第八十二話 セブン・レイバース・オブ・ケンゴウ その九
『貴方は、嫌ではなかったのですか?』
ある朝、バルドゥルは妻にそう問いかけられた。
僅かに癖のある長く艶めく黒髪と、切れ長の緑眼を持つ利発で整然とした才女の風格の女性。歳上の彼女は、それなのにバルドゥルに対しても慇懃な態度を崩さない。
だが、何事にも四角四面な――生真面目な妻との生活の相性は悪くなかった。バルドゥルが年相応にどこか甘い分、なお良かった。
そんな彼女が裸身に上着をかけ、いつも通り楚々と身支度を整えながら、そう言ったのだ。
『ええと……僕は何か至らぬことを、アガタさんにしてしまいましたか?』
『いいえ。……ただ、思うのです。十二も歳が上の、前の夫に逃げられた石女など……若い貴方にとっては負債でしかないでしょう?』
『……』
『貴方は人が良いから、こんな女を引き取ってくれました。だからこそ、思うのです。……貴方の人生には、もっと相応しい女性がいたのではないか、と』
そうに違いない――と言いたげな毅然とした瞳を前に、バルドゥルは少し伺う目を向けた。
『ええと……僕のことが、嫌いになったとか……? そういうわけでは……?』
『まさか、そんな。……そんなわけ』
『……ああ、なら良かった。僕こそ若くて頼りなくて、アガタさんに苦労をさせてはいないかな……と思ってしまって。本当はもうアガタさんも僕に愛想を尽かしていて、でも仕方なく一緒に居てくれるのかな……って』
そう頬を掻けば、彼女は端然と目を細めて、
『……貴方には私が、そんな風に思っていると見えるのですか? 貴方を、愛していないと』
『ふふ、アガタさん。それ、僕も今そう思ったんです。……あっ、いえ、別にアガタさんのことを咎めるとかでなくて――その、本当に僕なんかでいいのかな……って。苦労をかけちゃってないかな……って』
呪術使いとは、忌み嫌われて然るべき存在だ。
呪術は戦闘に向かずとも、暗殺には適性を持つ。
直接的に拳を振るう刻印呪帯拳も、実際のところ兇手の域を出ない。武器を持ち込めぬ場で人を殺す為の技法である。
故に両親を早々に失ったバルドゥルも、呪術士の他聞に漏れずそう扱われた。ましてや性動に関わる淫紋使いともなれば、余計に推して量るべしである。
だから――今こうしていられる自分はなんて幸せ者なのだろうと、バルドゥルはいつも思う。
その幸せの大元の彼女にこんな顔をされてしまうと、どうしたものかなあと悩んでしまう。しばし悩んでから、言った。
『僕は女性を、そんな風に思ってはいません。婚姻がただ家を継いでいく為だけにあるのなら、それはもっと言うと僕たちの人生だって別に――……嬉しいことも楽しいことも、必要のない余分なものになってしまうではないですか』
『……』
『それは悲しいですから――……。僕は別に、そうではないんじゃないかなって。そうではなくて、いいんじゃないかなって。アガタさんとの間に授かったら、今の幸せが二倍にも三倍にもなって……でもだからって、今の幸せが色褪せたものという訳ではなくて……』
『……』
『それに、言ったじゃないですか。これまで離れて生きてきた分、これからは一日でも長く一緒に生きていきましょう……って』
その日のことは、一日とて忘れない。
その日から、気持ちは薄れていない。
『僕はアガタさんと分かち合いたいんです。何かを見たとき、一番に思い浮かべるのがあなたの顔なんです。……アガタさんはどう思うかなって思うと、色んなことが、二倍も三倍も楽しくなるんです』
『……私も、です』
『ええ……だから、僕らはこれでいいんじゃないでしょうか。世に言われる授かりものがなくたって――僕はあなたから、色々なものを授かっているのだから。僕はあなたに、満たされているのだから』
――――戦いの中、ふと、バルドゥルは思い返した。
ある朝の、記憶だった。
頭蓋に包まれたその奥――散るは火花。駆けるは雷電。
いざや、見よ。
これはまさに、一つの武の極点。術の極限。
永遠を満たす不滅の淫魔と、刹那を懸ける定命の只人の衝突である。
「溌――――――――――――――ッッッ」
奥歯を噛み締め、地を蹴るバルドゥル。靡く銀髪。高らかに灯る淫紋の燐光は、厚き外套にも隠せない。
対するレイパイプは片頬を釣り上げ――即座に転写した技能。
いざ、手にするはその奥義。余人が磨きし研鑽を、積み上げた経験をも奪い尽くすという支配者の趣き――まさに、許されし者だけに与えられし特権。淫法である。
だが、そこでレイパイプは知った。
来たるは感度一万倍――――同時、襲いかかりしは強烈な激痛。訓練せぬ人間ならば発狂するほどの――否、使用者であるバルドゥルですらも思考の殆どが塗り潰されるほどの刺激情報。
これこそが、この技こそが、発動それ自体がレイパイプの淫法《生体支配》の一――淫術《転写模倣》への対抗であったのだ。
(っ――――――!?)
一万倍に引き上げられた感度。倍化した痛覚情報。レイパイプへ差し出されし毒――痛覚の転写。
使い手自身も追い詰められるその力、その痛みが即座の追従を死に至らせるという罠を為していた。
そして、その導引。情報の致死毒を満たした杯を、覆い隠す偽装工作。
それもまた、感度一万倍。
バルドゥルの脳裏で弾ける膨大な情報量、膨れ上がる感覚、外界からの刺激の奔流――――彼自身も制御しきれぬ感覚の洪水に呑まれ、バルドゥルの意識は乱れる。
ああ、元から千々に乱れたものを、如何にして知り得よう。
痛覚攻撃、そして思考転写の阻害――これは、的確にレイパイプの権能を逆手に取った二重の策であった。
『――――――――』
なんたる的確な判断力か。
拳を握り、地を駆けるのとは裏腹――バルドゥルは既に、拳を用いぬ必勝の一手を切り出したのだ。
如何な不滅の淫魔とて、痛みはある。苦しみはある。
転写に伴う痛覚刺激は、その煩悶は、確かにレイパイプを責め立てる。
凡百の淫魔ならば、己から終末を願うだろう。
いっそ殺せと、叫ぶだろう。
これこそ、まさに不死殺し。精神を削り殺す毒手であった。
『――――――――』
……ああ。だが、浅い。だが、足りない。
そうだ。いっそ殺せと――死なぬからこそ淫魔なのだ。不死身であるから、淫魔なのだ。
そして、レイパイプは凡百の淫魔とは異なる。その権能は《生体操作》。
故に――即座に脳内物質を精製し、適合する。ノイズを取り除く。痛覚を緩和する。残留する刺激を除去する。神経を回復する。
なんたる脅威か、使い手すら振り回される感度一万倍を――彼女は乗りこなした。
(は、――――――ははは、ははっ)
そして、ああ、なんたる皮肉か。
参式には適合できぬと言われた読心。それも、高倍率の感度倍化の余裕により――逆に使用の余地が出た。
どころか、思考雑音の消去――その余裕まで、あった。
即ちは、完全。バルドゥルより出し技を、彼女は極天まで引き上げた。
走り寄るバルドゥルが、外套の一部を解いた。黒布。血の滴るそれを、右手に持つ。
零れる一滴一滴にも込められた呪力。即ち、南派塞印拳が《弐式》怒張如鉄――血を集約し、硬くする淫紋。
淫魔は、舌を舐めずった。
今や、バルドゥルの思考――その経験を十全に閲覧できる。分割し、並列し、検索しながら最適解を弾き出す。
彼に持ち得るすべての技、すべての記憶はレイパイプの手中――丸裸であった。
『――――――――』
溢れんほどの感覚に呑まれながらも淀みなく駆けるバルドゥルと、一挙手一投足を計算し踏み出すレイパイプ。
いざやここに、二つの暴が衝突する。
風切り音――今まさに振り上げられる鋼鉄に等しい強度の黒布。だが、遅い。重力の加速度により、打ち下ろすレイパイプの腕刀が先んじてバルドゥルの顎を刈る。
脳震盪――不死者への対抗策の一打を、只人に打ち当てる。
意趣返し。より優れた使い手がどちらかを自明させるその一手。
回転する脳、振動する神経が氾濫させる脳内物質は異常パルスとなり、中枢神経を責め立てる。手足の自由を奪い、自律を乱す。
仮に行われたとてレイパイプには防げども、只人のバルドゥルには防げない――そこへ追撃の潜打。右の昇竜打。
肋骨が折れ砕け、くの字を晒したバルドゥルの身体が木の葉めいて舞う。
その回転――見抜くのは容易い。今のレイパイプはまさに、この場の支配者。時の管理人。絶対の応報を与える死の執行人である。
『――――――――』
打つ左。視線だけでも負けぬと射抜くバルドゥルの両眼を鼻ごと叩き潰し、いざ繰り出すは右の貫手。
宙を舞う鏡の破片に、赤く塗った爪が輝く。
目指すは、胴。その中枢。
そして死翔一閃――――布を抉り、皮膚を裂き、脂肪を千切り、肉を掻き分け、骨を砕く。
胴の裏側まで貫きし右腕。爪に削げ残った肉片をにちゃりと鳴らし、潰すは臓器。穿ち奪ったバルドゥルの心臓を破裂させた。
宙に咲く赤き血華に、イネスが顔を青褪めさせる。……ああ、丁度いい。指に絡むこの血のように、バルドゥルはまだ暖かい。父体に使えば、イネス程度の素質からも良き子は生まれようか。
「はは、あははははっ」
死体を――つい先程まで生体であったものを操作。体内から失われつつある血液を、局部の一点に集中。《弐式》怒張如鉄。
最早、この南派塞印拳はレイパイプの力だ。レイパイプが極限まで高め上げた彼女の力だ。
拳士などという、大局も判らぬ愚物としてではない。淫紋、その当初の理念通りに使うが慈悲である。この力で、千年王国はより効率的に運用される――――仮想終了。
『――――――――』
溢れんほどの感覚に呑まれながらも駆けようとするバルドゥルが乱れる。一挙手一投足を計算し踏み出すレイパイプはほくそ笑む。
読んだ。
レイパイプが現在を読み未来を呼んだことを、バルドゥルも読んだ。そしてそれをレイパイプも読んだ。
彼らの思考を眺められるものがいたなら、百花繚乱に移り変わるその様に精神を失調し失禁しているだろう。
めくるめく、脳裏で未来が変わる。
千日手めいて繰り広げられる頭脳戦。散るニューロンの火花が作る曼荼羅は、瞬く間に塗り替えられる。
バルドゥルの左腕から滴る血液に呪力が宿る。腕を貫きし白刃の切っ先を覆う血刀――《弐式》。
右の黒布を撒き餌に、壊れた左腕が繰り出す斬撃――読んだ。
手に溜めた血液に寄る目潰し――読んだ。
繰り出す一撃――読んだ。
淫紋のマントラを刻んだ暗黒マニ車めいた思考が回転する――
『――――――――――――』
転写模倣――――――――――――――――――――仮想終了。
転写模倣――――――――――――――――仮想終了。
転写模倣――――――――――――仮想終了。
転写模倣――――――――――仮想終了。
転写模倣――――――――仮想終了。
――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。――仮想終了。
仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。仮想終了。
――――――――――……仮想終了。
「――ぁ、」
ついに限界を迎えしは、バルドゥル。
焼け付いた。脳内麻薬の自家中毒。パルス的脳波の異常細動。思考氾濫。振り落とされたのだ。レイパイプの高速回転に。高速演算に。
最早散らばる破片の中、弱弱しく歩を進めるしかできない。
オーバークロックの遅滞する体時間の中、レイパイプは右腕を振り下ろす。既に並列処理した無量の未来の先、バルドゥルの絶命の未来は掴んだ。
そして事実、何も変わらない。
空前の灯火めいたバルドゥルの思考が齎す攻撃手段も、今まさに動き出さんとするその四肢も、レイパイプの結論を覆さない。
いざ、狙うは腕刀による脳震盪。
レイパイプへ行おうとしたそのあまりにも涙ぐましい不死者対策を以って、その意趣を命ごと叩き返す処刑技――
(……ッ! もってくれ、僕の身体――――超我開門、感度三万倍ッ!)
バルドゥルが、いざ、噛み締めるは奥歯。繰り出すは――これまで一度とて到達したことのない境地。
我を超える門を開く――その名に恥じぬ限界領域への飛翔。
淫魔の知り得ぬ山領。記憶のどこにも存在しないその技が、門が、いざ開かれる――
『――――――――――――――――――――』
明滅する精神の錯乱は世界そのものを塗り潰し以って自我が『痛覚』散乱し散開し散逸する――〈冒険者なんてどうですか〉――その領域でこそ至れる『痛覚』思考の頂が『快楽』ありとてそこはヒトの境地に非ず――〈暮らしの心配はいりません〉――
ただ耐えることもできずに『快楽』脳が限界を叫び続け嘆き続けただ狂うことだけがこの技の辿る『痛覚』道筋でしかないまさに死出の葬送に『痛覚』他ならぬ――〈それに、実は憧れなんです〉――我が拳は大道に至らず天道を超えず志道を『痛覚』貫くことなども叶う筈もなくお前はただここで果てる『快楽』――〈……騎士物語。駄目でしょうか〉――
我が凶手が『痛覚』貫くは邪悪すなわち我が『痛覚』『痛覚』『快楽』この手を以って義を為し善を磨き――〈大丈夫です。これからの時間は〉――ただただ痛ましいほど詰みあがる死骸と死体と『痛覚』『快楽』『痛覚』『痛覚』屍を前に何を祈り――〈この子と、待ちますから〉――
人の至りし山頂など神には及ばず小人これ何を為すかなど『痛覚』滑稽な笑い種にしかならず――〈ええ、ですから破ってしまいますね。約束を〉――謳えよ我が名を『痛覚』与えよその躰を『痛覚』吼えよその想いを――〈これからは貴方だけの為でなく、貴方とこの子の為に〉――
快楽。快楽。痛覚。快楽。痛覚。快楽――――開ける門などある筈がない。
漂白された彼のか細い精神の糸に目掛けて、振るわれるレイパイプの腕刀。
既に、バルドゥルに思考の余地はない。如何なる場所にも至れない。
狂い果てた感覚の中、ただ一つ握り締めた怒り。それすら断たんと風切り音が迫り――
(お前は――――! 子供を、生命を、人生を、何者でもないように使い捨てた――――)
――――故にこそ、その必殺は相成った。
迫る左腕刀に合わせた右肘の受け。骨の、砕ける音。腕刀がひしゃげる。部位の強度が違う。
驚愕に待たず、なぞるように巻きかかるバルドゥルの右腕。女の肘を極め巻き――《弐式》怒張如鉄――次いでスナップで振り上げられ、そそり立つ黒布が淫魔の口鼻を塞いで巻き絞める。――一手。
寄せた体。踏み込む足。捕らえた肘を上へと極め折り、くぐるような更なる重心移動から――敵の側面を叩きつけた我が身。左腕に刺さった刃が、血刀が、淫魔の左胸を貫き肺腑に至る。――二手。
そして終手。
女のみぞおちへ、置いた肘。踏みしめた地。爆裂的な震脚。飛びあがる鏡の破片。
淫魔の臓腑を圧迫する衝撃波に合わせて、己自身の口に導きし黒布の端へ――いざ、送るは吐息。送るは淫魔へ。爆発的な呼気が、管を為す黒布を駆け抜け淫魔の肺へと注ぎ込まれる。――三手。
そしてバルドゥルは、全ての術式を解いた。
にわかに驚愕に目を見開く淫魔は、すぐに立ち上がろうとし……しかし、無様に崩れ落ちる。
立ち上がれない。動けない。否、指一つすら動かせず、ただ物言わず仰臥する。
「……ぁ、――ぁ、ぁ……」
バルドゥルの与えた傷は全て塞がった。だが首を起こそうとしたそばから力を失い、淫魔はその頭を無様に傾げる。
……いや、立てるはずがないのだ。立てるわけがないのだ。
彼女は今まさに、死に続けている。破れて肺から零れ出した空気に、如何なる再生能力をもってしても取り除けない空気に、心臓を圧迫しつづけられている。
外傷性気胸。
破れてしまった肺が弁の如くなり、胸膜に空気を漏らしてしまう障害。漏れた空気は決して肺に戻ることなく心臓を圧迫し、血圧を低下させ死に至らしめる。
医術とは、武術と不可分だ。鍛錬の中ではどんな怪我が起こるかも分からない。
かつて目の前で兄弟子に起きた光景の再現――そんな様を眺めつつも、バルドゥルはぽつりと言葉を絞り出した。
「僕では、感度一万倍は使えない……三万倍も、あなたしか使いこなせないでしょう。だけど――――使いこなしたそのとき、それは僕の技ではなくあなた自身の技と判断となる。……そして誤りましたね、その判断を」
聞こえているのか、いないのか。
いや、聞こえる筈もないが――せめてもの餞別として、バルドゥルは続けた。
「僕が武を使うんじゃない。武が、僕の身体を使うんです。……追い詰める必要があると言いました。追い詰めて、頭ではなく身体に刻まれた武の記憶を使うしかない。それが、迫るあなたの脅威を叩き落した」
必殺の答えは鍛錬だと――類まれなる研鑽が導いたたんなる反射だと、バルドゥルは告げる。
銀髪――過度のストレスによってすっかりと色を失ってしまった髪を揺らして、彼はただ、そう告げた。
(――――――――――――)
淫魔の持つ再生能力は、漸次的だ。
例えば打ち込まれし短剣を体内から押し出す。突き込まれてしまう程度の強度と内圧しか持たぬ身体も、己の死を前に高まりを見せ、その要因をすっかり排除しきるまで力を上げ続ける。
故に如何な拘束とて無意味。よしんば黒布で窒息させんとしても、彼女はその軛を破り捨てただろう。
……だが、果たして。対するのが、同じ力を持った同士だとすれば。
圧迫される心臓は、己を圧する空気を押し退けんとする。しかし同時に、内部から破壊されんとする胸膜も力を増し、壊されることの無きよう押さえつける。
結果、ただ圧力が高まり――――脱することができないのだ。死を。死に続ける状況を。
(ぁ、――――――――――)
意識を失い、取り戻し、しかし何も為すこともできず失神し、また蘇生し、気絶する。
肺に弁を作り、最後まで傷を塞ごうとしなかったバルドゥルの血は既に強度を失っている。そこに呪力を籠めんとしても、一瞬で奪われる意識と集中がそれを叶えない。
不死が故の永劫の死――――特に概念から生体へと寄せたレイパイプに、脱する手段は微塵もない。
さらに、感度三万倍。
即座に模倣したその停滞時間は、進むことのない時は、無限の狭間で死の体験を与え続ける。
これまさに――
(あ、あぁ――――――――――――)
――――レイパイプの、自業自得の末であった。
せめてと、洗脳せんと、絶対順守の指令を与えんと、視線を飛ばす。
散り散りに消えようとする己の意識の中、レイパイプはそれでも諦めずに糸を握った。バルドゥルのように。狂い果てる感覚の嵐の中で、か細い希望を握り締めた。
エバーハルトか、ボドウィンか。それか、やはりイネスか。
いずれか誰でも操り、この胸を貫かせる。そしてバルドゥルの目の前で自害させ、その心を抉らんと宙を眺め――己を見つめる瞳に気付いた。
いや、違う。
宙に叩きあげられた破片の一つ一つが、レイパイプ自身の無数の瞳が――彼女を見つめていた。
遮られているのだ。全員の瞳が。宙を舞う破片に。
送った指令が、魅了の魔眼が己に反射する。反射し、なんとしても胸を刺せと呼びかけてくる。殺せと、死ねと呼び掛けてくる。数万倍の時間の中で、己目掛けて呼びかけてくる。
己が魅了などされる筈もないが――――その騒音は、乱れた体感覚の中で何とか握り締めた細い糸を、唯一の希望を、無理矢理に塗り潰す。
(――――ぁ、)
全てが計算づく。
あの震脚も、指弾も、砕いた一片までもが、レイパイプを封じ殺す為にあった。
これが――
「無限の狭間で悔いるといい。踏み躙った命を――……嘲り笑ったその尊厳を。おまえはもう、どこに行くこともない」
――南派塞印拳の、バルドゥル・ア・ランベル。
どこまでも積み上げた武と鍛錬……それこそが、魔剣ならざる人の極地であった。
◇ ◆ ◇
ずるずると、半壊した城から歩く影がある。
二つの影が重なって、足を引きずりながら歩を進める。
「うぁ……ごめん、ごめんなさいっ……! ごめんなさいっ……!」
シラノの肩を支えるイリスは、ただ謝罪の言葉を口にした。
許される筈がない。許される訳がない。肥大化する自己批判と罪悪感に押しつぶされながら、それでも彼女にできることはそれしかなかった。
十にも満たない少女が――いや、生後数日の少女が、己の恥に呑み込まれんとしている。
それを前に、一体如何なる言葉をかけられるだろうか。一体どうすれば、その苦しみを消してやれるだろうか。
(……)
瀕死ながらも思案するシラノは僅かに顔を上げ――……そして、止まった。
イリスが、今にも絶望に呑まれんばかりの悲哀と、何が起きたか分からぬ驚愕の目を向けてくる。
それを前に、シラノは小さく吐息を零し――その背を押した。
背を押して、空を指差した。
「……ほら。次は、宝石の方だな」
「ぁ……」
苦痛がどれほど続こうとも。辛酸がどれほど続こうとも。
それに耐え続けて――――生きさえすれば、可能性はある。死すれば終わり。終わらなければ、どれほど小さくとも可能性はある。
……いや。ここは、そんな言葉は相応しくないだろう。
「これが、虹……?」
天にかかる七色の橋。
そうだ。
願いは――叶ったのだ。
「あっちは、バルドゥルさんが倒した。もう淫魔は、錆になってるらしい。ほら……謝ってねえでイネスと会わねえと」
トン、と背を押す。
どさくさで廃墟から拾った鏡の通信により、安全は保障されているのだ。
「でも、えと、えっと……えと、おいてけなくて……えと、えと、一緒に……。じゃなくて、あの、ごめんなさい……えと……」
「俺ァいい……早くしないと、消えちまう」
「えと、でも、やっちゃったから、あの、謝らないと……」
「二人で一緒に、見るんだろ。……少し、疲れたんだ。休んで、すぐに追いつく」
「う、うぅ……あう、うん……ぜ、ぜったい……来て、ね? ぜったい、ぜったい来てね……?」
「あァ。……二言はねえよ」
小さく笑えば、イリスは何度か振り返りながらも歩き出した。
その背をすっかりと見送ってから、シラノはやおら腰をあげる。
呼ぼうとした触手が崩れた。体力か、気力か、いずれにせよ限界らしい。
獅子丸の鞘を握る。雪山に放り出されたように強張る胸から、震わせるように声を発した。
「……邪魔、しないでやってくれないスか。やっと……あの子たちの人生が、始まるんだ」
返事はない。
ただ、蠢く気配がする。
何十何百と、蠢く気配がする。
辺りの街角から、瓦礫から、堀から、崩れた城の向こうから……それでも、気配はする。
拡張する触覚を棘の如く刺す息遣い。そこに込められた害意――――嫉妬、憤懣、羨望、嗜虐――……到底話が通じる相手では、ない。
「あァ……そうだな。そうだよな。“卑”は、“貴”が憎いんだよな」
呟き、鯉口を切った。
鍔を押した指が震えていた。肉体も、限界なのか。フローに声をかけずに来たのは、過ちだったかもしれない。イリスを帰したのも、無謀だったかもしれない。
……いや、構わない。
人には、役目がある。シラノには刃しかない。ならば、これはシラノの役割だ。彼女たちには、違う未来が多くある。
故に、
「イアーッ!」
飛び出す小さな影へ、抜き打つ白刃。
刎ねた首が軍勢に飲まれて見えなくなった。穢小人の軍団。死と絶望を齎すこの都市の淘汰機構。
全てで、いくつか。
判らぬが、見過ごせるような数ではない。
緩やかに蜻蛉を取る。獅子丸が、静かに吼えた。シラノには自分がいると、言いたげだった。
「あァ、そうだな。……俺もお前も、こんなのは許せねえよな。守らなくちゃ、駄目だよな。……あァ、そうだよな」
震えそうになる手を殺す。奥歯を噛み締め、息を絞った。
死するか、進むか。いや、死するつもりはない。ならば進む。進むだけだ。躰に命じる。己は、なんだと。
「俺は――――……触手剣豪だ」
雨も上がりどこまでも落ちてきそうな青空の下、シラノは駆ける。屍山血河の舞台へ駆ける。
どこか遠くで少女たちの笑い声が聞こえた気がした。ああ、きっと――始まるのだ。彼女たちの、これからの人生が。奪われ続けた彼女たちの、それでも守りきった願いの先が。
その門出に、血風は不要。
ただ奥歯を噛み、シラノは己を死地に投じる。
そうとしか在れぬ――――いや、そう在りたいと願うのだ。他でもない、この己が。
「イアーッ!」
歪められてしまった時間は、動き出す。
祝福するように、空には虹が輝いていた。
◆「セブン・レイバース・オブ・ケンゴウ」終わり◆




