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第七十四話 セブン・レイバース・オブ・ケンゴウ その一


 頬を撫でる風は、未だ冷たく湿っている。

 腰に剣を差して丘の上、シラノは静かに赤いマフラーを引き上げた。

 ついぞ、そのマフラーの贈り主――フローは納得してくれなかった。彼女はどうにも優しすぎるきらいがある。シラノの怪我を、重く見すぎる。

 ふう、と息を吐いた。

 己の不始末は己が償わねばならないだろう。

 たとえそれ自体が酷く不本意であったり、或いは全て納得づくの行為の果てであったとしても社会的にケジメは必要だ。

 何より、ああまでシラノに蔑ろにされた相手からの償いの機会は、ただ申し訳なかった。随分と有情な対応であり、買われていると思う。


「……あとでもう一度、頭を下げに行くか」


 小さく呟き、微かに頷いた。

 あの場で老人が憤激していたら、始まっていたのは全面的な殴り合いだ。ともすれば、触手使い全員への咎となっていたかもしれない。そう考えれば、恐ろしい事態であった。

 だが、百度あればきっと百度ああなる。

 元より曲げるつもりならば、初めから行っていないのだ。……有形にしろ無形にしろ、暴力などという忌まわしいものは。

 退かぬと定めてこそ、抜く刃がある。

 故に、暴力に訴えた以上は吐いた唾を呑み込む領域などはとうに過ぎ去っているのだ。


「……」


 とは言え、挽回の機をふいにするほど強情にもなれないのも――また人情だろう。

 吐息を漏らし、頭を掻いた。


(……一人旅、か。そういや、初めてなんだな)


 なんにせよ、あまり気構えすぎても仕方ない。

 憂いすぎていようが、気負い過ぎていようが、人は死ぬときは呆気なく死ぬのだ。

 どれだけ死ねぬと思おうが、シラノだって例外ではない。いつ死ぬか知れぬ身である。

 丘から、辺りを見回した。

 草原を風が撫で、遥か向こうの空では雷雲がどよめく。

 かと思えば逆では晴天の下、連なった山脈が神々しく雪の冠を被っている。

 竜の大地(ドラカガルド)

 かつての世の幻想とも言うべき場所に、己はいる。

 そう思えば、見やる景色も眩しい。生まれ直したかの如く、世界は新鮮である。


「……先輩にも、見せられりゃあな」


 彼女は喜ぶだろうか。うっとりと眺めるだろうか。

 何となくその様が気になって分かち合いたくなり――……頭を振るった。あまりに緩みすぎれば命はない。これから向かうのは、死地である。

 なるべくは彼女を悲しませぬように、怪我を少なく。

 全力をもって、死ぬことなくその下へ。

 いざ、向かうは七つの難行――――


「ああ、白神一刀流に敗北の二字はねえ。俺は、触手剣豪だ」


 己を奮い立たせるように頷き、一歩を踏み出した。



 ◇ ◆ ◇



 ……時は僅かに遡る。

 回路めいて刻印魔術が走る石造りの部屋の中、魔術砂板を片手にした秘書の女性は息を漏らした。


「……近頃は冒険者の質も下がりましたね」

「まったく。……ただの冒険者よりは使えるから受け入れたんじゃろうが、魔術研究院にも随分と足元を見られたもんじゃ」


 たった今、昇級保留の印を刻んだ二人組の情報を眺めて法衣の老人は吐息を漏らした。

 死霊や成長態の魔物の群れや怪物相手には、魔術無しで相対することは難しい。その点の利害の一致から受け入れを行っていたが、それにしても近年は目に余る。

 生まれが元よりどこかの騎士階級や豪族で占められる魔術学院生は、己が天より二物や三物を授かったものとして驕る傾向にあった。

 実力はともかく経験が伴わず、逆境において不必要に取り乱す傾向がある……とも報告がある。

 前任者がそう定めた規定により一般の冒険者を飛び越えて昇級する学院生は、界隈でも俄に問題になっていた。


「……〈骸拾い〉ぐらいではないか。古でも受け入れられる冒険者というのは」

「とは言っても、あの場で付け入る隙を与えてしまうのは冒険者として如何なものでしょうか。『頼るのは己の腕と判断』と申しますので」

「そうは言っても、この山を見れば言いたくもなるわい……」


 老人の前に挙がってくる魔術札の主たちは、既に冒険者ギルドと議会により承認されている。

 多忙な領主の最終決定も名ばかりで、実質的な決定権は老人に一任されていた。……いや、その決定権も形式上だ。

 右から左へと判を押し流す日々。肩書付きになるものではないな、と改めて吐息を漏らす。

 おまけに、更に頭の痛い事態だ。先程の騒動を思い返したそのとき、まさに緑髪の秘書が声を上げた。


「この、“破城”というのは……」

「なんでも、邪教徒に乗っ取られた城壁を破壊したそうじゃ……それも、外から」

「…………上位の魔剣持ちですか?」

「いいや。序列にも入らない強固なだけの魔剣と、触手しか使わぬ……と報告にはある」

「……本当にこれを? 触手で? その……」


 憚られる言葉に歯切れを悪くした秘書へ、


「偽装や誇張がある、と?」


 老人は、その意を組んで答えた。


「とても俄には信じられないと申しますか……」

「……さて。本人は、触手使いではなく触手剣豪と名乗っているそうだが……」


 ふむ、と老人は反芻する。

 暗い茶金髪の下、右に赤く走った海賊傷。真紅と琥珀色、彼岸と此岸を見詰めるという色違いの不吉の瞳。そして何よりも白刃めいた眼差しと立ち振舞い――。

 予め首に巻いた赤布は、先んじて鮮血を厭わぬという心の表明か。それとも死の神に、確かめる為に己にとくと寄って見よという宣言か。


「あれに嘘はあるまい。あれはそういう男じゃ。……かか、久方ぶりに血が滾ったわ。あと十も若ければ、あの場で立ち会ってみただろうに」

「……二十の間違いでは?」

「いや、五の間違いだな。鬼人族(オーク)と腕比べをしたのを忘れておったわ。〈鉄腕〉のグンドマールの名はまだ枯れとらん」


 肩に職責があり、年齢相応の落ち着きを覚えている身でなければあの場で戦いに昂じただろう。

 まだ己の中の冒険者の血が死んでないことに愉快さを覚えつつ、それも合わせて若造に男を貫くということを見せ付けられたことへの憤りが浮かぶ。いや、憤りではなく対抗心に近いが。

 ともあれ、


「いずれにせよ、理由はどうあれあの場で抜刀する者の承認はできん。誤魔化せるだけ処世ができればまだ良いが、あれではいずれ何処かで面倒ごとを起こす」

「では、規定どおり……かの英傑に倣った難行を?」

「うむ。これを乗り越えられる者なら、捨てるのを世も惜しむだろう。かの〈聖剣使い〉のレオンハルトや〈竜種喰い〉のジークハルト、〈死王〉のグレムトリアのように……。或いはかつてかの〈剣と水面の神(バトラズ)〉と対峙したという創世の剣の担い手の如く……」

「……」

「……うむ。諦めるか乗り越えられぬ者なら、不適として不許可で良い」


 規定は規定だ。

 その人間性に疑惑があるのものについては、それを消すだけの有用性の提示を求められる。

 乗り越えられたならば、〈白銀の盾級〉や〈蒼銀の豪剣級〉も見込まれる人材なのだ。

 事実かつて難行を乗り越えたある男などは、ついには与えられる冒険者の等級が不足した為に〈超級〉まで設立させたという逸話もある。

 無論それとて、天地創世の魔剣の境地には遥かに及ばないだろうが……。


「承知しました。七つ、手配を進めます」

「うむ。……ただし、あくまで〈銀の竪琴級〉相当ということは忘れんように。勝算のない死地に赴かせる真似だけは控えてくれ」


 秘書の女性が、速やかに依頼を選別し始める。

 付近一帯での一番の都市であるこの街は、訴えられる訴状も事欠かない。報酬や危険度の関係で、見送られている依頼もあった。

 それにしても――……、と。

 老人は重く息を吐き、ふと声を漏らしていた。


「いつから……」

「はい?」

「いつから、世はこうなったのだろうな。力さえあれば善きにつけ悪きにつけ、己の意思を押し通せる……。儂の言えたことでもないが……」


 まだ、幾ばくかの魔剣に――特に天地創世の魔剣に――使い手を選ぶという縛りがあるからこそ世は乱れず、今の王家の治世になってからは稀に見るほどの安定が図られている。

 それでも、かの魔剣の王の時代の如く――ひとたび間違えば世はまさに悪鬼の闊歩する血染めの時代になるだろう。

 歳を経るにつけ、その思いは強くなる。

 かの〈秩序と勝利の女神(メンスルーウァ)〉や〈大気と光明と開花の神(ティグワース)〉に示される、法の公正や文明の平和には遠い。

 老人の呟きを聞いた秘書は、


「最初からですよ、()()


 ()()()にかかった緑髪を掻き上げて、そう悪戯っぽく片目を閉じた。

 出会ってからどれだけになるか。

 いかに世の肩書を得ようが、それでも彼女にはまだ敵わぬらしい。



 ◇ ◆ ◇



「七つの難行?」


 カフェで輪を囲んだ一行に、久方ぶりのアンセラが突きつけて来たのはそんな言葉であった。

 メアリは半眼を細め、セレーネは顎に手を当てる。エルマリカは何故だか目を輝かせており、フローはアンセラとの再会を喜ぼうかそれとも不安になるべきかと忙しい。

 にわかに眉間に皺を寄せたシラノの前で、アンセラが勢い良く指を突きつけた。


「そう! あたしがそのお目付け役よ! っていうか、せっかくやっと身軽に冒険に出られるようになったしいっぱい美味しいもの探して食べれるんだなあヤッターしあわせ〈月と狩りの女神(トリウィアナ)〉様ありがとうって思ってたのに何よコレェ!」

「……」

「なんか言いなさいよなんか! っていうかなんで問題起こしてるのよぉ! このバカ! バカ! 迂闊! バカ!」

「……うす」


 世話をかけるな、と思ったが元気にしていたらしい。それはひとまず幸いであった。


「え、えっとアンセラさん……それで難行っていうのは何なのかな……?」

「あ、フローさん……久しぶりです。とりあえず協会から七つ、昇級の代わりにシラノ一人でやるようにって命じられたのがあって……」


 ごそ、とアンセラが袖口から羊皮紙を取り出した。


「一つ! 剣も槍も矢も通じない不死身の雄獅子の討伐!」

「……」

「一つ! 消えぬ炎熱イクシオン山の〈火鉢の窪地〉から“結晶”の採取!」

「……」

「一つ! アルモ川の上流、激流に棲む毒蛇竜ゲリュゲイオンの討伐!」

「……」

「一つ! 魔物の黒犬モール・ダ・ドゥーがねぐらにした廃村からの魔剣の回収!」

「……」

「一つ! 夜ごと暴れる半死霊の灰黒馬ヘルメイアーの討伐!」

「……」

「…………あとの二つは自分で見といて。なんか質問ある?」


 はい、と手渡された羊皮紙には場所と簡単な経緯が記されていた。

 なるほどな、と目を閉じて懐に仕舞い込んだ。


「とにかく斬りゃあいいんだな。分かった」

「……って」

「……?」

「だからそれは冒険者の態度じゃないって言ったでしょうが!? あんたあたしが教えたこと何処やったの!? ねえ!? あれだけあたし言ったわよね、冒険者の三つの心得って! 言ったわよねえ!?」

「うす。……しっかり覚えてる」


 元より何かを覚えるのは決して不得意ではなく、アンセラがわざわざ教えてくれたならなおさらだ。


「……で、なんでそんなこと言うわけ?」

「これがケジメ代わりなら、俺に選択肢はねえ」


 言って、腰を上げる。

 冒険者を続けられるとは思ってなかったが、続けても良いと形だけでも差し出された手を振り払うほど傍若無人になる気はない。

 ならば、速やかに斬り払うだけだ。

 四の五や不平、或いは恐れは犬に食わせればいい。死地での剣の助けにはならない。それが己の生存を遠ざける。


「装備を整える時間はあるんスか?」

「……………………常識的に考えて、装備を整えさせないで旅に出させると思う? それ、単なる遠回しな処刑じゃない?」

「いや……そういう刑か、って」

「あんた何したのよぉぉぉ……やめなさいよぉぉぉ……やめてよぉぉぉ……何してるのよぉぉぉ……」


 正直それぐらいされてもおかしくないほど、ギルドのメンツを潰したとも思った。

 ともあれ――……仮にシラノの不在を狙われたとしても、セレーネがいる。こういうときは酷く心強い。

 見れば、実際彼女も任せてくれと頷いている。……いや、目線にはまた一人で楽しい死地に赴くのかという不満も込められていた。本当にどこかアレな女性だ。

 エルマリカとメアリは、と言えば……。


「シラノさん、やっぱり物語の騎士様みたい……! ええ、素敵……とっても素敵……!」

「……途中で死にやがられたら語り継ぐ話もなくなっちまうんで、戻ってきて話聞かせてくださいね」


 生理的に無理が緩和されている。

 騎士ってすごい。シラノは改めてそう思った。

 そして、


「先輩」

「……」

「セレーネもいるんで、刺客や淫魔が来ても大丈夫です。エルマリカも、メアリさんもいます」

「……」

「……土産話、持ってきますから」


 語りかけても、フローは俯いて顔をあげようともしない。

 頭を掻いた。剣がなければフローに返せるものは何もない。しかし、剣を拠り所にすると決めれば退けぬが故のこの事態。

 どう言い繕えばいいのか。生憎と己は、得意ではない。

 もう少しその辺りが得手になれればよいが……悔やんでも、今はどうにもならない。


「その、先輩……」

「……っ」

「大丈夫です。約束、違える気はないです。……白神一刀流に敗北の二字はねえ」

「シラノくん……」

「……行ってきます」


 もしこれが今生の別れになるなら、悔いしか残るまい。

 だからこそ、何としても負けるわけには行かないと――固く拳を握った。





 などと決意し、草原に歩き出すことしばらく。

 予想に反し、暗殺者からの襲撃はない。或いはギルドから依頼を受けた魔剣使いの刺客もいない。

 思った以上に、公に関わる者の意識は高いらしい。思えばあの場でも、シラノの責を追求するよりも諌めようとしていた意味合いが強かった。

 静かに服の下の“身卜(シンボク)(グソク)”を解除する。

 旅がどの程度続くかは判らない為、消耗は抑えた方がいい。


「……」


 頭上を見上げれば、城門を後にしてからこれから鴉がついてくる。

 眼の赤いそれは、かの〈戦と死と門の女神(ネーメイン)〉の遣いの鴉なのか。それとも魔術による監視なのか。

 撃ち落とそうかと考えたが、実害はないのでひとまずは置いておくことに決めた。


 そうして鴉の追跡者を伴い、幾つも丘を乗り越え進む。

 段々と風景に石造りの廃墟が混じってきた。そろそろ、現場であろうか。


(不死身の雄獅子か……)


 矢も剣も通じず、傷付くことなき不死身の獅子。

 ある丘陵に囲まれた街道に出現するその獅子は、今まで冒険者が挑むも返り討ちにされ、そのせいもあって付近一帯の交通網が閉ざされてしまっているらしい。

 群れから逸れた獅子なのか、それとも獅子の形をした怪物なのか。

 ……いずれにせよ、如何にして倒すべきか。思案するのはそこだ。

 例えば今まで誰も倒すことができなかった――通常の矢や剣では――ということなら、触手抜刀で殺傷できる算段は高い。

 何よりも、再生力を持つ不死身殺しには向いている。

 だが、傷付かないという意味での不死身ならどうすべきか。いっそ土にでも埋めて窒息死させるべきだろうか。


「……」


 マフラーを引き上げ、頭を掻いた。

 依頼の情報に従えば、その街道より他には出ない。縄張りがあるのか、とにかくそれ以上の追撃はない。

 その甲斐もあって迂回さえすれば少なくとも被害は防げる。出歩く者もシラノ以外はおるまい。

 ただ一人の戦い。たった一人の死地。

 ゆっくりと呼吸を絞り、鼓動を落ち着けた。手の震えを握り殺す。

 なんにしても、シラノにできることはただ斬ることだけであり――


「――ッ!?」


 上がった悲鳴に、すぐさまに駆け出した。



 ◇ ◆ ◇



 獅子のその体毛は、麦の畑に良くも隠れると言われている。

 或いは秋の草原。枯れ葉に入り交じる彼らは十数頭にも及ぶ集団での伏狩りを行い、ときには四足竜でも喰らい倒す――と伝えられていた。

 だが、おお、見るがいい。

 その獅子は、風景に身を隠す必要などない。

 その獅子は、群れて狩りをする必要もない。

 それは、黄金の鬣を靡かせる黄金の雄獅子であった。


「わ、〈我は松明、我は焔――燃えよ飛び岩(ヴォルカーノ)!〉」


 背後から少女魔術士が放った火球が飛び抜け、雄獅子に殺到する。

 だが、容易く飛び退かれた。黄金の風の如く地を駆ける四肢が草を舞い上げる。地響きを齎そうというほどの巨躯であるのに、驚くほど軽やかであった。

 そのまま、槍を携えた彼は草むらに向かい合う。

 持ち手を捻れば長さが変わるという刻印槍であったが、今は棒切れめいて心許ない。

 旅を急ぐ商人の護衛――せいぜいが傭兵や冒険者崩れの野盗相手だと思っていた依頼は、想像以上の生命の危機であった。

 そして――雄叫びと共に、獅子が飛び出した。


「耐えて!」


 商人を連れて逃げた酒飲みの窟人族(ドワーフ)が投げ出した弩弓を、拾い上げた女狩人が叫んだ。

 耐えろ――そう聞いて、彼は凍り付いた。

 何に。どうやって。どう。なにで。ひとりで?――人間の構える盾などは容易く叩き潰すと言わんばかりの、彼の太腿ほどもある獅子の豪腕。

 身体を丸めるように、盾で頭を抱える。衝突で首が折れることだけは防ぐ。

 そして、間に合った。矢がその獅子の瞳に。火球がその胴に直撃し――


「――」


 何事にもならず、彼はそのまま呑まれ倒された。

 衝撃に魔術仕掛けの盾は一撃で歪み、肩を脱臼した。腕が折れた。額を切った。

 眼前に迫るは、獅子の大口。鋭い牙が揃ったそれは、身体のどこに突き立っても骨ごと肉を砕きつくすだろう。

 背筋が凍る中――それでも彼は、一つの希望を手放さなかった。

 口腔。

 いくら無敵の毛皮を持とうとも、体内まではそうは行くまい。最小に縮めた槍を腋と片手で捻り、いざ繰り出すは必殺の突き――。

 ガキンと、獅子の大顎が離れる。

 彼は、勝利を確信し――


「……………………え、」


 仰け反った獅子が、何事もないように彼を睨み下ろす。

 槍は、通じなかった。

 いや、それどころではない。伸長するその勢いのまま地中深くに突き立ち、二の槍を繰り出せない。

 汗で指が滑る。調節軸を回せない。その間も、獅子は両前足を高く掲げ―― 


「イィィィィィィアァァァ――――――――ッ!」


 ズバン、と電撃を纏う豪剣が割り込んだ。

 横腹を叩きのめすその奇襲に、雄獅子が堪らず距離を取った。

 倒れた彼の前、翻るは真紅の首布。

 赤いマフラーを靡かせて、


「早く体勢を。……後は、俺が受け持った」


 斬り込んだシラノは、背後を眺めずに剣を構え直した。


「だ、だけど……やつには矢も槍も魔法も……! 魔剣もない冒険者じゃ……!」

「そうスか。……俺は、触手剣豪だ」

「しょ、触手……!?」


 後ろでざわりと声が上がるが、そんなことはどうでもいい。

 シラノはただ一言、


「イアーッ!」


 発すると同時、無数の触手刀が竹林めいて辺りに突き立つ。

 剣の林、剣の檻――……ここからは一歩も進ませず、一歩も退かぬという不退転の決意であった。

 獅子が唸る。

 警戒するように、遠巻きにシラノを睥睨する。

 人の太腿ほどもある前腕。そしてしなやかでありながら力強い胴は、身体を起こせば人二人分には及ぼうか。

 なんたる凶悪な姿見だろうか。まさしくこれは、神話生物と呼ぶべき怪物ではないか。

 静かに息を絞った。震えようとする足を殺す。


「……」


 剣一本で熊や獅子と相対するなど、元の世界では死狂いと称されようか。

 否――だからどうした。それがどうした。

 背後には三人。背中には三人。ならば、ここで退くべき理由はなし。

 そうとも――――此処が死地だ。此処こそが死地だ。ならば恐れは不要。死すべき果てに恐怖の置き場などなし。

 そうだ。死地にあるべきは、一つの真理。一つの理念。


「ああ……俺は、触手剣豪だ……!」


 言い切り、握るは野太刀。刃を寝かせ、構えるは平突き。

 放つは――触手三段突き。


「イアーッ!」


 上がる轟音と土煙を見届けぬまま、次の刃を握った。

 そのまま、放つは次弾。土煙に叩き込む。


「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」


 柄を投げ捨て、連続して撃ちつける。

 轟音の度に背後から悲鳴が上がるが、構うものではない。死ぬより安い。

 衝撃波により乱れる気流に触手の触覚は上手く働かない。だが、シラノには確信があった。

 獅子は生きている。撃発のその瞬間、奴は飛び退いたのだ。

 生み出した野太刀を、触手の鞘に納める。納め、そのまま吐ききった息を一度止めた。


「……」


 三段突きはともかく、手に痺れが残る。“唯能(ユイノウ)(オロシ)”は放てない。

 あの場で放てば冒険者の身体を巻き込む危険があった為避けたが――……しかし、予想以上に硬かった。

 手応えが、動物ではない。かつて斬り捨てた竜とも感触が違う。

 体表のみならず、全身が強固に作られているのか。少なくとも、尋常なる生物相手の戦いは通じぬと考えた方が無難だ。


「す、すごいなアンタ……その、助かったよ……。さっきなんか変なことを――」

「まだ……」

「え?」

「まだ、仕留めてない」


 一瞥すらせず、剣を握り直して待つ。鞘を返し、ただ前方を睨む。

 それだけで伝わったのだろう。仲間に呼びかけた冒険者が引いていく気配を背中越しに感じた。

 腰を落としたまま、シラノは土煙を睨んだ。


「……」


 喉が渇く。

 そのまま、どれだけ待っただろう。三十分か一時間、或いは十分だったかもしれないし、数十秒だったかもしれない。

 土煙が晴れても暫しそうしたが、動く影はない。動かぬ影もない。

 一度瞼を閉じ――……息を吐いた。もう、立ち去ったらしい。


「……不死身、か」


 呟き、散らばった馬車の荷を集め馬を宥めた。血痕はない。人の被害は、なかったらしい。

 それでも荒らし尽くされたかの如き荷を見れば、あの獅子が下手人なのは間違いあるまい。散らばった積み荷の衣服の土を払って、箱に戻した。

 ……このまま放置するのも、酷だ。

 土に汚れた地図を拾い上げて、シラノは一つ頷いた。



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