第七十九話 セブン・レイバース・オブ・ケンゴウ その六
申し訳ありません。遅くなりました
呪術――“卑”に属する魔法であるそれは、明確な定理を持たない。
睨むこと、指差すこと、言葉をぶつけること――……様々な手管により対象へと不幸を齎す。逆に言うならば、その意志の下に不幸という“危害を加えること”しか呪術の定義はない。
病になるのか、狂うのか。
或いは死ぬのか、止まるのか。
そも、通じないのか。
敵対者の体調や精神状態によって結果の安定すら図れず、その効果の発揮時間も明確とは言えない。
ましてや――最も始末の悪いことであるが――“卑”に属する以上は“貴”のものにより対抗ができる。魔剣や魔術士、魔術道具を前には効果が通じぬ、という最大の防衛方法があった。
つまりはこの魔剣蔓延る大地において、こと戦いに主眼を置くならば……これほどまでに闘争に使えぬものも、他にあるまい。
「……」
だが――――闘争という観点において、技術は、人は、生物は、洗練される。淘汰されていく。
未だに呪術が潰えず、生き残るという意味は一つ。
それが罠や小競り合いではなく、純粋たる戦闘において駆逐されきらなかったというその意義。
その答えは――
『刻印呪帯拳!? あのアンダルキアの凶一手――呪殺拳士の一派だってのかい、キミは!?』
「……」
鏡から漏らされるボドウィンの声に構わず、バルドゥルは静かに拳を――無手を構えた。
そうだ。呪いの効果が安定せぬというなら、その手を以て効果を安定させるべし――。
呪術を帯びた拳――否、呪術を帯びた武闘こそがまさに刻印呪帯拳の要訣であった。
眼前には、刃物を生やした穢小人が二体。泡を浮かび上がらせる穢小人が三体。
呼吸が、緩く緊張を帯びる。
『いや……待ってくれ、叩いて相手の精神を漂白するのはいい。だけど、そいつらには精神なんて高尚なものもないし、ましてや同じ“卑”の気同士じゃ――』
ボドウィンが、叫ぶが早いか。
足の裏で巨大な泡を破裂させた穢小人が、正に放たれた火球めいて殺到した。
誰一人悲鳴を漏らすこともできない。
撃発と同時に最高出力に達するそれは、如何な生物の動きを超える。尋常な人の身の範疇に留まらぬ。
いわば必殺の死撃であり――
「ふゥ――――」
風切り音。続く、棍棒を叩き付けたかの如き轟音。
大鞭めいてしなる左右の腕が、跳ね上がる両腕が、連なる裏と表の両の拳が――迫る二体の弾体を掃き飛ばした。
歪にひしゃげて壁へと叩きつけられた穢小人に、しかし次いだ爆発。飛ぶもう一体――――だが同時、左腕が引き戻すまま振り下ろされた。
猛禽の翼が如く体の前後に広がった両腕。
その腕の甲は敵の首ごと直進の力を全て塗り潰し、反動で跳ねたその肢体へ目掛け――続く右の直突が喉元を抉る。
常人ならば、即死――……しかし常なる論理を外れる魔物が死する筈もなく、その身を起こし、
「溌ッ」
――終わらぬ。
歩法に続く十字打ち、袈裟下ろし、鉤打ち、直突――風車めいて肩から先が回り、暴風じみて繰り出されしは数多の連撃。
果たして――言うなれば、人間大の台風。
無数の連続技が、巻き起こる打撃の嵐が、死出への乱打が、油断なく矮小な穢小人の五体を完全に砕き散らした。
『なっ……は、あ、ええっ……!?』
ボドウィンの戸惑いに、返される声はない。
バルドゥルの呼吸に合わせて腹部が発光する――否、腹部に刻んだ紋章が腹式呼吸に呼応する。
塞印拳――即ち、印を塞ぐ拳。
南派に属するその武術は、他に呪力を叩きつけるのではなく己の身体に呪力を作用させる戦闘法である。
或いは石化した手足、或いは獣化、或いは樹化、或いは老化――成長――を我が身に起こし、繰り出されるは不撓の拳打。
呪いだけで敵を殺せぬならば、呪いにより敵を殺せる打撃に足る肉体を作り上げれば良いという単純にして明快な法理であった。
そして、淫紋使いのバルドゥルに起こる効果は――
「ふ――ゥゥゥ……」
潜めるような呼吸と共にやおら踏み出すバルドゥルに、しかし緊張はない。
性的興奮の為に不可欠な精神の弛緩――――。
心技体――技を殺し体を殺してしまう緊張や硬直。心の不足。そんな言葉は無関係であった。戦闘の負を受けず焦燥しないその精神に、套路のまま十全に繰り出せぬ技はなし。
そして、自動的に活発化する血流と高調する体温――――バルドゥル・ア・ランベルという少年に、事前の準備は必要なし。
如何な場所においてでも、常在戦場を可能とする――それこそがバルドゥルの収めし武の術理。
壁から身を起こした一体へと、
「破ッ」
振り下ろされしは袈裟がけの打撃。
咄嗟に掲げられた穢小人の防御の腕を叩き下げ、跳ねる右裏拳は返す刀で鼻の下――人中を貫く。
だが終わらぬ。
左の短鉤打ち。続く右の腕刀。斬撃にも似た疾風の一閃は、叩き巻くまま前腕で首筋を打ち折った。
「噴ッ」
迫るもう一体の右腕を叩き払い――だが止まらない。
敵の腕を弾く防御が、その反動のままに攻撃へと転ずる。
小人の腕の内側をレールめいてなぞり滑るバルドゥルの前腕が、穢小人の顎を打ち抜き――まだ、止まらない。更に加速する。
裏拳、弧拳、鉄槌――――煌めきにも似た瞬きで、散る拳閃。
手刀、背刀、猿臂――――風車めいて繰り出される数多の打撃。
人体を素手で肉塊へと変える音が止み、
「……《壱式》――四天喝破」
構えに戻るバルドゥルの、その身に灯る四つの淫紋――蒼天紋、昊天紋、旻天紋、上天紋。
呼吸に応じ灯る光。
蒼天紋――性的興奮に不可欠な副交感神経優位による弛緩と、上天紋――射精に不可欠な交感神経優位な緊張――――手足は流れる水の如く滑らかに、しかし瞬時に鋼めいて硬直を開始する。
鞭の如く振り回される斧の嵐――そう称する以外、その破壊を言い表せる言葉はない。
その場の誰しもが息を飲む。
いや、最も衝撃を受けていたのは魔術師であるボドウィンだった。
呪術や邪術、死霊術は魔術に比べて制限や制約が少なく、その領域というのが広い。できることが多い。
であるからこそ、逆に、その出力は魔剣は愚かそこらの魔術にも比し得ぬものである。
だが、目の前のバルドゥルは違う。
一体如何なる研鑽がその領域まで辿り着かせたのか……彼の持つ戦闘力は、魔剣と並べても遜色のないものであった。
「……仲間を庇う心は残っていないのですか。いえ――……見のつもりですか」
そして寂しげに漏らすバルドゥルの眼前には、ニヤニヤと直立する二体の穢小人。
それは果たして死後の堕落なのか、生前の模倣なのか……いずれにせよその二体には、窮地の仲間を救うという発想は存在しなかった。
その代わり、よく死んだとでも言いたげに頬をつり上がらせ――いざ放たれるは必殺の死撃。
膨れ上がるその肉体から、内なる穢れの作る黒刃が雨粒めいて放たれた。
『な――――』
凍るボドウィンと子供たちの悲鳴をどこか他人事のように捉えつつ、バルドゥルは奥歯を噛んだ。
近接を許さぬという、単純にして明快な攻略方法。なるほど、知性を有するというのは偽りではない。
……呪術の歴史は、古い。
間合いで勝る飛び道具を用いれば良いなとど――そんな道は、とうに過ぎた。
即ち、
「《参式》――超我開門、感度三千倍ッ!」
昊天紋――全神経の感度倍増による限度を超えた空間識覚と、旻天紋――脳内麻薬の氾濫による思考高速の齎す並列処理――――。
音にならぬ振動を聞いた。香りにならぬ臭いを捉えた。
風にならぬ空気の震えを、像にならぬ僅かな影を、味にならぬ毒の感触を捉え――情報が氾濫する。
極限に至る現状認識と思考速度は半ば未来予知の域に至り、すべてがバルドゥルの手中――その挙動はこの場の万物を支配する。
弾かれし金礫の一発。指弾。
その一打で、迫る数多の刃は支配下に置かれた。
強烈な衝突音と共に、弾け飛ばされた刃と破片――――激突する刃と刃。逸らされた敵刃同士による同士打ち。
撃ち逸らされた刃が別の刃に激突し、更にその刃が異なる刃へと衝突する。ぶつかり合う。狂った猪の如く、その味方内で傷つけ合う。
果たして、あるは僅かな残響音のみ――――刃が意思を持ち己から人を傷付けることを避けたかの如く、全てが逸れ飛んだのだ。
一片とて、本懐を遂げた刃は無し。
「疾ッ」
そして――踏み込み、一閃、二閃。
刀めいて振り下ろされ、振り上げられた両の腕が穢小人を沈黙させた。
人知を超えた緩急による軽妙にして豪快な高速猛打。極限の計算による場の支配。
それが南派塞印拳。
それが淫紋拳士。
否、これが――“骸拾い”のバルドゥル・ア・ランベルであった。
「……」
拳を抱くが如く、バルドゥルは胸の前で手を合わせた。
指を伸ばした左の掌は月を表し、握る右の拳は日を表す。或いは左は海と大地であり、右は己である。
是、即ちは天界・地上・冥界――三界を繋ぐ道の神にして呪霊の祖神〈霊魂と岐路と浄の女神〉への礼であった。
「……どうか、せめてその魂だけは安らかに」
拳を捧げ、呟くは一言。
静寂たる祈りは、燃える夜に吸い込まれた。
◇ ◆ ◇
「イィィィィィアァァァ――――――ッ!」
猿叫と共に疾走する豪烈さのまま、シラノの一閃が穢小人を縦に断つ。
残るは五。
奇声を上げて、色めきだった穢小人が向けるは手のひら――そこから生じた刃が瞬く間に放たれんとする正にその最中、シラノの発声に合わせ小人の眼前に生まれた触手鋼板が全弾を弾き返した。
矮小なその体躯は完全に紫の鋼板に遮られる。こちらからも――ましてやあちらからも。視界を奪われれば、混乱は避けられぬ。
逡巡と共に仲間に一瞬目線を向けた小人の――――その首が、宙を舞った。
「――」
鋼板をすり抜ける正面斬撃――“無明打ち”。
触覚による位置把握。そして、鋼板の液状化による刃の透過。壁や遮りだと受け止めたその思考の隙を、シラノは見逃さなかった。
だが、すぐさまに。
一人の首を断つ為に突出したシラノへ、鋼板がただの視覚阻害でしかないと憤怒した彼らから向けられる計・八つの殺意の視線。
怒りの雄たけびを上げた穢小人の瞳が刃めいて尖る。その小さな掌がシラノ目掛けて照準され――
「イアーッ!」
――――白神一刀流・九ノ太刀“陰矛・裏”
彼らの身体の前の、意識からはずれた鋼板から生じた無数の触手槍がその全身を撃ち抜いた。
ぐずりと、その身体が黒く溶ける。魔物は、魔物だ。形を維持できなくなれば、散るだけだった。
蜻蛉に戻る。灼熱めいて熱く重くなった肩口は、しかし疲労を呑み込んで刃を保つ。
目を閉じ探れども、後続は来ない。ようやくシラノはそこで、剣を下ろした。
「……」
燻る街角。
煤煙が未だ漂う空気を赤く燃やし、朝焼けが空を彩る。
それがシラノにいつか見た戦争映画の最後を想起させた。炎のような朝焼け。脱出する兵士。淡々としたナレーション……そしておもむろに最後に示される今日までのその戦争の犠牲者の数。
ただ一つ違うのは、シラノは現在進行形で、そして脱出はおろか真相までも遠いということだ。
橙色の水を塗りたくられたような石畳を進むシラノの手元の鏡から、何とも情けない風なボドウィンの声が漏れ出てきた。
『その、キミ、大丈夫かい? いや、その……大変な相手もいたと思うんだけど……』
「うす。まぁ、いきなりムカデみたいな尻尾が生えたヤツには驚きましたけど……」
ボリ、と頭を掻いて太刀を消した。
風船めいて膨らむもの、全身に短剣を生やしたもの、竜じみた鱗と翼を持つもの、粘体、炎の骸骨……。
近代のゲリラや民兵めいた装備の穢小人に紛れた改造尖兵――そうとしか言えない異形の兵隊たち。
まさに怪物と呼ぶしかないそれらが、燃える街の一角で猛威を奮っていた。さながら疫病であり、悪夢めいた偏執的な狂気であった……無論、すべからく斬り捨てたが。
『それにしても、あんなのまで出てくるなんて……』
「……やっぱり、進化してるんスか?」
『うん……少なくとも今までは見なかったからね……外でもあんなのは見たことないし、なんだってこんなことに……』
ああもう、と通信の向こうで頭を抱えるボドウィンの混乱も尤もだろう。
相応の知能に、人並み外れた身体機能。そして人に比べて小さな体躯。
こちらの世界で旅に出たばかりのシラノならば、或いは逆に討ち取られても不思議ではない三次元機動と耐久性であった。
(これが街一つを支配した結果……か)
唇を結び、僅かに黙する。
あの城塞都市での夜、淫魔の直接的な戦力となっていたのは邪教徒だ。
街を監視下に置き、魔術という武器を行使する彼らはまさしく武装したテロリストという厄介なものである他なかったが……個体の性能としては並だ。
それを補う為の――ヒトの知能を持ちケモノの肉体を持つ生物兵器と考えれば、合点も行くが……。
「……」
『うん? どうしたんだい?』
「いえ……」
『ううん? まぁ、アジトについたら部屋に来てくれるかな? これからのことを話そうじゃないか!』
「うす」
確かに敵に如何なる隠し玉があるかは、ここで論じても答えの出ぬものである。
映画のヒーローのようにはいかない。己はただひたすらに、目の前の敵を斬り捨て続けるしかない。
斬れば死ぬ。ならば論ずるべきは如何にして斬るか、であった。
いつしか昔ほどの疲労も覚えぬぐらいに人斬り包丁として出来上がってしまった己の身体に吐息を漏らし、隠れ家のドアを開けば、
「そうそう、もう少し腰を沈めて……そう! 腕は鞭のように使うんだ!」
「……」
子供武術教室が開かれていた。
……落ち着いて扉を振り返った。ここは児童館のホールでも小学校の校庭でもない。隠れ家の筈だ。
何度か見る。いや、やっぱり隠れ家だった。あってる。
「あ、おかえりなさい! ご無事でしたか? 何か変わったことは?」
「いえ……」
変わったというならシラノなどより、この隠れ家である。
改めて部屋を見回す。
身体を動かした爽やかさからか、子供たちにはどことなく活力と笑顔が宿っていた。心なしか、雰囲気も和らいでいる。
ほうと、口から自然と息が漏れた。
「……すごい、スね」
「え?」
「いえ、こういうの……中々、できることじゃないです。バルドゥルさんは……すごい人だ」
「え? あ、ありがとうございます……?」
「うす」
どこか伝わっていないような様子のバルドゥルを前に、静かに頷いた。
人を笑顔にさせる。
それはきっと、この世の何よりも尊いものだ。ましてや、武を用いて――……暴力を元にして。この環境の子供たちを相手にそれができるというのは、もっと誇ってもいいほどの偉業だった。
後頭部を掻くバルドゥルが、伺うように切り出した。
「あの……ええと、その……街は、どうでしたか?」
「一通り、敵は斬り捨てました。一体一体はともかく……数が揃うと厄介かもしれないスね」
「そうですか。……早く、なんとかしないと」
「……ですね」
成り行きで巻き込まれたとはいえ、ここで外に逃げるという選択肢など存在するはずがなかった。
「バルドゥルー! これでいいのー?」
「あ、そこは……! ……えっと、すみませんシラノさん。その……」
「……うす。大丈夫スよ、待ってますから」
腕を組んで壁に寄りかかる。
シラノへはどこか警戒しがちな視線を、バルドゥルには親愛が含まれた目線を――……汗を流す子供たちを眺め、静かに息を絞る。
守らねばならない。
これを、守らねばならない。
この輝かしく暖かくも儚いものを、守らねばならない。
拳に力が入る。これこそが今のシラノにできる唯一であった。
(……?)
だが、その中でもやや外れた場所にイリスとイネスが立ち、特にイネスが、なんとも不満そうな目を彼らに向けているのが僅かに気に残った。
ティグワースの籠もり蜥蜴――精神は冷血で、岩場の蜥蜴のように積み上げた砂本の山に身を隠し、身を出せばちょろちょろと介入してきて煩わしい。
魔術研究者には、そんな意図を込めた蔑称もあるそうだが、
「さて、お疲れ様! キミたち二人のお陰で特に子供たちに被害もなく終わらせることができた……ここは本当にお礼を言っておくよ! ありがとう!」
「うす」
「いえ、そんな……」
改めて顔を突き合わせた室内で、ボドウィンが陽気に手を叩いた。
ただ、室内は散らかっている。
というか、あれからまた酷くなっていた。主に酒瓶だ。エバーハルトは、相変わらず気付けに呑んだくれているらしい。
そんな散乱した部屋の様子に顔をこわばらせながら、ボドウィンは切り出した。
「さて、ここからどうするかなんだけど……普段はボクも同行して、なんとか相手の支配下の鏡を奪っているんだけど……あんなのが出てきたらと思うと……その……」
「……何か、懸念があるんスか?」
「いや……そうだね。少なくとも今までは襲撃もあったけどあんなに大規模ではなかったし、キミたちが戦ったような……“変種”はいなかったから……」
ボドウィンが眉を寄せれば、バルドゥルがにわかに問いかけた。
「僕やシラノさんが来たから……相手の対応も変わったということですか?」
「うん、まぁ……言いにくい話なんだけど……それが一番あり得るかなぁ……って。だからなるべくボクも、この部屋を開けたくないんだ。何かあったときに備えてね……子供たちに何が起きるかもわからないし……」
「そう、ですか……」
二人の会話を聞きつつ、シラノは閉じた瞼を上げた。
ボドウィンに嘘はない――――少なくとも本気で子供たちを案じていた。
故に、
「……逆に」
シラノは静かに口を開いた。
「逆に、壊すだけ壊しちゃ不味いんスか?」
「……え?」
「いや……今街にある〈監視の鏡〉の内、こっちで回線を真似してないものを片っ端から壊しちゃ不味いんスかね」
提案や打開策というには些か拙速であり暴力的であるが――ひとまず思いついたものは、それだ。
「理屈の上なら、それでも相似にできる筈っスけど……」
「あ、確かにそうなんだけど……でもそれだと監視者側がどんな手段に出るか……領主にも被害が及ぶかもしれないし、街の人にも……」
「……俺たちが加わった時点で――昨日の敗北を受けて、相手の対応が変わるかもしれない。これから、また仕掛けられるかもしれない。それなら逆に、こっちも早く動いた方がいいかと……」
「……」
「それに……どっちにしてもいずれは乗り込むんです。ここで……きっちり首級を取ってくれば、問題ねえ」
静かに唸るように向けた目線に、ボドウィンは逡巡し――……
◇ ◆ ◇
「……それじゃあ、知らないんスね?」
シラノの問いかけに、警戒するような目を向けている子供たちは頷いた。
時間はかかるが、会話は成立するようになった。正直自分とバルドゥルでここまで対応に差がでるのはなんというか些か腑に落ちないが、
まぁいい。いや、気にしてないからいい。かつての妹や弟ぐらいの年齢の子供に怯えられることは特にまったく全然気にしてないから構わない。気にしてないったらない。
ふぅ、と息を零す。
てっきりこの場にいた一人かと、あの少年のことを伺ってみるも誰一人として知る者はいなかった。
……となれば彼は、街に家族を残して一人で助けを呼びにきたのであろうか。
「……」
重く、口から吐息が漏れていた。
それはまさしく、この状況を作ったであろう淫魔の狙い通りであろう。やはり、斬り捨てねばなるまい……そんな思いが胸の内で黒く冷えていく。
ともあれ、まだ確定ではない。ボドウィンや、あれから顔を出さないエバーハルトが覚えている可能性もあると階段を目指し、
「……仲間の人が」
下ってきた青髪の少女が、おもむろに壁の外を指差した。
向かった裏庭に居たのは、バルドゥルとイネスであった。
イネスは長い下睫毛の黄緑色の目を尖らせて、バルドゥルは黒銀色の瞳を困惑がちに揺らしつつも強い意志を湛えて。
二人は向き合い、何事かを論じあっていた。
「だからなんども言ってるよね? あたしたちに余計なことはしないでって……」
「……武に携わる者として、余計なことという言葉は僕にも聞き逃せない。力にもなるし、この場の空気の中でも助けになれることです……! 君たちぐらいの年頃で、ここには娯楽が少なすぎる……!」
「だから、それが要らないことだっていうのがなんでわからないかなー?」
おおよそは、分かった。
イネスは……おそらく場を荒らされることを嫌い、バルドゥルは善良な武術家としてこの場を見過ごすことを嫌った。そして論が合うことがなく平行線……そんな話、なのであろう。
「……どうしたんスか、二人とも」
「は? ……あー、なんで増えちゃうの? おにーさんには関係ないから、どこか行っててよ」
「いえ、シラノさんは関わりがある。彼だって昨日の夜、命懸けで戦っているんです」
「だから……本当はそれをしてるのも、それをしなきゃいけないのもあたしたちで……!」
毛を逆立てるように、余計にイネスの顔に険が増した。
彼女は排他的だ。……いや、そうとは言うまい。詰みあがった仲間の死体や家族の躯を受けては、そうなるのも無理もない話であった。
静かに息を漏らし、ゆっくりと口を開いた。
「……そこまで反対するからには、イネスさんにも理由はあるんスね」
「なに。あったらどうするの? それも言わなきゃいけないってことかな? ……あたしは、余計なことをするなって言ってるんだよね。それに、余計なこともしたくないの」
「余計なこと、ってのは」
問い返すシラノに、イネスは余計に苛立ったようだった。
だが、視線を逸らさずに見詰め続ける。どれほどそうしていただろうか。やがてイネスが、目を逸らしながら言った。
「……半端に武術なんて使おうとしたら、危ないよね。初めだって、皆が勝手に戦おうとして……勝手に戦おうとするせいで、何人も死んで……。そうやって死なれたくないの。苦労して今の形にしたんだから、邪魔しないでくれないかな」
「……」
「『飛びたての竜は大蛇に劣る』……そういうこと、ですか。だけれども、選択肢が多い方が助かる場面も――……」
何かを考えるようなバルドゥルが、首を振った。
「……判りました。悪戯にこの場を掻き乱すことは僕としても望ましくありません。生兵法にするつもりもありませんが……共に居て危険だと思ったというなら、あなたに従います」
「……」
「ただ、これだけは忘れないで欲しいんです。いつ死ぬか分からないからこそ、人には楽しみが必要で……武とは敵を倒すためのものではなく、人生に意義を創るためのものなんです」
「……いらないよ。意義なんて。分からないから」
「ええ。……だから今は、僕もあなたに従います。今、このときは」
「……ふーん」
腕を組んだイネスは、どこか気が削がれたように立ち去っていく。
人一倍、彼女は感受性が強いのかもしれない。だからこそ誰もが声を上げる事すら捨てていたこの場で、未だに感情を保っている。
それが、救いと呼びきれぬのは、ひとえにこの狂った戦場のせいだった。
「……よかったんスか?」
「笑って貰うためのものでしたから、怒らせても仕方がないかなって。それに……確かにこの拳は、呪術がないと本当の意味で完成とは呼べませんから。……あんな子たちに淫紋を刻むなんて、妻に叱られてしまいます」
「…………………………………………え」
「どうしました?」
妻。
つま。
「…………バ、」
「バ?」
「バルドゥル先輩……」
「いえいきなり本当どうしたんですか!? なんでいきなり!? なんでそんな流れになるんですか!? え!?」
「バルドゥル先輩マジ半端ねえ……」
「え!? どうしてこの流れで!? ええっ!? いやシラノさん!? シラノさん!?」
なんというか、こう、男としての格の違いを思い知らされた気分であった。
◇ ◆ ◇
がりがりと、砂版の上にある地点が消されていく。
紙の加工技術の進歩を待たずに発展した粘土版や蝋版の延長線上にあるそれは、この竜の大地において最も一般的な筆記用具の一つである。
そこに、ボドウィンが次々と書き足していく。バツの印が、増えていく。
たんぱく質の為なのかやたらと豆だらけの朝食を済ませた後に、一行は街の攻略を開始した。
子供たちを率いて街を駆けるのはバルドゥル。不満そうであったイネスも、今度ばかりは飲み込んでいた。
また、ガリと印が増えた。バルドゥルの方はどうやら順調に破壊工作を行えているらしい。
壁一面に鏡が並べられた部屋を一望して、シラノは厳かに口を開いた。
「……エバーハルトさんは?」
「あいつは……あんな風にしてるけど、随分と怪我が酷くてね。この街にきたばっかりのときにやられて……治りかけたと思ったら、また自分で戦いに行こうとするし……」
「……」
「示しがつかない、なんて言ってたけどね。……あいつに死なれたら、子供たちの教育役はどうなるっていうんだい。困ったヤツさ」
ははは、と疲れたように笑うボドウィンは二人の付き合いの長さを感じさせる。
瞼を開き直す。
嘘はない。この期に及んで彼を疑っているわけではないが――あの夜の戦闘から、シラノにはどうしてか違和感が付きまとっていた。
いや、今もこうして鏡を前にしていると、不可思議な胸騒ぎに襲われる。あたかも切腹後に介錯の刃を振り下ろされるかのように、首の後ろが落ち着かない。
黙っているシラノが不安に駆られているのかと思ったのか、ボドウィンは陽気そうに笑いかけた。
「大丈夫。きっと上手くいくさ! ……というか上手くいってくれないと困るというか、上手くいかなかったときのことは考えたくないというか……ううんここで絶対に上手くいくと言えないのがボクの悪い癖なのかなぁ……なんだろうなぁ……」
何故か一人で頭を抱え出したボドウィンを見ていると、吐息が漏れた。
彼は善人だ。その仕草も立ち振る舞いも、どこにもに嘘はないのだ。
それよりも気がかりなのは……
「……大丈夫、なんスか?」
「ぇ、と、えっと……」
部屋の隅で怯えるように目線を送ってくるイリスのことだ。
どうしても――やはり、直接の首謀者への敵討ちには彼らの同行が求められた。というよりは、イリスが名乗り出た。
無論のことながらイネスがそれを遮ろうとしていたが、どれほどたどたどしくもイリスは折れなかった。そして今、シラノと共に討ち入りの為に待機している。
……正直な話、彼女は、向いていないと思えた。今もこうして決行を待つ間ですら、緊張に飲み込まれそうになっている。
「……怖いのは俺も一緒だ。だから――きっと、なんとかなる」
「う、ぇ、あ、えっと……えと、あの……」
「吐ききってから息を止めて待って、それで深呼吸するといいっスよ。多少は気が紛れるんで」
「あぅ、う……えと、うん……」
小さな手を腹に当てながら、イネスが何度も深呼吸をしていた。彼女の得物は杖と短刀。後者はほとんど、護身用にしかなるまい。
そうして、どれほど待っただろうか。
指示を出すボドウィンの声が止み、そして、
「シラノくん、イリスちゃん。出番だよ……準備はいいかい?」
改めてされたオーダーに、シラノはおもむろに壁から背を離した。
昨日の焼け跡も消え切らない街で、少年たちを率いるバルドゥルは安堵の吐息を漏らす。
これで、最期の鏡を破壊した。
破壊により回路が有効となり発動する罠の仕掛けもない――つまり、相手の内にいる魔術士は一人。監視鏡の作成と維持で手いっぱい、ということだ。
これが呪術ならば、『破壊された際に呪いを齎す』などという大まかすぎる条件付けも可能であるが、魔術に限ってはそれもない。そういう意味では、魔術は悪辣とは呼べないものだ。
少しは助けになれたろうかと空を見上げようとするバルドゥルの目に映ったのは、複雑そうな顔のイネスであった。
……敵討ちの主導権を横から掻っ攫われたようなものなので、その表情にも無理はあるまい。
「……ごめんなさい。でも、今のままでは犠牲が大きすぎる。……ずっと戦ってきたあなたたちにとって酷かもしれないけど、ここはどうにか受け入れて貰えたら……」
そう伺うバルドゥルが見たものは、信じられないものであった。
信じられない――いや、驚きだ。バルドゥル自身も驚いたし、何よりも、
「ずっと? ……あたしたちが戦い始めたのは、つい昨日だよ?」
髪の間から零れ出した片方の瞳を、イネスは、きょとんと広げていた。
その瞬間、不思議と、バルドゥルの内である違和感が言葉として浮き彫りになる。
この街には、老人が一人もいない――――――。
空間が、蒼く染まる。視界が、蒼く染まる。
空中を浮遊するような、水面を漂うような落ち着かない酩酊感。それが、この世界で初めて受ける空間転移がシラノに齎すものであった。
そして、それが転ずる。
全身を、凄まじい電撃が――電撃めいた斥力の茨が駆け抜けた。喉から苦悶が漏れる。神経が鋸にかけられる。指先が、踊った。
過剰逆流――話には聞いていた。魔剣と魔術の喰い合わせ。貴と貴の衝突。魔なる反発力。
転移で曖昧になった己の体感覚に突き立てられし苦痛の茨は、シラノから空間識覚を奪い尽くした。
その場でのたうち回りたい衝動と、何が起きたか戸惑う混乱――……だが己の精神は、肉体は、何よりも早く判断を下した。
咄嗟にイリスの身体に覆いかぶさる。これが攻撃であるなら、必ず追撃が襲い来る。
「――――ッ」
果たして主のいない監視部屋が、転移された爆轟に包まれた。
否。
それよりも深い苦痛として、平衡感覚を揺さぶられたシラノの身体の――その腹を、刃が貫く。
震えるイリスの指。回路めいた模様を持つ刀身。漏れる蒼い燐光――――。
(〈風鬼の……猟剣〉……ッ)
かつて己が叩き折った魔剣が、短刀に仕立て直された魔剣が、腹に深く突き立てられていた。
◇ ◆ ◇
飃と銀色の風が石畳を抜ける。
その胸の内には、焦燥。紛れもない焦燥。地を駆けるバルドゥルは、ただ一心に両足を動かした。
そして扉を蹴破ったバルドゥルの目の前に広がっていたのは、まさに信じられない光景であった。
滴る、血液。
変わらずに包帯だらけのエバーハルトが、今まさに――手にした長剣で青髪の少女の腹を貫いていたのだ。
「エバーハルトさん……あなたは……!」
咄嗟に拳を握り、一歩を踏み出さんとする。
であるからこそ、バルドゥルは余計に不意を突かれた。
「ん、これでおはよう――っと」
吐血する青髪の少女が漏らした場違いに甘ったるい囁き。男を揺さぶる、官能的に甘美な声。
少女が鼻先に眼鏡を乗せる。
その瞬間――置き換わる肉体。切り替わる外見。鏡に映した像を上から塗り潰すかの如く、存在が置換されていく。
現れたのは、イネスたちと揃いに誂えたような少女服。それに身を包んだ、低い身長と似つかわしくない豊満な肉体。
薄紫髪の揺らして、少女は――――たった今殺害されて蘇生された恐るべき怪物は、軽薄に肩を崩した。
「や、触手使いもどんなものかなーって思ったけど簡単だよねぇ……はは、それとも私が天才過ぎただけかなー? こんな場所じゃ大人から話を聞こうとするし、一度疑ってかかったあとは信じやすいもんねぇー……」
「お前は、なんだ……! 何を言っているんだ……!」
「ん、あれ? 私を前に口を聞く余裕があるんだ。へー? 淫紋使いだからかなあ? ふぅん?」
舌を舐めずるその様すらも、バルドゥルにはおぞましい。
これは、ヒトではない。
何故、今まで気が付かなかったのだ。
何故、紛れているこれに気付かなかったのだ。
紙面の上の絵を眺めるように、道端の虫けらを見るように、人間に対して無邪気にそんな視線を向けられるものが――ヒトである筈がない。
そして少女は両手を広げ、
「ん、私はレイパイプ。千年帝国――――人間牧場の管理人だよ!」
そう、邪悪なる囁きを漏らした。




