第四十五話 ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ その一
◆「フォーティファイド・シティ・イン・フレイム」 第三幕◆
◆「ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ」その一◆
◇ ◆ ◇
神様は、いないのだ。
皆が言う。神様はいるのだと。
まずは混沌から天の炉が生まれ七振りの魔剣を作ったとか、魔剣が形作られた後にそれを握る為に神様が生まれたとか――。
魔術が魔術として働くのは神様がいるからとか、輝石により造られた魔剣が力を持つのは神様が宿るからだとか――そんな話は聞いた。
今はこの地をお離れになった神々は、わたしたちを天の丘や星の海原から見守ってくれているとか……。
或いは選ばれたものの目にしか見えないだけで、そこかしこにいてくれるのだとか。
人はそう言う。神様は、いるのだと。
嘘だ。そんなのは嘘だ。
いないのだ。そんなのは、どこにも。どこにだって居やしないのだ。
だって本当に神様がいるのだとしたら――。
本当に神様がいるのだとしたら――。
きっと、こんな世の非道は許されない。
名高き〈秩序と勝利の女神〉がいるなら、何故こんな不道徳と不正を許すのだろう。
きっと、こんな世の無情は許されない。
愛深き〈美と豊穣の女神〉がいるなら、何故その口付けを授けないのだろう。
きっと、こんな世の悪逆は許されない。
慈悲深き〈葬儀と平和の女神〉がいるなら、何故その手で包まないのだろう。
悲鳴と、血と、呪詛。
どうしてそんなものが、目を覆いたくなるそんなものが、未だにこの地に蔓延っているのだろう。
何故、神様は、許しているのだろう。
何故、神様は、手を伸ばしてくれないのだろう。
そう問いかけると、皆が言う。“馬鹿らしいことだ”と。“子供の戯言だ”と。
ああ、それとも――本当は皆知っているのだろうか。
知っていて、知らない振りをしているのだろうか。神様なんて、もうこの地にはいらっしゃらないんだって。
実は皆、心では判っているのだろう。神様なんていないんだって。
ああ――。
神はいない。でも、彼はいる。
世に謳われる道徳と正義をその身で体現するような彼はいる。
ただ一人、闇の軍勢の中にあっても胸の光を失わずに立ち向かう彼がいる。
呪われた竜にも手を伸ばし、慈悲の微笑みを浮かべる彼がいる。
当たり前のように誰かを守り、当たり前のように恐怖し、それでも弱き者の為に当たり前のように戦える彼がいる。
暖かい手の、彼がいる。
この世に神はいないかもしれない。でも、神は彼を遣わせた。
彼が居てくれるから、自分の想いは嘘ではないのだと思えるのだ。
彼が居てくれるから、自分はまだ完全に幽霊になっていないのだと思えるのだ。
彼が居てくれるから、この世にまだ正義はあるのだと思えるのだ。
ああ――だから、だからこそ彼を磔刑にかけなければならない。
この世で最も尊いものを犠牲に捧げたとき、きっと自分と世界は正しい意味で接続される。
そんな罪深さを呑み込んでこそ、自分と世界は等しくなれる。
罪深いこの世界と、罪深いこの自分は等しくなれる。
そうすればきっと、これまでの痛みに意味が与えられるのだ。辛さに耐えてきたことは無駄ではなくなるのだ。
そうだ。
彼ほどの人間が不条理に呑まれるというなら――それでようやく自分も皆のように、諦めることを受け入れられる。
頭で考えるのではない。
皆のように自然に、心の奥底から、口でなんて言っていたとしても、受け入れることができるのだ。
本当は、この世には神様がいないのだと。
そうすれば――……初めて自分は幽霊じゃなくなる。
だから、彼を磔刑にかけなければならない。
……笑っていて欲しい。
彼には、笑っていて欲しい。
本当は、ただずっと、笑っていて欲しい。
笑いながら、名を呼んで欲しい。隣にいて欲しい。同じ物を食べて、同じ場所で眠って、同じ夢を見ていたい。
その顔を見るとほっぺたが熱くなるし、指先を見ると目が潤む。胸が高鳴るし、話したい言葉が出てこない。
彼の手を握りたい。彼と一緒に居たい。
彼の隣で、彼の瞳だけを見ていたい。
どうして――――ああ、どうしてそれが許されないのだろう。
どうしてこんなに苦しいのだろう。どうしてこんなに泣きたくなるのだろう。
この世界に居たい。彼がいるこの世界に居たい。同じところに居たい。同じ場所に居たい。
居させて欲しいのだ。彼が居るこの世界に。
……ああ、だけど、それはできないのだ。
自分は幽霊だから。
誰からも要らない娘で、この世界には居てはいけないのだから。
どれだけ祈ってもどなたにも届かない。
誰も声を聞いてはくれない。
愛を歌い平和を説く神様はいらっしゃらない。そんな御方はいらっしゃらない。
ああ、だから彼を磔刑にかけなければならない。
きっと彼だって――ああ、彼だって――神様が遣わせた訳ではない。
裏切られれば傷付き、なじられれば心を痛める。きっと強いからそんな顔は見せようとしないけど――そんな顔をする筈だ。
だから、その顔を見たい。
他の誰かじゃない。わたしだけに向けて欲しい。わたしだけが見ていいのだ。わたしだけが彼の絶望を食べていいのだ。
そして絶望する彼にこう言うのだ。
――ほら、神様なんていないでしょう? と。
誰よりも正しい彼が認めてくれたなら、わたしは世界と同じになれる。彼と同じところにこれる。彼もこちらに来てくれる。
ああ、なんて嬉しいのだろう。
そうしたら、一緒に居られるのだ。どこまでも一緒に居て貰えるのだ。
たとえ明日無残に朽ち果てることになろうとも、彼は隣にいてくれるのだ。
彼を、傷付ける。彼の愛と優しさを踏みにじる。
凄く胸が痛むけど――この痛みは本物だ。これが、幽霊じゃない証になる。生きている証なのだ。
彼が傷付くところなんて見たくない。ずっと、力強くあって欲しい。
彼は騎士様なのだ。光輝く騎士様なのだ。お姫様を助けに来てくれる、騎士なのだ。
……でもきっと、血塗れで堕ちる姿は何事にも替えられないぐらいに美しい。
彼は美しい。だから血に濡れても美しい。
きっと、流れる彼の血も愛せるようになる。
わたしは、おかしい子なんかじゃ、なくなるのだ。
だから、欲しい。
彼が欲しい。彼の一番が欲しい。誰にも見せない彼の一番が欲しい。
彼の一番にして欲しい。彼の一番を得て、彼に一番をあげたい。
幽霊だったわたしを、これから人間になるわたしを、その初めての誕生という瞬間を、彼に抱きしめて欲しい。
そうしたらきっと――彼を愛することができて、世界を愛することができるのだ。
そうしたら、愛して貰えるのだ。
いらない子じゃ、なくなるのだ。
罪深いわたしは罪深い世界と同じになる。罪深い世界は罪深いわたしと同じになる。
だから、彼を斬らなければならない。
だから、彼を斬らなければならない。
斬らないと、わたしは人間にはなれないのだから。
◇ ◆ ◇
「キミはなにしてるのさぁ!? 心配したんだよ!? 本当の本当に心配したんだよ!? やっと危ないところを抜けたと思ったら、なんで一人で行っちゃうのさぁ!?」
「……」
「ずっとずっと心配してたんだよ!? またシラノくんが危ない目に遭ってないかって……もし帰ってこなかったらって思ったら怖かったんだからね!?」
「……」
「うぇぇぇぇぇぇぇ……何とか言えよぉ! そんなにボクと口を利きたくないのかよぉ! お姉ちゃんが嫌いなのかよぉ! お姉ちゃん一人にしてもいいっていうのかよぉ!」
「……フローさん、口、口。そいつ口塞がれてます」
隠れ家にて。
シラノは全身を触手に縛り上げられて、マグロめいて寝かされていた。
なんの申し開きもできぬ上、物理的に口を塞がれてしまっては何も言えそうにない。
切腹でも申し伝えられるのだろうか。敵前逃亡や命令違反ではないので士道不覚悟ではないと言いたいが、どうなのだろう。いや、そもそもここは幕末の治安維持集団ではないのだが。
「で、シラノ……何か申し開きは?」
「……ノエルさんには伝えたんスけどね。そう言えば二人はどこに?」
問いかければアンセラが首を振った。
相変わらず、アレクサンドは嵐のような男である。前の一件でもそうであった。
「……で、それじゃあそっちの二人が」
「ああ。その人たちの持ってる鍵剣と、身体にある刻印――刺青を通さないと塔の重要な部分にまでは入れねぇみたいスね。まだひとまず塔は安全だとか」
「とはいっても、議会の権限で別の人が任命されないまでは……か。……作るのも入れて、あと何時間あるのかしら」
アンセラが渋く眉間に皺を寄せた。
依然として危機的な状況を抜けられていないらしい。なおその管理者二人は部屋の隅で震えあがっていた。多分、道中の戦闘のストレスだろう。決して家に入るなりシラノが簀巻きにされて床に転がされて尋問を受けたことに恐怖している訳ではないと思いたい。
ともあれ縄を解き、首を鳴らして立ち上がる。肌の感覚が鈍ってしまう為望ましくはなかったが、フローの鎮痛剤が効いているのだろう。痛みはない。
「……それじゃあ、敵の首謀者を叩き潰せば動きようはあるんスね?」
「ええ。あの二人はそう言ってたわ。奴ら邪教の大神官と副神官……あとは邪術使い。この三人が、あの集団のかなめになってるって」
「三本柱か。……折るしかねえな」
邪教徒の能力に対して、作戦遂行の手際が良すぎる。事態をここまで大きくしたのは中心核であり、あとはただその手足だ。頂点を失えば、烏合の衆となろう。
頷き、腰の〈金管の豪剣群〉の柄尻に手をやった。
リウドルフや邪教徒との邂逅で触手使いというのは既に露見している。これ以上、触手抜刀を封じる意味合いは薄い。しかしそれでも、移動に関してはまだこの剣に頼る場面も出てくるであろう。
しかし――アンセラが、首を振った。
「“手出しをするな”?」
「ええ……相手に操られる可能性があるって。特に魔物と何度も戦っているなら、やめた方がいいって……」
「……メアリさんからは、そうは聞いてねえけどな。本当に魔物と戦っただけで不味いのか?」
「あたしも変だと思うけど……相手が邪術使いだからね。魔術と違って、能力がどこまでかの際限が判らないし」
なるほどな、と首肯する。
理屈が決まっている魔術と違って、魔法の領域に入る物事には法則はあれど理屈がない。そう考えれば、魔物の瘴気を浴び続けた人間を操る邪術使いが居ても不思議ではない。
それにしても標的は三体。そして、その手勢はより多い――いくらアレクサンドが実力者と言えども、荷が重いとは思えてくる。
どうしたものかと顔を見合わせていれば、髭を撫でながらレオディゲルがやってきた。
「……よ。調査に出してた奴らからの話だ。やっぱり冒険酒場にもおれたちの詰め所にも動きはねえ。不気味なくらい、静かだってな」
「……」
「そんで、邪教徒の集団の動きは三つだ。西の区画の公民館の傍に集まってるのと、あとは真ん中の島にも出入りがある。他は当然、街の城壁と――ついでに加えるなら隣の夏の区画にならず者が大勢。こんなところだ」
「……隊長さんは、どう思ってるんスか?」
シラノと違って、実際に経験を経てきた男だ。専門家である以上一家言はあるかと踏んだが、レオディゲルは困ったように顎髭を弄んだ。
「ここまでの規模のことなんて、街が始まって以来のことだからな。……正直なところ、どうしていいのかはわからん」
「……そうスか」
「ただ……例の執行騎士が首尾よく敵の首魁を倒しても、それだけで話が終わるとも思えねえ。特に城壁だ……最悪、こっち目掛けて火球が撃ち込まれかねねぇ」
「……」
苦々しくレオディゲルが溜息を吐いた。
実際のところ、個々の兵の質はどうあれ――邪教徒はかなり首尾よくことを進めていると言えた。実質的に、完全に城塞都市を陥落しているのだ。今は、僅かな猶予での足掻きにしか過ぎない。
「アレクサンドさんはどこに行くって言ってた?」
「さあ……あの分だと、まだ地下に何かあるみたいだったけど……」
「地下か……。ってなると、敵の三人の内の一人はそこか」
残る脅威は三つ。
敵の首魁三人の内の二人と、そして城壁に陣取った敵。正直なところ手が足りないという話ではない。流石に、無謀が極まっている。
唸るように吐息を出しながら――ふと、頭をよぎったものがあった。
「……アンセラ、地図を貰えるか?」
「いいけど……何? 何かあった?」
「いや……手が足りないなら増やせばいいんじゃないかと思って」
「増やす?」
アンセラが広げた見取り図の二点を指差した。
北東の見張り塔のすぐそばには冒険酒場が。そして南西の見張り塔のすぐそばには衛士の詰め所がある。
元はと言えば、街の防衛の為にすぐ乗り込める位置に作ってあったのだろう。ここを利用する他ない。
「敵の指導者を取り除いたら狼煙を上げる……邪術使いを倒せたなら、冒険者と衛士も動けるんじゃないっスか?」
「それで城壁に乗り込むってこと? 確かに戦いが始まれば、街の中に攻撃してる暇はないとは思うけど……どうするの? あのアレクサンドって人にそんな打ち合わせはしてないし、あんたが会ったメアリさんたちにもしてないんでしょ?」
「……問題ねえ」
シラノは一人、頷いた。
かつてメアリやエルマリカと顔を合わせたとき――魔物の集団と戦っていた時、言われたのだ。
「俺には……触手使いには邪術への耐性がある。俺が行く」
ここで取れる手段は、それしかなかった。
◇ ◆ ◇
まだ空には暗雲が立ち込め、夜が明けるには遠い。
シラノは街に広がった監視の目を潜るように、街の西に広がる冬の区画に侵入していた。
邪教徒は揃いも揃って外套を着用しているので、実際のところ都合がよかった。顔を見られる心配もない。あとは適当に叩きのめし、その衣類を奪うだけである。
そうして作戦を開始してからどれだけ時間が経っただろう。
リュディガーを筆頭に衛士たちは可能な限り衛士の詰め所へ。そして、アンセラは冒険酒場へ。シラノの行動が首尾よく進めば、狼煙と同時に街を開放する為の手筈が整っている。
自分の双肩に、この街の命運がかかっている――。
その重圧で吐き気が込み上げてくるのを隠せたのは僥倖であった。もしも不安だなどと言おうものなら、目ざといアンセラは決してこの作戦を許可しなかっただろう。
不安はある。恐怖も強い。
だが今は、やるしかならないときであるのだ。座して死を待っていれば、シラノはともかく街の皆が道連れになる。
それでもやはり胃が裏返るような焦燥が訪れてくるのは確かで――口許を拭おうとすれば、その右手を掴まれた。
「大丈夫だよ、シラノくん。ボクがついてるからね?」
「……だから指を震えさせて言っても意味ねーっス」
フローだった。
「……なんで先輩まで来てるんスか」
「シラノくんが言ってたじゃないか。触手使いなら、邪術に耐性がある……って。だったらボクが外に出ても大丈夫だよね?」
「そういうことじゃねーっス。危ないんスよ? 判ってますか?」
「危ないならなんで一人で行こうとするのさぁ……」
「危ないから一人で行くんです」
巻き込めないし、何よりも身軽であった。意思の疎通を図る必要なく、攻めようとすれば即座に攻められ逃げようとすれば即座に逃げられる。
触手の技が故に一人で多数を相手にできる上、複数人で連携する訓練をしていないシラノには最も理にかなった戦い方であるのだ。事実、城塞にもそれで持ちこたえた。
「置いてくなって言ったじゃないかよぉ……」
「俺も言いました。先輩には怪我をされたくないって……俺の方が先です。俺の方が先に言いました。多分きっとそうです。俺が先です」
「なんだよそれぇ……うぇぇぇえ、ボクは先輩なんだぞ!? 師匠なんだぞ!? お姉ちゃんなんだぞ!? いくらなんでもシラノくん最近ボクに対して冷たすぎると思わないのかい!?」
「いくら先輩でもこればっかは譲れないんで」
論ずる暇はない。
送り届けるのにも時間がかかるし、さてどうしたものかと考えているときであった。
「おい、お前ら……なんで礼拝の時間なのに――」
影から飛び出した、ならず者の集団五人。
反射的に拳を握り、駆け出そうとしたそのとき――であった。男たちの口許に浮かんだ虹色の召喚陣。気化した何かが吹きつけられると同時、彼らが昏倒する。
あまりにも鮮やかな三ノ太刀――百神一刀流・“號雨”であった。
「ほら、どうだい? ボクはお姉ちゃんだし――師匠なんだよ? 誰がシラノくんの師匠をしたと思ってるんだい? 誰が触手の技を教えたと思ってるんだい?」
「……」
「シラノくん一人だと音が出すぎちゃうけど、ボクと一緒だったら静かに進めるんだよ? それに怪我とかしても大丈夫なんだよ?」
「……」
「これはもう頼りになる師匠と一緒にいくしかないんじゃないかな? 先輩のボクを置いてったら駄目だと思わないかな? お姉ちゃんを頼りにすべきじゃないかな?」
「……そういうのは、手の震えを隠してから言ってください。先輩には向いてねーんスよ」
「うぅ……」
サッとコートの袖の中にしまわれたが、別に見ないでも判る。
フローは戦闘には向いていない。アンセラのように冒険者として荒事を潜り抜けている訳でもなければ、リュディガーたちのように職務意識がある訳でもない。或いはシラノのように、己を奮い立たせている訳でもない。
どうしようもなく、フロランス・ア・ヴィオロンという人間は戦いには不適格なのだ。
これは触手使いとして才能の劣るシラノでも断言できる。持っている才覚ではなく、意識の問題であった。
しかし、
「……判りました。どのみち師匠を戻す訳にもいかないんで、一緒に行きましょう」
「え、ほ、本当かい!?」
「ただし約束してください。俺が足手纏いになるなら……俺を置いて街から逃げてください。絶対にそれだけは約束してください」
「シラノくん……だって、だってそうしたらキミが……」
「俺は腹ァ決めて来てるんです。……冷たい言い方ですけど、覚悟してない人に残られても何にもならないんスよ。多分、戦いって言うのはそういう場所だ」
突き放すような言い方になってしまったが、じっと見ていればフローはやがて頷いた。
半分は本当で、半分は嘘だ。いくら死地といっても本当に死ぬつもりはなく、ましてや殺されてやるつもりなどない。当然であるが、死は恐ろしい。死にたくないと思う。
ただ、まだ慣れているのだ。少なくともそこだけが常人とは違った。事実として、一度は死んでいるのだ。意識としては、もう何度も死んでいる。
だからきっと死の寸前まで見極めながら戦うことができる。他と勝敗を分けるとすれば、ただその一点のみだろう。
「……」
ひとまず――道中の不安はこれで多少は改善された。
頭の痛いことばかりではない。前向きに考えれば、そうであるのだ。
ちらりと後ろのフローを見た。何か言いたそうな、不安そうな、それでも言い出せない顔をしている。やはり彼女には、戦いへの怯えが多くあるのだろう。
たとえ自分が駄目でもなんとかフロランスだけは生還させる――そう一つ心に決め、また道のりを歩み出した。
◇ ◆ ◇
こつこつと、靴裏が石畳と音を立てる。闇の中に波紋が吸い込まれるように、消えていく。
通りがてら、西の区画にいる全ての邪教徒は無力化した。建物に押し込めていた大型の魔物の群れも弾き飛ばし、武装していた集団も完全に沈黙させた。
その間も傷付くことはない。不可侵の魔剣――それが天地創世から伝えられし七振りの一、〈竜魔の邪剣〉なのだ。
抱き着いても手が回らないほどの太さの円柱が、何本もその入り口と屋根を支える白亜の神殿。
入口の真横に飾られたフクロウの彫刻は〈秩序と勝利の女神〉の使いを象っているのだろうか。
その手前で、周囲に倒れ伏した邪教徒たちに構わず魔術の砂板――時計板を眺めるメアリが、ぱたんとそれを閉じた。
「大体、百を数えるぐらいでしたけど……お姫ぃ様、首尾よく進みましたか?」
「ええ。……もう誰も動けないわ。辺りにいる方たちも、そこの建物の中の方たちも……全て」
「動けない……でやがりますか。動かないとは、言わねーんですねえ」
「それは……」
「……ま、いいですとも。どうせなら城壁に手ぇかけてもよかったかもですが……知らされて議会のお偉方に手ぇ付けられても面倒でやがりますからね。ま、こっちを片付けたらさっさと城壁の掃除もしちゃいましょーか」
「……ええ。でも、塔の方はいいんですか?」
エルマリカが問いかけると、メアリは二本指の両手を使ってその頬を上げた。
「そっちはあたしがついでに無力化しましたよ。ざっとでやがりますけど。いやあ、お姫ぃ様も存分に力を奮えるなんて……お荷物二つがいなくなって悦ばしいことで。見られる心配もなくなりましたからねぇ……」
「お荷物なんて……そんな……」
「いいえ、お荷物ですとも。かわいいかわいい羊さんたちはうちらのやり口を見ないでいーんです」
「……」
「情報ってのは大事でね。ただ、圧倒的に何かをされたって事実がありゃいいんですよ。悪い連中は、その恐怖に怯えてりゃあいんです。そして羊さんたちは穏やかに夢を見る……表はお姫ぃ様のお兄様の雷に担ってもらいましょう。こっちは裏方です」
「……」
促されて、重い一歩を踏み出した。
広い階段を上がりながら、エルマリカはぽつりと言う。
「……なんで、わたしなのかしら」
「……」
「勇気も力もアレクサンドお兄様の方が上だし、知恵も優しさもエセルリックお兄様の方が凄いわ……ウィルフレッドお兄様の方が知略も冷静さも上よ……なのに、なんでわたしなの」
「……さあ。あたしは魔剣サマじゃねーんで、理由は判らねーってもんで」
隣を見れば、自分よりも僅かに身長が下のメアリはいつも通りの無表情だった。
色んなものを見すぎたからその内笑えなくなった――そう言っていた彼女は、ただぼそりと続けた。
「世の中ってのはそんなモンです。そこに何か意味がありやがるにしても、神様じゃねーうちらには判らねーんですよ。あとは精々、自分で意味を見つけるしかねーんで。……お姫ぃ様には難しいかもしれませんがね」
「……」
「結局は自分なりに、自分で納得するしかねーもんでやがりますから。他人からどんなに言われようとも、決めるのは自分でしょーよ」
「……メアリさんはいつもそうね」
呟くと、ほんの少しだけ困ったように目尻を下げた。
「ええ。……ま、頼りない世話役だと思ってくれると助かりますね。何をどー言おうと、お姫ぃ様に雑談するしか能がねーんでやがりますよ」
「……」
「すみませんね。こんなときに言うのもなんですけど」
そう言われてしまうと、何も言い返せなかった。
だけど――これがいつも通りなのだ。メアリに限った話ではない。これがいつだって普通のことで、当たり前のことだ。
「……それでも、話しかけたら答えてくれるだけ……メアリさんは好きよ」
「そらどうも。……ま、そういうことは意中のお方にでも言ってやるんですね。できれば潤んだ目で上目遣いがコツですよ? あとはそのまま寝所まで――」
「ちゃ、茶化さないでくださる!?」
そういう揶揄をされてしまうと、どうにも頬が赤くなってしまう。
これから一大事なのにいけないと思い――それからすぐに思い出した。自分の心の内で、現実が囁いてくる。そんな風に夢見ることは、無意味なのだと。
自分は要らない子なのだ。何かの間違いで生まれてきてしまって、何かの間違いで魔剣に選ばれてしまった。
そんな子供が彼に何を言ったところで――
『――なんで、お前なんだ』
全身の肌が剥き出しになったような、皮膚の内側を錆びた針金でひっかかれたみたいな、そんな悪寒が襲ってくる。
首を振った。
腕を握り締める。痛い。痛いから、自分はまだここにいるのだと思える。まだ本当に幽霊になっていないのだと思える。
嘘だ。シラノはそんなことは言わない。きっと言わないでいてくれる。きっと、自分のことを受け入れてくれる。
だけど、もし――。もしもまた、あんな目を向けられるとしたら……。
「お姫ぃ様?」
「……だいじょうぶ、なんでもないわ。なんでもないの……」
「……ま、そー言うなら信じますけど」
「ええ……」
そして乗り込んだ先に広がっていたのは――醜悪な光景だった。
ぐつぐつと煮えるような音がする。実際に煮えているのだ。黒い肉を飲まされた人が全身を掻きむしりながら、肉体を異形に変えていく。皮膚の内からあぶくが浮かび上がるように、変わっていく。
笑いながら自分の身体に刃物を突き立てる人が居た。泣きながら魔物に縋りつく人が居た。よく分からない薬草や、よく分からない液体を混ぜ合わせている人が居た。
誰もが自分自身のことしか見ていない。他人に一切の注意を払わない。異様な光景だった。
十字に組んだ木製の磔刑台に魔物が吊るされ、その肉を削ぎ落されている。真っ黒な頭巾に全身を包んだ男たちが、その肉を皿に乗せてどこかへと運んでいく。
鼻に据えるおぞましい匂いが立ち込めている。
何か濡れたものが動く音や絡み合う音がする。それがあちらこちらで聞こえる。吊るされたカーテンの奥に何があるのか、エルマリカの脳は理解を拒んでいた。
エルマリカは無敵だ。無敵の筈だった。
だけど、何故こうも震えが止まらないのか。展開した〈竜魔の邪剣〉はエルマリカに対するあらゆる干渉を遮断する。悪しき空気や、穢れすらも防ぎきる。
だというのに、何故――
「……あらぁ。お客様ですかぁ……?」
聞こえてきたのは、異様に耳に残るような甘ったるい声であった。
本能が警鐘を鳴らす。こつこつと神殿の奥から響いてくる足音。四人――女が一人と、男が三人。他の誰もがエルマリカたちを気にした風ではないというのに、彼らだけは確かにこちらを捉えている。
一歩一歩、集団が近付いてくる。
その中心に居たのは、なだらかに曲線を描く豊かな赤紫色の長髪の女だった。
潤みを得た肉感的な唇。そして、切れ長の緑瞳。
白い一枚布を何重にも身体に巻きつける神官衣装の下にあっても、驚くほどにその肢体の線が浮き出ている。それは、まるで〈美と豊穣の女神〉の似姿めいて存在感を放っていた。
庇うように、メアリが一歩を踏み出した。
「……あんたさんが、事件の首謀者ってヤツですかね?」
「首謀者ぁ……? はて、一体なんのことでしょうか……?」
「とぼけんじゃねーですよ。せめてその辺のものを仕舞ってから言えってんです。……ここの神殿の神官はどーしたんですか」
「どうしたとは……ええと、平和的に話し合いをして譲って頂いたのですよぉ?」
ねぇ、と女が隣の男に語りかけた。
そしてエルマリカは息を呑んだ。女に声をかけられたそれだけで――その男はこの世の至上の名誉と快楽を味わったかのように顔を艶めかせて目を輝かせると、力強く頷いたのだ。
メアリが絵札を握り締める。その腕で、穢れ避けの宝石付きの腕輪が揺れた。
「クソ邪教徒が……どんなカラクリ使ったのかは知らねーですけど、くだらない茶番なんてやめてとっとと跪けってんです。……それとも、生きながら虫に喰われる方が好みでやがりますか?」
「虫……虫はそれほど得意ではないのですけど……。ああ、でも蝉は好きですわぁ?」
女がそう呟くと同時だった。
その取り巻きの一人がもう一人に抱きつき、四肢全てで纏わりつきながら鳴き出したのだ。
大の男が。エルマリカほどの子供が居そうな男が、両手両足で男に抱きつきながら一心不乱に蝉の鳴き真似をしていた。
今すぐに、逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
神殿のそこかしこから、蝉の鳴き声がする。蝉を真似た人の声だ。歌劇の楽団にも負けぬほど、喉から血が出んばかりの勢いで熱唱をし始めている。
異様であった。
女の言動が、その指先一つが世界を支配している――――エルマリカにはそう思えてならなかった。
咳き込み、喉を傷めながらも蝉の鳴き声が響き渡る。木として抱き着かれている男も、抱きついている男も血管が浮くほど顔を真っ赤にして鳴いている。
なんなのだ、これは。
今まで見たあらゆる醜悪な光景の、その頂点に位置していた。
「……なんだってんでやがります。クソ邪教徒の教祖様の影響力の披露会ですか?」
「教祖様? ええとぉ……そのような品のない呼び方はよしていただけますかぁ……? 私たちは、畏怖と敬意をこめてこう呼ばれているのでぇ……。そう――」
何かは判らない。だが、〈竜魔の邪剣〉が能力を既に発動しているのは判る。
粘着質の音を響かせるように――女は妖艶な声で、二人に告げた。
「“決して潰えぬもの”、“精神と魂の支配者”、“不老にして不滅なるもの”、“幻想の太陽”――――〈永劫に真に尊きもの〉と」
そして、メアリが突如として崩れ落ちるのを感じながら――。
エルマリカは、己が蛇の腹に飲み込まれて……取り込まれてしまう、そんな幻影を抱いた。
◇ ◆ ◇
「……ここまで誰もいないね」
「うす。……変スね」
宵闇の中で西の市街地を進みながら、シラノが感じたのは違和感であった。
誰も敵がいない。というより、誰もが昏倒されて眠っている。凄まじい勢いで壁に叩きつけられたような者から、立ったそのまま意識を失ったように崩れ落ちた者まで。
まるで巨大な竜か何かが、通り道に居たものを一掃していった――そう思えるほどに、邪教徒という邪教徒が薙ぎ倒されて崩れ落ちている。
結局それは橋の手前に来るまでも同じだ。
不可解な感覚を抱きつつも、市街地の中心――〈浄化の塔〉が一望できる大通りまで差し掛かった。そんなとき、であった。
「メアリさん……!?」
その付近の路地裏に、両手足を投げ出して倒れるメアリを見付けた。
手足は血に塗れ、白いエプロンドレスが赤く染まっている。何が起きたと思うよりも血塗れという衝撃が大きく――僅かに狼狽えたシラノを見上げ、メアリは朦朧と口を開いた。
「気を、付け……お姫ぃ様が、あたしのせいで……」
「メアリさん、落ち着いて。傷が酷い……大丈夫、治療はすぐ済みます。話はそれからでも――」
「手遅れに、な……」
首を振ったメアリが、おもむろに橋を――その向こうの塔を指差した。
否、指差したのではない。彼女が行ったのではない。彼女の皮膚の下で這い回る虫が、無理矢理に彼女の腕を中から持ち上げようとしているのだ。
見れば、足の傷もそうであった。やはりその下で、何かが蠢いている。
路地の奥に点々と続いた血染めの足跡は、彼女が重症を引き摺りここまで来たことの証左。
絵札の虫を自分自身に使って――無理矢理に逃げ出してきた。そうとしか、言い表せない惨状であった。
「治療、いいですから……はやく、お姫ぃ様を、たす……」
「うす、判りました。任せてください。でも、これじゃあ――」
せめて手当を――と言おうとした時であった。
何かを突き破るような轟音。そして、崩れ落ちる音。上がる粉塵――……遠目にも、塔が崩れている。煙が吹き上がっている。
円柱と円錐を組み合わせた石造りの塔が半壊していた。修復が間に合っていない。
そしてメアリにまた目を向ければ、彼女は意識を失っていた。痛みと緊張が、限界に達したのであろうか。
「シラノくん、どうするの!?」
「……行きましょう。なんだかわからねーっスけど、何かが不味い」
止血だけ行い外套を身体に被せ、一直線に路地を飛び出した。
目につく限り、この区画の邪教徒は全て無力化されている。目指すべきは塔の異変だと――石造りの大橋に辿り着いたその場所で。
瓢と渋い緑色の髪が揺れる。
肩に担いだ長剣と、顔に浮かんだ薄笑い。頬をこけさせながら、目だけは爛々と異常な生命力を宿している。
即ち――
「いよう。また会えたなァ……ここに来たら会えるとおれは思ってたぜ? 橋に人を並べるって言ってたもんなぁ……」
「……」
魔剣使いのリウドルフ。
恐るべき剣鬼が、行く手を遮るように橋の真ん中に陣取っている。
足を軽く開いた堂々たる仁王立ち。その周りに他の影は見えない。一対一を望んでいるというところだろうが――。
「なあ、折角だろうお兄さん。お互いこうしてまた会えたんだ、積もる話ってのも――」
「――魔剣、断つべし……!」
決断的に言い放ち、シラノは触手野太刀を両手に構えた。
◆「フォーティファイド・シティ・イン・フレイム」 第三幕◆
◆「ラブ・ソング・サング・バイ・カースド・ドラゴン・フォー・ケンゴウ」その二へ続く◆




