第四十六話 ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ その二
◆「フォーティファイド・シティ・イン・フレイム」 第三幕◆
◆「ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ」その二◆
また、雲間から見えていた三日月が消えた。
ぽつり、ぽつりと。石畳に雨音が打ち付ける。
雨男だと嘯いたその通りに、今までのリウドルフとの立ち合いは全て雨の中行われていた。
「ったく、本当につれないよなぁ。でもほら……おれも情報を持っているとは思わないのか?」
「……」
「さあて、今の音はなんだろうねぇ……。いやはや、さっきあの虫の大軍が来たときは教団の連中も完全に詰んだかと思ったが……ああ、まったくまだ戦いはこれからって感じじゃねえか」
「……」
「それとも終わりって言うべきかねぇ? ほら、もう〈浄化の塔〉に王手が懸かったんだ……あとはこの街が、“穢れ”に汚染されていくのを眺めて死ぬだけだぜ? なぁ……?」
夜の帳が降りた暗闇の中で、点々と街中を照らす松明と城壁に灯った赤き炎を眺めリウドルフが嗤う。
蜻蛉をとったシラノは静かに息を絞った。距離は十五歩。互いに、まだ射程距離に入ってはいない。
「……逃げないのか?」
「逃げる? どうして逃げなきゃならないんだ? おれは今まで散々殺してここまで来た……いざてめえの番になって尻尾を捲るってのは、虫が良すぎる話だろう?」
「……」
「それに……お兄さんと立ち会いたいのさ。こんな状況なら、あんたも俺を本気で殺しにくるだろう? そうなったらほら――余計に気持ちよく斬れる。殺しに来られるんだ。殺し返しても仕方ねえよなぁ……!」
言葉で通じるか。
そう考えたのは僅かな気の迷いであったと瞼を閉じ――
「さあ、たっぷりと心行くまで斬り合おうじゃ――」「イアーッ!」「――なっ!?」
展開した三十二の召喚陣から、十六の“唯能・襲”を放つ。
流星めいて疾走する極紫色の触手の刀身。石造りの大橋に吸い込まれた十六の触手の牙は、そしてそこから放つ多重の斬撃は橋を完全に粉砕し、その破片ごとリウドルフを闇に押し込んだ。
橋の真ん中では、逃げ場もあるまい。
ドボンと、連続した無数の水音が堀から響く。これで退場だ。
「……よかったの?」
「相手してる暇、ないんで」
虫によって教団の連中が無力化された――その情報だけで十分だった。メアリが仕掛けたのだ。そして見込んだ実力通り、彼女はこの街を覆う邪教徒を叩きのめした。
そして何か不測の事態が起きて、ああなった――ならば一刻も早く解決するのが、託された使命であった。
取り除ける障害は、速やかに取り除くのが道理だろう。戦いはしないに越したことはない。
「シラノくん、そういうところ本当に容赦ないよね」
「今あれに付き合う義理はないです。……急ぎましょう、先輩」
触手の蔦で対岸へと飛び渡った、その時であった。
「……ったく、お兄さんは本当にそういうとこがつれねえよなぁ。流石に今のは傷付くぜ。えげつねえなぁ」
背後の闇の内から響く声。そして跳躍音。雨よりもなお濃く、石畳に水が零れかかる。
水を撒き散らすように、魔剣を肩に担いだリウドルフが片膝立ちに降り立った。宙の軌跡に残ったのは鈍い石色の刀身――――駆け上がったのだ。空中に生じた斬撃を足場に、ここまで駆け戻ったのだ。
出鱈目な相手であった。
この土壇場において、三次元機動能力まで会得するとは。
「でも、ま……お陰でこんな使い方まで思い付いた。あんたとヤる度におれは強くなる……相性がいいってことだよなぁ?」
「……」
「おいおい、少しは返事をしてくれよ。……流石に悲しくなっちまうぜ? 悲しくてなぁ……そこの可愛いお嬢さんを斬っちまうかも――なんて、」
「……良く回る口なんだな、お前は」
「お?」
リウドルフが片眉を上げたのに合わせて、シラノの右目も赤く光った。
そして、
「残りは地獄で言えばいい……!」
平らに剣を寝かせた。平突きの構えである。
線香めいて燃える瞳が刃じみて細まった。容赦はない。二度と立ち上がれないように、ここで確実に再起不能にする他あるまい。
ひゅう、とリウドルフが口笛を吹いた。愉快そうな顔が心底不快であった。二度と巫山戯た口など聞けぬよう、このまま黙らせると睨みつけ――
「お前は……! こんなところまで来たのか、触手使いィ!」
振り向けば、背後の塔から現れた者が居た。
例の魔剣三人衆であった。何かに齧られたのか全身を血に染めて、シラノを見る瞳に燃えるは憤激。
その内の一人――痩せぎすの男は顎に革の包帯を巻いて、一段と怒りを滾らせていた。
隣でフローが小さく悲鳴を上げる。
後悔した。生命を奪わぬ以上、顎でなく両腕を確実に粉砕しておくべきであった。
都合、四対一――――俄に頬を冷や汗が伝う。
そんな時、であった。
「あらぁ……本当に触手使いなのね……?」
脳髄を蕩かすような甘い声――。
赤紫色の波打つ長髪を揺らして、毒蛾のような女が躍り出た。
僅かに濡れるような唇と、睫毛の長い緑色の瞳。闇の中でも白く浮かび上がる陶磁めいて整った肌と、細長い手足。しかし存分に豊満な乳房を黒い下着で包んでいる。
白い布地――神官服をただ肩から纏っただけで、後は扇情的な黒下着を纏っているに過ぎない。
この争乱の場に不釣り合いな――酷く蠱惑的な女であった。
「……お前が首謀者か」
「えぇ、そうですわねぇ……でもぉ、もっと艶のある言い方を――」「イアーッ!」
躊躇わずその白い足に目掛けて放つは触手三段突き。
立てば淫蕩、座れば卑猥。歩く姿は猥褻物――――そんな風にしか言い表せない乳房が溢れ落ちぬばかりの痴女であったが、本能の半分が叫んだ。残りは理性だった。
敵の大将首。首謀者。むざむざ現れたなら、ここで再起不能にするしかない。
だが、防がれた。
固太りの男が構えた分厚い両手半剣が虚空に刀身を生み出し、そして触手の刃は貫き穿てずに塔へと逸らされ粉塵を散らす。
舌打ちを堪えて新たな刀身を生み出す。
これが起死回生の転機であったが、完全に仕損じた。今ので男たちの憤怒は完全に頂点に達したらしい。余計に血走った瞳を向けてくる。
だが取り巻きの激怒の熱を気にした様子もなく、女が髪を掻き上げながら笑う。妖艶で――醜悪な嗤いであった。
「随分と乱暴なのねぇ……そんなに必死だと、女の子にはモテないわよぉ……?」
「……」
「あらぁ……今度は無視ですかぁ? 困ったわぁ……あの囚われのお姫様に優しくする自信がなくなっちゃうかもぉ……」
「姫……? いや――」
この場で思い当たるのは、一人しか居なかった。
「ふふふ……顔色が変わりましたねぇ? でも冗談です……ほら、もう少し落ち着いてお話しませんか? 争いとは悲しいものですので……ねぇ?」
「……」
「黙っているってことは……お話を聞いてくれるってことかしら?」
「……」
「……もぉう。会話も楽しまないと、女の子に嫌われちゃいますわよぉ?」
「……無法者と話すことなんてねえ。あとは牢屋の看守に言え」
エルマリカをどうした――――そう言いたい気持ちを堪えて、奥歯を噛み締める。
これは相手の挑発だ。話題に出される以上、少なくともエルマリカは生きている。
故に、如何にして討つか。如何にして切り抜けるか。それのみを考えるべきであった。今まで出会ったことのない系統の女であるが、ここで容赦の必要はない。
エルマリカを捕らえ、メアリをああした。街を恐怖と混乱に陥れた。
事情も告解も聞いてやる義理はなかった。目の前の大将首――――この場で打ち損じることこそが、恐れるべきことであると言い聞かせる。
「……もう。私が悪い人ならどうするつもりなんですぅ? あの子がどうなってもいいのかしらぁ?」
「まずお前を討つ。次にその取り巻きを討つ。それから塔にいる仲間を全て討つ……お前らはここで根絶やしにする」
「……まるで狂人ねぇ。少しは落ち着いたお話がしたいですわ……だから触手使いって私たちの天敵なのかしら?」
天敵という言葉に僅かな引っかかりを覚えた瞬間、即座に女は続けた。
その緑色の虹彩が闇夜に光ると同時、ぞわりと肌が総毛立つ。全身の神経を逆撫でされるような不快感の中、女は告げる。
「えぇ……お初にお目にかかりますわぁ。我こそは“決して潰えぬもの”、“精神と魂の支配者”、“不老にして不滅なるもの”、“幻想の太陽”――――〈永劫に真に尊きもの〉よ?」
耳を疑おうにも、その声は脳髄にへばりつく。
不愉快なほどの甘味にも似た残響。
女が自称したその名は、存在する証拠がない筈の――触手使いの宿敵であった。
◇ ◆ ◇
呼吸を潜めながら、アンセラは市街を進む。
外套の内に無理矢理詰め込んだ炎髪が緊張を緩めれば服を焦がしてしまうかもしれない。そう思うと気が気でない。
狼の感覚器と身体能力に我が身を置き換える獣化の魔術のおかげで、これまで敵に邂逅することなく何とかやり過ごしていた。
人間の原型を保ったまま極限まで狼に近付ける才能――師からそう称された我が身を褒めてやりたくなったのは、これでもう何度目だろうか。
背にした曲がり角の先を、雑談を行う邪教徒の数人連れが通り過ぎた。
こちらの区画までならず者はまだ出回ってはいないらしい。夜営は疲れるからだろうか。そう思うと――何故邪教徒ばかりがああも疲れ知らずに動いているのか、若干の不思議に思える。
そして、やはり冒険酒場に近付くほど街を巡回する見張りはその数を増してきていた。それだけ警戒されているというのか。
その当の酒場というのは、二階より上の宿泊部分にしか窓がない為に中を伺えない。いざというときに備えて――などというのが完全に仇になっていた。
(……にしても、なんでこんなとこで密偵の真似事してるんだろ、あたし)
お肉食べたい。絶対この戦いが終わったらお肉食べてやる。絶対にだ。あと川に水浴びに行こう。そういえば近頃新しい遺跡が発見されたとも聞いているし――と己を奮い立たせる。
確かに幾度と修羅場を潜ったし、冒険経験が長くなれば無法者と戦うことだってある。商人の護衛をして山賊と戦ったこともある。
だが――今回は、あまりにも異質だった。
上手くは言えないが……何かが違う気がする。何か――例えば別の世界から悪意が持ち込まれた。そうとも思えるほどに。明確に計画が悪辣すぎる。
とはいえ、
(……四の五の言ってもしょうがないわよね。うん、がんばろ。がんばれあたし。がんばれ)
切り抜けないことにはどうともしようがない。
あとは合図を待って突入するだけだ。それまでどう魔力を押さえてどう体温を保とうか。外套越しとは言え、冬の雨と風は身体に悪い。
せめて暖を取れる魔道具でも持ってきた方が良かったかと――そう考えているときであった。
突如として、火柱が上がる。通りのあちこちの排水溝から炎が溢れ、さながら連続した活火山めいて吹き上がったのだ。
「な……!?」
身構える、その目の前で石畳が動いた。
動いたというか――突き破られたのだ。攻城鎚めいて振りかぶられた棺桶めいた木箱が、石畳を破片に変えて通りにブチ撒けた。
そして、白煙と共に現れたのは黒衣の死神――否、死神めいた黒衣の男であった。
ズルリと、両手に掴んだ人間を放る。水たまりの上に邪教徒が二人、大の字に放り出された。
「罠だったじゃないですか」
「……」
「黙らないでください」
小さな身体で大きな棺桶を携えた錆びた銀髪の少女に冷淡に咎められながら、眉間に深い皺を刻んだ男がやおらアンセラを照準する。
息を呑んだ。
虎めいた金の瞳が細まり、しばし睨みつけられる。まさに一撃で首を手折る人食い虎の如き重圧を感じさせながら――やがて俄かに眉根を上げ、心底望ましくないとでも言いたげに口を開いた。
「……何故貴殿がここにいる?」
「それは……あたしは別に魔物退治にも出てないし、食事だって自分で獲ったものしか食べてないから――……」
途端に露骨ではない、だが重い溜め息が返された。
「……あれは方便だ」
「方便? ……いや、こんな時に嘘なんてついてどうすんのよ。街がどうなってんのか判ってんの?」
「……」
「何を考えてるか知らないけど、あんたが知ってる情報は全部教えなさいよ! いい? こっちはもう動いてんのよ! 今更こっから引ける訳ないでしょ! 人の命が懸かってんの!」
「……強気な時のヒルデベルガのようだ」
「家族に例えるところがよくない癖です、サシャ」
どれだけ見つめ合っていただろうか。
やがて僅かにかぶりを振って、不承不承アレクサンドが口を開いた。
「……敵は淫魔だ。或いは淫魔を騙る何者かかも知れない。だが……少なくとも奴らは人の精神を操る権能を持っている」
「は?」
「……邪術使いが操るのは、あくまで魔物と内部汚染された者のみだろう。気にするほどのものでもない。――真の敵は、淫魔だ」
大の男が、それも頑迷そうな男が大真面目に淫魔という言葉を語る。
本来なら笑い飛ばすべきことかもしれない。或いは、うら若き乙女に猥談のようなものを振ったことを咎めるべきなのかもしれない。
しかし刃めいて鋭いアレクサンドの眼光は真剣そのものであり、その金色の瞳には揺るぎない理性が覗いていた。
冗談ではない。伊達や酔狂ではない。
シラノに負けず劣らず孤軍奮闘する、彼よりも協調性のない一本気な男が――言ったのだ。首謀者は、淫魔だと。
「ちょっと、それ本気……? いや、それはいいわ。なんでそれを黙ってたのよ……」
「語ったところで無意味だからだ」
「無意味って……」
「……いや、余計に悪くなると言おうか。最悪を呼ぶだけだ。淫魔というものは存在しない――その常識を覆してはならない」
獣が唸るように緩やかに瞼を閉じ、そしてアレクサンドは続ける。
「かつてこの地にあった帝国の衰退も淫魔が理由と聞いた。奴らは精神を操る……だが真の恐ろしさはそこではない。奴らはあろうことか、己たちが主導で“淫魔狩り”を推し進めたのだ」
「淫魔狩り……?」
「……文字通り、淫魔と思しきものを狩る。それだけだ」
「ええと……? 待って、なんで……? え、だってそれって自分で自分たちを……」
問いかけるアンセラに、彼は重々しく首を振って返した。
これこそが最悪だと――これが最も重き毒である、と。
「……淫魔に恐怖した人々は、やがて他人からの根拠のない告発だけで淫魔とされる者を狩った。だが精神を操る淫魔は巧みであり、ほとんど奴らには淫魔狩りの手が届くことはなかった。……結果として、社会はより混迷しただけだ。淫魔の仕組んだ絵図の通りに」
「……」
「……それも含めて、帝国の末期には――奴らは完全にその社会を支配していたのだ。淫魔こそが……あの邪悪な半神半霊の存在こそが。五百年前の、この地を」
判るか、とアレクサンドは視線で告げる。
「悪戯に淫魔という存在の恐怖を煽ったことが問題だった。全てが終わる頃には帝国も社会基盤と国力を衰退させ、やがて為す術もなく分裂し崩壊した。それが淫魔の性質だ……社会を混迷させ、絶望を味わう。奴らは混沌だけを齎す異邦者だ。この世界にとっての害悪だ」
「……」
「故に――淫魔などという者は存在していない。存在してはならないのだ」
「何よそれ……」
「欺瞞だ。……ただし必要な欺瞞だ。それに、淫魔もまた封印された筈だった」
「封印って……」
理解の追いつかないアンセラを置き去りに、それで説明は済んだとアレクサンドは背を向けた。
先ほどの地下での爆発の騒動で、蜂の巣をつついたように通りには邪教徒が溢れかえっている。その集団を見ながら、鋼の如き男は棺桶を背負いあげた。
「……サシャ、来ます」
「ノエル、私はアレクサンドだ。……諒解した。ようやく、見えられるか」
そして角の向こう――石畳の通りを隔てたその先の、冒険酒場の扉が開く。
突如、強烈にアレクサンドの腕が動いた。何をと言う暇もない。身構えようとするアンセラの、その狼の毛皮を無理矢理に剥ぎ取ったのだ。
長袖のアレクサンドの、その手首の辺りに青い宝石が見えた。銀に刻印を施した腕輪の中、その中心に藍石が埋め込まれていた。
「目を見るな。声を聞くな。香りを吸うな……五感のいずれかからでも奴らは精神を溶かす。只人である以上、太刀打ちはできない。あらゆる魂への加護を貫く」
それだけ言い捨てて、アレクサンドが通りへと向かう。
通りに満ちた邪教徒。そして、冒険酒場から溢れ出る冒険者――そのどちらにも揺るぐことのない、鋼のような足取りだった。
「サシャ」
「ああ。――〈擬人聖剣・義製の偽剣〉」
先を行くノエルという少女が立ち止まり、その背にアレクサンドが接触する。その、一瞬であった。二人が合一する――否、ノエルがアレクサンドを纏ったのだ。
重さを増した足音が響く。
待ち構える敵の波に揺らぐことはない。彼はただ、義務を遂行しようとそこにいる。そう――義務だ。
街から外部に向けた通信の際、アンセラだけは僅かにアレクサンドが自筆を書き加えたのを見ていた。自筆と、そしてある調印を。雷を纏う四つ足の竜の家紋を。
即ち、彼は――
「――我が名はアレクサンド・ア・リューカ・エ・マグネル・エスタルス」
『――同じく〈擬人聖剣・義製の偽剣〉』
その腰に付けたバックルへと、刃引きされた肉厚の短剣が挿入される。柄に埋められた蒼い宝石が輝くと同時、その身を覆いつくすのは漆黒の全身鎧――別所から転移させる相似魔術の応用。
そこに佇むのは、なんの装飾もない傷だらけの黒鎧だった。ただ武骨なだけで飾り気のない戦鎧であった。
だが、ただ一か所――その肩で、雷を纏う四つ足の竜の家紋が塗り潰すように削られている。
「貴殿の為した我が父の治世への反逆、我が民が暮らす国土への凌辱、そしてこの国の生けとし生ける無辜の民たちへの暴虐――」
現王位継承者第一位、〈雷桜の輝剣〉の使い手であるエセルリック王子。そんな彼には、非才であるとして人前に姿を現さぬ兄がいる。
受け継ぐべき〈竜魔の邪剣〉に選ばれることなく、城の中で狂い果てて死んだとされる兄がいる。
かの〈雷桜の輝剣〉と〈竜魔の邪剣〉――その二振りを象りし、王家の紋章こそが“雷を纏う四つ足の竜”。
即ちこのアレクサンドは――王の子ら、その長兄であった。
故に、これこそは義務。
彼の――王の血族としての、最たる義務であった。
「今ここに、その邪悪を絶つ……!」
民を脅かす害悪を討つ――それがいつの世も、王たる血族の責務である。
決断的にアレクサンドは、両の足で地を踏み締めた。
◇ ◆ ◇
どこか呆然とシラノが思ったのは――フロランスがなんと言うか、ということであった。
本当に淫魔はいたのだと鼻息を荒げるだろうか。それとも、シラノの手を取って指差すだろうか。或いはあまりの驚愕に、空いた口が塞がらないであろうか。
いいや、否だ。それは断じて否である。
「淫魔……!」
彼女の瞳には、光が灯っていた。
そこに恐怖を伴いながらも、義務と責務のあるものの光が灯っていた。
怯えながらも、自分がやらなければならないと――彼女の身体は震えていた。怯懦に包まれながらも、その内に己を奮い立たせようとする勇気が通っていた。
それに気付かず、淫魔が告げる。
「あらぁ……怖い顔をしないでくださいますか? 我々の間には誤解があって……私はただ、自分が住む場所を作りたいだけですわ。ほら、淫魔だなどと……そのような区別をされれば、それは人の世から追い出されてるのと同じでしょう?」
「……」
「……えぇと、そうですね。あなたは……この街で亜人や蛮人を見かけましたか? 地人族しか目にしていないのでは?」
睦事を囁くように――或いは大衆へと呼びかけるように、女は囁く。脳髄を奮わせる言葉で語りかける。
判って欲しいのだ、と。
この世には苦しみが溢れているのだ、と。
実に嘆かわしいことであるのだと――そう謳う。
「ええ、確かに平穏な街でしょう。平和な街でしょう。貧しいながらも幸福――……それは非常に結構です。確かにそれは良いです。……しかしその幸福とは、誰に宛てたものなのですか?」
「……」
「その幸福とは多数派……強き者だけに向けられています。……それは果たして正しくはあれ、善とは言えるのでしょうか? いいえ、そうとは言えません。そこには愛がないのですから……万人に対する愛が」
「……」
「私はそんな群れから弾かれた、弱者に愛を説きました。あなたには価値があるのだと言いました。どんな人にだって生きていて良いのだと――そう心から説いたのです」
しかし、と女は目尻に涙を浮かべて首を振る。心底心苦しいのだと――。堪らなく辛いのだと。耐えられないのだと。
その華やかな外見から一転して、あたかも捨てられた家なき子であるかのような――或いは悲劇で家族を奪われた貴族の一人娘のような、そんな印象を抱かせた。
ただの男なら、その涙を止めたいと願うだろう。
シラノとて、印象ではそう感じている。己の視界に飛び込んでいるものの印象を、そう認識し始めていた。
「なのに、私たちに与えられた呼び名は邪教でした。……それが大衆の掲げる神々と違うから。多数派とは違うから……。だから彼らは勝手な枠に人を決めつけて、そして攻撃する」
女が目尻を擦る。そして、瞳を赤くしながら言った。
「ですから、私は単にそんな区分に従いたくはないだけ……。えぇとぉ、ほら……触手使いというのも、差別されているのでしょう? そんなのおかしいとは思いませんか?」
「……」
「そう。私たちは、誰もが怯えずに暮らせる街を……民族や種族、そして生まれや職業……その垣根なく暮らせる街を作りたいだけですわ……。判って、いただけますか? 誤解があるのです……悲しい誤解が。これはただ、全ては愛ゆえなのです」
今度は敬虔な修道女のような――高潔で万人愛のある、聖女の如き印象を受けた。
そして、声が上がる。
「そうだ……! 我々は真の平等と愛の為に……!」
「ああ……我が尊き御方よ……貴方の御心のままに……! 永遠を生き、我々でこの地に愛を体現しなくては……!」
「おれたちはなにも間違っちゃいないんだ……!」
女の周りの邪教徒たちは、涙を流しながら話に聞き入っていたのだ。何度も頷き、確かな真理であると固く拳を握っている。
彼らを見る心底の憐憫と慈愛を感じさせるような女の眼つきに――シラノは低く問いかけた。
「なら、この街で起こしたことはなんだ?」
「ええと……ああ、この魔物騒ぎは天地創世の魔剣を釣り出す為の狂言です。ええとぉ……抑止力を手に入れる為、と言った方があなたには分かりやすいかしら?」
「なるほど……」
「人の世は革新的なものを嫌います。……ですから、どうしても必要な措置なのです。多少の犠牲を出してしまったのは申し訳ないことだけど……これも止むを得ませんわ。全ては誤解なのです」
「そうか」
小さく呟けば、満足そうに女は頷いた。
フローはただ前を見ている。触手使いとして――ただ、敵だけを見ている。
一度瞳を閉じ、シラノは続けた。
「……一つ、聞かせて貰えますか」
「なんでしょうか?」
スゥと息を吸い、一息に言い切った。
「ここの近くの村が魔物の巣に変えられた。村人は全員魔物になって、女の子一人だけが生き残った……あれもその誤解とやらか?」
「……」
女は答えなかった。代わりに溜め息をつき、残念そうに肩を竦めた。
「あらぁ。意外と鋭いのですねぇ……それとも、やっぱりあなたたち触手使いに魅了は効かないからですかぁ?」
「……」
「博愛とか平等とか……私なりに一応はそれらしい言葉にはなったと思うのだけど……。面白くないわねぇ……皆、こんな中身のない話の為にでも死ねるって言うのに。やはりあなたたちは害悪ね」
酷薄に女が笑う。言うまでもなく茶番であった。
建前とも呼べぬ、ただの茶番。
「……それがお前の答えなんだな」
ならば、是非もない。
そしてフロランスが、臆病なフロランスが、その瞳に戦意を湛えているのだ。彼女はただ、『人には天命があり』『天から授かった力を私利私欲の為に使ってはならない』――そんな触手使いの信条に従おうとしている。
ならば、弟子として今できることは何か。
否――元よりシラノ・ア・ローにできることなど唯の一つしかない。
即ち、
「淫魔……断つべし!」
雲が抜けた三日月の袂。
同じ空の下、まったく同時に――――二人の男が戦端を切った。
宵闇に浮かんだ大空の嗤いの如き赤き三日月。血染めの月の周囲、暗雲は未だ漂っていた。
◆「フォーティファイド・シティ・イン・フレイム」 第三幕◆
◆「ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ」その三へ続く◆




