第八十五話 サウナ・ニンジャ・サウナ その二
◆「サウナ・ニンジャ・サウナ」その二◆
「手前ぇは――」
触手の柄を握り、立ち上がろうとする――――それよりも早く、黒鉄の如きアレクサンドのその手がリウドルフの首にかかった。
縄めいた筋肉が前腕に浮かび、血管が浮き上がる。巨木の枝の如く斜めに突き出された右腕。
ネックハンギング。
成人一人分の体重を片腕一つで支えながら、アレクサンドが睨みつけた。
「……貴殿、あの夜の魔剣使いか。よくぞのうのうと顔を出せたものだ。……よほど、首を折られたいと見える」
「か……はは、やめて……くれないかねえ。暴力ってのは良くないんだぜ? ぐ……なあ、狼のお兄さんからも言ってくれよ……おれは無手なんだ。それとも、こんな場所で暴れるのか……?」
「貴殿が無辜の民の流血を厭わぬというなら、その血で贖うのだな。この場、この時に」
逞しく骨太なその身体の如く、まさに鋼めいた漆黒の殺意。
しかし首を掴み上げられるその最中も、リウドルフはニヤついた笑みを消そうとはしない。ただ、流し目をシラノに向けている。
「お前は……」
「は、は……お前、なんて言うなよ。おれとアンタの仲だろう? なあ、狼の兄さん……アンタはここで無抵抗の男が殺されても、見逃す……ってのかい?」
「アレクサンドさんは、無法者じゃねえ。……ただ一つ答えろ。あの日、お前は淫魔に洗脳されてたのか?」
リウドルフがあまりにも危険な剣客であるのは、シラノとて十二分に承知している。だがあの夜、あの再会……様子がおかしいのも確かであった。
交わす視線に、リウドルフが宙空を見上げる。濃厚な湯気を見詰め、口を開いた。
「淫魔、淫魔……さて、どうだったろうねぇ。夢見心地だったのは確かさ。お兄さんとの戦いも、この狂った猟犬みたいな旦那も覚えてるよ。おれは、いい男を忘れねえのさ。……これで満足かい?」
「貴殿こそ、満足か。……それが末期の言葉となる」
「いいや? ――ならねえさ」
なにを、と応じる暇もない。吊り上げられたその姿勢から、手首目掛けてタオルを巻き付けるそのままに――アレクサンドの右腕を極める。
肘が釣られ、手が外れる。回し、逃れたのだ。
なんたる早業か。
ヒトの腕という構造を利用した関節技と脱出技。アレクサンドほどの男にそれを極めたリウドルフは、タオルを軽く回しながら鼻歌でも歌いたげに肩を竦めた。
「はは、悪いねえ……騒がせちまって。今日は休みさ。本当だ。……狼のお兄さんは、おれが簡単に暴れねえって知ってるだろう?」
「……」
「はは――……だが、まぁ、いい。剣を持ってこなかったのはおれの不注意だ。さあ、お兄さん……どうだい? ここで討つならそれもいいぜ? ただ、ひと思いに斬ってくれないかい?」
ニィ、と野犬めいて片頬を上げるリウドルフ。やはり、危険で――……読めぬ男であった。
暖炉についた水滴が垂れ、焼け石に当たって音を立てる。湯気と共に満ちる緊張――無手であるというのに、奇妙な威圧感が漂う。
ごくりと、シラノは喉を鳴らした。
触手は、場所を問わぬ。呼び出せば応じる常在戦場の剣である。だが、ここで斬りかかるのが果たして正解か。
マフラーめいて巻き締めたタオルのその奥で呼吸を絞る中、口を開いたのはバルドゥルであった。
「あなた、その左腕は――」
「おっと。銀髪の兄さん、そいつだけは口にしてくれるなよ。……こいつぁ狼の兄さんにだけ見せると、決めてるのさ。それを破るなら、どこの誰だろうが斬り殺すぜ?」
「……南派の拳を前に、無手で斬ると言いますか。なるほど、大した邪手と見える。安くない挑発だと知りたいらしい」
ぎょっとしたのはシラノだった。バルドゥルにも、やはり武術家としての琴線があった。
「ふむ。事情は判らんが……シラノと戦ったということは、魔剣使いと見える」
「ああ……ん? どうかしたかい、オークの旦那?」
「なに、それほどの獲物なら奪うも一興と思ったまでよ。奪うことこそ、我が鬼人族の流儀がゆえにな。……それに我らの歓談の時間を奪ったのだ。貴様とて、何を奪われても文句など言えまい」
そして、グントラムもまた腰を上げて手のひらを拳で叩いた。
こうなると、却って冷静になるのはシラノの方だった。三者三様、皆がリウドルフへと殺気を向けている。
タオルの奥で、僅かに黙す。
全員がにわかにシラノを伺う素振りの中、
「……一人で来たんスか?」
「ああ? ……いや、可愛くもねえメスのガキを連れてだが。そいつがどうかしたのか?」
その重圧の中でも調子を崩さぬリウドルフを前に、シラノは吐息を漏らした。
「……バルドゥルさん、グントラムさん、アレクサンドさん。抑えてください」
「待てシラノ殿。この男は、見逃してはならぬ大敵だ。淫魔とは異なるが、人の血と業を吸わねば生きては行けぬ邪悪だ」
「いや……あの現場から、邪術士がまだ見付かってねえ。つまり――」
「連れが帰らぬと思えば、客全てを巻き込む危険性がある……か。貴殿にそう理を説かれれば、頷かざるを得ないな」
アレクサンドに続いて、皆が心の刃を収めた。
ここで討った方がいい男であるが、それを理由に何も知らぬ利用者たちを危険に晒すのは憚られるべきであった。
「ありがとよ、狼のお兄さん。……ただ、面白くないねえ。気に喰わないねえ。……おれが自分が殺されそうなぐらいで、周りを巻き込んだ殺しを命じると思うかい?」
「お前はそうだとしても……お前の、連れはどうなんだ」
「……………………ふむ。ま、女ってのは判らんな。だが女どものそういうところは、嫌いじゃあないぜ」
飄々と嘲笑うリウドルフを見れば、やはり縛り上げて官憲にでも突き出すのが正解に思えてならない。
しかし、現状それも叶わず――……合流したそのところを叩くべきかと思案すれば、妙なものが視界の端に映った。
一瞬、新手のマスコット筋肉ムキムキロボットかと思った。
扉へと手を伸ばし、引っ込め、思案し、また扉へと手を伸ばそうとし、止まり、考えるアレクサンド。
「……どうしたんスか、アレクサンドさん」
まさか武器や兵器の知識に押し出されて扉の開き方を忘れてしまったなどとは言うまい――と目をやれば、とんでもない言葉が飛び出してきた。
「出られん」
「は?」
「出られん。扉も、術式に囚われている。……触れれば電流が流れ――……この濡れた裸だ。死に至るだろう」
電流デスチェインサウナマッチ時間無制限。
……考えたやつは頭がサウナにやられてるのではないか。鼻から蒸気を吸い込みすぎて蒸気エンジンにでもなったのではないか。
脳の代わりに湯気を詰め込んだような馬鹿げた致死の罠が、そこにはあった。
◇ ◆ ◇
女湯は和気藹々と過ごしている。平和である。
◇ ◆ ◇
サウナ。タオル一枚。裸一貫。沸き立つ湯気。吹き出る蒸気。
むくつけき男たちは顔を合わせ、華も誉れもない作戦会議に望んでいた。
致死の罠。サウナの罠。
世に蔓延るどんなミステリー事件やパニックサスペンスだとしても、ここまでの作者と編集と犯人の頭が疑われる馬鹿げた罠はない。だが馬鹿げてはいるが、罠は罠である。
「ええと……これは、僕らの中の誰かの命を奪わんとしている、ということでしょうか? ……誰か心当たりのある方はいますか?」
問いかけたバルドゥル以外の皆が手を上げた。シラノも含めて。
顔を見合わせた。後ろ暗いものが多すぎる。サウナは薄暗いが。……なんだこの集団は。
というか、
「……え。あの、グントラムさんも……スか?」
「ああ。……借金のカタに年端もいかぬ少女を手籠めにしようとした上、娼館に押し込めようとした男が居てな。奪ってやったわ。その証文ごと名誉と命をな」
「なるほど……」
なんたる模範的好漢の姿勢にして快男児であろうか。水滸伝なんかでよく聞く奴だ。
まぁ現代ではないという時点でファンタジーと水滸伝は同じだろう。
他は――……シラノを含め、まあ、聞くまでもない。
「狼のお兄さん、おれには聞いちゃあくれないのかい?」
「……見りゃあ、判る」
「つれないねぇ……はは、誤解だぜ? おれは分別は誰よりあるからなあ。まったく――暴力は良くないってのに」
「なら命を狙われねえ。寝ぼけんな。腹ァ切れ、腹を」
一番可能性が高いやつにいけしゃあしゃあとほざかれると、底抜けに暑いのも相まって頭に血が登ってくる。
サウナ。蒸気。電流。フルチン野郎。フルチン野郎集団。
一体なんの冗談だろうか。なんの因果だろうか。前世で何をしたらこんな珍妙な事件に巻き込まれるのだろう。いや熱中症では死んだが。
解せぬ。というか神様的な存在がいるなら胸ぐらを引っ掴んで引き倒して切腹を命じたくなる。
唸るようにシラノが腕を組めば、頑健な顎の傷痕の上から汗を流しながら、ううむとグントラムが口を開いた。
「それでどう切り抜けるのだ、シラノよ。……魔術は得手ではないゆえ、私には判らん」
「そうっスね。切り抜けるというより……そこの壁をブチ壊し抜けましょうか。そいつが一番手っ取り早い」
常在戦場、携行不要。
それこそが触手の持ちうる妙だとおもむろに腰を上げる。水滴や汗が滴る鏡めいた黒い大理石の壁程度、破壊には容易い。
気にするのは女湯に繋がってないかということだと照準すれば――……静止する手が挙がる。
不景気そうな仏頂面と沈黙する雄々しき大胸筋の、アレクサンドであった。
「いや、生憎とそれは避けた方が良さそうだ。破壊に伴う術式もある。……特定ができるまで、控えた方がいい」
「へえ、黒い兄さんは部屋の中から特定ができる力があるのかい? そいつぁ景気のいい話じゃねえかね。とんだ道化だねえ。見習うべきかい?」
「……ふむ。そういう貴殿は、水を差す力だけは優れているようだな。なるほど、確かにサウナ向きだ。魔剣を捨てて講談師になればもっといいだろう」
「はは。……そいつぁ三流の煽りだが、おちょくってるってことかい? 流石に他人の名誉を損ねるってのは、良くないことだぜ?」
「いや、単なる感想だ。許せ。……嫌ならば、普段の行いを改めることを勧める。貴殿の身から出た錆となるが故に」
それは本心なのか、諧謔なのか。
笑みを貼り付けたリウドルフと泰然と口を結んだアレクサンド。睨み合う上腕二頭筋と大胸筋。
一触即発の空気。やはり、呉越同舟は叶わないというのか。
だが、割り入る声があった。珠のような汗を浮かび上がらせる盾めいて起立した広背筋、バルドゥルである。
「待ってください! 砂時計はまだ動いている……そしてこの砂時計は、時間になれば壁ごと上下が変わる形式の砂時計です!」
「バルドゥルさん……それはつまり……」
「はい! 切り替わる瞬間にこそ脱出が叶う――――サウナ耐久戦です!」
サウナ耐久戦。
電流デスチェインサウナマッチ耐久戦。
……うわあ、なんだかすごいことになってしまったぞ。
◇ ◆ ◇
ちゃぽん、と湯の音が響く。
「うぇぇぇぇ……ふぇぇ……こういうの初めてだけど、落ち着くねぇ……」
「そうですね。悪くは、ないかと」
感情がよく現れる顔をほにゃほにゃと緩めたフローと、涼しげな美貌から微笑を零すセレーネ。
白い肩が、湯から僅かにまろびでる。そして、ふっくらと呼ぶにはたわわな半球が湯に浮かぶ。
華奢な矮躯に似つかわしくない破壊力のフローと、女性ながらも高身長の身体に比例した衝撃力を持つセレーネ……どちらもその胸部は豊満であった。
互いに布地の多い服を着込んでいるので身体は抜けるように白く、瑞々しい肌で水滴を弾きながら、ちゃぽんと華奢な肩を湯に潜らせた。
「ねー……シラノくんも落ち着けてるといいなぁ……。あ、ところでセレーネさん……どうしてあんなに嫌がってたんだい?」
「それは……その、湯ではどうしても眼帯を外さねばならないではないですか。冒険者宿ならともかく……そうでない衆目に晒すのは、いささか躊躇いがあって……」
「……そっか。ごめんね、セレーネさん。でもボクはセレーネさんは綺麗で美人さんだし、しかもかわいいと思うよ?」
「フロー様。……ふふ、フロー様こそお可愛らしい方ですわ」
ゆっくりと流れる時間の中、銀髪を揺らしてセレーネは笑いかけた。目の前で、片側だけの黒い三つ編みが揺れる。
「そうかい? うぇへへ、照れちゃうなぁ……うぇへへぇー、かわいいかぁ……うぇへへー。……でもさぁ、なのにシラノくんなんでボクにあんな扱いするかなー。いくらなんでも冷たいと思うんだよね……なんでだろう……なんでかなぁ……なんでだろうねぇ?」
「………………………………ええまぁ」
女湯は和気藹々と過ごしている。平和である。
◇ ◆ ◇
ポタポタと、汗が滴る。髪から、瞼から、顎先から滴り落ちる。
文字通り、ここが死地。かつての熱中症による死に様をリフレインするような高温で――シラノは暑い吐息を吐いた。
耐えられるか。いや、耐える。耐えねばならん。ここは死地だ。冗談ではなく、死地なのだ。
そう思えば、何か無性に悔いが浮かんでくる。
襲いかかる敵と視線を斬り抜けるのではなく、ただ処刑への沙汰を待つようなこの時間。無限に考えが浮かび、千切れ飛び、また浮かんでは消えていく。
フロランス、どうしているだろうか。セレーネや、エルマリカや、メアリはどうしているだろうか。息抜きに、なっているのか。
ここでもしシラノが死ねば、それを、穢すことにはならないか。二度と、風呂への忌まわしき思い出が、刻まれないか。
(……)
ぼう、と息を吐いた。その時だった。
「……よぉ、狼のお兄さん。今日はあの可愛らしいお嬢さんは一緒なのかい?」
「なんで手前ぇに言わなきゃならねえ。……いや、ああ、そうだな。手前ぇ、先輩を斬ろうとしたな。斬ろうとしたよなぁ……よくも刃を向けてくれたなァ手前ぇ……!」
「ははっ、おっ、どうしてもやり合いたいのかい? たまらなくなって、ついにやりあってくれるのかい? 我慢できなくなったって? いいぜ、サウナでおっ始めるのも悪くないよなぁ……!」
一息に野太刀を掴み取れば、グントラムから羽交い締めにされる。バルドゥルにも胸を抑えられる。
肌に当たる彼らの肌も熱い。やはり、響いているのか。
「……ええと、あの、落ち着いてくださいシラノさん。ええと、その、あのー……先輩って……どの方ですか?」
「銀髪の兄さん。ほら、あれさ……あぁ黒髪の小さいお嬢さんがいてねえ……」
「血塗られた手前ぇが気安く先輩を口に出すんじゃねえ……! ここで腹ァ切るか……!」
「斬ってくれるのかい? ……ははっ、お兄さんとお揃いだなぁ」
「抜け抜けとほざくか、手前ぇ……! 素っ首級、置いてけぇ……! 叩っ斬ってやるからそこに直れ手前ぇぇぇぇぇ……!」
「シラノさん! 体温上がります! 体温上がりますから!」
瞬く間に湯気に覆われた野太刀がブンブンと空を斬る。
それを一瞥しつつ、リウドルフの隣で腕を組むアレクサンドがおもむろに口を開いた。
「……ふむ。あの、エルマリカと同じぐらいの少女か」
「先輩が歳上です。先輩は歳上です。先輩が歳上」
「ふむ。そうか。なるほど……そうか。彼女が触手使いの君の師範か。……その、いや、ところでシラノ殿はエルマリカをどう思ってる? あれは――……もう忘れているかもしれないが、物語を好んでいた。俺や長女が、何度か差し入れに行ったのだ」
「うす。……それが?」
「いや――……あれの性格からして、助け出したシラノ殿のことを想ってはいないか、と考えてな。碌に世話も焼けぬ兄の俺の言うことではないが、悪い娘ではない。……娶る気は、ないか?」
結構な爆弾発言だったが、野太刀を取り落としたシラノは、
「その……言いづらいんですけど……その……」
「……………………どうした? まさか、既にあれに押し倒されたか? そこまで思いが募って? そんな凶行に? 出たのか? いや、無論どこまでも謝罪はするが……その、責任はとってくれるな?」
「いえ、その……生理的に無理って…………」
「……………………」
「生理的に無理って………………俺ァ……」
「…………………………………………すまない、本当にすまない。俺は、兄として妹のことを何も判っていなかったらしい。なんてことだ。すまない……謝らせてくれ……本当にすまない。本当は悪い妹ではないのだ……だがすまない……本当にすまない」
「いえ……」
急にサウナの気温が下がった気がした。
約二名、その周りだけ空気も重々しく喘いでいた。
「ええと、その、僕は少し思うんですが……それは、恥ずかしさで……照れ隠しなどは?」
「……私は、いくら恥ずかしさとは言え妹が恩人にそんな言葉をぶつけるとは思えん。…………い、いや、違うのだシラノ殿。貴殿のことを貶めているわけではなく、その、俺は貴殿さえよければ是非とも義弟に迎え入れたいと思っている。違うのだ……! 違うのだ……!」
「アレクサンドさんは優しいっスね…………俺ァ、駄目です。信頼はともかく男としては完全に嫌われてる……少し調子に乗ったせいで、あんな……」
「そうかなぁ……」
「むぅ……確かにあれは貞淑であり強情だ。すまない。本当にすまない……至らない兄を許してくれ……」
「貞淑な人が押し倒すような人かなぁ……」
バルドゥルの呟きは湯気に包まれて消えていった。
横一列になった男たち。既に、どれほどの時間が経過しただろうか。砂時計の砂は、まだまだ有り余っている。
「くっ、なんたることだ……まさかこの状況、人間関係を狂わせ、挙句中で殺し合いをさせるような淫魔の罠か……?」
「そうっスね。……確かにその可能性はある。許せねえな淫魔。腹ァ切らせるしかねえ」
「いえそれはないと思います。落ち着いてください二人共。それはないと思います。落ち着いてください」
「はは、狼のお兄さんも猟犬のお兄さんも、愉快なやつだねえ」
天井から水滴が溢れる。
禿頭でそれを受けたグントラムは、重々しく唇を開き、
「……………………先程からその、淫魔というのは? 伝承上の……あの? その、淫魔の話を? 皆で? 今? ……ここで?」
訝しげに首を捻る。既に限度に達してしまった狂人を見る目であった。
残る四人は顔を見合わせた。そこから――……であった。
「いや、その、僕も信じられませんでしたけど……実在するんですよ淫魔は。淫魔は実在します」
「実在する」
「……ああ。異次元より来たる邪悪なる半神的存在だ。かつて五百年前にこの地に栄えた帝国を影から支配した恐るべき存在なのだ」
「恐るべき存在」
「あぁ――……ま、斬りがいはないだろうねえ。ただのメスガキだ。加害者に転じた被害者の小娘みたいなもんさ、鬼のお兄さん」
「メスガキ」
「先輩は嘘を言ってねえ。先輩は一言も嘘を言ってねえ。先輩が嘘ついてるとか馬鹿にする奴ァ叩き斬る。全員斬る。先輩馬鹿にする奴ァ斬る。全員打ち首にする。全員獄門にする」
「獄門」
ふむ、と全員を見回したグントラムは頷き一つ。
吐息を漏らし――――……少し皆と距離をとった。異常な宗教家と獰猛な番犬に囲まれた気分だった。
◇ ◆ ◇
ちゃぽん、と湯の音が響く。
「メアリさん、傷は残っていないのね。……なら、本当に良かったわ。とっても、とっても心配したのよ?」
「ふふ、ええ……女には秘密の化粧術があるってもんで――……おや、お姫ぃ様も気になりますか? 剣士さんの手前、きれいになりたいでしょう?」
「べ、別にシラノさんのためとかそういうことじゃなくてわたしだって女の子だから気になるだけであってきれいになったらシラノさんが髪を手に取りながらゆっくりと口づけ――だ、だめっ、だめよっ、今日はわたしが一番きれいでお姫様だなんて――」
「……」
ぱしゃりと湯が音を立てる。
均衡の取れた細い手足をくねくねと動かして赤面するエルマリカを、メアリは何とも言えない気持ちで眺めていた。
なお、二人とも肌白いその胸部は平坦だった。いや、平坦なのはメアリだけだった。エルマリカには将来性を思わせる青い果実の膨らみがあった。
「ううん。ごほん。ち、違うの……その、わたし、シラノさんの前ではありのままでいたくて……それでも受け入れて――――いえ、あの、もちろんその、もっときれいになりたいし、きれいなわたしを見せたいんだけどでもありのままのエルマリカがかわいいって――」
「……」
「ううん、ごほん。ええ、その……シラノさんは、きっと、そうであってもそうでなくても許してくれると思うわ……。ああ……そうね、そうよね……ええ、だって優しい方なんですもの……。本当に優しい方……ふふ……優しく、尊くて、愛おしくて……ふふ、ええ、穢したいわ……」
「……お姫ぃ様?」
風呂の為に長い金髪を後ろで編んだエルマリカが、どんどんと俯き加減に変わっていく。
湯を滴らせた指先が、彼女自身の頬を覆った。そして、恋に蕩けるような乙女のおどろおどろしくも妖艶な声が漏れ出てくる。
「ふふ、そんなシラノさんを食べてしまいたい……食べてしまいたいわ……お腹の奥の奥まで、シラノさんの色になりたい。シラノさんだけの女の子にされたい……。胸も、お腹も、いっぱいに穢されて……わたしもシラノさんを穢し尽くしたい……。溺れさせたいの……わたしの全てで、シラノさんの全てを……」
「……あの、お、お姫ぃ様?」
「頭の先から、爪の先までシラノさんの匂いになるの……わたしの全部、シラノさんで汚されて……奥の奥までシラノさんに穢されて、そうして二つに混ざり合って……。ふふ、ええ、貴方と溶けてしまいたいわ……貴方を、ぜんぶ、食べてしまいたい……。ええ、わたし、とっても悪い竜なの……悪い竜なんですもの……」
「………………」
「ねえ、メアリさん。…………そんなシラノさんをからかうの、愉しいかしら? うふふ、ええ、羨ましいわ……だってそうしたときのシラノさん、この世の誰にも向けたことのない顔をしてくれそうなんですもの。……ええ、ねぇ……愉しいでしょう? ねぇ、メアリさん?」
「……………………………………………………いやその」
女湯は和気藹々と過ごしている。平和である。
平和である。
◇ ◆ ◇
街からそう離れぬ場所に魔術研究院のあるノリコネリアは、その甲斐もあってか最新鋭の魔道具を取り揃えている。
障壁を張る正四面体や、身代わりを務める魔術人形、或いは連続して火球を放射する刻印杖に展開装甲板など実に様々。
付近の冒険者ならば一度は足を運びたい、と言われるほどの都である。
「改装中ニナリマス。御迷惑ヲオカケシマス、改装中ニナリマス」
故にサウナの入り口で片言で棒を振る小さな鎧姿の人影があっても、人々は最新鋭の魔導ゴーレムかと通り過ぎていく。
それどころか、話せるなどは素晴らしい。やはりどこそこの工房がいい、いやおれは違う工房を推す……と温泉での歓談に一役飼うだけである。
ましてや壁に走る魔術刻印を、そういうものとしか受け止めない。
故に――……今まさに彼が仕掛けた処刑罠に、外部からの手助けなどはあり得ない。
(全身という全身から汗を流し、サウナで悶え死ぬがいい……!)
その鎧の中でしとどに汗を流しながら、小人族の暗殺者――鷲鼻の伏撃猟兵はほくそ笑んだ。
彼の名は、ギルディエリナヌス。
その名は“罪罰を応報させしもの”を意味する――魔導罠の専門家であった。
(我が倒れるか、貴様が倒れるか…………くく、死ぬのは貴様の方だがな!)
汗も拭えぬ鎧姿の中、ギルディエリナヌスは高らかな笑いを堪えて棒を振っていた。
◆「サウナ・ニンジャ・サウナ」その三へ続く◆




