第七十八話 セブン・レイバース・オブ・ケンゴウ その五
遅くなりました。すみません
◇ ◆ ◇
人は死ぬときに、何かを残していかねばならない――。
誰かがそう言っていた。
不器用な犬小屋でもいい。武骨な剣でもいい。上手と言えない絵でもいい。
庭にただ石を並べるだけでも、拙い歌を記すだけでもいい。
何か一つだけでも、この世に生まれてきた跡を残す。己の生きた証を残す。
それが己の為となり、遺された誰かの為となる。
人々はこれまで皆そうしてきたし、これからもそうしていくのだと。
それが、生きると言うことなのだと。
それが、生きる意味なのだと聞いた。
世界は止まってくれない。運命は留まってくれない。
この世は、どこまでもただ流されていく。全ては過去となり、やがて無尽蔵の歴史となる。
楔が必要なのだ。
生きたという、楔が。
……世には、何一つ残せずに逝く人がいる。
誰かの為に立ち上がりながら、誰かの目に止まらない人がいる。
ことを為さんとしながら、その真っ只中で果てる人がいる。
最後に出来上がる絵を見られずして、尽きていく人がいる。
志の半ば。旅の途中。帰路の最中。
世は、待ってくれない。時は、許してくれない。別れは、止めてはくれない。
世界というのは、人の願いを飲み込んで無慈悲に進んでいく。
悲しさは人を癒やさない。
寂しさは人を守らない。
この世に遺せぬなら、残らぬなら、その人の意味は周りごと哀惜の闇に流されてしまう。
そしてただ、誰かにとっての大切な誰かは、名もしれぬ誰かという路傍の石に変わってしまう。
だからこそ。
だからこそせめて、その躯だけでも――誰かの元に。
魂が帰れず、心も果て、声も残らぬと言うのであれば。
何一つ戻ることもできず、返ることもないと言うのであれば。
せめて――。
せめて――その躰だけでも、誰かの元に。
生きた証を、届けねばならない。
生き抜いた証を、伝えねばならない。
人は、生きたのだと、伝えねばならない。
それが、自分が生きるという意味だ。
ここに、いるということだ。
それが、自分が生きる意味だ。
それが、自分という名の刻印だ。
◇ ◆ ◇
「だからあれだけ言ったろう!? この部屋は酒盛り用の部屋じゃないんだ! 出る前に片付けてくれと言ったじゃないか!」
「ああ……悪い悪い。その……なんか忘れててな」
「なっ……悪いじゃないよ! この間もそうだっただろう!? この歳でもうボケが始まったのかい!? キミはいい歳して独り身なんだ……いくらボクだってそこまでは面倒見切れないよ!」
「男に尻を拭いてもらう趣味はねえさ」
「ボクにだってないよ!? ……というか、そう言うんならどうして片付けないんだ!? 子供たちの教育に悪すぎる! 分かってるのかい!?」
「……お前のあの研究室よりはマシだと思うがね」
強気に捲し立てるボドウィンと、受け流して笑うエバーハルト。
随分と付き合いも長いのだろうか。そこには、大いに気安さが含まれていた。
シラノとバルドゥルを置き去りにしたやり取りからしばらく――荒げた息を整えたボドウィンが、おもむろにシラノたちへと向き直った。
「ごめん、見苦しいところを見せたね」
「本当だな。二人とおれにもっと謝るべきだ」
「……………………。さて、気を取り直してそれじゃあボクたちの計画について話そうか。……少し専門的な話になるから、ざっと噛み砕いて説明するよ?」
質問は都度入れてくれ、とボドウィンが襟を正す。
「魔術における支配率の話は分かるかい? 一つの相似魔術が使われている対象に、相乗りができないって話なんだけど――」
「……前に少し。〈浄化の塔〉の影響が強すぎて、水晶玉で街の遠見ができないって……」
「そう、よく知ってるじゃないか! だから本当はこの〈監視の鏡〉――そう呼ぶことにしよう――をこっちで盗み見ることはできないんだ。あちらでもう鏡と鏡を繋げてる……それをこっちに引っ張ることは殆ど不可能だ」
街に置いてある鏡その一に対して相似化できるのは、最初に接続した一つの鏡に限られる――とボドウィンが砂板に絵を考えた。
早速、疑問が湧く。
なら、目の前に広がっているこの光景は――なんだというのか。
「そうとも、乗っ取りは不可能だ。……そこでボクは考えたのさ。〈監視の鏡〉と相似にするのではなく、回線そのものを真似ることにしたらどうか……ってね」
「回線そのもの……スか?」
「そう、実際のところ何故ほとんど不可能かと言えば……先に使われることで物体が帯びる“貴”の力が、反発してこちらの魔力を削いでしまうからだ。魔力逆流――魔剣と魔術を同時使用することに似ているね」
「……」
「相似の魔術を使う為の魔力が、その妨害の分で減らされてしまう。……そうなると魔術が成立しないんだ。ええと――例えるなら粘土かな。同じ像を創ろうとしているのに、粘土の量が減らされたらできないだろう?」
分かるかい、とボドウィンの尖筆が砂板を削る。
「それを無視する為には、よほどのバカげた出力――純粋な森人族にしかできないような手段を使って強引に作るか、それとももう一つ……」
「なんですか?」
「因果関係を強くすればいいんだ。因果関係というか……関係性かな。……というのも、相似魔術の力が裂かれるのは大きく分けて“どれと相似にするか”という特定と、“実際に何を起こすか”という発生にだ」
「特定と……発生……」
「発生の方は、今回は単に鏡に映った映像を再現してるだけだからあまり力が要らない……。となると、大事なのは“この世にあるどの鏡とどの鏡を相似にするか”という特定の方で……」
ガリガリと砂を零しながら、ボドウィンは四角を二つとその間に直線――鏡と接続だろうか――を描き、それを丸で囲む。
そのまま、すぐ下にそっくり同じものを書き写した。
「“鏡と鏡を相似にしている鏡”……という情報で特定して、それを映してる……ってことスか?」
「そうとも! 似ているだけ……特定するための条件を揃えれば揃えるだけ、因果関係を作るのは楽になる! 魔力の消費が少なくなる! この辺りは感応魔術との複合になるけどね!」
どうだい、と胸を張る。
全く外見は似ていないが、その仕草はどことなくフローに似ていた。
ともあれ門外漢のシラノにとっては、
「なるほど……すごい、ですね」
「そうだとも! いや、分かって貰えて何よりだよ! そこのエバーハルトなんか、これがどれほど革新的な話かまるで評価してくれないからね! うん、ボクをもっと褒めてくれていいんだよ?」
「すごいですね、ボドウィンさんは……天才だと思います」
「ふ、ふ、ふ……そうだろう? そうだろう? いやー、伊達に研究してないからね!」
「発想も手段も、普通の人を超えてます」
「はっはっは、いやーキミって褒め上手だねー! キミに師匠がいたらさぞかし褒められ続けてて毎日嬉しいんじゃないかな!」
「……」
そこはノーコメントにしたかった。
「で、これは本題じゃない。この数か月……ボクらが何をやっていたか、と言えばだ」
「……」
「相手もこの街を鏡を使って監視しているだろう? そして、この部屋だって相似にした〈監視の鏡〉の回線を使って街を監視してる――つまり」
「……相手の本拠地とも、相似にできる?」
「そうとも、ご明察だ! キミは素晴らしい理解力の持ち主だね! そう……ボクらは敵の部屋そのものとこの部屋を繋げるんだ! つまり、直接的に相手の本拠地へと乗り込めるってことさ!」
「……!」
「特定の為の条件が揃えられれば揃えられるだけ魔力の消費が少なくなる……そうすれば“どこにあるかも分からない”相手の部屋へ、“転移”なんて魔力の消費が大きな力を使うこともできる!」
幾本も線が伸びた小部屋の絵を描き、それを丸で何重にも囲ったボドウィンは胸を叩いた。
理屈は判った。
空間跳躍による首狩り戦法――――街を実質的に支配下に置く相手へ、戦力の過多に影響されない強襲。
これはまさに、
「これまで随分と時間がかかったけど……これで相手を取り逃がす心配もなければ、人質状態の領主への影響も最小限に抑えられる。まさに……街を救う一手になるんだよ!」
――起死回生の一手であった。
◇ ◆ ◇
沈みかけの夕日の匂いを乗せた風が頬を撫でる。
土塊を踏み抜き、歩く。無言で歩く。
その先に、それはあった。
木の杭で作られた簡素な墓。杭に架けられた首飾りや、衣服……その下に眠っているものなど、分かりきっているだろう。
それがいくつも、屋敷の裏手に並んでいる。
どれも未だ真新しい。決して多いとは言えぬが、少ないなどとは口が裂けても言えまい。
「……」
両手を合わせた。飄と耳元で風が唸る。
敵が淫魔とあらば、直接の討ち入りを行えるのはシラノだけ。
そのことを何とか湾曲的に伝えようとするも――……あのボドウィンですらも歯切れが悪かった。よほどそれほどまでに、少年少女たちの復讐の念は強いというのか。
……いや、これを見れば自明だ。愚かしい問いかけにしかならない。
彼らは、家族と仲間の死の上に成り立っている。
「……」
復讐。
或いは仇討ち。
どちらも平和な現代をのうのうと生きてきただけのごく平凡なシラノには、実感の馴染みのない言葉であった。
こちらの世界に来てから――いや、戦いに身を置くようになって改めて沁みる。
自分はただ、生温い現代人の延長線にしかいない。戦いの場に身を置かぬ限り、簡単に切り替えることもできやしない。
(……他人に何か言えるだけ、上等な人生を歩んじゃいねえ……か)
柄頭を押さえて吐息を漏らした。
なんとも、難しい問題だった。含蓄ある言葉など捻り出せそうにない。
とは言え、みすみすと淫魔との戦いをさせるわけにもいかず――……。
「ひゃっ、ぁっ、えっ、ぁ、ええと……」
そうしていると、背後から声がかかった。
桶いっぱいに血塗れの包帯や服の山を抱えた、あの双子の片割れの――イリスという少女だった。
じゃぶじゃぶと、木桶に汲んだ水で服を洗う。
前世では入れ歯洗浄剤やボディーソープを使えば血の汚れは落ちやすいと聞いたが、生憎とそんなものはない。
それでも石灰と植物油を合わせた石鹸はそれなりに有効なようで、少女は手慣れぬ様子ながらも次々に洗っていた。
無言で手伝うことしばらく……。
「お、おにーさんは……エバーハルトさんたちみたいな……冒険者、なの?」
鼻先についた泡に気付かぬまま、少女が問いかけてくる。
ようやくイリスは、多少なりともシラノに気を許したらしかった。
「……いや。俺は、触手剣豪だ」
「え、と……触手、剣豪……?」
「……」
伝えるのか。
無垢な少女に。触手が世間一般的にどう思われてるのかを。
明らかに対象年齢がお高めなアダ名とかを。伝えるのか。ここで。人気のない場所で。
……確実に事案である。フローに顔向けできない。腹切って詫びるしかない。
「その……まぁ、戦うんスよ。敵と」
「戦うの? じゃあ、イネスちゃんも……触手剣豪なのかなぁ……」
ぼんやりと少女が首を捻る。いやまぁ絶対に違うと思う。
……ともあれ。
頭を掻く。この世界の子供の就労事情に詳しくはなく――……彼女が特別そうなのかもしれないが、やはり、見たところでは子供だ。記憶の内の現代にある子供と変わらぬ、子供だ。
それが、復讐。
復讐論の是非はともかく……やはりあまり放置していいこととは、思えなかった。
「……」
見詰めすぎた為か両手で顔を隠され、泡だらけになられ、それを何とか洗い落とすのを手伝って、呻くように目を擦るのが終わるのを見計らってから口を開いた。
「なんか……他にやりたいこととか、ないんスか」
「……ぇ?」
「戦いが終わったら、したいこととか。……本当は、やりたかったこととか」
「ええと、や、やりたいこと……? えっと……えっと……」
唐突すぎたのか、答えは要領を得ない。
「なら……その、戦うのは……嫌じゃないんスか? 強制されたり、してないのか?」
呼吸を落ち着けて、静かにイリスを見た。
慌てがちに赤面している彼女をじっと待つ。どれほど、そうしていただろうか。
両手で顔を隠した彼女が、おずおずと口を開いた。
「えっと、その……怖いし、よくわからないけど……イネスちゃんがやらなきゃって言ってるから……やらなきゃ、駄目かなぁって……」
「……」
「みんなも戦ってるから、イネスちゃんだって……えっと、あの、その、それで、イリスはおねーちゃんだから……あの、えっと……」
「そうか。そうだよな。……置いて、いけないよな」
「そ、そう……そうなの。うん、そう……えっと、その、だって……イネスちゃんが、一人になっちゃうから……」
「あァ……そうだよな。……妹や弟は、大切だよな」
「う、うん。……弟は、いないけど。でも、あの、イリスはおねーちゃんだから、あの、えっと……」
責任感。
いくら子供だからと言っても――いや、子供だからこそ余計に抱えてしまうのかもしれない。
瞳を閉じ、腹から息を吐いた。
彼女や彼らが戦う理由。戦わされている――或いは戦わなければならない。そんな状況もあるのかもしれない。だが、戦いを選ぶ理由は分かった。
ならば、と立ち上がろうとし、
「あ。えと、ええとね……? イリスの名前は虹って意味で――イネスちゃんは、宝石なんだって……ボドウィンさんが言ってて……」
「……?」
「その、だから……いつか、二人で見れたらいいなぁ……って……。えへへ……こういうのでも、いいのかなぁ? やりたいことって……」
「――」
はにかむ少女の姿に、目を見開いたまま僅かに停止した。
そして――息を大きく吸い込み、シラノは膝を折った。
「……約束する。俺が、その夢を応援する」
「えと……」
「……俺にも、弟と妹がいたんだ。同じだ。……だから、頑張ろうな」
「う、うん……そうなんだ……一緒、なんだ……。へへ、一緒なんだねぇ……」
「ああ。……そうだ」
「えと、えへへ、一緒に……がんばろ?」
「ああ。一緒に。……必ず。君には、置いていかせねえ」
首肯を一つ、決意は定まった。
たとえ何を言われようとも――たとえどう思われようとも。決して死なせない。死に繋がる淫魔との戦いは、させられない。
言うまでもない。そうだ。己の剣は、その為にあるのだから。
「シラノさん、ここに居たんですか!」
「バルドゥルさん」
「ちょっと手伝っていただきたいことがあって……ここの武器を確認しようとしたんですけど、誰も聞いてくれなくて……」
「……なるほど」
あの後もボドウィンとの打ち合わせも熱心に行おうとしていたバルドゥルには頭が下がる。
やはり、明らかに歓迎はされていないのだ。如何にしてこの中で、信頼を勝ち取るべきか……できずとて説得を行うべきか。
得手でないという言葉は許されないと口を結び、
「あ、君は……」
シラノの影にさっと隠れたイリスへ、バルドゥルが腰を折った。
「僕はバルドゥル。“骸拾い”のバルドゥル。呪術……いや、紋章拳士だ。よろしくね? イリスちゃん……だったよね?」
「えと……」
「ああ、僕もシラノさんと一緒だよ。魔物退治の専門家なんだ。君たちと一緒に戦いに来たんだ」
「一緒、に……?」
「そうだ。必ず――……必ず君たちのお父さんとお母さんの無念を晴らすって、約束する」
バルドゥルは清涼ながらも確かな笑みで、銀髪を揺らしながら首肯した。
背中越しにイリスの警戒が薄れた気配が伝わってくる。彼は自分などよりもよほど、冒険者らしい冒険者のようだ。
そんなバルドゥルは、柔和な笑みのまま、
「ただ、これだけは忘れないでいてくれないかな? 僕が遺体を届けるとき、どのお父さんもお母さんも言うことは一つなんだ。せめてもっと生きていてほしかった――……いつだって皆、そう悲しむ」
「えと……」
「もう、君たちの家族はいないかもしれない……だけど、だからこそ弔うことは君たちにしかできないんだ。だから、絶対に死んじゃ駄目だ。いくら憎くても、怖くても、生きなきゃ駄目だよ」
「えっと、う……うん。がんばる……」
「ありがとう! 大丈夫、こう見えても僕らは〈銀の竪琴級〉の冒険者だからね。約束はきっと守るよ!」
爽やかな声と言葉だった。
これは真似できないな、と頭を掻いた。やはり自分は、ただ剣を振るしか能がないらしい。
イリスと別れ、再び屋敷へと歩き出すと隣の彼が言った。
「シラノさん。……僕は、彼らを戦わせたくないです。こんな死地になんて赴かせちゃいけない」
「……」
「でも……家族を失った悲しみを乗り越えようとしているあの子たちから、支えを急に取り除くのも……」
「俺も同じ気持ちです。……難しいスね、こういうのは」
復讐者の身にならぬと、復讐に迂闊なことは言えない。
かと言って何も言わぬのは、病人を放置する医者と同じだ。医者は何もガン患者の治療をするのに、ガンになる必要はない。
顎に手を当てて黙した。
だが、医者と違って専門家とは言えない。己の凡庸さにはうんざりする。
「その……バルドゥルさんは、いつもどうしてるんですか?」
「いつも……。そうですね……でも、いつもは依頼だから……僕に任せることを嫌がる人はそんなに……」
「……確かに、そうスね」
「言って、素直に信じて任せて貰えればいいんですけど……」
「そうスね。……やっぱり、一つしか方法はねえか」
「方法?」
「剣で示す――……俺にはそれしかないです」
仲間の死を隣で見ていたならば――……忌まわしきことだが、死への忌避感はあるだろう。
ならばやはり剣を以って信頼を勝ち取るしかない。
この危難はシラノやバルドゥルに任せた方がいいと――彼らもまた死を恐れるということに、賭けるしかなかった。
「……シラノさん、僕の友人の鬼人族に似てますね。あっ、いや、その……変な意味じゃなくて!」
「うす。……そうスか?」
「い、いえっ! その、決して変な意味で言った訳じゃ――!」
「……うす」
これでもかなり文明的かつ甘っちょろい現代人だと思うのだが、どうにもそう言われることが多いのは不思議としか言いようがあるまい。
……いや、オークに対して悪印象はないのだが。間違いなく彼らほど勇猛果敢とは言えなかった。
「……そんなに似てますか?」
「い、いえ……その……。いや、かなり彼は鬼人族としても変わり者というか……決して変な意味ではなくて……」
「いや、気にしてはねえんスけど……」
そんなまま、どうこうと言いながら二人で屋敷を目指した。
戦いだ。ここは、死地なのだ。
気持ちを締め直し、ことに臨むしかなかった。
◇ ◆ ◇
盆地の夜は早い。
早春の日は落ち、街は僅かな灯りだけに彩られる。
そんな、闇。
その石畳を、船が進む。
そうだ。船だ。
川渡しが用いるような小舟が、灰色の路面を疾走する。
その小舟を引くは三頭の魔犬。けたたましく鳴るは骨。さながら新郎と新婦を乗せたマリッジカーめいて、髪の縄で頭蓋骨を結び付けた装飾が船の後ろで音を立てる。
補強された船底の立てる金属音と、跳ねまわる骨の立てる打撃音。だがそれにも負けず――日も落ち、暗がりが支配する街に醜悪な笑い声が響き渡る。
それは、統一性のない集団であった。
女物の布服、男物のチョッキ、赤子の前掛けに、老人のスカーフ――……市民から巻き上げた衣服を好き勝手に巻き付けた穢小人は、その名の元となった鷲鼻をふんふんと鳴らした。
手を叩き、はしゃぎまわるその小舟の中心に据えられたのは大きな丸太。
いや――丸太めいた杖だ。それが、イチモツの如く船の中心に座している。
あまりにもおぞましく不格好な戦闘車両……戦闘陸上船舶。
街の大きさに反してあまりにも矮小で簡素なその小舟は、身に余る武装と人員を積載して大通りという河を往く。
そして下劣な笑みと共に――――炎弾は放たれた。
『――――』
丸太めいて大きな杖に刻まれた幾重もの刻印。
木組みのハンドルが回るたびに歯車は杖の身を回転させ、そして容赦ない弾丸として降り注ぐ。
石畳が弾ける。木窓が撃ち抜かれる。壁が弾け飛ぶ。
抑圧され息を顰めた人々の暮らす街は、瞬く間に悲鳴と喧騒に包まれた。
暴力。死。災い。
その言葉は正に、宵闇を染め上げる炎と同じく赤らかに燃え広がった。
『――――』
集団での狩猟。
そうとしか言い表せぬだろう。
幾隻も合流する小舟と馬車。羊の群れへと突入する野犬めいて、彼らは残忍な笑みのままに惨状を広げていく。
燃え落ちる家屋から飛び出した男を炎弾が呑んだ。
手を引き合う姉妹を砲撃が薙ぎ倒していく。
家の影から影に走り抜けようとする若者たちを、魔術の掃射が喰い千切っていく。
両手を叩いて得意げに湧き上がる穢小人。その残酷な習性は穢れを受けたが故か、それとも伏撃猟兵であった過去から変わらぬのか。
逃げ惑う民衆を追い立て、その三頭引きの陸上船舶はまさに狩猟者としての本能と本望を遂げんと疾走し――
「――――!?」
路地裏からピンと張られたロープに巻き込まれ、横転した。
「今だよ!」
投げ出されてなお杖を掲げようとした穢小人の集団へ、投網が被せられる。
混乱と動揺の声に目掛けて――木槌や木製のシャベルを持った少年たちが殺到し、瞬く間に敵に群がり血祭りにあげた。
絡みつく網に、自由はない。獰猛な魔犬すらも威嚇声を上げたまま為す術もなく、一匹、また一匹と止めを刺されていく。
「……こんな」
隣でバルドゥルが顔を曇らせた。
シラノも、同じ気持ちだった。前途ある少年たちが、集団で狩りを行う殺戮者としての手順を完熟することほど、望ましくないことはない。
これが、今まで繰り広げられたのか。
彼らの瞳から光が失われるのも……あまりにも無理のない話であった。
結局のところ、子供たちの説得よりも先に敵の襲撃が起きた。願わくば戦いの場に連れ出したくはなかったが、説き伏せるだけの時間は与えられなかった。
そして、狩りだ。彼らは手際よく、他にも二三隻を血祭りに上げていた。
「あのさー、これで判って貰えたかな。なんか、優しいイリスお姉ちゃんに取り入ろうとしてたみたいだけどさ……そういうのいいから。いらないんだよね……どうせ、口だけなんでしょ?」
「違います! 僕らは……」
「……そういうのいらないの。あたしたちは、戦わなきゃ生き残れないんだから」
冷めた目でシラノたちを眺めるイネスと、震えながらもその隣に立つイリス。
実際のところ、彼女たちの手際はよかった。ボドウィンと交信する鏡を片手に、ここに来るまでも的確に偵察や指示を飛ばしている。
なんとも言い難い気持ちになる中、突如――悲鳴が上がった。
「う、あ……っ!?」
新たなる敵を狩らんと杖を握って戦列を為す少年が尻もちを突いた。至近距離で炎弾が弾ける。彼女たちの集中砲火の中にあっても、その穢小人の攻勢は緩みはしなかった。
いや――見るがいい。その醜悪な砦を。
たった今倒れた小舟へと駆け付けた馬車が、家壁を背にして木製の要塞を創っている。
装甲板。銃眼の設けられた荷車。
互いの車体を結合させたそれは、穢小人には安全圏を――。少年たちには絶望の鉄壁として立ちはだかる。
「なに、あれ……」
イネスの疑問に返る声はない。
そして、あちらの射手が倒れぬということはその攻め手が緩まぬということ。こちらの射手が崩れるということは、敵の攻め手を防げぬということ。
銃眼から突き出された杖の穂先が、噴き出る魔力が形を成す。
それは礫よりも早く、剣よりも重く炸裂する火山弾――魔力の齎す飛び道具。
正に彗星めいて宵闇を裂き、杖を構えた少年たちへと殺到し、
「イアーッ!」
――“甲王・劔”の触手鋼板が、跳び来る炎弾を受け逸らした。
「あ、ぁ……え……?」
「大丈夫だ。……バルドゥルさん、あとは頼みます」
「シラノさん……!」
「……うす。城相手は、経験があるんで」
言って、佩いた野太刀の鞘柄を握る。
ウォーワゴン――。
銃眼を設けた荷車を引き、自由に野戦での築城を成し遂げる兵器。フス戦争でマスケットと共に用いられたそれは、移動要塞として猛威を振るった。
或いはかのチンギス・ハンも用いたとも聞くが――いずれにせよ脅威であり、そして尋常ならざる発想から生み出される代物だ。
果たして魔剣と魔術の蔓延るこの竜の大地にて誕生の余地はあるのか。疑問であるが――
「イアーッ!」
幾重にも中空に生じた触手の盾が、砦が、城壁が、迫りくる炎球を防ぎ落とした。
今は、考えるべきときではない。知恵を捨てて、一心に敵に当たるべきときだった。
連なる轟音。
横転した小舟から、あの丸太砲を引きずり出したのか。砲火は強烈に打ち込まれてくる。
「シラノさん、では……」
「うす。殿は、俺がやります。……そのまま斬り込むんで、あとは任せます」
「……判りました!」
視線を交わさず頷き合う。
シラノとバルドゥルが合流した影響か――敵の攻め手は、普段より苛烈らしい。
彼らも、撤退という判断に異を唱えなかった。
「……」
眼前の鋼板で爆裂が音を立てる中、呼吸を努めて落ち着ける。
例えるならば、ガトリングガンか。あちらと異なり弾の補給は極めて不要であるが、撒き散らされる“貴”の気に射手が溶ける。その交代の間を狙うしかない。
そして瞬間、音が消え――鋼板を解除。シラノは疾風めいて飛び出した。
右の赫眼が鬼火めいて夜をなぞる。魔方陣から生み出す触手が、迫りくる炎弾を迎撃する。
炸裂音と風切り音。
背筋を凍らせるその音の中、鞘を握り締めるシラノは一直線に駆け跳ねた。
「――――」
眼前に迫った木製の要塞。瞬時、シラノの心は激発した。
極超音速の一閃が、鉄板打ちの城壁ごと射手を切り飛ばす。
流れるようにとった蜻蛉からの一撃。唐竹割に穢小人を斬殺する。もう一体。袈裟にその身体を卸した。
残るは五体。内四体は、近接へと切り替えた。
直剣――奴ら基準の大剣を構える敵へ、踏み込んで野太刀を振り下ろす。咄嗟に野太刀を受けとめたその直剣の両刃が彼自身の頭蓋に突き立った。
耳を打つ風切り音。
奇声と共に背後から繰り出された槍を、躱す。
だが、壁に背がぶつかった。
向き合った小人が、顔を歪めた。喜びなのか。武装を取り直した彼らが、再度その槍の穂先を突き出す瞬間――
「イアーッ!」
石畳に放ちし三段突き。
生まれる反動――その旋空のまま石壁を蹴り回り、壁をなぞる液状触手――巻き下ろす一閃で一体の首を刎ね飛ばした。
穢れが噴き出る。着地したシラノは、即座に地を蹴った。
虚空を穿ち、伸ばされたままの槍の穂先。引き戻す間など、与えない。
飛びかかるまま、刀の柄で小人の眼孔を砕く。揉み合うようにその首をねじ折り、勢いのまま肉体を投げつけた。もう一体を巻き込んで転げさせる。
背後での跳躍音。両手に短剣を握って飛びかかる穢小人に――地への三段突き。回し、斬り上げた。臓物――否、穢れをブチ撒き上体と下肢へと断裂させた。
その勢いのまま向き直る。仲間の死体をなんとか押し退けようとしていた小人の頭へ、飛びざまに振り下ろす野太刀。頭蓋を斬り砕き沈黙させた。
口を拭い、吐息を漏らす。
だが――視線の先では、未だ夜の街角を煌々と焔が染め上げていた。
「……いつも、こんな戦いを?」
『いや……だけど相手も、段々と学習してるみたいなんだ』
「うす。……斬るしかねえな」
すう、と息を肺まで満たす。
闇の向こうで上がる炎弾。炸裂する弾丸。
一撃でも受けきれぬなら。掠めてしまったのなら。その瞬間に、自分は物言わぬ骸に変わる。
頬を伝う冷や汗を感じ――だからどうしたと奥歯を噛んだ。
ここは地獄だ。ここは死地だ。それが蔓延る条理である。それがこの世だ。
ならば、怯える必要はない。怯えるべきではない。須らくが死であるならば、ただ真っ直ぐに迫る死を見定め躱すのみ。
ここは死地だ。だからこそ――
「死なせねえ」
言い切り、爪先に力を込めた。
死地ならば、斬り抜けるのみであった。
◇ ◆ ◇
路地を疾走するバルドゥルは、忙しなく辺りを見回し警戒する。
一つ救いであったのは――少年たちにも撤退を選択する冷静さと、そして集団行動で浮足立たない統率があったことだ。
焼ける街に後ろ髪を引かれる気持ちながらも、首を振って意気を込め直す。
彼は、神でもなければ魔剣使いでもない。今の仕事は、無事に子供たちを逃がすことだった。
――否、
「止まって!」
路地から現れた五体の小さな人影。
バルドゥルの呼びかけに、しかし少年たちは一切応じなかった。
率いるイネスの目配せに応じて繰り出される投網と、続いた屋根の上からの追撃。降り注ぐ麦粥。
熱した麦粥の熱伝導率は、単なる煮え湯を上回る。殺意という上ではあまりにも高純度のものであった。
待たず、刃物を握った少女たちが殺到した。苦痛の声さえ許さぬ、必殺の陣形である。
いや――
「ひっ!?」
「ぎゃっ!?」
悲鳴と共に鮮血が舞う。
網の小人へと詰め寄った少女たちは、その肉体を刃に貫かれていた。
血に濡れた白刃が、宵闇に怪しく光る。
刃――……そう、刃だ。
穢小人の体内から無数に突き出た純黒の骨の切っ先が、網ごと仲間を斬り裂いたのである。
そして、指揮するイネスの驚愕はそれだけに留まらなかった。
「ぇ……」
斬り裂かれた網がバラバラと零れ落ちる。
立ち上がる穢小人に、火傷の損傷は見られない。
いや――違う。損傷が、失せていくのだ。
ぼこぼこと沸き上がり、剥がれ落ちていく体表。それは、醜悪な異形である。人間の顔めいたあぶくが内から内から膨れ上がり、あたかも鎧めいて熱の攻撃を遮ったのだ。
耳障りな水音と共に、その顔面が破裂する。僅かに苦悶の声を漏らす呪われし防御に、イネスの正気は引き剥がされていく。
「なに、これ……」
思わず、喉から声が零れた。
今まで見たこともない新種――――狂った異形の怪物。
あまりにも狂気的なその姿に、立ち向かえる仲間は一人とているはずなく――
「……手当てを」
――否。
一体、いつの間にか。バルドゥルはイネスの先に立っていた。
いや、それどころではない。彼の伸ばした手の先では、呻く仲間。網へと飛びかかった仲間。怪我を負いこそすれ、誰一人とて死んではいない。彼女らの服の裾を寸前で掴み、挟み、咥え、押し留めていたのだ。
小柄に似つかわしくもない腕力――それとも技術か。流れるように少年たちを引き下げたバルドゥルが、入れ替わりに先頭に立つ。
だが、決意を込めたその背中から――――悲痛そうな声が、漏らされた。
「……ごめんなさい」
無念を噛み締めるような、そんな言葉。
「ごめんなさい。……僕では、力になれない」
己が無力を嘆くようなその言葉に、恐怖の内にあったイネスの血管を熱が逆流する。
やはり、何の役にも立たない――。
場違いながらも今すぐにでも掴みかかりたいほどの逆上の念が湧き上がる中、隣で袖を引いたイリスが首を降った。
見れば、周りの誰もが遠巻きに距離を取っているではないか。
「……」
そう……バルドゥルは最早、イネスたちの方を振り返ろうともしていなかった。
ただ、彼は眼前だけを見詰めている。見詰めて――言うのだ。
「あなた方にも……きっと、家族がいたんでしょう。帰りを待つ人や……悲しむ人が……。……ごめんなさい。そうなっては、その身体も……もう届けられない」
それは、世の無常を嘆く声だった。
世界の非情を悼む声だった。
どこまでも清涼なその声は、死者の無念を代弁するかの如く――或いはただ生者としての哀悼の如く、遠雷めいた喧騒の響く路地裏に木霊する。
そうだ。
彼はもう、イネスたちを見ていない。
彼はただ、悲しみを見ている。現し世に蔓延る不幸を憂い、その非運に苦しみ――
「だけど……届ける先がないこの子たちだけは、僕が絶対に守り通す」
何よりも――――それでも彼は、確たる意思で両の拳を握った。
清涼な風が吹き抜けた気がした。冴えた銀髪を揺らがせ柳めいて僅かに脱力するバルドゥルは、しかしこの場の誰よりも鮮烈な存在感を放つ。
不意にその背に、イネスは盾を幻視した。
「“骸拾い”……いや、刻印呪帯拳の一――南派塞印拳のバルドゥル・ア・ランべル。淫紋拳士のバルドゥル・ア・ランベル!」
高らかに名乗りを上げ――いざ、拳士が睨むは五体の異形。
「――来い。彼らの命は、僕が拾う」
幕を上げるは、拳の法理。
惨劇の夜――――銀の華が、涼やかに冴えた。




