第三十八話 お姉ちゃん三大義務違反
天下泰平、世はこともなし――。
とは決して言えぬ環境ではあったが、城塞都市は一見したところ普段の喧騒を取り戻しつつある。
少なくとも表面上はあれからならず者が暴れ回ったという話も聞かず、また、魔物が都市部で放たれたとか大攻勢を行ったということもない。
果たして無事にアレクサンドや執行騎士が職務を遂行してくれたのか――公人でないシラノの知り得ぬところではあった。そこが、残念でもある。
だが、やはり捨て置けぬ。己も何らかの協力を図るべきだろうか――などと考えているときだった。
「お姉ちゃん三大義務違反だと思います」
「お姉ちゃん三大義務違反」
フォークを止めた。
またセレーネに目を向ける。こういうときに頼りになるのは彼女だ。フローの胡乱なたわごとなのか、それとも本当にあるのか。見極めは大事である。
だが、
「セレーネ三大義務違反です」
「セレーネ三大義務違反」
「シラノお兄ちゃんはどうしてセレーネを置いてくの?」
「……」
「シラノお兄ちゃんばっかり魔剣と戦ってズルい」
「……」
「セレーネ寂しい。お兄ちゃんと遊びたい」
「……」
銀髪で豊満な上品で涼しい美貌の年上の女性からの、上目遣いのお兄ちゃん呼び。
健全な青少年ならその背徳的な淫靡さに危なかったかもしれないがシラノは耐えた。剣豪だからだ。これが剣士なら無理だったかもしれないが、シラノは剣豪なので耐えられた。
というか完全にできたての生ゴミを見る目だった。
「うぇぇぇぇぇ!? なんでセレーネさんがお兄ちゃん呼びしてるのさぁ!? シラノくん何したの!?」
「……何もしてねーっス」
「嘘だぁ! ボクは騙されないぞ! きっと毎晩毎晩セレーネさんにイケないことしたんだ! ボクがいるのに! お姉ちゃんというものがありながら!」
「……」
正しくは毎朝毎朝イケないことをされているのだ。シラノの方が。イケないというか、逝けないというか。一歩間違えたら逝きそうというか。
「なんだいそれは! お姉ちゃん三大義務違反だよ! 義務違反だ! シラノくんはもっとお姉ちゃんに甘えてお姉ちゃんを甘やかせるべきなんだよ!」
「ねぇ、フローお姉ちゃん」
「うん? ………………うん? セレーネさん?」
「フローお姉ちゃん、セレーネお肉食べたいの」
妹ぶるセレーネが姉ぶるフローに料理をたかっていた。なんだここは地獄絵図か。
速やかにセレーネの前に手をつける前だった肉の乗る皿を差し出し、フォークで持ち上げようとしていたフローを止める。
師の肉は弟子の肉である。……いや、逆かもしれないし違うかもしれないがとにかく良くない。フローは食べ盛りなのだ。渡す必要はどこにもない。
「先輩も簡単に渡さんで下さい。セレーネも甘えんな」
「お兄ちゃん、セレーネに冷たいよぉ……」
「次やったらぶった斬るぞ」
「……え。戦ってくれるのですか? 本当に? いえ、そうなったらこうしてはいられませんわ。ええ、シラノ様……存分に私と――――もががっ!?」
そんなにタンパク質が取りたいなら触手でも食べていればいいのだ。
物理的に口を塞ぎ、杯に入った水を己の胃に流し込む。主菜がなくなってしまっていた。
主菜はお水さんだ。副菜もお水さんで、汁物もお水さんだ。ありがとうお水さん。お水さんのフルコースだった。
「……あ。し、シラノくん? お腹空かないかい? 大丈夫? ど、どうかな? ほらほら、今ならお姉ちゃんが『あーん』って……」
「いらねーっス」
「うぇぇぇぇぇ……!?」
「……先輩はちゃんと食べて下さい。いつも多く食べてるんスから」
師であり先輩であり女性であるフローから巻き上げるほど堕ちてはいない。何故なら剣豪だからだ。剣士なら耐えられなかったかもしれないが、シラノは剣豪なので耐えられた。
武士は食わねど高楊枝。人体の六十パーセントは水。水さえあれば三週間は死なない。偉大な金言である。
水差しで注いでまた飲む。
やはり、天然素材なので身体に優しい。素材の味が生かされている。というか素材の味しかしない。
何故か虚無だ。虚無の味がした。
「……え、何ここ。お通夜? 地獄?」
「アンセラ」
「あんたらなんでそんなに俯きがちで――」
「んっんんー!? んんんー!? んんんーっ!?」
「――――ふぁぁぁぁぁっ!? ひにゃああああああ!?」
アンセラが奇声を上げた。一斉に酒場の注目が集まる。どうやらここは地獄らしい。喉が渇く。嘘だ。もう水はしばらくいい。
ふぅ、と吐息を吐いた。
口に触手を咥えた眼帯の剣鬼と、お肉をフォークで突きながら俯き加減のお行儀の悪い師匠。そして、怪鳥めいた奇声を上げる凄腕の冒険者――。
……帰ってきたのである。あの死線の向こうから。
◇ ◆ ◇
金属の杯を鏡代わりに使いながら、目元に手をやった。
寄生による再生治療。〈石花の杭剣〉の刺突に潰された右目には縦に赤く線が走り、そしてその虹彩は朱に染まっていた。
視力は元通りになったし――或いはそれどころか前にも増して動体視力は高まりを見せ、何か常人では見えそうにないものまで見えるようになった。
親から貰った身体を失ってしまうことはやはり憚られたが、それでも命そのものを失うよりはマシであった。自分のものも、ジゼルたちのものも。
死んだら終わりである。転生できたシラノはおそらく稀な例と言っていいだろう。
とは言え、
『うぇぇぇぇぇ……なんでまた怪我をするのさぁ……! 色違いの目は、此岸と彼岸を見詰める瞳って言われて縁起が悪いんだぞぉ……!』
『……』
『やだよぉ……シラノくんが冥界に連れてかれるとかやだよぉ……』
などと泣かれてしまうと、やはり立つ瀬がなかった。
なるべく気を付けるとは言ったが絶対に怪我をしないとは言っていない。それはそうとして、フローが涙を流すのは見ていて辛いものがあった。悪いのは完全に自分だが。
好き好んで体を傷つける趣味はない。……しかし、戦う以上は、
(……怪我せずに、とはいかねぇよな)
ぐむ、と黙り込む。
今回は触手の召喚が行えぬという特異な事例であったが、それは言い訳にはならない。
戦いには二種類しかないのだ。既に起きた戦いか、まだ起きていない戦いか。そのどちらかである。
故に想定と違うという言葉は何の慰めにもならない。単に命を拾ったという結果と、誓ったにも関わらず手傷を負ったという事実のみがある。
「……」
やはり、より研鑽を積むしかないのか。
それかもう二度と戦いに出ずに山奥に引っ込んで細々と生活するかであるが…………それではフローに誓った約束はどうなると言うのだ。まだ触手使いの何の名誉も回復していない。
道半ばでやめるという選択肢は無論ない。男に二言はないのだ。
それに彼女が世間から誤解されたまま、排除されたままの結末など御免蒙る。あまりに許せぬ。全てを斬り倒さねばならない気持ちでいっぱいになる。
「……」
腕を組んで吐息を漏らす。こうなると、所謂板挟みであった。ジレンマという奴だ。
「……先輩」
「ん? なになに、どうしたの?」
「……や、なんでもないっす。すみません」
「? 変なシラノくん」
どうしたものかと考え込む。
……いや、答えは決まっているのだ。初めからそれしかない。
「先輩」
「うん、何かな? どうかした? あ、やっぱりボクに甘えたいって――」
「それはいらねーっスから」
「うぇぇぇぇぇ……!? なんでだよぉ……お姉ちゃん嫌いなのかよぉ……そんなにボクには包容力がないって言うのかよぉ……」
「いや……」
一瞬母性溢れる一部分に目をやりそうになったが、努めて殺す。脳内で腹を掻っ捌き――何回か貫かれたので痛みは判る――咳払いを一つ。
後頭部を掻きながら、言った。
「その……修行、つけてくれませんかね。師匠」
そう。足りないなら力をつければいい。及ばぬなら技を磨けばいい。
つまり、修行回――――であった。
◇ ◆ ◇
南に下れば大きな街道と、更にそのまた南には王宮へと塩を運ぶ道がある。かといって東へ向かえば王家の直轄領たる塩湖があり、おそらく身分の定まらぬ冒険者が近寄れば斬り捨てられるだろう。
となれば――というか、そこまで大仰な距離を移動する訳にはいかない。
であるが故に、比較的街から離れてはいない北の森まで来たわけだ。距離にしておおよそ四キロ弱。走れば十四分もかからない距離である。シラノ一人ならば。
「今日は結構あったかいねー、シラノくん」
「うす」
「えへへー、あったかいねー」
「そうスね。先輩が寒くないならよかったです」
「うぇー? なんだよそれー?」
フローを連れてそんな強行軍をするわけにはいくまい。
という訳で、えっちらおっちらと歩いてきた。道中現れた魔物は三枚におろした。非戦闘員をまず狙おうとするなど、風上にも置けない奴であった。
彼女の歩幅を考えれば、大体一時間強。
いつでも背負えるように準備をしていたが、そんな心配は不要であったらしい。フローもたくましくなっているようだ。
森の中は冬が故に枝が多く寒々しい景色であるが、それでもまだ緑も多い。常緑樹であった。やはり、森というのは伊達ではないのだ。
もし今後、森で戦うことがあるとするなら頭上からの伏兵に気を付けよう――かつて自分がそうしたように――どこから襲い掛かってくるか知れたものではないのだから。
……などと考えつつも鳴りそうになる腹を抑えて、さてと巨木に向かい合う。
片手に握ったのは、三尺七寸――百十センチ余りの極紫色の長大な刀身。触手野太刀である。
「ねえねえ、シラノくん? ところで、セレーネさんは来ないの?」
「……呼んでないっス。来たら、斬りかかられますから。修行なんて目の前でしてたら、絶対」
「そうかなぁ」
「……そうです。あいつと付き合うのに、線引きは要ります」
「そうかなぁ?」
「そうです」
剣鬼は甘やかしてはならぬ。放っておくと政府要人の暗殺に走りかねないのだ。
というのは冗談としても、どれだけ打ち解けようともその本質は修羅道に棲む求道者なのだ。つい興が乗ったと斬りかかられかねない。それ故に、危険であった。
セレーネのことが嫌いな訳ではないが、狂った剣鬼なのも含めて彼女だ。その点に関してはシラノも譲る気はなかった。
「今日のアレも……先輩は甘いんスよ、セレーネに」
「だってシラノくんが甘えてくれないんだもん」
「……」
「だってシラノくんが甘えてくれないんだもん」
「……聞こえてますから。二度も言わないでください」
何か咎めるような目線をフローが向けてくるのを、咳ばらいをして噛み殺す。
じぃーっと眺められるが、首の裏を掻いて努めて無視。今すべきは修行である。自称・姉を甘やかすだけのお時間ではない。
さて、と右蜻蛉をとろうとすれば――何故だかフローは急に頬を緩めて、やけに上機嫌になり始めているではないか。
「ふーん? でも、じゃあボクと二人っきりだねー」
「……うす」
「ふふーん。お姉ちゃんと二人っきりだねー。久しぶりだねー。シラノくんとフローお姉ちゃんが二人っきりだねー」
「……」
「二人っきりだねー。ここにいるのはお姉ちゃんだねー」
「……なんスかその手は」
にこにこと揺れる黒の三つ編みと、目一杯に広げられた両手。
なんというか……。キリストは磔刑に処されたのち、これから脇腹を槍で突かれます――的なポーズであった。
「『甘えていいよ?』って」
「いらねーっス」
「……『甘えていいよ?』って」
「いらねーっス」
「うぇぇ……『甘えていいよ?』って……」
「いらねーっス。……それより厳しめにお願いします、修行にならないんで」
すごく打ちひしがれた目をされたが、ここは拳を握って耐えた。
修行なのである。機会を見つけて技を磨かねば、いずれ切り倒されるのはシラノの方だ。それが次とも限らない。
死んでしまっては遅い――故に、生きている間に鍛えるのである。
向かい合ったのは、シラノ一人を丸呑みに収めてなお余るほどの太さの巨木。
かなりの樹齢であろう。それを相手に技を試すというのは申し訳ない心地になるが、心中で詫びた。こちらも生きるためだ。決して遊びではないのだから。
スゥ――と膨らますは肺。広げるは臍。己が肉体に僅かに緊張が満ちるのを感じつつ瞼を一つ。
そして、
「イアーッ!」
「うぇっ!?」
膝を進め、爪先で食い縛る。叩きつけたそこで、弾けるは紫色の刀身――白神一刀流・零ノ太刀“唯能・颪”。自ら砕いた刀身という刀身から複合的に触手抜刀を重ね合わせる荒業である。
強烈な反動を赫き右腕で抑え殺し、見やったそこから立ち昇るのは粉塵。五つ重ねた斬撃は、その樹木を袈裟に叩き斬っていた。
むしろ、砕き飛ばしたと言うべきか。極超音速の斬撃は木の内で暴れまわり、その運動力と慣性力で出口となる向こう側を激しく砕き散らしていた。
「どうスか?」
「うーん……すごいね。すごい音だねぇ……そこで噴火とか爆発とかが起こってるみたいだよ。シラノくん、本当にすごいなぁ……」
「うす。ありがとうございます」
頭を下げ――とはいえフローにもできることだ。
今まで理屈がなかっただけであり、シラノにできることは当然にして師であるフローにできぬ筈がない。むしろその才能の差を思えば、彼女の方がより破壊力のある一撃を放てても不思議ではない。
……反動という問題は付き纏うが。
「それで、これがどうしたんだい? やっぱりシラノくんはすごいなぁ……って思うけど」
「いえ……。これ、もう少し工夫ができないかと思って……こっちも――――イアーッ!」
平らに寝かせた刀身から放つ平突き――“唯能・襲”こと触手三段突き。
三段に加速するその先端が、大樹の幹を砕き穿った。
反動で腕が痺れる。戦闘の高揚に身を任せてなければ、しばらく右手で物を持とうという気にはならないであろう。
改めて触手の右手というのには頭が下がる思いだった。気さえ保てれば、剣を振るい続けられるのだ。
「でも……どうしたって限界があるんスよね、これ。斬り離せる数にも……反動にも……」
「うん……そうだね。まず数の話だけど……人によっては細かくて見えないかもしれないけど、触手には節があるんだ。基本的にはここで切り離すんだよ?」
「節?」
す、とフローが手を上げるのに合わせて中空から触手が蠢き出た。
シラノのそれよりも二回りや三回りも小さなそれは、殆ど赤ん坊の腕ほどの太さである。細いな、と改めて眺める。その分速いのであろうか。
そして指差されるのに合わせて見れば、確かに微妙に節のようなものがある。ここを、自切の機としているらしい。
「節がいっぱいあるほど細かい動きができるんだ。凄い人はもう、節自体ないんだよ?」
「なるほど……先輩もかなり細かいですね。すごいです」
「そうだろー? そうだろぉー? だってボクはお姉ちゃんだもんなー。師匠だもんなー」
「うす」
そして、自分の持つ太刀を見た。
オオムラサキ――前世の国蝶の羽めいた光沢ある極紫色の刃。そこに走っているのは僅かな線だ。
鍔近くと反りの部分、切っ先の部分……多くて四つか三つほど。フローの言葉に従うなら、精密さはとても期待できそうにない塩梅である。
「……とは言っても、わりと途中から切り離したり亀裂を作ったりしてたんすけど」
「うぇぇぇぇ!? 駄目だよシラノくん! それだと効率も悪いし、前にボク言ったよね!? これはシラノくんの精神の形でもあるんだよ!? 無理矢理切り離すなんてよくないんだよ!?」
「うす」
「駄目じゃないか! 本当に……本当に良くないんだからね? いい? 節以外の場所は駄目だよ? ぜったいダメだよ!? お姉ちゃん怒るからね!?」
「……うす」
言わば、曲がる筈のない関節を無理に曲げようとしているか。動く筈のない方向に動かそうとしているか。そのようなものらしい。
案外、頭痛の原因もその辺りにあるのかと思い――
「……ってなると、この節の数じゃ刀身自体を長くするか……分厚く大きくするしかねぇか」
更なる威力を求めるなら、それしかない。
しかし――それで使えるのか。現状の長さですら、かなり限界に近い。振り回すにはもっと筋力が求められる。
それこそアレクサンドの如き頑強な体躯ならどうにかなるだろうが……生憎、こちらに来てから本格的に鍛え初めてまだ浅い。筋肉らしい筋肉がつくには、まだ時間が必要だろう。
家で木こりの真似事をやっていなければ、足腰ももっと弱かった筈だ。
「うんうん。さて、そこで大事になるのは何かな? ほら、あったよね? 何本も重ねて合わせて力を集めて、引き締めて千切れなくしたり折れなくしたりするの……あったよね?」
「ええと……五ノ太刀“矢重”ですか?」
「そうそう! 数本分の触手の力を束ねられるから、きっとものすごく強くなるよ? そう、名前の由来の通りにね!」
「名前の由来――」
ううむ、と僅かに考え、
「一本の矢が通じない相手でも、千本の矢を重ね続ければいずれ死ぬから“矢重”……巨象も落とし穴に嵌めて投槍し続ければ死ぬ、犬を囲んで棒で叩けば死ぬっていう――」
「そんなこと一言も教えてないよ!? どうしてシラノくんはそんなに物騒なのさぁ!?」
「……すみません」
間違えた。
冷静に考えれば、毛利家のあれだ。矢を合わせるアレ。三人寄れば――という奴である。あまりにも基礎的なので忘れていた。
「……なるほど。確かに、本当はそんな使い方でしたね」
「そうだよ? というかシラノくんはどう使おうとしてたのさ」
「いや……敵の前で悠長に触手を合わせてる暇はないと思ったんで……。引きつけ合って合わさろうという力があるから、こう……それで敵を挟み殺したり」
「挟み殺す」
「あとは巻きつけてから絞め折ったり」
「絞め折る」
「他はこう……縛り上げて折り砕いたりっスかね」
「折り砕く」
それこそが白神一刀流――五ノ太刀“矢重・戮”。
合一しようとする触手同士の引力を以って、その間に敵を挟みこみ行動を封じる。或いは関節を折り砕く。極める。
純粋な剣に関わる技ではなく、敵を無力化する為の活法だ。名前とは裏腹に、いわゆる不殺の技であった。
「なんでキミはそう物騒なのさぁ……」
「物騒じゃないです。人道的な技です」
「何が人道的なんだよぉ……挟み殺すって言ってるじゃないかぁ……」
「比喩っス」
一ノ太刀“身卜”と合わせたなら、縛った傍から関節同士を逆向きに引きつけ合わせて折ることが可能となる。そうすれば、無駄な争いも避けられるということだ。
やはり剣を志しているが、殺人というのはよくない。死んだら終わりなのだ。敵にしても、味方にしても……だ。
「確かに……五ノ太刀か。これなら、長さは増やさなくてもやっていける、か」
「そうだよ? 集めた分、力が増えるんだ! ふふん、シラノくんみたいに直接斬りつけるだけが触手の技じゃないからね! ……というか、触手の技に斬りつけるのは普通あんまりないんだけどね」
「……」
「それにしても……えへへー、どうだい? ボクは頼りになる師匠かい? 素晴らしい先輩かい? 理想のお姉ちゃんかい? どうかなどうかな? どうかなシラノくん?」
「いつだって俺にとってはそうっスよ。……そうか。今度は触手を触手として使う、か」
かつて、触手の技を捨てた。触手を触手としてではなく、剣技として使うことに決めた。
だが、この間の戦いで改めて分かった。己は剣豪ではなく触手剣豪なのだ。触手を触手としても扱い、また剣としても扱う――そんな次元に足を踏み入れるべき時期なのかもしれない。
ふむ、と顔を上げる。
無論、単に力を収集させただけでは増した反動に耐えきれないだろう。それでは逆に威力が死ぬ。まだ課題も多く改善点があるという訳だが――
(やれるだけはやれる。……だったら、やるとこまでやるしかねぇよな)
ぐ、と拳を握る。
努力は苦手であるが、行先が判っている。すべきことも判っている。その手掛かりもある。ならば――その目標に向かって進むしかない。単純な理屈であった。
前世から引きずる甘ったれた価値観では通用しない場面もきっとあるだろう。追い詰められることもまだあるだろう。そんなときの為に、磨くのだ。剣を。
それだけが己の頼りとなる。己は――触手剣豪なのだ。
「うぇぇぇぇぇ……」
「どうしたんスか、先輩」
「うぇぇぇ……なんでもないよ。えへへへ……えへへへへへへ、ふえへへへへへ……えへへー。えへへへへー。そっかぁー、そっかぁー……えへへへへへへ」
「……なんスか。拾い食いだけはしないでくださいよ?」
生憎と解毒薬は持っていない。その辺りも買っておいた方がいいか、とふと思った。
そのまま暫く、五ノ太刀“矢重”にて強化した刀身を振るう。
“無方”による合一と大きく違うのは体積だ。“無方”では溶かして混ぜ合わせる為に触手が大きくなる。だが、“矢重”では体積は変わらない。凝縮されて密度が増すという訳だ。
本来の触手の技では、その際の合一の余剰となる液体を各種の特殊液に変換して噴射させたり気化させたりして使うらしいが、生憎とシラノにその権能はない。
それ故にこれまで軽視していたが――
「イアーッ!」
二つ合わせにした触手刀が、霧を放ちながら木の幹に打ち込まれる。
これぞ、百神一刀流・五ノ太刀“矢重・霞”。合一の際の余剰な水分を蒸気として放出し敵の目を惑わせる必殺剣である。
これを切っ先から放てば多少の目晦ましになるか――それとも自顕流とはどのみち喰い合わせが悪いか。少し思いついたところでままならないのが武術だ。
何年も伝わってきて洗練された技というのは、それだけに余分が付け入る余地がない。大抵、「もうとっくにやったよ」の領域に入ってしまうのだ。
「あ、そうだ!」
「なんスか、先輩?」
「シラノくん、敵の目の前で触手を合わせてる暇がないって言ったろう?」
「まぁ……場合にもよりますけど。今まではそのつもりでしたね」
触手野太刀を作る為に“無方”で合一させて、更にそこに“矢重”での合一を図る。そんな暇は、敵も見逃してはくれないであろう。
「ほら、だったら……どうせなら予め作ったままで置けばいいんだよ! ほら、それなら予め凄い強い触手の剣を作っておけるよ?」
実に名案だと笑いかけられるが――
「……すみません。その、頭痛があるから……あまり長くは……」
「あっ」
「少しずつは馴染ませるように使い続けてるんスけど……寝てる時なんかでも使ってんのもそれですし……ただやっぱり、急には上手くいかなくて……」
生憎だと眉間に皺を寄せた。
結局のところ、頭痛の原因は持続力――と置き換えてもいいだろう。激しく生み出し続ければその分消耗し、数多く生み出しても消耗する。たとえ一本であっても、出し続ければ負担となる。
その点、召喚陣だけを展開する“帯域”はマシであったが――果たしてそんな負担で本当に触手の術の練習になるのかというと、また困ったところである。
「すみません……こんな弟子で……」
「い、いいんだよシラノくん! ボクだってちゃんと使えるようになるまで時間はかかったし、ほら、大丈夫! ボクが面倒を見てあげるから! お姉ちゃんがシラノくんを一人にしないから! ね? ねっ?」
「……うす。一日も早く精進します」
「なんで一日も早くとか言うのさぁ……」
「そうスね。一刻も早く精進します」
「なんでそうなるのさぁ……」
「先輩にあまり迷惑はかけられないんで」
誰かの足を引っ張るのはごめんだ。男の子なのだ。剣豪なのだ。
その後も、同一からの斬撃をひたすらに続ける。一旦は二刀流として二本抜き、右腕だけを掲げて構えたその柄尻へ改めて左の切っ先を挿入する――そんな方法が現実的だろうか。
そう、幾度となく技を行っていれば疲労も増える。制動を司る右腕の関節に痛みを覚えた辺りで、小休止として剣を消した。
いくら冬と言ってもやはり暑い。本当は身体を冷やすべきではないがと思いつつ――肩を肌蹴けて諸肌を晒した時であった。
「うぇっ!? シ、シラノくん!?」
「……あ、す、すみません。申し訳ないっス……目の前で失礼しました」
女性の前であった。素振りは普段一人で行っている為に、どうにも忘れてしまったらしい。
「う、ううん!? いいよいいよ!? お姉ちゃんだから気にしないよ!? 別にやっぱりシラノくんを触手で縛ったらすっごく似合うだろうなぁ――とか思ってないよ!?」
「……」
「思ってないっていってるじゃないかぁ! なんだよその目はぁ! ボクは師匠だぞ!? 先輩だぞ!? お姉ちゃんなんだぞ!?」
「……うす」
服を直して距離をとった。
忘れていたがフローも初対面の人間を触手で縛り上げるような人だった。
ちょっと裾を握り締めた。世の女性はひょっとして男からこんな目を向けられているのだろうか。そう思うと凄い。尊敬する。もう少し敬うべきなのかもしれない。
一方のシラノはというと――まぁ、実害はないし構わないかという結論に至った。
ボリボリと後頭部を掻く、そんな時だった。
「それにしても……シラノくんさ。傷……いっぱい、あるね」
「ああ……そうですね、確かに」
まずは、右腕が一本丸ごと。触手抜刀の際に作られた傷。
喉元に斜めに走った剣閃――これはセレーネから受けたもの。背中側にも存分に切り刻まれた痕も、同じくセレーネから。
右の肺を丸ごとと、左の胸の下。腹部の辺りをごっそりと貫かれた痕――これはリアムだ。
左の二の腕の傷。肩口に脇腹、胴体を斜めに横切る線――これは邪教徒と争うようになってから。
あとは、右眼か。刺し貫かれたそこは僅かに海賊傷のようにもなり、虹彩が赤く染まっている。
全てがフローの触手に置き換えられていた。結果として火傷でも負った肌のように赤くなっていた。彼女の触手は赤いのだ。
「まぁ……。そうでもなきゃ、勝てないんで……いえ、それでも勝ててるんで」
「……」
「いや、違うな……それだから勝ててるとも言いますかね。この場合は」
「……そっか」
「そっスよ。……勲章だと思うことにしました」
失ったことを嘆いて元通りになるならいくらでもそうしただろうが、そうしたところで傷は消えない。
それに、悪いことばかりではない。これのおかげで拾った命もあるのだ。
そう思えば、純粋に自分の肉体でないと言っても――たとえ触手交じりの身体と言っても嫌う理由はなかった。これは生きようとした証で、フローがシラノを生かしてくれようとした証なのだ。
こちらの世界の母には少し詫びる気持ちだった。折角貰った身体を、損ねてしまっている。そう思うと少し立つ瀬がない。
(……まぁ、今更か。一度は死んでんだしな、俺)
それも前世の話だ。今更特に悔やんだところで取り返せるとも思わないし、取り返そうとも思わない。
ただ――こちらで見つけた道の為に、進むと決めた道の為に歩く。シラノにできるのはそれだけだ。道を歩ききるまでは、止まってはならないだけだ。
やれやれ、と息を吐いた。今の自分は触手剣豪のシラノ・ア・ロー。それ以上でも以下でもないのだから。
何度も簡単に殺される趣味はないし、まだ死ぬ訳にはいかない。その為にこうして、剣の研鑽を積もうとしているのだ。
「ねぇ、シラノくん」
「はい?」
「そ、そのさ……や、やっぱりさ……やっぱりもう――」
「先輩?」
振り向いた先で、フローの様子がおかしかった。
眉を寄せて、怪訝な様子で彼女を見る。そうしていると、何かを言おうと上げた顔が俯きがちになっていく。
「え、えと……その……」
「……どうしたんですか? どこか、痛めましたか? 大丈夫ですか? その……街まで身体はもちますか? おぶりますか?」
「……う、ううん。なんでもない。なんでもないんだ……。ボクは大丈夫だよ! ボクが痛いわけじゃないんだから……ボクは別に……」
「うす。……判りました。でも、なんかあったらすぐ言ってくださいね。切り上げますから」
「うん……そうだね。そうだね、シラノくん……」
フローはまた、なんでもないと笑った。
彼女がそう言うならそうなのだろう。いや――そう言おうとしているなら、自分などが踏み込むべきではないのだろう。
僅かに考え、蜻蛉をとった。シラノにできることは、ただ明日死なぬ為に今日一刀でも多く振るうことだけだ――――。
――〈言葉にはきっと、神様以上の力を籠められるわ〉。
……ふと、手を止める。
剣先を下ろしながら、背を向けたまま、言った。
「……大丈夫です、先輩」
「シラノくん?」
「俺はまだ死ねません。生きるつもりだから……その為に戦っているから、怪我をしてるんです」
「シラノくん……」
「いや……その、まぁ、死ぬ予定はないです。死にたくもないですし、まだ先輩との何の約束も果たせてないんで……」
「……」
「その……大丈夫っスよ、ちゃんと俺は最後までやりますから」
「……」
そうだ。フローとの約束がある。
剣に誓ったのだ。触手使いの印象を改めてみせると。
そして、エルマリカとの約束もある。アネットにだって約束した。助けると――ならばまだここで止まる訳にはいかない。
それに、一度は死んだ身。二度目も何もできずに死ぬなどは御免である。ましてや、やすやすと殺される趣味などない。
この世界でまだ見てないことも沢山あるのだ。
母にだって、言われた。
(『わたしたちは皆、産まれるときに何かの使命を与えられてくるの』『だから私利私欲の為に力を使ってはならないのよ』――か。あのときは、まだ触手は知らなかったけど……)
天命。あるとするなら、それは力を持たぬものの為に力を振るうことだ。
当たり前のものを願う人が虐げられる。明日を望む気持ちが踏み躙られる。ごく普通の幸せや、輝く筈の夢が奪われる。
そんなことを、決して許してはならない。それだけには絶対に迎合してはならない。誰が許そうとも、シラノ・ア・ローは許してはならない。
立ち向かうのだ。この剣と身体で。
力があるならば、そんな力のないものの為に使う。数や力で人に絶望を与えんとするものを払う為に使う。
それでこそ、人を超えた力には――剣には存在の意味がある。
「イアーッ!」
それ以上フローから声がかからないことを確認し、巨木に向かい合う。より強き一太刀。編み出さねばならぬのだ。
幹を叩いた剣を素早く左に掲げ直す。あとは体力が尽きるまで打つだけだ。
一日にしてローマはできない。無数の一太刀の屍の上に、より強き一太刀は乗るのである。近道はない。
そう思い振り被らんとしたところで、
「あれ?」
茂みが揺れて、踊る炎髪。狼の毛皮を被った未亡人めいたドレスの少女――アンセラがひょっこりと首を出した。
どう見てもアンセラだ。…………アンセラ? アンセラなんで?
「あんた何してるの? ……あ、フローさんまで。じゃあ、変なことじゃないか……」
「俺をなんだと思ってんスかね」
一人だと変なことをすると思われる男。
不本意である。シラノは不審者ではなく剣豪なのだ。それも触手剣豪である。ただの剣士だと非人道的行為を行うかもしれないが、シラノは触手剣豪なので違う。
「あ。アンセラさん、どうしたんだい?」
「えーっと、あたしはちょっと仕事で……フローさんはどうしたんですか?」
「ボク? ボクはね、シラノくんの修行だよ! シラノくん、どうしてもお姉ちゃんがいないとダメだ――って。お姉ちゃんと一緒にいたい――って」
「言ってねえっス」
「へぇー? へぇー、そうなんだぁー? そうなのねぇー?」
「言ってねえ。……なんだよその目は」
ニヤニヤと意味深な笑みを浮かべられる。不本意である。
真面目に修行をしにきているのだ。誤解は良くない。変な勘繰りをされると少し腹が立ってくるし、フローに対しても失礼である。
思わず鯉口を切りそうになるのを抑えて――というか刀は既に抜き身だ――吐息を吐き、身体を沈めた。
足音と金属音。近付いている。それに複数ある。
「先輩、こっちに……」
フローを背に庇った、そんな時だった。
「アンセラ嬢! その、もう少し待っていただけるとありがたいんだが! 重いんだが! 我々は鎧なんだが!」
がさりと茂みを掻き分けて現れた精悍な男。
青の入り交じる茶髪を短髪に整えて額を出した男が、肩に槍を担いだ男が、胸当てと手甲を纏った男が汗を流している。
見れば、その後ろにも同じような格好の男たちが十数人いる。
どうやら――――何か始まるらしい。




