第六十三話 イット・ゴーズ・オン・ゴーストナイト・オブ・カタナ その一
◆「イット・ゴーズ・オン・ゴーストナイト・オブ・カタナ」その一◆
森というのは決して平坦な地形ではない。
入り組んだ木の根は土を押し上げ、そして木々が群生するその場所は地盤が膨らんでいる。
或いは倒木。或いは草むら。空から降り注ぐ恵みを奪い合う彼らは、さながら地獄の亡者の如く救いを求めて天へとその枝葉を伸ばす。
油断をすれば湿地帯がある。或いは腐った根の創る空洞や、枯れ葉が作り出した欺瞞的な罠もある。ともすれば振り下ろされた刃よりも確かに、人を傷つける。
しなった枝が服を叩く。
鞘に押し込めた剣で枝を押し退けながら歩けば、子供の頃が――この世界の――思い出されてならない。
己が終わったものだと思えず、そして怒りと不満を滾らせていたとき。生まれの母を母と思えず、生家に居づらかったとき。
ただの不運で容易くなかったものにされると、命という幻想から目覚めたとき。己が何者にもなれないと、そう嘆いたとき。
森は、優しく包み込んでくれる――
「……っと、危ねえ」
――などということはなかった。
生まれ直した命だろうがなんだろうが、別に特別ではない。狼、熊、蛇、雨に濡れた根、蜂、崖、怪物……死ぬときはまたしてもあっさりと死ぬ――というだけだ。
だがそれで、逆に肩の力が抜けた。
なんにしても、死んだら終わりだ――それが確かなことになった。
とはいえ結局、こちらの母とも満足な親子関係を築けぬままに家事手伝いをしていただけなのだが。
「剣士さん、剣士さん。そこは駄目ですよ。随分と足場が不確かなもんで」
「うす」
「ん、素直でよろしい。おねーさん、素直な子は好きですからね」
白いエプロンを一切汚さぬまま、ひょいひょいと変わらぬペースで前を進んでいくメアリを見れば思う。
やはりエルフというのは、元来が森と共に生きる狩猟民族というのは、種として違うのだと。
……妖精の声が聞こえるのかと聞いたら、半笑いで頭を撫でられそうになったというのは忘れようと思う。
そんなメアリが、おもむろにある幹の前で立ち止まった。
「さて、はい止まって。……剣士さん、これなんだと思います」
「剣豪っス。これは……」
樹皮が捲られ、その下の黄色がかった白い肌があらわにされている。
ふむ、と考える。
いや、こういうのは昔――前世で見た覚えがある。
「判りました。鹿っスね。……近くにいるなら、仕留めて食いますか?」
「いやぁ、仕留めちまってもかまわねーですけど……多分食えないと思いますよ」
「え?」
「人です、人。人ですよ」
ほら、とメアリがしゃがみこんだ。木の周囲に散っているのは樹皮だ。
「皮クズが剥がれきってなけりゃ熊。剥がれきってれば鹿。……で、今回は木に繋がってませんね? ここだけ見れば、確かに鹿でやがります」
「うす」
「で、この樹皮の欠片。……大きさはどうですか? 荒いですか、細かいですか?」
「荒いと……思います」
「ええ。鹿だとこれが細かいんですよ。本のしおりみたいに。あいつら器用に剥がしていくんでね。熊だと荒い……ほら、さっきのと一致しやがらねーでしょう?」
確かに、と頷いた。
熊の特徴とも、鹿の特徴とも一致しない。ならば答えは、それ以外のどれかだ。
ス、と目を細めたメアリが剥き出しの木肌を撫でる。促されて、シラノもそれに続いた。
「ほら、どーですか? 傷、ありますか?」
「ええと……あるような、ないような……」
妙につるつると肌触りがいい気もするし、ざらざらとしているような気もする。
そもそも、妙に脂っぽい。素人のシラノでは、分からなかった。
困惑のまま覗えば、メアリはこくりと頷いた。
「ええ、それでいーんです。これが熊だとがっつりと爪の痕が残る。鹿だと奇麗に剥がすか、それともへたくそがガツガツと傷付けるか……でもこれ、そのどちらでもないでしょう? ほら……触ってみると、太さが安定しない線がついてやがりますね?」
「う、うす……」
「ハイ、集ー中ー。そわそわしない」
頭のすぐ側で、人形のようなメアリの白い指が木部を撫でる。
覗き込むようにかがまれると、なんとも仰け反りたくなって落ち着かない。体躯は誰よりも小さかったが、やはり、誰よりも大人だという気配がある。
そんなシラノの様を気にせず、メアリは続けた。
「一人は、かなり……野営に慣れてやがりますね。でも素人同然が二人……あとの一人は、仲間としてもあまり打ち解けてはやがらない……か」
「人数まで、判るんスか?」
「……ええ。この木は脂が多くて、火の勢いを増すのにちょうどいーんです。それをこんだけ剥がすってことは、それなりに人数がいるってこと。……火を起こそうとしたのは、露によほど濡れたからでしょーか。激しい雨より沁みる水滴の方が危ないと、知ってやがるのが中にはいる」
「……」
「そんな奴は早々に露に濡れるザマはしないんで、足を引っ張るのがまぁ二人。で、この木の様を見れば手際がいい奴がいるけど一人……手慣れたのが何人かいれば、手分けして別の木から剥がしますからね」
思わず、息を飲んだ。
神業としか――予知や或いは核心に近いほどの、読みであった。
これが、経験なのか。それとも天性のものなのか。いずれにせよメアリという妙齢の女性は、シラノとは比べ物にならぬほどの場数を踏んでいる。
先ほどの己の出鱈目な、あてずっぽうというのが酷く恥ずかしかった。
「……その、そういえばあとの一人は?」
「あぁ。……ふふ、勘ですよ」
そして何かを見抜いているかのように、どこか悪戯っぽくメアリが片目を瞑った。
ぼりぼりと頭を掻いて身体を起こす。フローがいなければ、或いは彼女を師と仰ぐ未来があったかもしれない。
「それで剣士さん、どーしやがりますか? 野盗の類いじゃーねーと思いますけど。追い付こうと思えば、多分そう時間は経ってやがりませんよ?」
「……敵じゃないとは限らないんで、このままで。それに……」
「それに?」
「……その、もう少し……教えて貰ってもいいですか? メアリさんの話、もっと聞きてえっていうか……」
マフラーを引き上げながら問えば、メアリが肩を崩す。
二本指を立てた手一つで、目尻と口角を挟み込み片笑いを表していた。
「いやあ、本当に素直でかわいらしーですねぇ。……おねーさんの前でそんな顔してたら、うっかりとって食べちゃうかもですよ?」
「……やめてください。特にそういう話は……本当……」
「おや。……ふむ、何があったかは聞かねーであげましょう。ふふ、おねーさんとの秘密でやがりますねぇー?」
半眼で気だるげだというのに、どこかからかわれている気がしてならない。
どうにも調子が出ない。歳上には、弱かった。
そして、二人がまた歩き出す。
再び生の静寂に包まれたその森で、
「……」
樹上から、姿なき影は眺めていた。
◇ ◆ ◇
「うぇぇぇぇぇぇぇ、幽霊退治ぃぃぃぃぃぃ~~~~~~~!?」
カーラとの交渉を終えて、戻った宿で開口一番に飛び出したのはそれである。
あまり居心地がいいとは言えない女性部屋の中、八つの目が頭に集中するのを爪で掻き消した。
「うす。……それが、交換条件だって」
ムラサキトカゲオが群生する森近くの村に、幽霊が出る。
それがどうにも魔剣に絡んでいるようで、その幽霊を倒して魔剣を奪ってこい。何はなくとも幽霊は倒せ――それが彼女の要求であった。
幽霊退治と、魔剣奪取。
亡霊とは“卑”にあたり、魔剣とは“貴”にあたる。
この世の条理を担い、綿密なる規範の下で動くものを“貴”とすれば、“卑”とは規範や区分から生じながらも規範の外にあるもの。
あれほどまでに悪辣かつ凄惨な淫魔が魔剣を用いなかったのと同様、“卑”の存在に“貴”の存在は扱えない。その規則は変わることがない。
故に、幽霊が魔剣を用いるなどという奇天烈な話は存在し得ないが、それはそうとして、
「……ふむ。亡霊相手ですか。まあ、魔剣使いに頼むのも無理はありませんわね」
セレーネが神妙に頷くのも、まさにそれが故だ。
かの〈浄化の塔〉――“貴”たる魔術によるものが、“卑”たる魔物を寄せ付けないことと同様、まさにその規範の結晶たる魔剣が霊を打ち滅ぼせるのは道理であった。
斬れる。つまり殺せる。
幽霊を殺すというのはおかしな話だが、ともあれ問題がないということだ。
それに、刀で斬りつけてみたら石灯篭であったという話も聞く。つまり幽霊は斬り殺せるのだ。むしろ肉の器という鎧を失っただけ、無防備と言っていい。
剣士とは、いや武士とは元来は怪物退治の専門家だ。容易い相手だった。
「という訳で私は賛成ですわ、シラノ様。……いえ、まぁあれほどに斬りがいがないという相手もおりませんが……それは立ち会ってみないと分からないというもの。斬れば、おのずと何かに目覚めるかもしれません」
「ああ、その……あァ、まぁ、その……そうだな。賛成一スね」
……と、地図を眺めるメアリが呟いた。
「ふぅむ。ここ、去年だか一昨年だかに街道が土砂で埋まったところですねぇ」
「そうなんスか?」
「ええ。おまけに新しく作った道は野盗も出るし怪物も出るってんで……安全に向かうとしたら、森を突っ切るのが一番はえーですね。勿論、獣や怪物なんかも出やがりますけど」
「なるほど、左様ですか。……ええ、つまりは食料にも不足しない、と」
「……。お姫ぃ様の前で教育に悪いことはよしてくださいね」
メアリのさらに細まった半眼を受けても、セレーネは涼しい顔をしている。
しばし見つめてから、気を取り直したようにメアリが空中に指で線を引いた。
「亡霊ってのは同じ“卑”でも穢れとはまた違いやがりますけどねぇ……。ま、それでも死体が多い場所……昔に戦があった場所、じめじめした暗い場所……そういうところに溜まるもんですし、今は時期が時期なんで……そこは多少は警戒しといた方がいーかもですね」
「ええ。……あとは、そうですわね。魔剣を持っているか、死霊使いか、感覚に優れているか、辺りが暗いか瘴気が濃くないと見えないというもので……」
「待て、今書く」
机に広げた魔法の砂板の地図の上に、次々と書き足していく。
曰く、人にとり憑くと不幸を呼ぶ――。曰く、出現するときは温度が下がる――。曰く、基本的に生きているものに敵意がある――。曰く、念力かもっと不可視な霊が周囲の物を操って暴れさせる――。
曰く、悪夢を見せる――。曰く、体力を奪う――。曰く、精神力を削る――。曰く、恐怖を感じさせる――。曰く、悪い風に乗る――。曰く、空中を浮遊する――。曰く、見えたり見えなかったりする――。
曰く――……。
「……で、まとめると――多分道中で色々と面倒臭い幽霊が何度も襲ってきて、獣もいて、森の中を歩いて一日と少しっスか。……旅に賛成の人」
はい、とセレーネが手を挙げた。賛成一。
「中立……というかどっちにでも従う人」
おずおずとエルマリカが手を挙げた。メアリもまた、ちょこんと手を挙げている。白紙投票二。
「反対のひ――」
「はい! はい! はい! ボク反対! ボクは断固反対だからね! ボク絶対にやだからね!」
聞くまでもなかった。三つ編みをぶんぶんと振りながら、ぴょんこぴょんこと手を高く上げようとしているのはフローだ。反対一。
「……先輩、一応聞きますけど理由は?」
「だって幽霊が出るんだよ!? 怖いと思わないの!? 幽霊だよ!?」
「斬れば死ぬなら別に」
「足がなくて、よく分からない動きをして、まとわりついてくるんだよ!? ヒトじゃないんだよ!? この世のものじゃないんだよ!?」
「触手がそうなんで今更っスね」
「どうしてキミはそういうこというのさぁ!? 怖いって言ってるだろぉ!? 師匠が怖いって言ってるんだよ!? お姉ちゃんが怖くて怖くて仕方ないんだよ!? 先輩だからこの時期が危ないことをよく知ってるんだよ!? これはお姉ちゃん虐待だよ!?」
「……先輩」
多分、思うべきではないしその主張はもっともではあるのだろうが……。
我ながら何故だか分からないが、己の眉間に皺が寄っているのを感じた。
そのままマフラーを上げながら、言う。
「俺が守るっつっても……まだ怖いんスか? それでも怖いって言うんスか?」
「うぇっ!? え、えーっと、えーっと……う、うぅぅん……うぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅ……うぅぅぅぅう……」
「シラノさんが……守ってくださる……?」
そして、エルマリカが揺れた。いくら生理的に無理だとしても信頼を勝ち取れていたのだろう。
おずおずと、セレーネの方に歩き出そうとしている。
セレーネはそれを微笑まし気に眺めていた。そう、おとなしく淑やかに柄に手を伸ばしながら――……いや手で制する。油断ならねえ。
ずっとこんな具合だ。
味見したげに、エルマリカの前で剣に手をかけようとばかりしていた。
「で、でも! そんなに歩きづくめなんて絶対無理だよ!? 森の中だよ!? だんだん山に向かってるんだよ!? そんな中で一日を歩きながら過ごせって言うのは拷問なんだよ!?」
「それエルフの人に叱られますよ」
「ボクはエルフじゃないからね!? とにかく無理だって判ってるだろう!? だってボク、あんまり旅をしたことないんだよ!? 箱入りお姉ちゃんなんだよ!? 師匠なんだよ!? 先輩なんだよ!?」
「最悪、背負っても進めますし……」
エルマリカに目を移せば、控えめに頷いた。彼女の魔剣ならば、たとえ一本が折れている今でも人一人を担ぐぐらいは容易い。
完全に賛成派に移ったエルマリカが、唯一の賛成である危険人物セレーネ・シェフィールドの下に歩を進めようとして、
「そ、それに――お風呂に入れないんだよ!?」
ざっ、と動いた。少し〈竜魔の邪剣〉が見えてたと思う。
目にも止まらぬ速さでフローの隣に立ったエルマリカは、大きく何度も頷いていた。
「あー……反対の人」
一応、民主主義的に問いかけてみれば――
「はい! はい! はい! シラノくんはお姉ちゃんにもっと優しくするべきだと思うよ!」
「はい! はい! はい! シラノさんは女の子のことをもっと気にするべきだと思うの!」
ステレオのようにがなり立てられる。
女性陣(身長似たり寄ったり)からの集中砲火であった。
残る女性陣はと言えば、メアリは相変わらずの半眼で場を見守っており、そして上品そうに微笑むセレーネは、
「いえ、血でも浴びてたら匂いなんて気になりませんので」
女を捨てている。
剣鬼ってやっぱり凄い。改めてそう思った。
「……なら、二手に別れりゃいーんじゃねーですかね」
最後にそう、まとめるようにメアリが言う。
それで決まりだった。
◇ ◆ ◇
目指す先は、竜の形を為す大地ドラカガルドの中原に位置するティグルマルク王国――つまり今シラノがいる国だ――のちょうどあばら骨の位置にあたる湖畔地帯にある村。
リックルーン湖のほとりにある森を突き抜け、歩くこと実に二十数キロ。障害地形では歩みが遅くなることを考えれば、およそ一日程度の道のりである。
森は深く、靄に青く燻されている。
神秘的な光景であると共に、歩き詰めていると定期的に辺りが見えなくなるという危険が潜んでいる。そんな森だった。
「さ、行きましょーか」
半ば尖った耳をそばだてながらしゃがみ込んでいたメアリが身体を起こした。シラノもまた遮蔽物にしていた大樹を離れ、彼女の元に向かう。
「何か、わかったんスか?」
「ええ。このまま歩いてれば、あと一時間もしないで追いつくってもんですね。やっぱり少なくとも二人は足手まといがいる。もう一人は、段々と集中力がなくなってきてる……腕は立つけど森には不慣れでやがりますねぇ」
「なるほど……」
「どうせだからこのまま距離を保って追いましょーか。せっかくってもんですんで」
メアリが、にぃと目を細めた。
基本的に無感動そうな半眼でいるのだが、半眼なりに彼女はやけに表情が豊かだ。数時間ともに行動していると、なんとなくわかってきた。
是非とも冒険に役に立つだろうからと彼女の教授を受けていたが、シラノからしたら何かの超能力や神憑りとしか思えない。それほどまでに彼女は鮮やかであった。
「……それにしても、なんで俺たちはその人たちを狩り立てるみたいなことになってるんスか?」
「ええ、まぁやはり斥候を学ぶなら本格的かつ相手がいた方がいいんで」
判るでしょう?――と、目で言われてしまうと反論できない。斬り覚え、という言葉は体感しているのだ。メアリは現実的だった。
……いや、黒スカートにエプロン姿の女中が緑濃い森の中にいるというのは中々に非現実的だが。
「剣士さんはあんまりこういうのに向いてねーですねー。勘は獣並みに鋭いってのに」
「うす。いや……にしても、さっきのは驚きました」
「あたしと同じ時に気付ければ上等ってもんですよ」
魔物。
道中遭遇したそれを、気付かれることなく発見したそれを、メアリは一方的な投擲で屠っていた。
公儀隠密――いや、執行騎士というのはすごいものだ。まさしく忍者的である。かなり忍者だ。実際あからさまに忍者なのだ。
頼りになるな、とその小柄な肩を見る。
個人的には、触手の技を教えているときのフローにも並ぶと思っていた。
「メアリさんは、どこでこういうのを学んだんですか?」
「……あー、まぁ。……両親がそんな感じだったってだけですよ。もうとっくにくたばってやがりますけどね」
「……」
「ほら、そんな顔するもんじゃねーです。……剣士さんにしてもそりゃあ同じでしょう?」
ダブルピースの人為的な笑顔に掻き消されてしまえば、何も言えなくなる。
そうしてまた歩き出し、時々に教えを受けながら考えた。
どれほどの距離を移動しただろうか。
天を覆う大樹の下では、時間の歩みが不明瞭だ。
メアリの懐中魔導砂時計がなければ、休憩の時期も逃しているだろう。
敢えてつかず離れずで敵を追う――彼女曰く狼の手法――で先行者たちを追跡する。そんな実地訓練が佳境に入る頃には、森の暗がりが段々と増していた。
日が相応に傾いているのだろう。
「さ、どうせだから三十歩ぐらいまで近付きやがりましょうか。疲労した相手にはこれがキくんですよ。姿が見えると余計に焦って体力を浪費しやがりますからね」
「……うす」
「後はそこを仕留めるだけ――と。ああ、追い詰めるときと隠れて追わなきゃいけないときは別ですよ? いーですね?」
若干機嫌が良さげな半眼でメアリが見上げてくる。追いかけるうちに、興が乗り始めたのだろう。
シラノはと言えば、慣れない不整地に足の疲労が高まっていた。
前世では幅跳びと短距離走の選手、こちらに来てからはある程度は森での行動もあったが……正直ここまでは稀だ。
疲れのあまり枝を踏み折って歩きそうになると、鼻先に指を突き付けられる。
森の中でのメアリは、意外にも面倒見の良い鬼教官気質であった。
「勿論、相手が弓や魔法を持ってりゃ別ですけどね。とは言ってもこんな森の中で狙って当てるってのは生半可なことじゃなくて――」
「きゃああああああああああああああああ――――――――――!?」
上がった少女の悲鳴に、シラノは弾かれたように駆け出していた。
◇ ◆ ◇
開けた窪地。そこに、四人の男女がいた。
へたり込んだ丈の長い白の神官服を纏った少女と、剣を片手に彼女を庇う軽装の少年。
ごつごつとした巌めいた指で柄を握った筋骨隆々とした男――否、亜人。鬼面めいた兜の下、唸りを上げる口からは二本の犬歯が反り返り、鼻はくしゃりと潰れている。
肉厚の刃を構えた力強く獰猛な鬼人族の戦士。
その側で、髪を後ろで二つに括った少女剣士は欠伸を漏らした。野暮ったい服の裾を揺らして、迫り来る攻勢を躱していた。
ゆらりと、影が揺れる。
影――否、靄である。否、靄ではない。それはれっきとして、一定の形を保っている。
そう――人だ。それは、人の形をしている。風に揺れながらも人の形をしているのだ。
外套を目深に被った青白い影。死霊。幽鬼。亡者――肉の身を失いし怨念体。
それがさながら霞めいて幾重にも囲いを為し、不吉の風に乗り窪地の四人を取り囲んでいた。
ざ、と駆けつけたメアリが顔を顰めた。
人里には現れぬが、それ以外で出会うと致命的とも呼べる代物。
碌に“貴”の道具を持たぬ駆け出しの冒険者では、なす術なく贄にしかなれないそいつの名は――
「〈苦しみの幽鬼〉……! 剣士さん、こいつに近付くのは危な――」
「イィィィィィィアァァァ――――――――ッ!」
ズバン、と。
吶喊のまま遅れて空気が悲鳴を上げた。それとも、亡霊の断末魔だったのか。
一閃。居合い打ちに、亡者の霊体は散り散りに消し飛んだ。
抜き打つ姿勢から蜻蛉に流れ、
「イアーッ!」
踏み出し、突進のまま袈裟に斬り下ろした。またもや幽鬼が崩れ散る。
猿叫と共に乱入したシラノに場が凍る。
呆然と眺める少年少女と、僅かに片眉を上げたオークの戦士。濃い茶髪を結って垂らした女剣士は、覇気のない口笛と声援を漏らす。
漂う〈苦しみの幽鬼〉が、シラノを敵と定める。
浮遊し、円を描いて距離を取ろうとするそこに――照準するは寝かせた切っ先。
即ち、放つは――
「イアーッ!」
――触手三段突き。
音速の六倍に至る刺突は、背後の樹幹ごと亡霊を容易く爆発四散させた。
呼吸を絞り、放つは次弾。幽霊の生け垣が一直線に消し飛んだ。
音より早く飛ぶ霊など聞いたことはない。逃げられる訳がない。そして逃がす筈もない。
次々、敵を呑む。極紫色の剣閃が群れを縦に分かつ。亡霊を斬殺する。
精神であり実体である触手は、その豪烈なる刃は、淫魔をそうしたかの如くに魂さえも殺害する。
向ける大上段。天を突く蜻蛉から、
「イィィィィィアァァ――――――ッ!」
振り下ろした斬撃が、最後の死霊を両断した。
◇ ◆ ◇
頭二つ分は上。肩幅は倍――シラノのその眼前に立つのは、巌めいた巨躯であった。
岩肌から削りあげたかの如き、荒々しき肢体。
欠けた耳に、抉れた頬骨。縦に線が奔る唇に、斜めに割れた顎先。
今は革鎧の下に押し込められている褐色に近い緑の肉体にも、装甲で覆いきれぬほどに大小様々な傷が浮かぶ。
元来は鎧など用いぬのか、その男の全身は傷に溢れていた。
「……」
飾り気がなく、それでいて鬼面めいた兜の下の黄色の瞳がじろりとシラノを睨め下ろす。
「いきなり出てきて、獲物の横取りとはな。……それほど私が頼りなく見えたか?」
「……不快にさせたなら、すみません」
「いいや、褒めているのだ。我ら鬼人族は奪うが流儀……あれほどまでに見事に攫われては、最早感服するしかあるまいよ」
ゆっくりと男が頭を振る。
そして、右手が差し出された。
「我はグンナルの子、グントラム。八人の妻を娶りしグンナルの子、黒き肌のグントラムだ。……戦士よ、名を聞きたい」
「俺はシラノ……触手剣豪、白神一刀流のシラノ・ア・ローです」
「そうか、シラノよ。ここに巡り合えた喜びを、我らが〈狂乱と雷霆の神〉の名の下に祝おうではないか。……私も久方ぶりに故郷を思い出して、随分と懐かしくなれたのだ」
ぐ、と握手を交わしてから抱き合う。
その拳も胸板も、やはりと言えるほどに肉厚であった。
「あっちはほっといて……あんたら、何をしてやがったんですか?」
半眼でシラノを一瞥したメアリは、少年少女を睥睨した。
明らかにこんな森深くまで入り込むにたる実力があるとは思えない――そんな意図を込めた視線に、ただ彼らは萎縮する。
それでも少女を庇う少年の瞳からは負けん気が覗くあたり、若さと言うべきかもしれないが……。
「ふぁぁぁあ……説教とか面倒臭いのはあたしがいないとこでやってよねー。まぁいいけどさぁー……」
代わりに一つ、欠伸を漏らした少女剣士が気だるげに答えた。
「何ってほら、魔剣だよ? そう、魔剣。幽霊が守ってるっていう……あんたらもそうじゃないの?」
◆「イット・ゴーズ・オン・ゴーストナイト・オブ・カタナ」その二へ続く◆




