第七十一話 スレイ・ニンジャ・オール その三
◆「スレイ・ニンジャ・オール」その三◆
誰の目から見てもセレーネの対応は、迅速だった。
「フロー様、お下がりを」
腕で制するなり、逆の手で鎌剣を抜き晒す。
周囲の群衆がどよめき、波紋が広がった。突如と湧いた喧騒の気配に人々は一斉に遠ざかる。
だが、セレーネと対する少女は怯える様子もなく一瞥し――耳に残る甘い響きの声で一言、
「……貴女、自分が大好きでしょう。それだけ。自分以外はどうでもいい。自分がしたいままにするのが一番……自分だけ愉しむ女というところかしら?」
「……それは、貴女の方ではありませんか?」
「へぇ?」
「拡大する疫病のような方ですね。……空虚さを塗り潰そうと剣に貪欲なのですか? そこには理念も道理もない……愛や理解とはあまりに遠い、ただの現象めいておりますわ」
鞘の内の女の刃を見透かすようにセレーネが柳眉を上げた。
フローには判らない。だが、一流とも言うべき彼女たちには見えるものがあるのか。
そして、対する少女は目を細める。誘うように笑っているのに緊張感が増した。フローには、そう感じられた。
「あら。……失礼ね。違うわ、私――気になる男いるもの」
「そうですか。ええ、ならば私も違いますわ。お慕いしている方がおりますので」
「貴女みたいな怪物に好かれるなんて気の毒ね。……それとも、そんなどうしようもない男なのかしら?」
「そのままお返ししますわ。貴女のような方が好む男性は、きっと血と戦いの匂いしかしない死狂いでしょう」
セレーネまで、続いて楚々とした笑みを浮かべた。女性もまた笑う。
赤黒と青銀――対象的ながら見目麗しい女性たちが、お互いに笑みを躱し合う。
一見すれば美しい光景だ。
だが群衆の野生の直感とは正直なもので、より一層人波が遠ざかっていた。嵐の前の、何かの如く――……。
「ふふ、彼のことを悪く言わないで下さる? ……素晴らしい男よ。この世の何とでも戦える男……一念だけで世界全てに斬りかかれる男」
「それを、狂人と呼ぶのではありませんか? ……こちらは違いますわ。人の想いを誰よりも重んじ、慈しみ、その為に退くことなく剣を摂れる方ですので」
「想い? 慈しむ? ……あら、軟弱そうね。退くことがないというのはいいけど、それ以外はまるで駄目ねぇ。男は、自分の血に塗れても最後まで戦うくらいじゃなきゃ」
「戦いますが? 怪我しますが?」
「ふーん? 私の彼もきっともっとそうするけど? 絶対するけど? きっともっとすごいけど?」
「こちらには敵いませんわ。確実に敵いませんわ。ええ、確実に。絶対確実に。絶対に。だからこそ斬りがいがあるのです」
なんの話なんだろう。なんか論点がズレてる気がする。
フローはそう思った。
恋の鞘あてというか、恋の鍔競り合いだろうか。恋の居合抜きかもしれないし、恋の六つ胴斬りかもしれない。
「……斬りがい? ええと、斬るの? 誰を? その人を? ……斬るの? その人を?」
「ええ。私が最も力を入れたものは剣……その方が心の寄る辺にするのも剣。ならば、互いを知るには斬り合うのが一番でしょう? 生死の狭間にこそ、見えるものがあるのです」
「……面白い考えね。こんなものはただの手段じゃない。殺すことも斬ることもただの手段……大事なのはその果てに何が得られるか。何を与えられるか……斬ることそのものに意味はないわ」
「……ふむ。ならば、何を得て、何を与えるというのですか?」
セレーネの問いかけに、女はニコリと、
「――虚無。虚無を埋めて、虚無を与えるの。……私が真に何者かを知る為に」
妖艶に唇をなぞり、鳥肌が立つほど凄惨な笑みを浮かべた。
そして訪れるは沈黙。
薔薇の如き艷やかな微笑を浮かべる女性と、雪像めいた相貌から涼しい吐息を漏らすセレーネ。
互いの話にひとまずの決着はついたのか。もしかして言葉で分かり合えたのか。
フローがそう思った、その時であった。
『……』
睨み合った互いの沈黙と共に息苦しさが増す。
真逆だった。いよいよ二人の女性は、覚悟を定めたらしい。
「……私に、他人の信条を否定するつもりはありませんわ。ええ、斬り捨てこそすれその方の想いまでをも否定はすまい――そう決めておりましたが」
「……私、浪費って嫌なのよね。私にとってどんな益があるか……私にどれだけ情熱を向けてこられるか、私が何者なのか量りたいだけなのだけど……」
――こいつだけはここで斬り捨てた方がいい。
眼帯と黒髪――互いに右目を隠して交わす視線は、無言の対話であり同意だった。
それは女性としてではなく、剣鬼としての勘である。目の前の相手とは、未来永劫分かり合うことはない。懐きし剣の道とその矜持は互いに掠りもしない。
ならば――決して分かり合えぬ剣の道を前には、どうするか。
ただ己の剣で正しさを証明するしかない。
二人は寸暇違わず、その結論に達していた。
「うぇぇぇ!? ちょ、ちょっとセレーネさん!? こんなところで何をする気なの!? 周りに人がいっぱいいるんだよ!?」
おもむろにもう一本を抜いたセレーネを前に、いよいよフローは声を張り上げたが、
「巻き込まれたのは不運としか。……人生とはそのようなものですわ」
「人生がそんなものというのは同意だけど……違うわ。不運というのは、この私に出会ったことよ」
「……なるほど。貴女には殺す価値もありませんが、そうとまで軽んじられたら死んでいただく他はありませんね」
「できるかしら? 貴女に……」
「さあ。……斬ってみなければ、この世はわかりませんので」
女性も応じて、酷薄な笑みで柄を握った。
七歩の断絶。二人はまさに、一触即発であった。
「セレーネさん」
だが、臆することなくそこへ踏み込んだのはエルマリカである。
普段の様子とは打って変わって湖面のように静謐な表情のまま、彼女はセレーネとの間を詰める。
よかった、とフローは胸を撫で下ろした。
歳は若いが、エルマリカは天地創世の魔剣使いだ。
そんな彼女が落ち着いているのは心強い助けであった。……幼い子に頼るのはちょっと情けないけど。
「駄目よ。……こんなの、シラノさんはきっと望まないわ」
「シラノ様ではなく、私の一分の問題ですので。……それにシラノ様も、見ればこんな女は斬り捨てた方がいいと仰りますでしょう」
「……それでも、人が巻き込まれるのはシラノさんがきっと嫌がるわ」
「道理ですね。とはいえ、私としても……」
「ええ、駄目よ……シラノさんのことを裏切るなんて……傷付けるなんて……その心を傷付けるなんて……。駄目よ、わたし以外の人がそうするなんて……これ以上そうするなんて……シラノさんが傷付くなんて……」
「………………エルマリカ様?」
「ええ、そうよ……駄目よ……。どこのどなたも駄目……これ以上シラノさんを傷付けるなんて駄目よ……。ぜったいだめ。そうよ。そう、シラノさんを傷付けるなら――」
ざわり、と。
瞳から光を無くしたエルマリカが漂わせる気配は、まさしく古の邪竜――大地がのしかかるに等しい重圧としてその場を覆い尽くした。
空気が刃めいた剣呑さで肌を打つ。
それはセレーネですらも意外であったと目を見開くほどで――――直後、凍えるような歓喜の笑みはエルマリカをも対象とし始める。
「うぇぇぇぇ……」
頼りになると言ったのは誰だ。とびっきりの危険球じゃないか。どうしてこうなった。
寸詰まった悲鳴が口から漏れる。フローはもう、どうしていいか分からなかった。全員が全員、火を吐かんとしている火竜同然なのだ。
なんとか己を奮い立たせてそれでも麻酔薬をばら撒こうとすれば――
「ああ――……そう、貴女。貴女よ。ええ、貴女」
何たることか、対立する紅い彼女が喜悦の声を漏らした。
「貴女――……世界全てを斬り捨てたいでしょう? その目、その奥に抱えているでしょう?」
「……」
「いいわ。すごくいい……世界全てを相手にできるということは、世界全てを愛していることと同じよ」
目に爛々と妖しい焔が灯る。セレーネの際に比べて、その態度は明らかだった。
対するエルマリカは、戸惑っているのか。
いや――……違う。やはり魔剣の使い手なのか、余人ならば凍りつくそんな雰囲気にも関わらず平静を保っていた。流石の貫禄だ。
「あなたが何をおっしゃっているのか判らないけど、違うわ。わたしは、世界全てと戦うなんてことはしない。……それに、世界全てを愛したりなんてしない。え、えっとその……お、お一人だけよ? そ、そう……お一人……えっと……だ、駄目よ?」
平静じゃなかった。なんかしどろもどろしてた。
「あら。……でも、見れば判るわ。貴女には他でもない自分がある。自分が決めた自分がある……世界全てを呪う自分がいるでしょう?」
「……」
「羨ましいわ。貴女は、自分が何者かを判ってる……世界を呪うものが自分だと、自分自身のことを決めてられているのでしょう」
「……違うわ。いえ、もしそうだとしても……それでもだ――と、仰ってくれる人がいたのだもの。優しくて、立派で、勇敢な方がいるもの……。……世界を呪う筈なんて、もうないわ」
「……へぇ。その、シラノって男?」
「ちちちちちちちちちちちちち違うわ!? 違う! 違うの! ちちちちちちちちちちちちち違うから別にシラノ様のことが大好きでずっと想ってるとかずっとぎゅってしてほしいとかずっと手を握っててほしいとか駄目よそんなことしたら赤ちゃんができちゃうわ駄目ぜったい駄目よまだ早いわシラノさんあっダメダメはしたないわ――」
「……」
「そそそそそそそうよ駄目よ結婚前なのに駄目よいっぱいしたいとか駄目そんなことダメダメダメダメはしたないわそんなの駄目よそんなことしたらわたし駄目になっちゃうわ駄目よそう幸せな家庭にしなきゃちゃんとお式を挙げ――――じゃなくて、そんなこと言ってないわ!? 言ってないの!? ええ言ってません! シラノさんなんてなんとも思ってないんだから!」
「……あら、違うの。へぇ、そう……まぁいいけど。……でも、貴女から呪いの火を消した男がいるのね? 世界を呪う火を、塗り潰すほどの炎の持ち主が」
にぃ、と女が口角を上げた。
「探せば世の中、いるものね。……剣の旅を勧められて、ここまで収穫だと思わなかったわ」
「……探して、どうする気なの?」
「そんなの、変わらないわ。ええ、だって私の剣はその為にあるのですもの――……でも残念ね。もう見付けてしまったのよ、私は一人……もう出会ったの」
「……」
意味深に片頬をつり上げた女性と、眼光を強めるエルマリカ。
その間に色濃く剣気が充満する。呑まれた群衆の中の婦女が、卒倒した。
フローはもう泣き出したかった。
この人たちは女の子同士の会話がしたいのか。斬り合いたいのか。両方なのか。もう女子会というより女死会だった。
「折角だから、斬ってみたいと思っても仕方ないでしょう? とても心地がいいと思わない? ほら、それを斬り捨てれば……少なくともこの剣に箔がつくわ」
「恐ろしい人ね、あなた……。愉しそうに人を斬ってみたいって言うなんて……信じられないわ……」
えっ。
フローは反射的にセレーネを見た。にっこり微笑み返された。しかもなんかこの場にはセレーネだけじゃない気がした。怖い。
そして、そのセレーネは、
「判りましたでしょう、エルマリカ様。この手合いは斬って捨てた方が良いのです。狂人を理解しようとしてはいけませんわ」
――女死会参戦。
なんでこの人は笑ってるんだろう。怖い。この人たち笑ってるんだろう。
「しかし、貴女には殺す価値がないと申し上げましたが……それほど想いを向けられる方と言うのは些か気になりますわ。聞き出す……いえ、斬り出したい程度には。勿論、私の好みには遥かに及びませんが」
「貴女の好みなんて知らないわよ。それに彼も、貴女になんて見向きもしないでしょうし……ええ、向かい合ったところで見逃されずに殺されるだけよ? 彼は、私が〈剣と水面の神〉にするんだもの……」
「あなた方、恐ろしい方たちなのね……怖くて震えてしまいそう。駄目よ、そんなの……男の人はやっぱり落ち着いていて優しくて頼もしくて手をとって毎日口づけ――ううん。ごほん。駄目よ、こんな街中で魔剣を抜くなんて……そうよ、斬らないと」
三者三様の女死会。
そこらの気が弱い人なら失禁しているかもしれない。でもフローは触手使いであり師匠であり先輩でありお姉ちゃんなので耐えた。シラノくんはもっと褒めてくれてもいいと思う。もう少し優しくすべきだと思う。
……というか。
「ともかく、こんな危険な女を生かしておく意味はありませんわ。その意中の方もよほど見る目がないのでしょう」
「あら、目がないのは貴女でしょう? そんな醜い傷痕の女を侍らせる男なんて、たかがしれてるわ。……彼とは大違いね」
「……とにかく、場所を変えましょう? 駄目よ……街中で魔剣を抜くなんて……愉しそうに人を斬ってみたいって言うなんて駄目よ……あり得ないわ……。シラノさんには絶対に会わせられない……そんな危ない人は近付いちゃ駄目だわ」
何故だろう。とても緊張感に溢れているのに、フローには何故かこの人たちが全員馬鹿なのじゃないかと思えてきた。何故だろう。きっとすごい馬鹿だと思う。
ひょっとしたら外宇宙の有形にして無形の父なる神からお告げでもあったのかな。そんなの今まで誰も聞いたこともないけど。すごいなあ。それぐらい変なこと言ってるんだろうなあ。お前が言うな的な。よく判らないけど。
……なんて思いながら、若干に冷静さを取り戻したジト目めいた眼差しを三人向けなおそうとした、そのときだった。
「……それにしても、風が冷たいわね」
「え……?」
「風が冷たいわ。気が萎えてしまうじゃない。……いつまでもいる場所じゃないわ、こんなところ」
「ええと……お帰りになるの?」
「ええ。……ごめんなさい。それに私、やることがあるの。釣り糸を垂らしたなら、その成果を確かめなきゃいけないでしょう?」
「釣り糸……?」
「ふふ、自分が何者かを知っている貴女には関係のない話よ。……ええ、折角湧いてきた唯一を手放してしまった貴女には関係のない話。それでも……ここは貴女に免じておくわ。貴女と、かつてあった呪いの炎に」
踵を返し、女が立ち去る。人混みが〈竜魔の邪剣〉を受けた大海の如く割れた。
そして暫く――……ようやく硬直が解けたフローは、
「うぇぇぇぇぇぇ……なんだったんだよぉ……なんだよぉ……。みんな意味判んないよぉぉぉ……なんだよぉぉぉぉ……怖いよぉぉぉぉ……。シラノくんがいなくてよかったよぉぉぉぉぉ……」
思いっきり息を吐いた。ちょっと涙も混じってたかもしれない。怖かった。
「あら。いらっしゃったらきっと斬り捨てていたと思いますが……」
「だからいちゃいけないんだよ!? 絶対また怪我しちゃうよ!? ひょっとしたら今頃また怪我しちゃったりしてるかもしれないんだよ!?」
「フ、フローさん? わたしに勝ったシラノさんに限って……」
「いーや判らないからね! 判らないからね! シラノくんはすぐに意地を張りすぎて怪我しちゃうんだから! また『命懸けの戦いだー!』ってやっちゃってるかもしれないんだからね!」
いやいやまさか、たかが亡霊相手に――と言おうとしたセレーネとエルマリカは顔を見合わせた。
うん、また死にかかっていてもおかしくない。
趣味なのか鍛錬の一貫なのかそうせざるを得ないからしてるのか、やたらと死地に赴くことは全員の共通認識であった。一度失ったからか命の見積もりが恐ろしく軽い。
そして続くフローの言葉は、
「一度死んじゃったから死ぬほど意地っ張り屋さんになっちゃったのは判るけどさぁぁぁ……もう少し落ち着こうよぉぉぉ……。そんなに戦ってもいいことないってなんで判らないのさぁぁ……。あと、なんでボクにだけあんなに冷たいのさぁぁぁ……」
冷たいのさぁ、が特に強調されていたので二人は何とも言えない顔になった。この人すごい馬鹿だと思った。
目線を交わして無言で相談し――とりあえず、
「フロー様はもう少しご自分を鑑みた方がいいと思いますわ」
「フローさんは鏡を見た方がいいと思うの」
「うぇぇぇぇぇ!? なんで!? なんでこの流れでボクの駄目出しになるの!? なんで!?」
オロロンゲボーロ、オロロンゲボーロとグランギョルヌールが飛んでいく。
お前ら全員同類だ、と言わんばかりであった。
なお――
「……風邪、引いたか?」
……同じ頃、帰り支度にかこつけて身体に入念に触手を巻きつけたシラノは壮絶な悪寒に襲われていた。
メアリの抱える不穏。今朝の会話で言えない事情があるのは判った。とはいえただ瞳を閉じただけの疑似心眼であるので、それ以上の見極めには一度彼女の策にかかる必要があるだろう。
その為に万全の備えをしたつもりだが、それにしても……この悪寒はなんだろうか。
今まで散々直感には助けられてきた。一度完全に死に叩き込まれたからか、身体は死の気配に敏感である。……失敗するのか。
「いや……」
悪寒の中、思った。
やはり、服の下……素肌に鎧というのが良くないのではないか。
素肌に触手鎧を着込む男。服の下に全身触手鎧。裸に触手鎧マン。
すごい暴力的な肩書だ。……こう、明らかに人として大切な何かを手放してないか。かなり酷いのではないか。もう完全に不審者ではないか。
というかきっと完全に汚物扱いされる。
誰かに知られたら永遠に知的生命体以下の称号は免れぬ。名誉の欠片もねえ。触手剣豪としても触手使いとしても終わる。腹切って詫びるしかねえ。
「でもな……」
少し肉付きが良くなった程度に見えるような欺瞞に、服の裾を摘み感触を確かめた。
これは必要であるのでやっている。何も疚しいことはない。変な意味はない。そんな趣味はない。
でも……知られたら男として完全に終わりだよな。モテるどころの騒ぎじゃねえよな。やっぱ男である以上は少しはモテたいよな。多少はな。
モテるってことは人としてなんか魅力あるってことだからな。やっぱ強い男になりたいよな。強くて大きな男になりたいよな。
……でもやっぱまだまだ未熟なんだろうな。まだ立派な人間になれてないんだな。親弟妹に心配かけない立派な人になりたかったな。
……。
……それはまァいい。
でも将来のことを思うと……それとは別にやっぱり少しはモテないもんかな。いつか幸せな結婚したいしな。その前に素敵な人と恋をしたいよな。
――なんて思った。
途端、何故だか身体に刃を突き立てられるように悪寒が増した。解せない。
「まァ……後ァ、やるしかねえよな」
やるしかないってときは、退くべきときじゃない。
そう頷いて腰を上げる。出立だ、とドアの向こうからメアリが告げていた。
◇ ◆ ◇
未だ漂う土埃に、空に浮かぶ月が煙る。
自然の生命力というのは、なんとも侮れぬか。
戦闘に半壊した夜の森には、既に鳥の鳴き声が戻っている。それどころか掘り返された土から逃げ出した昆虫や鼠を求めてか、その気配というのは著しい。
手で、土を払う。
目の前には、真新しい墓があった。
「……助かった。食えなくて、すまねえ」
懐に捕えた小動物。毒を受けている可能性を思うと、口にするわけにはいかなかった。
両手を合わせて瞼を閉じる。隣のメアリが、ぽつりと零した。
「……二回目は、血を使ったんですね」
「うす。……監視がなかったんで、動物探す暇がありました」
「そうですか。……まぁ、元々見た目だけは血に似てましたけど」
攻撃への防御と共に、常なる肉体――随意筋ではなく思考の通りに身体の操縦をする外骨格。
そして、宵闇に紛れさせた“帯域”と“無方”による偽血――。
それが〈伏撃猟兵〉を欺いたシラノの偽死の絡繰であった。
ただ一つ――その欺瞞に足らないものがあった。
そしてそれがシラノに戦闘を決意させた、決定打となった。
「顔にまでぶっかかって、それに気付かないわけがない……か。……なんともしょうもねー話でやがりますね。お粗末だったからこそ、あたしの立場がバレるとは」
「言えない事情だとは……言えねえことに巻きこまれてるとは、今朝の時点でも思ってましたんで……」
唸るように言えば、メアリは瞳を閉じた。
そして指で竜の鉤爪めいたナイフの切っ先を弄び、肩を竦める。
「これも、不要だったって訳でやがりますね。……エルフ秘伝の仮死薬も止血薬もあんま安くはないんですけどね」
「……」
「……あんたさんが素直に死んでてくれる訳がない。天地創世の魔剣に退かなかった男なんです。……あたしは、そこを見誤ってやがりましたね。あのアホの頭目と同じです」
僅かに刃先の引っ込むそれを手に吐息を漏らしたメアリが、半眼を細めた。
「……んで。いつから、でやがりますか?」
「昨日からっス。……目には見えなくても、肌には感じられる邪魔者がいました。風の流れが違う。……それが始まりだった」
「そーですか」
メアリは頷き、黙る。今度はシラノが口を開いた。
「……いつからスか?」
「とっくに気付いてるでしょう? ……最初からそうですよ。最初から全部、この為でやがります」
「『安全に向かうとしたら森を突っ切るのが早い』……野盗は普通、森に潜むって言うなら……。なのにこの森が安全って言うなら……」
「……ええ。まぁ、知ってましたとも。それにああ言えば、お姫ぃ様はついてこないってもんですからね。師匠さんが言わなきゃあたしが言ってましたとも。……お姫ぃ様に居られたら、話がややこしくなるんで」
「……そうスか」
マフラーを引き上げる。それで口を噤んだ。
あの時点でメアリは知っていたのだ。野盗は出ないと。森に出るのは亡霊だけだと。森が安全であると……その理由を。
だが、彼女はそれをシラノに告げなかった。
告げぬまま、ここまできた。
裏切りと呼ぶに等しいが――……シラノがふと思ったことは、違った。
「……死ぬつもりだったんスか」
呟けば、メアリは眉尻を上げ半眼を不敵そうに歪める。
しばし、黙って見つめ合う。やがて零したのは、メアリからであった。
「優先順位の問題です。……お姫ぃ様は、あたしみたいな足手まといさえいなければ淫魔の力に対抗できる。あんたさんは、言うまでもなく最強の銀の矢……銀の鍵です」
「……」
「……ならほら、約定違反の代わりにあんたさんを連れてくるように言われたあたしが、一番邪魔でしょう? 元々が執行騎士に紛れ込まされた草のような女ですからね」
「……」
「あんたさんはあたしに殺され、あたしは惹かれてたあんたさんを殺す命令をした奴らに復讐して呪いで死ぬ――そんな絵図ですよ。そうすりゃあ、報復も断ち切れたんですけどね」
それも全て台無しにされたと、メアリの目線は言っていた。
「こんなことばっかじゃねーですか、あたしの人生……まったく」
「メアリさん、さっきのは……」
あの植物の壁の中、彼女が零そうとした言葉。その身に抱いた呪い――。
事情に口を出す権利も、その道理を否定する論理もシラノの中にはない。だとしても――……と開こうとした口を、メアリの人差し指に止められた。
「……ナイショです。おねーさんらしからぬことを言ったんで」
「いや、だとしても……」
「あんたさんにだけは言いません。薄々、あんたへの呼び方から勘付いてるでしょう? あたしが――あんたを嫌いだって」
「……」
「……ええ、でやがりますので。この旅のも演技ですよ、演技。後追いで仇討ちするなら説得力が必要だって――……本気にしました?」
ねぇ、と目を細めるメアリは、踏み込むなと告げていた。
それでも一歩を踏み出そうとし、息を飲む。虚無的な笑いが突き付けられていた。
「あんたさんみたいにね、この世の何に対しても己を貫ける――……って奴は、見ていて毒なんです。嫌いなんですよ。近くにいてみじめになるんですよ。……んで、そんな奴が黙って尻尾振って、キラキラした目ぇ向けてくるときのあたしの気持ちが分かりますか?」
「……」
「お姫ぃ様の件は感謝してますけどね。ええ、それ以外は――……それも含めて、あんたさんは癪に障るんです。本当、あたしの人生ってこんなことばかりで嫌になりますよ」
「……メアリさん」
「ハッ、やめやめ。ここまでにしときましょーや。これ以上話してると、何言っちまうか判らねえんで。……約束通りお姫ぃ様を助けてくれたのと、あたしの味方してくれるって言ったのは感謝してるんで」
肩を竦め、半眼を向けてくるメアリに押し黙る。
いや――そうだとしてもだと踏み出そうとして、シラノは止まった。
「……メアリさん」
「なんですか? だからこの話をすんのはやめって言ってるでしょーが? あんたさんがあたしの旦那ってんなら別ですけど、あんたは――」
「メアリさん」
「…………む。なんですか、その顔」
「今って、なんの日スか」
凍ったシラノの視線を辿るように目を動かし、止まる。
ぎぎぎ、と向き直された。
「剣士さん」
「うす」
「森って、どれぐらい動物いるか知ってます? 虫とか草とか含めて」
「……」
「ちなみにてめー自身で、自分がどれだけブッ飛ばしたか判ってます?」
「……」
「……殺生を禁止だと、少しでも覚えてやがりました?」
眉間に皺を寄せ、マフラーを引き上げた。メアリから白い眼を強く向けられる。
辺りに漂う霞、霞、霞――……。
蒼い霧が如く、森を覆いつくすものがいた。その中で吠え付けるものがいた。怨念を叫ぶものや奇声を上げるもの、果ては翼を広げる幽体の竜など――様々なものが闇夜に踊っている。
今は、祈願祭。
地獄の門が開く時期である。
「……仕方ねえ。斬るか」
恨みはないし自業自得の結果であるが、こうも山のような軍勢として立ち塞がられるならやることは一つだ。
果たしてこの数相手に、気力は続くか。
いや、関係ない。そこに敵がいるなら刀を持てるだけ持ち続けるだけだと、野太刀の柄に手をやろうとし――
「何してるんでやがりますか! 逃げますよ! ほら、掴まって!」
がし、と手を取られた。
小さなその手は、細い指は、少し冷たかった。
◇ ◆ ◇
ざ、と闇を跳び翔ける影がいた。複数、跳び行く影がいた。
浄化の宝石を埋めた金属筒から放たれた打ち水が幽体を滅す。“穢れ”とは異なるが、同じく“卑”に属する幽体は浄化の力により退けられる。
元より今日、一人の男を殺すつもりであった彼らの備えは万全であった。戦闘の余波でいくらか砕かれたものの、それでもまだ森を抜けるには十二分。
「忌々しい、小僧め……」
外套を失い、右手を失った頭目は吐き捨てた。
闇夜に紛れる乙女の髪で作った刻印外套――それはあの爆轟で使い物にならなくなっていた。ある程度の耐衝撃性をも備えさせた刻印は、あの強烈な爆風に焼き切れていた。
それゆえ、あの戦闘に加わった伏撃猟兵も再起不能にしても生存している者が多かったが――無論ながら全て止めを刺した。足手纏いは不要だ。
今は、そのせいで追われるようにもなっているともいう。
いや……それも全て、あの触手使いの小僧と裏切り者の混血女のせいだ。奴らのせいで、追われることになっているのだ。
だがいくら憤怒を燃やそうと、逆らうことはできない。
呪毒や薬毒が通じぬ触手使いの身体に、隠密外套すら見抜く感覚。そしてあの正体不明の不死身さに、常軌を逸した破壊力――……損得なく復讐を果たすのが伏撃猟兵であったが、大風や大雪で人が死んだことに復讐する者はいない。最早、その領域だ。
「頭目……」
そんな中、名無しの――あったかもしれないが覚えていない――中堅格が視線で指示を求めた。
森の中、佇む女。煽情的な格好の女。
普段ならば見逃したかもしれないが――
「今は見られる。殺せ」
ここで出会ったのは、運が悪いというほかあるまい。
少なくとも森を抜ける間は、この戦いと頭目たちを関連付けられる可能性がある間は、目撃者など消すしかない。
この時期、この森に立ち入る者はいない。
混血児からの報告でそう聞いていたが――……目の前のそれは稀有な例外だろうか。ならば、元より亡霊に殺されていたのだ。ここで死しても問題はあるまい。
「疾ィ――!」
そして、三体の伏撃猟兵が女へと飛び掛かった。
狙うは足、狙うは腹、狙うは首――三位一体の必殺の襲撃である。
「ええ。譲れば、少しは噛み応えのある男が出てくるかと思ったんだけど……」
だが、その攻撃は空を切る。……いや、空を切ったというより、誰も女に手出しをしないまま着地したのだ。
さながらすり抜けるような拍子抜けの仕草に頭目は眉を上げた。降り立った全員が、酔ったような足取りで明後日の方向に向かっているのだ。
女は頭目たちを見ているのか見ていないのか……陶酔と、妖しい甘い声を漏らす。
「……予想以上ね。ええ、やはり貴方は相応しいわ。……世界を焼ける男よ。この世の全てを前に決して譲らない男……何もかも斬り捨てて、血だまりに立つのが似合う男」
狂っているのか。
艶やかな黒髪と血のような赤目――見目だけは美しいため、弄ばれて森に捨てられたのかもしれない。
その割に衣服に乱れはないのが気がかりだが――……頭目は顎で示した。毒弾を打ち込んでころせばいい。
引き絞られる狩猟弾弓が、一も二もなく女に殺到し――、
「ああ。……貴方を組み敷けば、私が真に何者か分かるわ。きっと分かる。貴方は、誰よりも個を持っているんだから」
その呪いのような独り言は、止まらなかった。
確かに放った筈であるのに。直撃は愚か、どこかに外してすらいない。全てが全て、初めから存在しなかったかの如く失せている。
否、一度だけ闇に炎が灯ったような気がして……
「……やっぱり、そうね。貴方が相応しいわ。貴方が――この魔剣に相応しい」
「なに?」
魔剣という言葉に、頭目は問い返した。
その瞬間――ようやく、女が彼らを見た。
この世の流血を全て集めて固めたかの如き、深紅の左目。右眼を覆い隠すような艶やかな黒髪と、毒花めいて煽情的な赤黒の衣装。
そんな女が、嗤う。
口角をつり上げるのに合わせて、女の後ろ――先ほど襲いかかった三体の伏撃猟兵の身体から炎が上がった。
燃え上がり、そして崩れ落ちる。あの邂逅の一瞬で、既に斬られていたのだ。
「ええ、これは貴方の為の剣。貴方こそが使い手に相応しい。貴方の為に、今は私が預かっている……そうよ、ええ、アナタも嬉しいでしょう? やっと、使い手が見つかったのよ?」
そして女が一際凄惨な笑みを作り――頭目は、凍った。
――焔が踊る。
否、崇めるがいい。奉るがいい。言祝ぐがいい。そう、貴様らは全て始まりの場所に還るのだ。
――炎が笑う。
この世の始まりは魔剣。万物の基礎を為し、万物を定めしは魔剣。
ならば、魔剣を定めしものは何か。魔剣を創りしものは何か。
――火が謳う。
そうだ、我が名を褒め立てよ。我が名を呼び、我を見よ。
我こそは――原初。
我こそはこの世の万物、三千世界の原初なり。
「――〈炎獄の覇剣〉」
そして、解き放たれしは蒼白の猛炎。世界を燃やす獄焔。万物の原初たる浄火。
抜き放たれた魔剣の刀身で、炎の色がうねる。うねり、移り変わる。
だが踊る炎の色とは裏腹、それはなんの飾り気もない片刃の曲剣だ。ただ原初の一であれと定められた機能美のみ。
そして天地創世の熱をその刃に集めた究極の一振りが――その高温が、周囲の空気を電離体へと変え爆風として降り注がせた。
瞬間、頭目は知った。
寒いのだ。酷く熱いということは、酷く寒いのだ。冷たいのだ。凍えるということなのだ。度を過ぎてしまうと、それは全て矛盾的な感覚となる――。
己の手足が炎に包まれる。
肌が灼ける。肉が灼ける。骨が灼ける。脳髄が――否、存在そのものが灼け落とされる。己というものが、無限の時間の中で燃料となる。
それは灼熱。それは業火。
永劫と言えるほどの体感覚の中で、やがて彼は己の人生と所業への泣き言と後悔を漏らし――
「少しは奇麗になったかしら。ええ、あまり汚いものを見てしまうと美が損なわれるわ」
右手の剣を納めたリープアルテは、僅か一瞬で燃え落ちた彼らの姿をすぐに忘れた。
醜悪なものは、彼女の内に存在の価値がない。虚無に還る以外の価値などない。
やはり、彼を組み敷く以上は自分も美しくあらねばならない。そうでなければ失礼だ。それでこそ、己に溺れさせたいというのだ。
「……声、かけようかしら。で、でも、昨日の今日だし……それにもう少しこう、劇的な再会がいいわね。うん、そうよね。せっかくだし……そうよ。こう、街中で運命的な再会みたいに――そうしましょう」
頷くリープアルテは踵を返し、森から立ち去っていく。
その後ろには、何もない。静寂だけがある。そう――静寂な森だけがある。
蒼い靄が立ち込める黒い森。戦闘の余波の土埃を漂わせながら、闇に眠る森。
その中で、ただ伏撃猟兵の存在だけが――全て殺されていた。
何事もなかったかのように。世界はまた、歩みを進めた。
◆「スレイ・ニンジャ・オール」終わり◆




