第六十七話 イット・ゴーズ・オン・ゴーストナイト・オブ・カタナ その五
◆「イット・ゴーズ・オン・ゴーストナイト・オブ・カタナ」その五◆
毒に沈む己の血に彩られし大地は、どこまでも黒い。
土は黒い。血溜まりは赤い。
あの日の夕焼けのように、赤い。
「何故、この村の為に戦うか……ですか?」
ある日、あの夕暮れ。座り込んだ土の上。堆肥の臭い。
頬を赤く彩られた彼女が問いかけるのに、静かに返した。
「……私は、落ち零れなのです。一族の誰よりも時間を費やしながら、これに一切の価値を見出だせなかった」
守りたい名など、なかった。
「私は我が心の内に刃を持っていなかった……ガルボルクの継子がそれで務まる筈がない。……名は、弟に譲りました。押し付け、逃げ出しました……。追手を……弟妹を斬り捨てて……」
守りたい誇りなど、なかった。
「貴方がたは私のことを慈愛の騎士と呼びます。見上げた騎士だと……ですが、本来ならば……こうして剣を掴むことも許されぬ男なのです。あまりにも罪深い……そんな男なのです」
守りたい思いなど、なかった。
ああ――………だけど、ああ――………だけど――……。
遠くで少女が叫んでいるのが聞こえた。ああ――……違う、そんな顔をさせるつもりはなかったというのに――……。
「……そろそろ日も落ちます。どうか、お戻りください。……決して戸締まりを忘れてはいけませんよ」
守りたいものは、できたのに。
私には、守れなかった。
私の道は、何にもなれなかった。
だけど、せめて――。
だから、せめて――。
◇ ◆ ◇
家と家の間。ただ僅かに薄暗いだけの路地裏。
そこで、エルマリカよりも年下だろうか。そんな年頃の少年たちが、輪になって一人を囲んでいた。
左手で、家の壁を二回叩く。立てた音に十の目が集まった。
「なあ……“呪われた”ってのはなんだ?」
その言葉だけは、世界中の誰が吐こうとも許す理由にはならない。
そんな意図が、無意識に視線に混じってしまっていたのか。
「ひっ」
「な、なんだよこいつ……」
「い、行こうぜ……こいつきっと人殺しだ!」
「バーカバーカ! バーカ! 逃げろー!」
屈み込もうとしたシラノを避けて、子供たちが走り出していく。
ボリ、と頭を掻いた。
いきなり他所様にそんな暴言とは。……いや、自分の弟妹ならともかく他の家の教育方針は関するところではないが。
まぁ、それより、
「……誰?」
不審そうに見上げてくる少年の近くに、散らばった野菜。真新しい泥がついている。
吐息を一つ。屈んで拾い上げる。
……やはり、触手を呼んで縛り上げておけばよかったかもしれない。余所の子供といえど、いくらなんでも無体だ。
ともあれ、
「……これ。どこに届ければいいんだ?」
泥を払ってそう問いかければ、少年はおずおずと指し示した。
腕を組んで、壁に背を預けて待つ。
中からは時折、血痰混じりの咳音が聞こえてくる。
どれほどそうしていただろうか。
やがて扉が開き、曾祖母の見舞いを終えた少年が現れた。
「薬は?」
「……月に一度しか、来ないから」
「……そう、か」
瞼を閉じる。
成り行きとはいえ、あまり愉快な話ではなかった。
マフラーを引き上げ、壁から背を離した。昨日のメリナの言葉が思い出される。
確かに、あの騎士によって村への害は生まれている。暮らす人皆が健康である訳ではない。
無意識に柄頭に置いた左手に力が入る。そんなとき、だった。
「お兄さん、冒険者なの?」
「ああ。……いや、違うか。俺は、触手剣豪だ」
「触手、剣豪……」
「ああ」
「……お兄さんも、呪われてるんだ」
少年が少し、安心したような顔をした。
だが、だからこそ――
「呪われちゃなんかいねえ。……それを証明する為に俺は、剣を執ったんだ」
「剣を……」
柄を押さえて、決断的に言い放つ。
当人がそうしたいと言うならともかく……。
そうでないただの人間に、ただ当たり前の生き方を望むだけの者に呪いを押し付ける奴は――その全てがシラノの敵だった。
とはいえやはり、理解できるものでもないのか。
少年はそれより、シラノが差した獅子丸に興味を抱いているようであった。
「……これは、俺の友人だ。最後まで街を守った凄い奴だ」
腰から鞘を引き抜き、差し出す。
握ってみるかと問いかければ、少年は僅かに目を輝かせた。
ひゅおんと、風切り音が響く。
どうにもあの獅子が吠えるような音は、シラノが振るうときしか起こらないらしい。
初めは構えにさえヨタついていた少年も、ひとまずは何とか素振りまでは行き着くようになったか。
それでも子供の矮躯には過ぎるようで、顔を真っ赤にしていた。
「お兄さん」
「ん?」
「ぼくもさ、冒険に出られるようになるかな……?」
汗で額に前髪を貼り付けながら、手を止めた少年が笑う。
「……判らない。不確かなことは言えねぇ。ただ……そうなったら一緒に行くか?」
「ありがとう。……お兄さんは、子供相手だからって適当なことは言わないんだね」
「……」
「……でも無理だよ。ぼくの家は、この村から出ちゃいけないんだって」
「それは……」
「ごめん。言えないんだ。……でも、ありがとう」
柄を差し返す少年は、幾分か気晴らしになったのか。自然に笑みを浮かべられるようにはなっていた。
ただ、踏み込んでしまったらその顔ももう判らない。
……元より、言えぬというものを土足で踏み荒らす趣味はなかった。どんな人間にも事情はある。そこに踏み入ってはならない。
「お兄さん、森を通ってきたの?」
「ああ」
「そっか。……外の人は、暗くなってから森に入っちゃだめだよ」
じゃあね、と手を振りながら少年が去っていく。
また絡まれたとき、やり過ごせるだろうか。そのことが気がかりになりつつ――
「……そうか。そういうことか」
シラノは決断的に両拳に力を込めた。
その瞬間、肩をトンと叩かれる。
「や。お姫ぃ様のときといい、子供には面倒見いいんですね。実は弟か妹でもいやがりました? ……剣士さん?」
半眼で見上げてくるメアリへ、伺うような、確信を持ったような目で返す。
「……メアリさん。どうして俺に森の中での危険の見分け方を……人間の探し方を教えたんですか?」
「いえ、そりゃあ……いつ森の中で追いかけっこになるか判らねーですし……そうでなくても、そういうところを根城にしている奴もいるからで……」
若干困ったようなメアリの視線に、我が意を得たりと頷いた。
やはり、だ。
やはりこの村は――初めからおかしかった。
「そうっすよね。官憲の手が及ばないのは森の方だ……だからそっちに逃れるのは正しい」
「剣士さん?」
「なのに……野盗が出るのは街道の方だ。この街の商人も、仕入れのときは森を抜けていくそうです。……誰も、森の危険を考えてない」
「えっと……どうしたんでやがりますか? おねーさんにも判りやすく説明してくださらねーです?」
困惑気味に眉を上げたメアリへ、静かに返す。
目線は柵を睨んだ。この村を囲む、古ぼけて頼りない造りの柵だ。
「初めから不思議でした。……いくら戸締りすれば逃れられるからと言って、あんな風に押し寄せる相手に囲いをまったく強化しない理由はない。……それこそ、魔術でも使えば防げるってのに」
「……」
「少なくとももっと、得体のしれないものを恐れていい筈なのに……この村に不便はあっても、恐れはなかった」
「何が、言いたいんでやがりますか?」
「あの柵が答えです。亡霊どころか、人間の野盗すら防げないような柵……村人にとって、彼らは――得体のしれないものじゃあなかったんスよ」
シラノが言うと同時、メアリの瞳が細まる。
それが答えだった。
何故、あの壮年の男性は亡霊を取り除くよりも冒険者を遠ざけようとしたのか。
何故、グントラムたちの雇い主があんな言葉を言ったのか。
何故、戦いに乗り気ではなかったのか。
全ての答えは、それだった。
「……もう一度、話を聞きに行きましょう。多分、間違っちゃいねえ筈だ」
◇ ◆ ◇
満月が幽世の雲に翳る夜。
村の広場。蒼雲以外に動くものがないその宵の空の下、二人の剣士は相対する。
ばたり、と真紅のマフラーが風に靡く。ばたばたと、あたかも鮮血めいてはためいている。
「……もう、ここはあなたが生きた時代とは違う。あなたがこの街を守らなきゃいけなかった理由は――……滅んでます」
やおら、シラノは口を開いた。
打ち明けられたのは、村を守る騎士の――幽霊の兵団の伝承。
かつてこの村が外の村との争いに晒されたとき、一命を賭した騎士がいた。流れ者の剣士がいた。
魔剣使いのその剣士は死したるのちに亡霊の長になり、そして村に近付く部外者から夜ごと村を守ろうとしているのだと。
そんな伝説を、聞いた。
だが、
「もう、村は決めたそうです。……外からの人を受け入れると。この中に、新しい風を取り入れると……あなたが村を守ろうとすることが、逆にこの村への害になる」
最早、誰もその理念を知らない。
唯一知りたる村の権力者も、寂れていく村の現状についには折れた。
森に巣食う野盗を退治しようと。村に押し寄せる敵を攻め取ろうと。
もう、首無き騎士の居場所はない。
「もう、戦わなくていいんです。……どうか、退いてください」
語りかけたシラノの眼前、広場の向こうの騎士は既に兵団の長ではない。
その麾下に、誰一人として供回りを連れてはいない。
……当然だ。シラノが完全に、逃げる彼らを壊滅させたのだから。
だけれども――。
『……』
彼はただ一人、魔剣を携えてそこに居た。
たった一人になっても、そこに居た。
左の手甲は指の形にひしゃげている。家紋を乗せた真紅の身頃はズタズタに切り裂かれている。漆黒の羽織外套には穴が空き、或いは引きちぎられ、既に無残な様になっている。
或いは錆び。手甲も脚甲も、魔剣以外のあらゆるものは既に年月に風化し、崩れかけている。
それでも――あらゆる装備が壊れかけていたとしても。
それでも――己一人しか、いないとしても。
(ああ――……あなたは、そんな姿になっても――……そうなっても、剣を握るのか。そうなっても、この村の為に戦うのか)
守っているのだ。彼は、今も。
守っているのだ。己に一杯の水をくれた村人と、その子孫を。
守っているのだ。――剣しか、己に持てるものがないから。
死したる、のちも。
「……剣を収めて下さい。俺は、あなたを斬りたくねえ。この村で、二度もあなたを死なせたくねえ」
そんな男を、どうして斬れようか。
死してなお村に恩を返そうとする仁義の男を、どうして葬れようか。
拳を握り締め、腹の底から吐き出すように続けた。
「塚も作ります……見舞いもします、あなたを奉ります……だから、どうかもう剣を……! 静かに眠ってください……! あなたのことは――」
必死に声を張り上げんとすれば――
『……』
首無き騎士は、魔剣を構えた。
ただ、剣の構えで応じた。
「……ッ」
そのまま一歩、彼は進む。
映っていないのだ。シラノの姿は。
届いていないのだ。シラノの声は。
それが、魔剣。それが、剣士。
そこに既に魂はない。霊体はない。魔剣には、幽体を御する力はない。これはきっと、ただの生前の再現にしかすぎない。
故にこれは最早、一つの現象である。
一つの想いの元に作られた、ただ剣を執るだけの現象である。
……彼はもう、死んでいる。終わっている。
「あァ――……そうだよな、刀しかねえよな。あなたにはもう、剣しか残ってねえんだよな……」
噛み締める奥歯。
それがあなたの、想いだと言うのならば――。
虫湧き朽ちたる肉体が、荒れ果てしその魂が、唯一抱いた希望だと言うならば――。
いざ、抜くは白刃。構うるは真剣。
“鏡”を表す魔法文字が躍る――月光をその身に携えて、踊る。
「……白神一刀流のシラノ・ア・ロー。剣は我が友、白き獅子」
月の白と、毒血の赤――獅子丸と〈幻髪の血剣〉。
いざ、睨み合うは片刃と両刃。曲刀と直剣。生者と死者。
夜風が吹く。もう生暖かさなどなく、未だ冷たい早春の風が吹く。
一際大きく息を吸い絞り、
「白神一刀流に、敗北の二字はねえ。故に……」
左蜻蛉と共に、己の精神を切り替えた。
いざや死地、ここが死地。違うべくもない屍山血河の舞台である――――。
即ち、
「――魔剣、断つべし!」
現世と幽世――それを分かつはただ一つ。己が剣にて境界を定めるべし。
曇り晴れたる満月の下、光放つは両雄の剣。
これ正に、月下の死合の幕開けである。
◇ ◆ ◇
右腕が喉を隠す形となる左蜻蛉から、シラノは爪先に力を込めた。
対する騎士は、身体から剣を離したような突きの位。
既に一度――否、二度は立会し両者。
そして剣に優れる首なし騎士は、シラノの剣を見切っている。
即ち、元来ならば受けられぬ剣。突進の勢いをそのまま叩きつけるその剣は、如何な使い手であろうと受けたれば敗北は免れぬ。
一夜目の邂逅は、まさに首がないが故の奇跡。彼を動かす魔剣であった故の奇跡。
常ならば裏刃が頭部にめり込み、以ってその刃で息を止められていたであろう。
そも、あれなる夜の受けは武術としての失策極まりない。虚を突かれたが故にああ止める他なく、技の圧力に痺れる腕では返しの剣を繰り出せなかった。
だが、今夜。
吹き出す黒き瘴気が、俄かに口を結んだ。
打たせず打つか、それとも、もう一つ――この他流の致命的な弱点を狙うかだ。
一方、シラノは考える。
喉元、つまり右腕ならば剣は止められる。腹もまた、剣を止められる。
エルマリカとの戦いを終えたシラノは、まさに古に邪竜と戦った英傑の如く生身それ自体が甲冑に等しい。
だが、かの英雄は背に残りし菩提樹の葉だけが致死の弱点になったと聞くが……シラノは逆だ。
喉、心臓、腋、頭部――打ち込まれることが死を免れぬ急所こそ、その防御を得ていない。この守護は全て寄生治療の副産物。即死の箇所では、そも治療には至らない。
故に考える。
かつてのリウドルフとの戦いと等しく、敵の剣をやり過ごしたのちに斬りにかかるか。それとも否か、だ。
……悩むまでもあるまい。
先手必勝。常にその論理しかない。受けて勝つなど、今のシラノでは無意味に主導を渡すに過ぎない。
故に、いざ――
「イアーッ!」
地を蹴り、放つは我が身。打ち出しし己を、ただ一直線に叩きつける。
魔剣の剣先が動いた。応じるは幽世の騎士。打ち掛かりしシラノを、貫かんとするは万全の攻と防。
喉笛を貫かれるか。死翔ける切っ先が、この眉間を抉るか。
――否。奥歯を噛み締める。振りかぶる柄尻を指で突き、滑らせた右手。握るは柄尻、伸びた刀身。
いざや、放つは秘剣――金蜻蛉。
間合いの理は、正に勝利の理。先の先を制し、或いは返す太刀を封じるが為の間合いである。
「――」
だが、なんと恐るべきか。かつて魔剣を屠りし一刀は、空を切る。
更に、金属音。下方に加速する獅子丸。
シラノの体勢を崩し、後退の不利を掻き消す勝算なのか。
彼の騎士は僅かに退きつつ、己が魔剣の半ばを握ったハーフソードと呼ばれる構えで――獅子丸を叩いたのだ。
技を読んだか。
――否、シラノを読んだのだ。かつて踏みとどまりしシラノが、勝負を違えしシラノが、勝算は我に在りと挑んできたのを読んだのだ。
何たる腕前か。
秘剣“金蜻蛉”とは――渾身の一刀、片手握りの一刀に次はなし。これ即ち、捨て身の剣。
薬丸自顕の教えを違え、次撃は放てぬ終の太刀。
騎士は、それを読んだ。それに気付き、そして土壇場で技を変えた。秘剣に応じた。
そして、シラノの眉間を打つは石礫。反射的に、目を閉じた。
騎士は、待たぬ。
即ち、薬丸自顕流の隙。そして、彼の技の長所。ハーフソードによる密着攻撃である。
否――――もう一段。
踏み止まり、瞬く間、いざ騎士が両手で握るは魔剣のその切っ先。槌めいて振り放たれたるは魔剣の柄。兜を砕き、頭蓋を砕く――これ正に殺撃なり。
一転した攻勢、これ即ち、騎士の勝利で――
「イィィィィ――」
――否。息をも突かせぬ巧みなる攻と防。故にこそ、その必殺は相成った。
無視界の中、空気のみを感じる全身。触覚による状況把握。
触覚が教える万物――踏み締められる土を感じた。唸る剣を感じた。起こる風を感じた。空の塵を感じた。その場の万物を感じた。
既に灯りし光。輝く腹と肘。シラノのみに分かりし光明。発動したるは五ノ太刀“矢重”――触手同士が合一せんと発せられる引力。
胴に寄せられる肘に、腕が畳まれる。滑らかなる手首に、天地を返されし刀。煌めくはその剣先――。
膝と膝、膝と腰、肩と骨盤――……発生せしめた引力は、人の身を超えた捻転を生み出す。引力故、最小にして最短距離を辿る回転。
振りやった右の踵。突き立つ母指球。回る腰。引き締まる尻。絞りし背筋――いざ、振り上げるはこの白刃。
「イィィィィィィィィィィアァァァ――――――――――ッ!」
獅子が――吠えた。地から天へと、吠え上げる。担ぎ上げられるように、白刃が躍る。
天地をなぞる銀の一閃。
これ即ち、
「――秘剣・“待曲ノ月”」
キン、と。
左に取り直した蜻蛉と共に、鍔が鳴る。
残心――魔剣をも砕く赫き豪力に断たれた首無し騎士が、その滅びし肉体が、崩れ落ちた。
恐るべき男であった。恐るべき、死合であった。
元より腕に劣るシラノの勝機は立ち会いの一瞬、初一本のみ。互いの力量が水を開ける前に、打ちかかり攻め倒すしかない。
……そう、相手も思う。故にこその、勝機である。
十八夜の月を、居待ち月と呼んだ。
立って待つことができない。遅れて現れる。故にこそ、座して(居て)待つのが相応しい月であると――。
待ちとは、ただ無意味にそこにいることではない。
相手に仕掛けさせて打つ待ちもあり――――敢えて渾身と思われる一撃を放ちし後に、攻めくる敵へと襲いかかりし真の刃。遅れし月の刃。
これ即ち、秘剣・“待曲ノ月”の要訣であった。
……杖が必要だった。ここまで先人の助けという杖がなければ、この屍山血河の夜道を歩けなかった。
だが、得ているのだ。シラノは、得ているのだ。
既に、己の中に剣の月はある。触手剣豪として生きる――その理念こそが、夜道を照らす月となる。
己は剣豪ではなく、触手剣豪なのだ。
血を払い、剣を戻す。
手の骨と股に沿わせて、獅子丸を鞘へと納めた。
「……これまで、ありがとう――と。ここからはあなたに頼らずに強く生きると――……村の人からの伝言です」
俯き、呟く。
噛み締めるように、言った。
「……どうか、安らかに」
その場に残されし魔剣と、主を失いし鎧を片手で拝んだ。
願わくば、冥府で再び巡り会えるように。
彼を癒やした人と再び出会えるように――そう祈らずには、いられなかった。
「……ありがとね」
だからこそ、不意に背中からそんな声をぶつけられたときは肝を冷やした。
一体いつの間に。
気配なく背後に佇んでいたのは、クドランカであった。
しかし普段の飄々とした笑みはどこへやら。風に靡く茶髪を抑えて、彼女は神妙に切り出した。
「不思議だったでしょ、こんな魔剣を持っているのに剣技を使うなんて……剣技なんて、魔剣や魔術相手にほとんど廃れているのにって……」
「……」
「……あたしの一族の出なんだよ、この人。きっと。……その不始末をつけにきたんだけどね」
軽く肩を崩して、彼女が鞘を見せた。
何某かの剣――彼女自身がかつて見せし圧力と合わせるならば、相当の魔剣。
それを一撫でして、クドランカはどこか寂しそうに頬を崩した。
「ありがとね、その人に付き合ってくれて。……最後には、剣士として逝けただろうから。……あたしの剣に斬られずに逝けて、よかった」
「……よかったと、思うんスか」
「うん、あたしにとっては。その人にとっては――どうなんだろうね。うちの一族にも、心から向いているわけじゃない人もいる……本当は剣なんて見たくもなかったのかもしれない」
「……」
「でもさ、それまで時間を費やしたんだから……きっとその人生の一部だったって訳で、だからこんなになっても剣を握ってたんだよ。少なくともその人って命の内には、剣があったんだよ」
「……」
「うん、よかったねぇ……。命懸けで望みを汲み取ってくれる相手がいたのは幸せだと思うよ。羨ましいねぇ……そんな風に死にたいねぇ」
寂寥とした、乾いた笑みが零れる。
どこか遠くを見遣るようなその目が、改めてシラノを捉え直した。
「クドランカ――……改め、あたしはアルモリア・ガルボルク・ドランカ。竜の大地ドラカガルド、剣の一族ガルボルクの継子アルモリア」
落ち着いた宣誓と共に、やおら手を取られた。
それを額に押し当てるように、クドランカ――いや、アルモリアは片膝をつく。
「ありがとね。……一族にかわって、お礼を言わせてよ。ありがとう、シラノ・ア・ロー……人の想いの為に命を懸ける、本物の剣豪さん」
「俺は……」
「え?」
「俺は、触手剣豪です」
夜道に二人。目の前での触手使いの宣言。
アルモリアは僅かに目を見開き――だが手を振り払うこともなく、柔らかに頬を崩した。
「そっか。……何か判らないけどさ、叶うといいねぇ……キミの道も」
「うす」
小さく頭を下げ、もう一度騎士の為に哀悼を表する。
静謐な夜の空気。
両手を合わせるシラノの真上の月は、もう翳ってなどはいなかった。
これにて全てが落着し――
(……いいや、まだだ)
……まだ一つ。やるべきことが残っていた。
◆「イット・ゴーズ・オン・ゴーストナイト・オブ・カタナ」その六へ続く◆




