第七十三話 叙勲式、騒然
◇ ◆ ◇
誓いを此処に、我が剣は善を敷く。
我ら、この刃を高らかに掲げ。
誓いを此処に、我が剣は悪を敷く。
我ら、この刃をいざ振り下ろさん。
――――ガルボルクの信句。
◇ ◆ ◇
竜の大地の胴を横切る大街道から外れて南下することしばらく。
青空の下、この草原を更に南に進めば港街もあろうか。
辺りでところどころに点在する濃い緑の林は、純粋な森ではなく植林の結果か。農夫らしき人々が、籠に果実を集めていた。
人の手の加わらぬ草原かと思えば、段々に畑が見えてくる。いよいよ、目的の街だろうか。
大中津海に突き出た胸の先近くにその街はあった。
なだらかな丘を登ったシラノの肌を爽やかな風が撫で、赤きマフラーがはためいた。
丘からその先に広がるのは、より緩やかな丘の上に寝そべる茶色の岩亀めいた城塞都市。
ノリコネリアと名付けられたその都市は、この辺りの領地を統べる領主の居城であり――
《ようこそ我が街へ。貴殿らを歓迎しよう》
その城門へ差しかかったシラノたちへ、地から響くような声で話しかけるものがいた。
灰色の巨体。
巨大であるというのに、酷く平たいその姿は、
「うぇぇぇぇ!? 石の竜ぅぅぅ――――!?」
城壁そのものと一体化した、魔術仕掛けの四足竜の彫刻であった。
慄くフローと同じくシラノもまた驚愕を覚えていた。
喋る竜。いや、喋る彫刻。存在自体はかつて〈浄化の塔〉で知り得たものだが――いざ目の当たりにすると別だ。
シラノたち五人全員が肩車をし、それをさらに五つ積み上げれば竜の高さに並ぼうか。あまりにも図抜けた大きさの門番……門竜だった。
《生憎と私はここを動けぬが、貴殿らに我が街を気に入っていただけると嬉しいものだ》
そして、龍がぎこちなく両目を閉じる。ウィンクのつもりなのだろう。
「うぇぇぇぇ……すごいね、すごいねぇー……! ねっ、ねっ、シラノくん……!」
「そうっスね。……首斬って死ぬんスかね、アレは」
「なんでそんなに物騒なこと言うの!? もっと素直に感動しようよ!?」
「俺はいつだって素直です」
単に、また城壁が奪われる可能性を考えただけだ。
やはり生きて動いてああして喋れるものと戦うとなると、かつての城壁のようには行かないだろう。シラノとしても気が咎めるものだった。
ムラサキトカゲオの草が届き次第に燻すようにカーラに言伝し、辿り着いたノリコネリアの街。
後始末に関しては、その辺はカーラを信用している――……というより約束を違える御用聞きが生き残れる訳がないので、案ずるだけ無用だろう。
(……栄えてんだな、この街)
入ってまず思ったのは、それだ。
整然と整えられた石造りの街並み。かつての城塞都市を全体的に建築物の高さが上回っている。茶色の断崖めいて左右に聳え立つ混凝土と煉瓦造りの集合住宅を見れば、なおも思う。
急に文明のレベルが跳ね上がった気がして、何とも言えずに息を漏らした。フローは、圧倒されているようだった。
「うわぁ……すごいなあ……」
見れば近くで、同じように息を漏らす銀髪の少年がいた。
景色に比べればあまりにもみすぼらしいと称されるかもしれない外套を幾重にも身体に巻き締めた彼もまた、冒険者なのだろうか。
目線を受けてか、恥ずかしそうに頭を掻いた彼は曖昧な笑みを浮かべて近付いてきた。
「え、えーっと……あなたも叙勲式ですか」
「うす。そういうあなたも、ですか?」
「あ、そうなんです! 場所って……こっちでいいんでしょうか?」
少年が指差す方向には、ちらほらと同じような挙動をする異邦人がいる。
「おそらくは。……すみません、自分たちも着いたばっかりなんで」
「あ、いえ! 確認してない僕の問題ですんで! 謝ってもらうなんて……!」
「うす。……良ければ、一緒に行きますか?」
「そ、そんなの悪いですよ! お気持ちだけありがとうございます! またお会いしましょう!」
慌ただしく、少年は小走りで去っていった。
一見したところでは何か武に通じているという感じではないが、彼もまた魔剣使いや魔術士なのだろうか。
思案するシラノの隣で、
「行き先は多分あっちで間違いねーでしょう。講堂があるんで」
「……来たことあるんスか?」
「ええ。近くに魔術研究院があるんで……ちぃとばかし混じって授業とか受けてましてね。その一環で」
呟くメアリは、相変わらず酷く無感動な若草色の半眼だ。
よほど、得るものもない体験だったのだろう。或いは執行騎士としての仕事だったのか。学術研究機関に内偵を放つというのは、現代近くでもある話であった。
「さて。んじゃ、あんたさんの晴れ姿でも眺めてからお別れといきましょーか」
「……」
「……そんな顔しねーでくだせーな。煩わしい相手と別れられて、せいせいしたでしょう?」
橙髪を揺らして肩を竦めるメアリとの間には、あの夜から妙な溝がある。
というよりどうも、避けられていた。エルマリカといいメアリといい、自分は人に嫌われる才能があるらしい。決して触手使いだからという訳ではないだろう。
触手使いの名誉の為に動こうとする自分自身が、そんな嫌われものの素質持ち。何とも立つ瀬がないものだ。フローと先祖に申し訳が立たない。
そして、エルマリカはというと、
「メアリさん、本当に一人で行ってしまうの……?」
「ええ。……ま、ちょっとばかしお偉方に報告に行ってくるだけですんで。その間はそこの剣士のおにーさんに良くして貰ってくださいね」
「よよよよよよっ、よっ、よく!?」
「………………“コレ”だけは剣士さんに謝っとかなきゃなんねーですね」
シラノの元に残されると、そう決まっていた。
もう既に幾度と話し合ったが、メアリの結論は変わらなかった。報告は全てメアリが行い、エルマリカはその間もシラノと共に居ろ……ということだ。
よほど生理的に無理な男との旅に放り出されることが障ったのか、彼女は顔を真っ赤にして抗議とも非難とも言えない言葉をぶつけていたが……結局は折れた。
……。
……正直そこまで嫌われることをした覚えはないのだが、年頃の女子の気持ちは判らない。
いや、むしろ、かなり頑張ったと思うんだが……。
……ひょっとして逆にそれが良くなかったのか。
それとも僅かな茶目っ気で出した手の甲に口づけした方がいいかという冗談が、助けた恩にかこつけて不埒な行為に及ぶド変態セクハラ変態クソキモ変態ロリコン破廉恥クソ野郎として生理的な嫌悪感を刺激したのだろうか。
……あり得る。女は判らんという点であり得る。ハラスメントは相手の受け取り方次第だから非常にあり得る。
いや別に他人に嫌われたところでどうしたという話だし、別に剣の足しにも損にもならないし、究極的にはだからどうしたという話ではあるのだが……。
なんの気なしに言った冗談で触手使いに対する心象を損なう。……これはハラキリ案件では?
「剣士さん、剣士さん」
と、眉間に皺を寄せていると服の裾をメアリの小さな指に引かれた。
「……あんたさんに言っとくことがありますが」
「うす」
「お姫ぃ様の〈竜魔の邪剣〉……あれは、直ります」
「……!」
「ええ、分かるでしょう? 傷を弾き飛ばすことができる剣なんです。片方折れたところで壊れた訳じゃない……だから無敵の〈竜魔の邪剣〉なんです」
声をひそめるメアリに、シラノもまた抑えて応じた。
「……どうして今、直してないんですか?」
「保険です。お姫ぃ様が自分自身を戒めました……もしまたあんたさんと戦いになったときに、あれほどまでにあんたさんを傷付けないように」
「……」
「……ええ。判ってるでしょう? 数年前に存在した淫魔がお姫ぃ様に何をしたのか判りません。物事の考え方を歪めたのかもしれないし、記憶を弄ったのかもしれない……いや――何か指令を与えてることさえあり得る」
「……メアリさんも、警戒してるんスか」
「ええ。生憎と小心者なんで……これで王宮に連れ帰ったら周りを皆殺しにする――なんてなったらあまりにもお姫ぃ様が救われませんから」
軽く呟くメアリだが、本心だろう。
暫定的な淫魔の首魁――……立ち寄る場所で何か助けにならないかとシラノも情報を集めてみるも、依然として知れない。
この世にいることと何かを企んでいること――それは判るが、他は不明だ。独自に動いているアレクサンドに得るものがあればいいが……。
思案に没頭しそうになったシラノの袖を、メアリが引いた。
まだ、話があったのか。
「……ええとですが、あの夜は、色々と酷いことを言いました。酷いものを見せました。それでもこうして話をしてくれるあんたさんに、言っておかなきゃいけないことがあります」
「うす。……なんスか?」
「いえ、その、むしろ一番初めに言うべきでしたが……ズルズルとこのざまです。あんたはちゃんと、お姫ぃ様を助けるって約束を守ってくれたってのに……」
スゥ、と息を吸ったメアリが一度腰を折る。
そしてシラノの手を取り、己の額に押し当てるようにして言った。
「触手剣豪、万夫不当のシラノ・ア・ロー殿。あなたの御助力、類稀なるその剣技、義に溢れし尊きその仁愛……不肖このアマルメリア・ラクサン・ウィルメシア、この名にかけて末代まで礼と誠を以って語り継ぐ誉れを担わせていただきます」
射抜くように真っ直ぐに見詰めてくるメアリへ、シラノも厳かに頷き返した。
「うす。光栄です。……その、俺のこと……嫌いじゃなかったんスか」
「……ええ、嫌いです。大嫌いですとも。あんたさんのことは心底受け入れられない……受け入れられないぐらい、とてもとても眩しいんです」
「……」
「……だからこそせめて約定は違えず、命ある限りはあんたさんの話を語り継ぐことにします。それぐらいしか、あたしに返せるものないんで」
「メアリさん……」
「……ま、コロッと死にやがるかもしれねーですけど。お互いに」
ふ、と肩を竦めるメアリはやはり危険の伴う仕事だ。
シラノもまた、いつどこで息絶えるか判らない。ここはかつて暮らした世界と異なり、命の危機があまりにも多かった。
だからこそ、だろう。
「メアリさん、俺ァあの夜の言葉を違える気はないです。……剣士に二言はねえ」
「……………………だから、そーゆーとこが嫌いなんですってば」
「そう言われても、二言はねえ。あっちゃならねんで」
決断的に言い切った。
口に出した約束を違えていては、己の道を貫くことなどできはしないのだから。
「まったく……。んじゃ、ま、せいぜい晴れ姿を見せてくださいな」
「うす」
そうして、会場へと向かう。
その間も、フローは物珍しそうに辺りを見回していた。
◇ ◆ ◇
両脇を剣に停まったフクロウの彫刻に抱えられたその講堂は、元は〈秩序と勝利の女神〉という女神の神殿だったらしい。
確か、〈不滅の極剣〉の使い手ではあると聞いたが……他にも法は無論ながら学問も管轄しているそうだ。多才な神である。
グランギョルヌールがその女神の神獣でなくてよかったと思った。確実に正気値が削られる建物であったろう。
「うわあ、広いねぇぇぇ……広いねぇ、シラノくん……!」
「そうっスね。……中で武器を作って隠すのもやりやすそうですね」
「だからなんでそう物騒なの!? なんで!?」
「いや……」
淫魔が似たようなことをしてたからだとメアリとエルマリカを見れば、何とも言い難そうな顔で目を伏せられた。トラウマらしい。
ともあれ、その広い講堂の殆どは人に埋め尽くされている。
血の河めいて中央を走る赤絨毯以外は、どこにも人の山だ。叙勲式にはパーティー一同を伴い、仲間で喜びを分かち合うのだろう。
先ほどの外套の少年や、見かけた道行く者たちも人混みの中にいる。やはり、叙勲仲間だったらしい。
「……」
人々のその嬉しそうな顔に息を零した。
何事もなければなと、マフラーを引き上げる。これほど混雑していれば、少しの爆薬に類するもので相応の死傷者も作れよう。
その辺り、この世界はどうなっているのだろうか。
魔剣の持ち主が街なかで暴れだしたら相当な死傷者が出るだろう。いや、持ち主も早々に暴れだしはしないと思うが……例えば精神的に追い詰められていたら――
「シラノくん、シラノくん」
「どうしました? ……人混み、やっぱり苦手ですか?」
「そ、それはそうだけど皆と一緒だし……それより、嬉しいねえ」
「……何がスか?」
「触手使いなのに、〈銀の竪琴級〉だって……。シラノくんはすごいねぇ……嬉しいよねぇ……」
フードを被ったフローは、それでもその下で花のように顔を綻ばせていた。
これは、結果でしかない。目指すべき道は未だに遠く、まだ折れてはならないと自戒するしかないが……。
「そう、ですね。……俺も、先輩が喜んでくれたなら――」
「え?」
「なんでもねえっス。……そろそろ始まりますよ」
「何を言いかけたの!? ねえ!? シラノくん!?」
「式で騒がしくしないでください、先輩」
「うぇぇぇぇぇぇ!? 酷くない!? つ、冷たくない!?」
それでも小声で騒ごうとするフローを他所に、角笛の音が上がる。
他には弦楽器や金属打楽器もあり、中々荘厳な光景だった。
フローの姓のヴィオロンは、かつて父祖がその触手の精密さを表す為に百の弦楽器を演奏したことに由来しているのだったか。この世界は、音楽も隆盛している。
それが開会の音であったのか。
次々と、名前や職業が呼ばれていく。その度に人が絨毯に歩み出て前を目指す。時たま二つ名が呼ばれるのは、〈銀の竪琴級〉特有のものだろう。
その中でチラホラと、年若い集団が目立った。それも揃いの外套と制服……ふと、腕を組めば、
「ああ、あれは魔術研究院……ティグワース王立魔術学院の分派みたいなもんでやがりますね」
「魔術研究院が、冒険者を?」
「講義の一環で野外戦闘もちょっとやるってんで……まぁ、そのついでに貰える肩書みたいなもんですね。半分はコネです」
ふむ、と頷いた。
その大方は〈鋼の槍級〉である。確か、複数の街での承認が必要な最初の級であったか。
……あまり、仲良くはできそうにない人種だった。
身体付きからは戦歴が感じられず、何よりも式の最中も野次を飛ばしたり、仲間内で手を叩いて騒ぎ合っている。
ともあれ、マナーの話は勝手な話だ。
彼ら彼女らがどうしようと、シラノからは口を挟む権利はない。主催者が止めぬ以上は、そういうことだ。水を差すのも不粋だ。
そう、思っていたときだった。
「――バルドゥル・ア・ランベル。呪術使い……いや、紋章拳士! 〈骸拾い〉のバルドゥル・ア・ランベル!」
ざわりと集団が湧きたった。
呪術使い――魔剣を大元にした魔術ではなく、そこから外れた法のうちの一。あらゆる“呪い”と称されるものをその意志の下に操る、そんな魔法使いだ。
そして、人混みを掻き分けて現れたのは先ほどの銀髪の少年だった。
「呪術使いだって……やだ、近付くと呪われるの……?」
「なんでそんな奴が、二つ名持ちだなんて……」
「〈骸拾い〉ってなんだよ……死霊術師の間違いじゃないのか?」
そう漏らす者もいれば、
「〈銀の竪琴級〉だって言ってもなんだよあのみすぼらしい格好は……〈襤褸の服級〉じゃねないのか?」
「ハハ、服を買いに行く暇がないぐらい依頼を受けてるんだろ? そこまでして名声が欲しいのかね……呪術使いが」
と嘲笑する者もいる。
フローが、肩を縮めた気がした。フードを目深に被り直していた。
自然と、拳に力が入る。
いつしか左手は、獅子丸の鞘を抑えていた。握り締める指に力が入り――……、ぷに、と。
後ろから、頬を指で押されていた。
「ふふ、隙だらけですわ。狩人はまさに獲物を狙うその瞬間が危険と言いますよ。……如何されました?」
「いや……。……、……剣じゃないんスね」
「あら。……確かに。なるほど……確かにここの法には『剣を抜いてはいけない』とはありませんね。なるほど」
「やめて」
奥ゆかしい笑みを一つ、柄に手をかけようとするセレーネを制する。
そんな彼女も〈銀の竪琴級〉である。なんというか、少々思うところではあった。
そして、その次が決定的であった。
「う、うわぁっ!?」
絨毯が絡んだのか、躓いたのか。
バルドゥルという少年が、突如として赤絨毯に身を投げ出した。
咄嗟に受け身をとったのは流石としか言いようがないが……大勢の前でよほど恥ずかしかったのだろう。顔を真っ赤に、背中を丸めて人混みに戻っていく。
それを眺め、ほくそ笑むもの。その手には、杖。宙に浮かんだ魔法文字。
知らず、鯉口を切ろうとし、
「――シラノ・ア・ロー。触手使い……いや、触手剣豪! 〈破城〉の……〈義刃〉のシラノ・ア・ロー!」
呼ばれた声に、また群衆が騒めいた。
人の垣に片手を切れば、様々な視線が注がれてくる。
好奇、嘲笑、感心、畏怖、侮蔑――――様々ではあるが、
「今度は触手使い? 酒場の主を誑し込んだのか?」
「見ろよ、あいつの仲間……どいつもこいつも女じゃねえか」
だとか、
「なんで触手使い何かが二つ名持ちに……それに〈破城〉と〈義刃〉だって? 触手使いが?」
「どれだけを相手にしたんだよ。いきなりそうも贈られるなんて、聞いたことねえぞ?」
などという囁きが聞こえてくる。
ともあれ、関係はない。
嫌われようが好かれようが、彼らはシラノの剣の足しにはならない。気にする必要はなかった。ないのだと言い聞かせる。
淫魔の根を探し出す。そして、触手使いの風評を晴らす。
元より己は他人の評価など求めていない。ならば、些事であると目を瞑り――
否、
「へへ、今度はどうせならあの女を脱がしてやれよ」
「そうだな。ガバっとやっちまうか」
――瞬間、シラノは決断的に踏み出していた。
一直線に流れに逆らったその先に居たのは、小太りの少年とのっぽの少年だった。
どちらも揃いの外套に、揃いの制服……魔術研究院の生徒だろう。
足を止めたシラノの真向かいの彼らが、不遜そうに眉を上げた。
「なんだオマエ? 呪われた触手使い風情がなんの用だ!」
「おまえ、触手使いなんかがそんな目を向けてわかってるのか? おれたちに何ができるか――」
前蹴りを叩き込む。
勢いをつけた一撃に、腹に受けた一人が堪えきれずに人の輪を薙ぎ倒した。
「キサマ、こんなことをして――」
「イアーッ!」
ズバン、と。
握った触手の柄。大気を割く強烈な轟音と共に、のっぽの首から液体が迸る。
群衆が騒然となり、蹴り倒した一人目は顔を青くし――
「……」
絨毯に広がる染み。湯気を上げ、そのズボンの色を深めていた。
斬りつけられた一人は、手足を投げ出して完全に意識を失っている。首に当たる僅かな衝撃波と噴出した水音に、己が斬られたと思い込んで失神したらしい。
二ノ太刀“刀糸”及び七ノ太刀“無方”――刃を半ばで折り、液状触手で偽装する“偽打ち”であった。
「キサマ……キサマ、よくもこんな不名誉を……! けっ、けっ、けけけけけ、決闘だ!」
「決闘……?」
「そ、そうだ! お……おれにこんな真似して、ただで済むと――」
黙し、生じ向けるは野太刀の切っ先。
「もう、始まってる」
「な……っ!?」
「手前ぇが仕掛けた。俺が応じた。……後ァ何が要る。何が欲しい。どう死ねば満足だ」
寝言を言うなと刃先を突きつければ、学生は悲鳴を上げた。
決闘の作法は詳しくないが、判るのは一つだ。
挑んで来るなら挑む気がなくなるまで徹底的に叩きのめす。態度でもそうする。何が相手でもそうし続ける。後顧の憂いを立つために徹底する。二度と立ち上がれぬように徹底的にその心身を叩きのめす。
戦は須らく同じだ。戦闘というのは、いつだってそうだ。シラノにできるのは、それしない。
静かに歯を食い縛り、己を切り替えた――己の精神を。
(剣名を立てるより先に俺が死ぬかもしれねえ……触手使いに手を出すことがとにかく痛みと恥になると――――世の中に思い知らせるしかねえ)
己は、ただの刃だ。己は、一振りの刃である。
退路は断て。退路を思えば腰が引ける。戦いにならぬ。
容赦を断て。その油断は致命に至る。敗北の種を悉くに否定せよ。
たとえ敵が一族郎党だろうが、官憲付きだろうと知ったことではない――意地の張り合いに情けは不要。そう言い聞かせ、刃めいて目を細めた。
「床に水を撒く……それが自慢の魔術か?」
「っ、キ……キサマぁ! よ、よくも……!」
「立てられるのは湯気だけか。……オムツがねえと手前ぇ自身は立てもしねえのか」
見やれば、余計に顔を赤くした。
赤くして、ただ睨みつけてくるだけだ。切っ先を進めればすぐにその態度が崩れた。
助けを求めるように、その学生は辺りを見回す。シラノたちを中心に輪ができていた。
「な、なんなんだオマエは……! ぶ、侮辱への報復のつもりか!? ほ、他にも皆言ってたろう!?」
「言え」
「え?」
「覚えてるだけの顔を言え。指差せ。皆ってのは、誰だ」
言い捨てれば、輪が引いた。巻き添えを厭ったのだ。
これで少なくとも、背後から襲われる心配はない。されたところでそれより前に斬り捨てられる間ができた。
助けを捨てられ顔を青くする学院生を前に、己が冷徹に組み上がっていくのが判る。
油断はない。慈悲は要らぬ。叩き折ればいい。
これを楽しみにしていた人々、そしてフローとメアリに対して抱いた腹を捌きたいほどの申し訳なさを――……今は追い出した。自分は死人だと言い聞かせる。戦う以外には必要ない。
そうだ。この身は刃だ。
そうだ。刃は嘆かない。
「お、オマエ……ただで済むと思うなよ!? こ、こんな無法な――」
「済ませるつもりはねえ。……腹ァ斬るか、立ち会って死ぬか選べ」
「は、腹っ……!? な、な、な……ふざっ、ふざけ……!」
うわ言めいて繰り返すその無様を前に、吐息を一つ。
血振りののちに刃を収める。セレーネに倣えば、斬る価値もない相手だと称そうか。
そのまま背を向けた。
襲いかかられても、この距離なら拳の方が早い。その頭蓋ごと鼻骨を砕く用意はできていた。
血管が、体温が冷えついていくのが分かった。ただ、顔だけは上げられない。前を見る気力だけは湧かない。特に――……フローたちを。
「なんじゃ、この騒ぎは……」
そんな中で、白い髭を蓄えた老人が現れた。
豪華な刺繍が施された紫と白の法衣。壇上で任命を行っている、この場の責任者であった。
厳かに膝を折り、
「は、自分です」
端的に答える。片膝のまま、口を結んだ。
残るは沈黙だった。そのまましばし、ざわめきだけがその場を支配する。
「あぁ……ええと、良い。許す。何があったのか、説明しなさい」
僅かに困惑したその声へ、逡巡する。
例の二人組を見れば、既に杖を隠していた。意気はないが悪知恵だけは働くらしい。
ともあれ――……ここで声を上げて、果たして立証できるのか。魔術というのには、あまりにも不得手である。
僅かに悩んだのち、老人の姿を直視せぬよう頭を下げたまま続けた。
「刃を向けられたので、斬りました」
「刃……? わしには尻餅をついている風にしか見えんが……一体何のことだ?」
「言葉の刃を。……なので、心を斬りました」
一瞥した冒険者が失禁しているのに、老人も腹から息を漏らした。
そのまま、シラノへと視線を戻す。
「……この晴れの式で騒ぎを起こすとは、どんな了見をしておるんじゃ。恥ずかしいとは思わんのか?」
「仲間の心を傷付けられて、泣き寝入る方が恥です。……付け狙う復讐は悪です。なので、その場で雪ぎました」
努めて心を落ち着けて返せば、老人は鼻から盛大な吐息を漏らした。
「……随分と我が強いの、お主は。名はなんと申す?」
「シラノ・ア・ロー。触…………いえ、剣………………触手剣豪のシラノ・ア・ローです」
頭上の向こうで俄かに目を見開いた気配が伝わってくる。
そのまま、次の言葉を待つ。
「……わしの言いたいことが判るか、シラノとやらよ。〈銀の竪琴級〉という荷は重い。少なくとも、軽率に刃を抜く輩には渡せない」
「……重々、承知しています。相応しくないことをしました」
「そうか。ことの重大さが判るなら、何故こうした。話している分には、お前は受け答えもしっかりとしている……礼儀だって弁えておる……その、何かの間違いではないのか?」
世辞だろうか。慈悲があるのだろうか。
慮るような老人の言葉へと首を振り、
「何ら間違いではありません。……俺が、斬りました」
その答えで、老人は盛大に口から溜め息を漏らした。
そして、周囲の人だかりに散れと手で表す。
疲れが望むようなその背を見れば、ただ申し訳なくなる。申し訳なさを覚えつつ、シラノは言った。
「一言、よろしいでしょうか」
「……なんじゃ?」
「この国では……彼らのように人を嘲り笑い、軽率に言葉の刃を抜くものを〈銀の竪琴級〉と呼ぶのですか?」
「……お主は何が言いたい。それこそ刃と言うなら、今まさにお前の言葉がそれではないのか? そう取られてしまっても、差し支えないものであるぞ」
「無論、承知しております」
「……つまり、判っていて抜いていると? わし相手に? 我ら相手に? この国相手に?」
老人が、険を増した瞳で眺めつけてくる。
逸らす事はない。シラノも外さず、ただその灰色の瞳を見つめ返した。
やがて、
「……腕に覚えがあるのは判るが、いささか傲慢というものじゃ。お主のそれは……まるで、世界全てを相手にしていいとも聞こえるぞ?」
「は、まさしく……」
「ん?」
「まさしく、そのつもりです。善良な人の心を踏みにじるなら、その身に穢れた切っ先を向けるなら……自分は決して退きません。ここがどこでも……たとえ誰が相手だとしても、絶対に叩き斬ります」
拳で絨毯を押し、立ち上がった。
俄かに警戒を増した老人へと、
「晴れの式の邪魔をして申し訳ありません。……失礼します」
頭を下げ、講堂を後にする。
背後は、振り返らなかった。
◇ ◆ ◇
よく晴れた青空の下、
「うぇぇぇぇぇぇぇ、何してるのさぁ!? 何してるのさ、シラノくん!?」
「……うす」
「うすじゃないよ!? どれだけ危ないことやったのか分かってるの!? 叙勲式であんなことしたら、縛り首にされちゃうかもしれないんだよ!?」
「…………、そんときは……」
「え?」
「そんときは、縄ァ切って追っ手を斬り捨てて逃げます」
「うぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇぇえぇぇぇぇ!?」
喫茶店のテーブルを囲んで、詰問が行われていた。
机の真向かいに座るフローと、額に手を当てるメアリ。
晴れ姿だと言ってくれた彼女たちの想いを裏切ったことを思えば、それこそ切腹ものと言うしかあるまい。
「……まー、別に法に定められてはいやがらない以上、罪には問われないでしょうが。……随分と心証が悪くなったと思いますよ?」
「そ、そうだよシラノくん! 依頼を受けて竜を倒しても、ちゃんと評価されないかもしれないんだよ!? そんなに危ないことして頑張っても報われないかもしれないんだよ!? それとも〈銀の竪琴級〉が取り消されちゃうかもしれないんだよ!?」
「……すみません。折角期待させたのに申し訳ねえ」
「ボ、ボクじゃなくて……謝るならさっきのあの人たちに――」
フローが詰め寄ったのを、
「それはできねえっス。――礼儀もねえ人の皮を被ったケダモノ相手に下げる頭なんざ、俺ァ持ち合わせちゃいねえ」
重く、そう返した。
謝るぐらいなら初めから喧嘩を売っていない。やるなら最後までやるか、やらないかだ。抜いておいてやめましたでは、筋が通らない。
瞳にそんな気持ちを籠めれば、
「あら、それはいけませんわ……シラノ様?」
「セレーネ?」
「ほら、獣人の方がいらっしゃったら気を悪くするでしょう? ここは、斬る価値もない血の詰まった糞袋と言うべきですわ」
「……あ、はい」
彼女は愉快そうに貞淑な笑みを浮かべている。
なんというか、相変わらずである。……というかシラノ自身は、世の人にこれよりも危険だと認識されているだろうから何も言えないが。
「で、でもシラノさん……その、格好よかったわ! 心無い宮廷の方々の言葉を言い返して去っていく……そんな騎士様みたいだったもの! ええ、とってもすごい……! やっぱりシラノさんは騎士様なのね……! 素敵よ!」
「……ほら、お姫ぃ様の教育に悪いことを」
「うす。……申し訳ありません」
深々と頭を下げる。
メアリは、盛大に吐息を漏らしていた。
「……ま、やっちまったもんはしょーがねーです。というか本当にあんたさんって剣の道にしか生きられねえというか、危ないところでしか輝かねえ男というか……」
「……」
「似たようなことは鬼人族や獣人族や……まぁ、半森人族もやるかもしれねえんで、そこまでの大きな沙汰にはならねえとは思いますが……」
歯切れの悪いメアリに目をやれば、仄暗い半眼を向けられた。
「面子ってのは重要でやがりましてね……どんな小物でも、引っ込みつかねえ場で追い詰められればどれだけの牙を剥いてくるか知れたもんじゃねーんですよ? それこそ、縁のある家に呼びかけてあんたさんを狙うかもしれない」
「その時は……その時は、仕方ねえ。一族郎党叩き潰します」
「……………………あんたのそういうとこ嫌いです。いや、天地創世相手にしてりゃあ、やってできることなんでしょうけど」
「できるかできないかじゃなくて……やるか、やらねえかです。触手があろうとなかろうと、相手が誰だろうと曲げねえもんは曲げねえです。あいつらが天地創世の魔剣を持ってようと、関係ねえ」
「…………………………あんたのそーゆーとこほんっと嫌い。大嫌い。もう嫌い」
腹の底から息を吐かれたので、なんとも言えずにまた頭を下げた。
ともあれ――……どうしたものか。
いや、考えていないわけではなかった。頭の隅では考え、その上でやった。
あのような輩にまでなし崩し的に等級を発行している冒険者ギルド。この世界の冒険者制度というものが思ったほど頼りにならぬと分かった以上は、その等級に拘る必要はない。
腕を組んで考える。
……例の、神前剣闘士。あれは冒険者の等級が必要なのか。必要ないならば、それで剣名を立て――
「――」
咄嗟、頭目掛けて振り抜かれようとした女の手を抑える。
右を掴めば、動く左。そちらにも応じて、両手を抑えつけた。
……思ったよりも早い雪辱戦だ。それほどの気概も尊厳もない連中に思えたが、誤りだったか。
そう、襲撃者を眺め――
「……アンセラ?」
そこにいたのは炎めいた赤き長髪をたなびかせた黒服の少女――〈銀の竪琴級〉“炎狼”のアンセラであった。
バシと、手が無理矢理に外され、
「七つの難行よ!」
ビッと指が突きつけられる。
「七つの難行! これから伝えるから!」
彼女はそう、吠え立てた。
……何か始まるらしい。




