第八十一話 セブン・レイバース・オブ・ケンゴウ その八
炎に包まれる城のその内、やおら立つ剣鬼の装甲から蒸気が吹き出す。
瞬間的に身をかがめたのは、イリスであった。
彼女が生まれつき手にした危機察知能力――その本能のすべてが警鐘を発する。危険を叫ぶ。
目の前の存在は、天地に等しい悪竜すらも斬り下ろせる不撓不屈の剣鬼である……と。
恐怖、であった。
繊細に脅威を認識する感知能力と、そして感情と行動を高度に切り離せる乖離能力――そのうちにあってなお、イリスは死を意識する。
「……」
対するシラノもまた、強く死を意識していた。
仮面の内に漂う鉄錆の匂い。額を伝う脂汗と、熱病にうなされる如く小刻みに加速する息。
流石は、魔剣。咄嗟、刺されたと同時に触手を以って己が身体を引き抜いたからこそまだ息がある。
あと半瞬遅れれば、注ぎ込まれる魔力に身体を上下に引きちぎられていたであろう。
やはり、恐るべしは魔剣。
この竜の大地における暴力の頂点――それが、魔剣であった。
「……」
窓なき石造りの室内、二十歩を隔てて向かい立つ。
情とは異なる領域において互いに互いの脅威を認識し――そして、動いた。
「――――」
クラウチングスタートじみてイリスの足が地を蹴り押すと同時、稲妻めいて床壁を走る蒼き魔力の航跡。
かつて見たそれよりも速い。
使い手の差か――否、使い方の差だ。イリスは限度まで魔力をとどめ置き、その圧力を以って疾走させた。
子供の落書きめいて縦横無尽に、しかし蜘蛛の巣よりも緻密に編まれた魔力の網が瞬く間に天井すらも覆い――直後、火山の噴火さながらに壁や床が噴出した。
城が揺らぐほどの射出の衝撃に――……だが驚愕は終わらない。
(破片を足場に――――)
なんたる軽業じみた曲芸か。樽の内側をなぞるような螺旋めいた軌跡で、長髪を靡かせる矮躯が疾走する。
そして、直後。涙を滂沱として禁ぜずに――しかしその奥に機械的な殺意を宿したその瞳が、少女の顔が、輝く刃が爆発的に膨れ上がった。
柄から宙へと棚引かせた魔力刃――その魔力噴出による超加速。
その小柄が弾丸めいて空を裂く死神の一閃と化す。
だが、鞘内の野太刀を感じ、シラノがただ見据えるは迫る短剣の刃。
測るは距離。量るは瞬間。生体電流を経ぬ超高速思考の内のシラノは、刃は、撃発の瞬間を待ちわび――
「――――ッ」
咄嗟、背後へと跳んだ。
足裏で弾ける触手刃。反動移動。千切れかけの胴体が悲鳴を上げ、傷口が開いた。口腔から血が噴出する。
生きようとしたことを後悔するほどの苦痛の嵐の中、しかしシラノの意思は己へ迫る死の予兆へ拒絶を叫んだ。
ごう、と。
横合いから流星群めいて無数に襲いくる蒼き光線――――魔風で加速した破片が、半瞬前のシラノの立ち位置を抉り、そのまま衝突した先の壁床を微塵に斬り刻む。
まだ終わらない。まだ続いている。まだ、降り注ぐ。
「イアーッ!」
反射的に繰り出した“甲王”の盾は、しかしなんの障害にもなり得なかった。
仕込んでいたのだ。破片に。魔力線を。切り刻んだあの瞬間に。
噴出する魔力が石片を急加速させ、そして触れると同時に伝播するその魔力が絶対破壊を起こすという遠隔魔弾。
エルマリカの荷電粒子砲さながらに、盾を、壁を、床を、あまねくものを千々に千切り飛ばす。
その密度。その殺意。如何な触手外骨格といえ、爆発反応装甲といえ、受ければ死は免れぬ。
そして――雨を縫い、ついに来たるは本命。
「――――」
塵片の煙を割り断ち、飛来する絶死の一閃。
噴出による反動移動。絶影の超高速移動。余人の目には映らぬ神域に――シラノは、鞘に納めし野太刀の柄を握り直した。
驚愕すべき速さだろうが、変わらない。
白神一刀流に敗北の二字はない。今までも――――これからも。
間合いで勝るはシラノの野太刀。そして、超触覚で周囲を同時に把握し高速化する思考に身を委ねる刃にとって、この接近速度は無に等しい。
いざ、無二の太刀。
鞘内で撃発する多段触手刃――――放つは白神一刀流・零ノ太刀“唯能・砕”。
空を分かつ一閃が、両断すべき魔剣を目指し――――
(――――ッ!?)
否、シラノは更に驚愕した。
イリス自身の肌を伝い噴出する魔力――緊急回転。そして、繰り出されるは蒼き牙――。
これまでの全ては欺瞞であった。いや、これこそが真価であった。
刀身が、伸びた――――否、否、否、鍔から虚空へ漂っていた魔力刃そのものを束ねて剣の刀身に使ったのだ。
咄嗟、舌打ちとともに電撃を纏う触手を縦横に走らせ、合わせて反動での後退。
土煙を生んで踏みとどまれば、ごぼりと、面頬のスリットから血を吹いた。
視線の先には、千切り飛ばされた触手の破片……不発だ。爆風により急停止・急後退したイリスと入れ替わりに降り注いだ魔弾に穿たれたのだ。
脂汗を垂らし、肩息をつく。
後方へ引いたイリスと体勢を立て直すシラノは、奇しくも初一本と同じ位置関係を紡いでいた。
ただひとつ異なるのは、
「……ッ」
脂汗とは別に頬を伝う冷や汗。
本命の、八重に束ねた蒼き風の魔力刃。その濃厚な魔力は、如何な触手外骨格といえども触れてしまえばその途端に消し飛ばされるだろう。
だが――問題はそこではない。
手の内で、刀身を半ばから失った野太刀の柄が震える。
斬り結べないのだ。その刃に触れることは、その瞬間に齎される死を意味する。
回避の間際に刃を断たんと打ち込んだ野太刀の半分が消し飛んでいた。多重に重ねてなお、その全てが消し飛んでいた。
(ッ……断てねえ、魔剣か……!)
この初邂逅で痛感する。
真なる使い手が操る〈風鬼の猟剣〉――その破壊力は、これまで戦ったどんな魔剣にも引けを取らない。あの、〈竜魔の邪剣〉にすらも。
只なる人に耐えられぬ超高速の機動戦法に、あらゆる防御を貫通する遠隔魔弾。そして、絶対無敵の破壊刃。
かつての戦いでは見ることのなかった魔剣の本領――否、イリスという尋常ならざる使い手が居て、初めてその能力を引き出されたのである。
「ぅ、ぁ、う……ごめっ、ごめんなさい……ごめんなさいぃ……!」
目から涙を溢れさせ、首を振りながらも切っ先はシラノを外さない。
どこまでも乖離した感情と行動。彼女は救いを求めながら、どこまでも濃密に組み上げられた殺意溢れる詰め手は違えない。
そこに愉悦や喜悦はない――これまでの誰よりも冷徹な殺気の詰将棋と、これまでの誰よりも小さな体躯。
それが……彼女が、己の体表を血に染めながらも、目だけは訴えるのだ。
逃げてくれと――自分が殺してしまう前に逃げてくれ、と。
いっときでも助けを求めてしまったことを恥じるように。救いを願ってしまったことを悔いるように。
大粒の涙を流して――己を見捨ててくれ、と。
故に、
「……いいや。俺ァ、助けに来たんだ」
決断的には首を振り、野太刀を組み直す。
寄生強化された肉体は、以前より多くの反動移動を可能とするであろうが……この手傷ではままならぬ。
使えて、四度。
その内の二度を、今の一合で使い切った。
対するは、蒼く輝く無敵の剣。万物を断つ、決して断たれることのない無敵の剣。
その脅威、その恐怖――もはや言い表すことも難しいが、
「白神一刀流に……敗北の二字はねえ」
重く呟き、鞘に納めた野太刀の柄頭を向ける。
今はもう、あの友の贈った強固なる〈金管の豪剣群〉はないが……。
やるしかないなら退くべきではない――それは変わらない。いや、いつだってそうでしかない。
視線の向こうで、束ねられた〈風鬼の猟剣〉の蒼き魔力刃が解かれた。即座に筒状に組み直され、瓦礫ごと周囲の空気を吸引する。
何が起きるか。
何が出るか。
何にせよ、ここは死地であるには違いあるまい――。
「イアーッ」
◇ ◆ ◇
死ぬしかない夜があった。死のうと決めた朝があった。
終わりを告げる刃物があった。
自分で決めた処刑があった。
その時世界は、馬鹿馬鹿しいまでに澄み切っていた。
だから私は、もう少し生きてみようと思った。
――ある少女の手記。
◇ ◆ ◇
感度を引き上げることは、直接的に戦闘に使える――だけではない。
それは鍛錬。それは套路。
卓越した感覚に従い己を十全に操縦することとは、武術に限らずあらゆる運動においての最上位の鍛錬であった。
どこまでの己の間合いなのか……己の身体の動きの淀みは、長所は、理想の動きの為に己に足りない筋肉はどれか――と。
余計な癖がつくこともなく、己の短所を修正し長所を育成する。そうして育まれた技術はバルドゥルを裏切らない。
全くの暗闇だろうとも障りなく拳打を放てると言えば、その腕前を知れようか。
かのアレクサンドが二十年弱かけて辿り着いた境地に、若干十五歳にしてバルドゥルは辿り着いていた。
だが、
「バルドゥル……」
不安げにイネスが見つめる視線の先にいるのは対照的な二人であった。
銀髪を揺らして肩息をつくバルドゥル・ア・ランベルと、上機嫌に蒼き幻影を見つめる薄紫色のレイパイプ。
「ん、いやあ……上出来、上出来! んー、早くイリスちゃんの判断力と経験を貰いたいねぇ……ますます強くなると思わない?」
「……」
「や、あはは! ごめん、今でも君にとっては強すぎるか! これ以上強くなられたら困っちゃうよねぇ?」
両手を広げ笑いかけるレイパイプには、憎しみを抱くイネスですらも蕩けそうになる。ひとえに今、レイパイプの意識から外れているが故に魅了を免れているだけに過ぎない。
そんな邪神の域にまで至った人類の天敵を相手に、しかしバルドゥルは精悍な表情を崩さず言った。
「いいえ。これでも武芸者ですから……強い相手と戦えることには、喜びがあります」
「あ、そう? へえ? わっかんないなー……それって、武芸者特有の負け惜しみってヤツ? 情けないよねー?」
「……ええ。そのような弱い言葉もまた、僕だって使います。ただ――あなたのような素人相手でないのなら、だけど」
「は? ……その素人に追い詰められてんのは誰だよ」
「それは僕の未熟さだ。申し訳ありません……借り物の武を、過信させる結果になって」
「はあ? ……なに、武術家って弁論家の間違いってやつ? 他人を貶めないと会話できないの?」
「……どうとでも。乱せる心を乱さぬのも、言葉の刃などに乱されるのも……どちらも武芸者としては未熟と呼ばれてしまいますから」
舌戦の傍ら、調息に伴う呪術刻印によりバルドゥルは何とか痛みと疲労を誤魔化しつなぐ。
互いに同程度の思考処理能力と腕前。そこに人外故の膂力と不死性を加えてしまったのなら――……ただ相対するだけで、その重圧はバルドゥルを削るに十二分。
加えて、明確に敵意を煽ったレイパイプの次の攻撃がバルドゥルを再起不能に追い込むものであるのは明白。
「……」
調息でも消しきれぬ絶望感を前に、バルドゥルは瞳を細めた。
かつて師から聞いた『魔剣とことを構えるな』という言葉――なるほど、この恐ろしき淫魔がそれでもなお脅威を感じる魔剣相手に戦いを挑むというのは、きっと自死に等しい無謀なのだろう。
だが、蒼き幻影の向こうで――――今まさにそれを為している者がいる。
まだ諦めていない者がいる。
ならばどうして――どうしてこのバルドゥル・ア・ランベルが退けるだろう。
侠が立って戦っている。
ならば、己に退ける理由など微塵もない。
(かの〈狂乱と雷霆の神〉や〈剣と水面の神〉の如く立つあなたのように……僕も勇敢さを示せたならよかったけど……少し、難しいですね。だけど、だからこそ――)
暗銀色の瞳を細め、射貫くは仇敵。
この世に絶望を齎し、人心を歪め、社会をほしいままとするこの悪鬼に――屈してはならない。
(不死殺し……子供の頃、〈剣と水面の神〉をどう倒すか――なんて話し合ったけど)
まさしくそんな武友との幻想が現実になるとは、思いもよらぬ。
……いいや。少女の涙の為に邪悪と相対するなど、まさしく寝物語の騎士であろう。
己は“骸拾い”。淫魔に由来する邪悪な術だと呪術使いの中でも忌み嫌われる淫紋使いが、まさかそうも輝かしい戦いに馳せ参じられるとは。
人生とは、冒険者とは、まっこと奇異なものであると――そう言ったら己に薦めた妻は笑うであろうか。
故に、
(まだ、五体はある――なら、試せることはあるッ!)
魔に打ち克つべしと、バルドゥルは第参式を起動した。
万物の流れを歪め、拾いうるすべてを感じて考える――我を超える門である。
「――――」
握り込み、即座に放つ指弾の一閃。銀の軌跡が一直線に淫魔を目指すが――淫魔は僅かに身を捻り回避。
否、だがまだ終わらない。
鏡を砕き散らし反射する銀弾と、追撃の指弾。前方と上方より淫魔を挟み打ちかかる。
しかし、無造作に机を放る淫魔と――散乱した金属の瓶が、指弾の挟撃を防ぎ反らした――――どころか。
歪められた回転のまま壁床に反射し合った銀弾が二発、バルドゥルを目指す。
「疾ッ!」
だが左右の手で放つ指弾が銀弾を迎撃し、その勢いで淫魔への攻勢へと変える。
傍から見守るイネスは、震えた。
それからも次々に繰り出され、都合十発に至った銀の礫――その全てが室内を跳ね返り飛び、鏡の破片を飛び散らせながら縦横無尽に軌跡を描く。
だが互いに打ち合わせをしているかの如く、演舞の如く……飛び跳ねる銀弾は、その反射は、回転は、互いの身体を捉えぬままに増えていく。
ついに、計、二十。
しかしその全てが――互いの支配下なのだ。
奪い合っている。凌ぎ合っている。支配権を――制空権を。冷静に駒を進めるかの如く、向かい合う二人は銀弾の応酬を止めようとはしない。
空間を、数多の銀閃がなぞる。反射し、反発し、銀の糸を描きながら雨垂れめいて暴れまわる。
敵の手を読み、舞う破片を読み、己が身体の硬直を読む――そんな境地が、ヒトに可能なのか。
しかし、不利はバルドゥル。余裕の笑みを浮かべる淫魔とは対象的に、彼は冷や汗を流し、ようやくと言った様で凌いでいた。
そして――次に動きがあったのも、バルドゥルであった。
「殺――ッ」
抜き打つ、短剣。
空を裂き突き進む切っ先のその向こうに、散らばるは鏡片や金属片――行き先を阻むように調整された障害物が一直線に並ぶ。
だが、バルドゥルもまた読んでいた。
壁に跳ね返った銀弾が、床に跳ね返った銀弾が、短剣の活路を切り拓く。
氷めいて砕け散った破片のその僅かな隙間を――針に糸を通すかの如く、死翔ける一閃が貫いた。
射抜きしは、心臓。
あらゆる生物の急所と言えるそこを撃ち抜かれた淫魔は崩れ、たたらを踏み、
「……計算通り、って」
打ち込まれた刃が内側から肉に押し出される。
直後、宙で衝突した弾同士が軌道を変え――短剣の柄へと激突。僅かな回転でその前後を入れ替える。
そして、己に向いたその柄尻へ――レイパイプは、人間離れした膂力の一撃を叩き込んだ。
穿たれし、豪刃――――舞うは鮮血。
「バルドゥル!?」
「だ……大、丈夫です……防ぎは、しました……!」
強弓よりもなお早いその一発を、バルドゥルは前腕で食い止めた。
しかしその額には珠のような汗が連なり、唇が震える。
苦痛で死しても不思議ではない。事実、拳と共に感度増幅の呪いを打ち込み摩耗死させる……そのような技もあるのだ。
だがそんなバルドゥルの様子をも気にせぬような、場違いな手を叩く音が部屋に響き渡った。
「んー、本当は口だけの不死だと思って確かめたかったのかなー? でもざんねーん、ほら、この通り不死身なんだよね!」
「……」
「あはっ、あれだけ偉そうなこと言ってできることは部屋を散らかすことだけ? ん、いやあーすごいね武術って! 脛かじりのニートの息子が使ったら大変なんじゃないかな! 主に気の毒なお母さんがさ!」
嘲笑を浮かべる淫魔の胸の傷は、煙と共に既に塞がった。
床に溢れた淫魔の血も蒸発していく。一方のバルドゥルの左腕からは、鮮血が滴っていた。
やはりだ――とイネスは思った。
勝てる筈がないのだ。勝てるわけがないのだ。
造物主という神に等しい存在に……不死身という永劫を生きる怪物に。
武術は、人は、その意思は無力であるのだ。
「ん、さて……それでなんか言うことない? いやー、これだけ散らかしたんだからそこは謝って貰わないとね」
ニヤニヤと余裕を崩さぬ恐るべき淫魔を前に、ただちっぽけな両の拳を握るしかない筈の武術家は、
「……追い詰める必要がありました。自分自身を――もっと、窮地に」
「は?」
「……なるほど。思考を読めても、意図までは読み切れないようですね。いえ――僕の技を使っている限りは、その最中は、思考を読んでも行動の推察しかできない……大元の僕自身が、そのような技や経験を持ち合わせていないから」
「……は、だからどうしたの? 何が言いたいわけ? せめて何かで勝った気になりたいってことかなぁ?」
不機嫌そうに目を細めた邪悪なる半神的存在を前にしても、譲らない。
彼は、その銀色の意思は、揺らがない。
「……勝った気ではなく、僕はこれから勝つ気でいる。いや――南派の拳に誓って、『三手』で倒す」
やおら踏み出すは右足。
そして、
「《参式》が極天――超我開門、感度一万倍ッ!」
限界突破を告げる声と共に、バルドゥルの世界は加速に踏み込んだ。
◇ ◆ ◇
死すると決めれば、世界は変わる。
生くると決めれば、世界は変わる。
だが、いつだって唐突に終わる――――それが我らの生である。
ある冒険者の手記。
◇ ◆ ◇
瓢と風が吹き抜ける。失せた天井から灰色の曇天が覗く。
領主が座す筈のその城は、帝国以降――魔剣の王の時代に作られ、当世まで残存している堅牢なる石造りの砦であった。
瓢と風が吹き抜ける。失せた天井から曇天が覗く。
天井が、今、失せている。
「………」
死神めいて佇む少女のその手に輝く〈風鬼の猟剣〉とは、数多の魔剣を排出したカインザック窟の最高傑作である。
序列は三十八位。
カインザック窟の作成せし魔剣の最高序列は十七位。故に決して最強ではない。
だが――最高傑作なのだ。〈風鬼の猟剣〉は。
「が、ァ――ごほっ……がふ……」
地に伏せたシラノの真横。抉り取ったかの如く、壁には風穴が開いていた。
耳元で風が唸る中、吐息に合わせて口腔から血が滴り落ちる。色の濁ったその血は、臓腑への損傷を告げる警鐘だろう。
攻撃を受けたのではない。残り二度の内の一度――“唯能・虚”の高速移動。その反動が、シラノの全身を苛んでいた。
(……ッ、もう、躱せねえ……)
……残りは二度ではなかった。これが、最後だ。最後だったのだ。次に使えば、シラノは確実に死す。
そして、何とか顔を上げた極紫色の鬼面の向こう――次なる死は、番えられていた。
蒼き帯めいた魔力刃が筒状に刀身を編む。直後、猛烈な暴風が巻き起こり……筒の内に目掛けて、瓦礫を巻き込みながら吸い寄せられていく。
何とか、折れた野太刀を杖に身を起こす。呼んだ触手で身体を固めた。
だが、指先が、動かない。足に力が入らない。為す術が、ない。
「う、ぁ……逃げてぇ……う、う、ううぅ…! わたしに、近付かないでぇ……!」
そして髪に火が移ったイリスが首を振る中――それは起こった。
筒であった筈の刀身が引き絞られる。一本の蒼く輝く両刃の剣へと、固められる。
……そう。〈風鬼の猟剣〉は最高傑作だ。絶対破壊・高速移動・魔弾射出……使いこなせるものがいるならば、この剣の力は、どこまでも上昇する。
ひとえにそれは単純にして明快な能力。
風という天地をあまねく満たす気体と――そして破壊の特性を付与するという、その効果が故である。
「……」
何かが砕ける音がする。何かが潰れる音がする。何かが引き潰され、すり潰され、それでも未だに暴れまわらんとする音がする。
折り重なる絶対破壊に巻き込まれた瓦礫は塵に分かたれ、極限まで圧縮された空気は電離体に至る。
それを、内に収める刃がある。
シラノは背筋を凍らせた。
この〈風鬼の猟剣〉の特性は破壊力の付与だ。ならば、内に収めた粉塵全てに魔力が籠められてしまったなら――。
……僅かに前、シラノは竜の声を聴いた。
それは悲鳴であった。事実、遥か先の空で巻き込まれた千年大古竜が爆発四散した。
それは咆哮であった。万物を破壊せしめんとする大いなる竜の息吹だ。かの〈竜魔の邪剣〉に劣らぬ、邪悪なる竜の息吹だ。
即ち――
「イ、アー……ッ!」
咄嗟、シラノが鋼板を生み出すと同時、〈風鬼の猟剣〉が振りかぶられる。
そして――解き放たれた。
蒼き魔力が、蒼白の電離体が、蒼炎が、その膨大な熱が、何より――――風の魔力を孕まされた粉塵が虚空を穿つ。
遠隔破壊斬撃――否、遠隔絶対破壊砲撃。
重ねに重ねた甲王の盾が、なすすべもなく飲み込まれ蒸発した。
一説に、台風の持つ総エネルギー量はヒロシマ型原子爆弾の数万から数百万倍という言葉がある。まさにそれを凝縮したかの如き、破壊の光線。
それこそが、〈風鬼の猟剣〉の為しえる最強の技であった。
(……ッ)
かろうじて床を砕き退避したシラノの全身鎧を、膨大な余波の熱風が打ち据える。
かつての再現の如く内から召喚される装甲は熱を通さぬが――しかし、シラノの危機が終わった訳ではない。
否、これこそが真の意味での死地であった。
蒼き魔力線が奔る。頭上で天井が崩落する――いや、城自体が切り分かたれる。
一瞬の無重力の直後、始まる攻撃――城そのものを利用した質量弾。
如何な触手外骨格と言えども、巻き込まれれば無事ではすまぬ質量の暴力。
(斬るしかねえ……――いや、これは……ッ)
落下のまま鞘を握り、直後舌打ちした。
切り刻まれた天井の瓦礫にも、蜘蛛の巣めいて未だ蒼き魔力線が蓄えられる。即ちは破壊不能にして、絶対破壊の鉄槌。
戦いを嫌うというその人物評からは計り知れぬ殺意の連続攻撃に、ただ、内心を焦燥が込み上げる。
セレーネのような喜はなく。
リアムの如き情もなく。
リウドルフの如き悦もなく。
エルマリカのような哀もない。
しかし、それでも、その誰よりも的確な殺意として――兵器として運用される魔剣。その為に作られた、イリスという名の操縦装置。
決して許せぬと心の篝火が激しく燃え盛る反面、どこまでも冷えていく脳は、思考は、明らかに警鐘を鳴らしていた。
即ち――殺される、と。
(――――)
よみがえるはかつての記憶。あの日、あの場所で、触手剣豪として生まれ直した記憶。
その、繰り返しとなろうか。
或いは今度こそ、死が追いつくのか。あの日の刃が、突き立てられるのか。――取り立てに来るのか。
轟、と押し寄せる瓦礫が加速した。視界を埋め尽くす灰色の破片が、加速した。
空気抵抗と釣り合いシラノを一息には呑み込まぬが……しかしそれでも、自由落下の速度を超える。
咄嗟、背後を見た。
城の一部を形作る円塔の、その底を。地を。墜落先を。
おお、見るがいい。それこそは正に死地。それこそは正に八万地獄。欲望と飢餓を凝縮したかの如き冥途の光景――塔の下部を埋め尽くしたるは黒緑の影。穢小人という怪物。
まさしく地獄の悪鬼か。餓鬼か。仲間の骸を喰らい、死肉を剥ぎ、哄笑を上げるそれらを魑魅魍魎と呼ばずして、一体なんと言い表せばいいのか。
「……ッ」
だが、そんなものはどうでもいい。
その怪物の通用門――重い木戸に閉ざされた入り口を、シラノは見た。
即座に、触手を伸ばす。
何が運命だ。何が死だ。ここで追いつき果てるなど、この身の本懐にあらじ。
ここは死地だ。故にこそ、迫りくる死を見誤るなと言い聞かせ――
「――――!?」
――伸ばした触手が爆発四散する。
同時、地に満ちた小鬼も爆発四散した。
(これ、は……)
……イリスがその身に宿した資質は、実に稀有なものなのだろう。
誰よりも高きその資質は、虚空を断つ蒼き刃として顕現した。
崩れ落ちる天井から宙へ伸び、壁を跳ね、床へと至り――そして天井へと戻り、そこから再び迸る蒼き魔力の帯。
破壊刃。その力が檻を作る。塔の中に檻を作る。
確実かつ冷徹な殺意の包囲網であった。決して逃がさぬと……生かして帰さぬと、着実に詰められる死線であった。
(……ッ)
空中に踏みとどまろうとすれば、頭上の瓦礫に押し潰され切り刻まれる。
瓦礫を破壊しようにも、そこに刻まれた魔力線がそれを許さない。
空中で移動を行うだけの能力はシラノには尽き、自由落下に身を任せるしかない。
(これは――……)
構造物全てによる質量攻撃。
触れた瞬間に殺戮が履行される魔力風刃の檻。
反動移動の使えぬ己。
所謂、将棋で言うところの“詰み”であった――――。
『――――――――――――――』
……果たして、連なった爆裂音ののち。
地獄めいた飼育場は、降り注ぐ多量の瓦礫に飲み込まれる。
塔一つの残骸が積もり上がったそこで――魔力線から顕現する暴風は、更に瓦礫を念入りに砕いた、砕き尽くした。
絶対的な殺意の攻撃。
これこそが――――真なる魔剣、真なる使い手の御業であった。
◇ ◆ ◇
ふわりと、髪を靡かせて。
蒼白の魔力刃を翼めいて広げたイリスは円塔の残骸に降り立った。
その全身を血が濡らすが……全て薄皮一枚。砲撃の熱風を防ぐ為に必要であった措置なだけで、傷とは呼べぬもの。
そして、すぐに洗い流されるもの。
頭上を覆っていた曇天は、乱れ荒れて雨を吐き出していた。イリスのその心模様を表したように、水滴が降り注ぐ。
「うぅ……う、ぁ、うぅぅぅ……」
それでも、己の頭の中のもう一人に従い――彼女は瓦礫へと刃を突き立てる。
念入りに、何度でも。走る魔力線と噴出する風の刃。瓦礫の隙間という隙間を埋め尽くし、執拗にとどめを刺す。刺し続ける。
己の手も、足も、別人同然であった。
イリスは、これが、怖かった。
絶対に最適な動きをしようとする己の手足が、感覚が怖かった。
だから逆らおうとしては転んで……結局その有様が、妹に余計な気遣いをさせてしまうことに至った。
そんな己がいたせいで。己の無様を庇うせいで。
妹のイネスは、仲間の死を背負うことになった。
「うぅぅ……、ふ、うぅぅぅうぅ…………ごめんなさい……っ! ごめんなさいぃ……!」
石片のその下で、無数の斬撃の音が響く。確実に死を与えんと、冷徹な己が刃を振るう。
……言われた通りであった。
操り人形――軽蔑的な瞳と共に淫魔に見下された、その通りの存在であった。
道具なのだ。自分は。
ただ殺すためにしかいられない。ただ殺す事しかできない。何者にもなれない。それだけの無能。
『ん、そうやってされるがままにしか生きられないのってさ、他に言えないでしょ? はは――哀れだねえ、悲しいねえ、かわいいねえ。でしょ、お人形さん?』
そんな己が何かを望むことすら滑稽で――……いずれその刃は、双子の妹まで及ぶと言われた。きっと、斬り殺すだろう――と。
……自分でも、心のどこかで分かっていた。
誰が敵で誰が味方か判っているこの状況だからこそ、庇われているこの状況だからこそ、殺さずに済んでいるのだ。妹を手にかけずにいられるのだ。
だから、
『ね、ほら――……私の言うとおりにあいつらを殺せば、まだ一緒に居られるよ? 実験を続けられるんだよ? この楽園に居続けられるんだよ? 妹ちゃんと一緒にさ――』
そんな提案をされたときに……。
いけないことだと分かっていながら、それに安心する自分がいた――。
……そして今、思う。
おかしいのだと。狂っているのだと。壊れているのだと。自分はどうしようもない存在なのだと。
シラノも、バルドゥルも、ボドウィンも、エバーハルトも、イネスも……皆、イリスを含めた誰をも気遣った。
他人に対してそうすることは当たり前のことなのだと、それが当然なのだと示してくれた。
「う、ぁぁ……! あぁぁ……!」
……なのに自分はそれに反した。自分のことしか考えなかった。
こんなにもどうしようもなくて、醜くて、狂っている。
『いやあ、実はこの世界には一つ困ったことがあってね……でもほら、そこで丁度キミがいい観察材料になるんだ。あいつらによく似ててさあ。
……あ、という訳で魅了なしのついでに――仲良くしてあげるよ。嬉しいでしょ? だってキミもどうしようもなく呪われたお人形さんだもんね!』
……そうだ。
自分は醜くて、どうしようもなくて、狂っていて、妹と一緒にいることも許されない筈の存在で――――だけどそれでも、一人にされたくなくて。一人にしたくなくて。置いて行かれたくなくて。置いて行きたくなくて。
だから、殺したのだ。
笑いかけてくれた人を、やさしくしてくれた人を、どうしたいか聞いてくれた人を、殺したのだ。
『ん、そうそう……これは別に嫌ってるから言うんじゃないよ? だってほら、事実だし――……キミのことを判ってあげてるからこう言ってるんだよ? そうでしょ?』
醜い。醜いのだ。
それを自分で選んだ癖に、本当はこれはいけないことなのだと――。
頭ではみんなみたいに、優しいということがちゃんとわかるのだと……人間なのだと、言い訳をしてしまうのが――どうしようもなく醜いのだ。
『ん、認めなよ。人生はくだらないんだって……自分はどうしようもないんだって。本当は妹を守れる癖に言われるままに動いてるキミは、特にどうしようもない呪われたお人形さんなんだって……認めなよ』
打ち付ける雨に頷いた。
頷きながら、何度も何度も刃を突き立てた。風の刃を解き放った。執拗に死を望んだ。シラノの死を望んだ。
そうだ――望んだのだ。望んでいるのだ。他ならぬ、自分が。醜い自分が。
「わたしが、こんなのを望んでてごめんなさい……っ! 悪い子でごめんなさい……っ、呪われてて、ごめんなさいっ……ごめんなさぃぃぃ……っ!」
零れ落ちた懺悔は、
「――いいや、呪われてるものなんてねえ」
その背後で――ばたりと、鮮血めいたマフラーがはためく音に掻き消された。
降り注ぐ雨の中、互いに五歩の距離の向こうに向かい合う。
真紅のマフラーは雨を弾いてそこにたなびく。
暗黒の鏡めいた流線型の甲冑はひび割れ、額の角も折れ砕けている。だが、割れた仮面から覗いた赤き瞳は――射抜くように、何かを訴えるように、歪みなくそこにあった。
そこに、イリスを静かに見据えていた。
「なん、でぇ……?」
「触れれば爆発するんなら……あえて爆発させた……。使わせて貰った……脱出への加速にな……」
外骨格の下、シラノは荒ぶる息を静かに絞った。
紙一重、であった。
破壊刃の檻を逆利用した脱出経路。幾度と触手を叩きつけ、加速装置として運用した。
常なる武具装具ならばそうもいかぬが、携行の必要なく本体の状態に関わらず連続的に呼び出せる――それが、触手の妙であった。
「なん、で、逃げて……くれないの……? 生きてたのに逃げてくれないの……? なんでぇ……!」
だが、そうではないのだと――短剣を構え、イリスが泣き叫ぶ。
……なんたる悪辣な手管なのだろう。
仮に己が討たれたとてイリスが止まらぬように――その為に奴は、淫魔は、洗脳だけでなく交渉という道義付けを行ったのだ。
事実、イリスは止まらぬだろう。
その手の攻勢の手段がなくならぬ限り――魔剣が失せぬ限り、彼女は殺戮を止めない。
故にこそ、
「やるしかないなら、退くべきときじゃねえ。……白神一刀流に、敗北の二字はねえ」
シラノは奥歯を噛む。
ここは死地だ。こここそが死地だ。ここで退いて、通せる道理など存在しない。
勝てるから戦うのではない。勝たねばならぬからこそ、戦うのだ。
「……」
静かに野太刀を構えた。
前に置くは左足。身体の前を横切るように刃を寝かせた型。霞――――そう名付けられた構えはその通りに、切っ先から静かに蒸気が上がる。シラノの全身からも蒸気が上がる。
霞の構え。
常なる戦いならば、左胸を隠す二の腕が心臓への刺突を緩める――甲冑の為の構えである。
「……」
涙なのか、雨なのか。顔をくしゃくしゃに歪めたイリスが刀身を解いた。
触手めいて柄から宙に漂う四本の魔力刃。その花弁の中心、蒼白に牙を剥くは絶対破壊の刃である。
ぽつり、ぽつりと二人の視界を雨垂れが通り過ぎる。
全身の薄皮を裂かれたイリスと、破砕された甲冑で震えるシラノ。
静かに絞られた呼吸と、荒さを隠しきれない押し殺した呼吸。互いに、この一撃が分水嶺と知っていた。
果たして、
「――――」
繰り出したのは、どちらからか。
咲くは、蒼。散るは、紫。
早撃ちの軍配はイリス――手中で炸裂する魔剣の推進力と、それを押さえ込む握力が繰り出す死域の刺突。
如何な防御とて無価値。左胸に被せた腕ごと心臓を貫きにかかり――――
『――――――――――――――ッ』
――――故にこそ、その必殺は相成った。
突き立つ切っ先。伝わる魔力。装甲を容易く炸裂させた刃が腕部へと達するその刹那――――まさに炸裂するその暴風が辿らせられしは、微細な空洞。
触手外骨格の内に設けられた虚ろの細道。合一に伴う霞を生んだその大元――――排気管であった。
膨張するその勢いのまま、暴風は管を駆け――――辿るは左腕、辿るは柄、辿るは刀身、至るは切っ先。
極限の圧縮時間のその最中、野太刀の先端から撃ち出された。
対するは蒼白の刃。四重に組まれた無敵の刃。
断てぬ無敵の刀身――――否、否、否、断てる……断てるのだ。いや――断つのだ。断たねばならぬだ。
触手剣豪は、魔剣を断たねばならぬのだ。
「イィィィィィィィィィィィィアァァ――――――――――――――――――――――ッ!」
声でなき、音でなき咆哮に呼応する。無量分の一の時間の中、シラノの太刀が呼応する。
さらなる圧縮。さらなる排気。今まさに蒼白の刃を穿つ風の牙が更なる加速を受ける。
触れしものに魔力を満たし、変換させた風によって破壊する無敵の刃。破壊の刃。蒼白の刃。その防壁は、この世の万物に勝るとも劣らない。
ああ――――だが既に知っている。だが最早知っている。
かつての邂逅――――その魔剣は、風の魔剣は、空気そのものに風の魔力を籠めることはできない。
故にただ、暴風として吹き荒れるのみ。ならば――
(――――『穴が小さい方が、水鉄砲は良く飛ぶ』)
より束ねて威力を増した風の刃ならば、その防御圏の突破が叶うのは自明の理であった。
果たして、甲高い音が一つ。
喰らいかかる風の牙は、蒼き防壁に覆われし真なる刀身を砕き穿つ。
音もなく魔力が霧散する。唯一の殺戮手段を失ったイリスから、殺意が霧消する。
「なん、でぇ……?」
呆然としたその瞳は、何に向けてだったのか。
考える間もなく――……口腔を満たす血の臭いを押し殺し、シラノは静かに告げた。
「……虹を見たいと、宝石を見たいと……言ったよな。それが、夢だと」
「ぁ……」
「俺は応援すると言った……置いてかせねえと言った。……それだけでいい。二言はねえ」
「なん、で……?」
見上げるイリスの左目を、静かに見詰める。
見詰め返し、言った。
「俺は、触手剣豪だ」
イリスの黄緑色の瞳が見開かれる。
雨はもう、止まっていた。




