先で黒い三つ編みがブンブンと左右に揺れる。
コートに包まれた小柄がパタパタと駆け寄ってきて、止まった。
そしてなんのつもりか。おもむろに彼女自身を幾度とその手で仰ぎ、そしてドヤっとした笑顔を向けるではないか。
「シラノくんシラノくん! どうだい、いい匂いがしないかい? すごくいい匂いがすると思わないかい? これはねぇ、なんと特性の花の蜜を使った石鹸があってね? どうかなどうかな? お姉ちゃんがもっと魅力的になったと思わないかい? 魅力的なお姉ちゃんだと思わないかい? かわいいと思わないかい?」
「そっすね。いつも魅力的だと思います。先輩はかわいいです」
死ぬほど疲れた顔で言えば、黒髪の彼女は――……フロランスは、死の女神が持つ宝珠めいた紫色の目を、覗き込めばいつまでも吸い込まれそうな美しい瞳をいっぱいに見開いた。
「……………………………………………………どうしたのシラノくん、どこか悪いの? だ、大丈夫? 何か変なもの食べたの? 大丈夫? ……な、何かあったの?」
「…………いえ。先輩はいつもスカポンタンだなと思いました。スカポンタン女」
「うぇぇぇぇぇぇ――――!? な、なんで!? なんでボクがダメ出しされるの!? なんで!? なんでそんなに冷たい目で見るの!? なんで!? なんでそんなひっくり返って起きられないカナブンを見る目をするのさぁぁぁぁ!?」
「そのままコケててください。ずっと」
「うぇぇぇぇぇぇ……なんでそんな冷たいこと言うのさぁぁぁ……なんでだよぉぉぉ……なんでボクにだけシラノくんは冷たいのさぁぁぁぁ……お姉ちゃん褒めろよぉぉぉ……かわいいって言えよぉぉぉぉ……」
今日だけは何もフォローする気が起きない。
オロロンゲボーロ、オロロンゲボーロとグランギョルヌールが夕焼けの空に飛び去っていく。
「あァ……」
実にハードな一日だった。
もう当分サウナには入りたくない。死地は控えよう、と心から思った。
勝敗を分けたのは、サウナに入る前に差し出された牛乳。あれがなければ死んでいた。
水分補給。
前世も現世も、それを欠かしたら命はないのだ。大変な教訓である。
◆「サウナ・ニンジャ・サウナ」その三 終わり◆




