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第三十七話 アイドルズ・ネヴァーモア・リグレット・カワイイ その六


「フゥー……」


 シラノのそれは――余人からすれば奇矯な構えであった。

 右手を長剣の鍔元で握り、そして離れた柄頭を左手で絞りつつ、伸ばしきった右肘のあたりに当て合わせた奇妙な(くらい)

 剣の重さに仰け反らぬ為にその刀身は天めがけて真っ直ぐに立ち、そして使い手は勢いを籠める為に足を全て爪先立ち。前に踏み出したるは右足だ。

 たとえ言語が通じぬとて、その異様を見れば息を飲むだろう。

 これなるは二の太刀要らずの必殺剣。

 名を薬丸自顕流"蜻蛉"――いわゆる右蜻蛉であった。


 こちらの世界で、正式に師をとって学んだわけではない。

 だが、数々の死地の果て――シラノのそれは、一定の練度に達していた。


「へへ、楽しい口上だねえ……『ウルウェヌスの単騎駆け』かい? ああ、いいねぇ……そいつぁいい。おれも大好きさ」

「……これから、上演される。あの人たちが演じるんだ。あなたは観に行かないのか」

「ん、ああ――なんだい。それだったら今日はそっちにいくべきだったかねぇ、まったく……。味方する相手を間違えたかな?」


 大股で八歩の向こうに立つ男がだらしなく頬を崩した。そして、辺りの邪教徒を見回す。

 奇怪な立ち振る舞いの男だ。普通ならば警戒に値する外見ではない筈なのに、ひとたび剣を抜き戦いに臨めば誰もが呑まれていた。あの、口だけは偉そうな邪教の輩すらも同じである。

 男は肩に担ぐように剣を構えた。左肩を前に出した半身の型。長い刀身が男の身体に、すっかりと隠されてしまっていた。


「おれはあれが好きなのさ……斬ってもいい理由をあんだけ並べられる戦場なんて、心が躍る。きっと最高に気持ちがいい殺しができる。たまらないね……ああ在りたいものだ」

「……」

「ああ……ま、そう考えれば勘定が合う。整わない場で兄さんを斬った後、楽しく劇でも見物させてもらうか。それで今日の分は、ま、ちょうどいいだろうねぇ」

「……そんな血なまぐさいものを、ジゼルさんたちの前には出させねえ」


 スゥ、と息を絞った。

 やはり、分かり合えぬ。この男はその足で、ジゼルたちをも斬り殺すであろう。剣鬼というのはそういうものだ。


「はっ……な、なにをしてる! おい、囲め!」

「あ、ああ!」


 剣を手にした男たちが、魔剣使いの横から展開を始める。

 一瞬、剣鬼の気が削がれる――そこが契機だった。


「イィィィィイィィィィアァァァ――――――――ッ!」


 叫び、そして爪先で地を押した。こここそ契機。こここそ時勢。こここそ正に死地なり。

 上げる発声(シャウト)で邪教徒の気勢を削ぎ、一直線に目指すは魔剣士。この場で、最も優れた暴力を手にした男。右蜻蛉のまま、シラノは真っ直ぐに男目掛けて石畳を蹴る。

 男が嗤った。長大な刀身を隠す油断ならぬ構え。だが必然、その剣は遅く、そして技も限られる。

 駆け寄り打ちかかることの意義は一つ。それは、相手に間合いの理を与えないことだ。猛烈に動き迫りくるものを前にする時、待つ側の剣は不利となる。

 放つべき場所を見誤れば命を断てぬ一撃に。待ちすぎれば飲み込まれ、早すぎれば空を斬る。

 故にこそ、純粋なる使い手として劣るシラノにはこの野太刀(のだち)自顕(じげん)流が最適の解であった。


「――――」


 だが、だがしかし。

 既に百戦錬磨か――――磨き抜かれた一閃が、機会を外さず横一文字にシラノへと襲い来た。

 否、否である。男は左肩を向けたまま構えを崩さず。だが、だというのにシラノへと斬撃が襲いかかったのだ。それも、()()()()()()()()()。構えからの逆の太刀。

 瞬間――――魂が叫ぶ。右腕が呼応した。滾る紫電。赫腕から迸る電撃は柄を伝い、〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉の刀身で唸った。

 打ち付ける雨に弾けた電撃が、魔剣使いの目を晦ませる。


「イアーッ!」


 即時――転身。爪先が石畳を掴み、斜めに地を蹴った。襲いくる剣を右へ弾き、死から逃れるように歩を進めた。

 目指すは邪教徒。一人呑む。肩で跳ね飛ばし、己への包囲を食い破った。

 そしてすぐさま地を踏みしめ、転換。突き破ったばかりの囲みへ喰らい戻る。


「イアーッ!」


 電撃を纏う〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉で、一人をすれ違いに薙ぎ倒す。高電圧に発せられた電撃は、たとえ剣の柄を伝って減衰したところで人を落とすには十分。

 魔剣使いをこれで倒せるとは思えぬ。不可解な剣閃――そんな油断ならぬ奴が立て直すまでに、その周りの雑音 を削ぐのだ。


「イアーッ!」

「な、なんだコイツ……ひっ」

「イアーッ!」


 剣を振るう。紫電が弾け、敵が倒れる。散々に食い掛り、食い荒らす。

 餓狼めいたシラノの攻勢は、次々に邪教徒を昏倒に落とし込んだ。雨音を猿叫が破り、その度に一人また一人と打ち倒される。

 男たちの握る直剣。脇腹に、受けた。二つ、肩を掠める。だが止まらず、合計五人を食い倒した。

 弾む息を整えて、男たちを睨みつける。魔剣使いの男は――辺りを見回し、実に愉快そうに嗤いを零した。


「まるで狼王だなぁ、お兄さんは……。はは、これで八人か……ここまでされて相手を斬らねえってなると、おれも面目が立たねえなあ。あァ――だからこれは仕方ない、ってやつだねぇ」

「……今のは、わざとか」

「いいや? してやられたのは本当さ。あのまま胸に突きこまれたら死んでいたねぇ……はは、たまらないねぇ。危ないやつだ。こりゃあ、殺さずに済ませるのは無理だなぁ」


 いびつな笑みであった。

 濁った目と、歪んだ頬。男は理由をつけて、殺人を愉しんでいた。

 構えのまま、シラノに向き合う。邪教徒たちは囲もうとしながらも、突撃が効いたのか――その動きは鈍りがちである。


「……そんなに、愉しいのか」

「あァ……うちはちっぽけな羊飼いの一家だったがね、うちの爺さんはべらぼうに狼狩りが上手くてなぁ……おれも色々と学ばせて貰ったもんさ。……なあ、何が一番大切だと思う?」

「……」

「つれないねえ……大切なのは“お互いが生きる為にやってる”ってことさ。本気なんだよ。やるか、やられるかってな」


 黙するシラノに構わず、男は更に頬を盛り上げる。

 三日月の笑み。その縁を、歪んで雨垂れが伝う。


「恨みっこなしさ。お互い命懸けなんだ……だから爺さんが殺られたときも、おれは恨まなかったね。ただ――遣り手の爺さんがやられたんだ。となれば、おれが狼と戦うことも……仕方ねえだろう?」

「……何が言いたい?」

()()()()()()()って話さ。だから理由が必要だ……理由がねえと、気持ちよくなれねえもんなァ……!」


 くつくつと男が笑う。異常者だ。彼は狂っていた。


「リウドルフ・ア・ナーデ……〈石花の杭剣(カレドヴールフ)〉、斬るぜ」

「白神一刀流のシラノ・ア・ロー。剣は我が友リアムの〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉」


 降り注ぐ雨の下で、二人の男が向き合った。

 互いに握るは一振りの魔剣。景色が雨垂れに白く霞む中――それでも確たる己を示さんと輝く鏡面の如き直剣と、対するは鈍く濁って視野の一角を塗り潰す直剣。

 指先までを伸ばした腕一本に相当する刀身を持つ〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉は、元来片手剣ながらも両手でも扱える言わば半両手剣の特性を持つ。

 対する〈石花の杭剣(カレドヴールフ)〉はすらりと長い細身の両手剣であった。石くれで作った槍めいて鋭く飾り気のないしなやかさを持つ。

 互いに呼吸を鎮めながら、一歩。


「――あぁ、その頭と革を飾ってやる……!」

「――魔剣、断つべし!」


 いざや、魔剣同士の死合である――。



 ◇ ◆ ◇



 会場の熱気が冷めやらぬ中、汗を浮かべる彼女たちはやり遂げた笑顔を浮かべていた。

 まずは第一演目は悪くなかった。悲劇を喜劇的に仕立てた話であったが、だからこそ観客たちの感情を揺さぶった。会場に満ちていた笑顔を思えば大成功であろう。

 竜の巫女(メルシナ)――主役をやり遂げたシグネは、ジゼルたちに肩を抱えられながらも自然な笑みを零した。

 初めての主役で、初めての大歓声。女優としてのシグネは、今まさに本当の一歩を踏み出したと言っていい。

 だからこそ、


「……シラノ、いなかったね」


 シグネはぽつりと漏らした。

 短かったが、決して少なくない時間を共にしたのだ。胸に障らないと言えば、嘘になった。

 だが、すぐさま口を尖らせたのはイングリッドである。


「知らないよ、あんな奴……みんなのこと、先輩のことを騙してて……それがバレたと思ったらみんなの前から姿を消して――そんなやつなんて」

「イングリッド……」

「あんまりにも普通な音だったから、騙されちゃったけど……きっとあいつはそんな風に人を騙すことを何とも思ってないんだ」

「……」

「そんな極悪人なんだよ、あいつ……きっとまた、今頃は誰かを騙して傷つけようとしてる……そうに、違いないんだ……!」


 悔しげに拳を握るイングリッドの前で、だが、シグネはぽつりと漏らした。


「本当に、そうなのかなぁ……」

「シグネちゃん?」

「だって、ぼくたちのことを守ってくれたんだよ? 一人で、みんなを守る為に戦ってくれたんだよ?」

「――っ、そんなことない! あたしは知ってる! 騙すやつの中には、そういう奴もいる! あんな風に後ろめたさが無いやつもいるんだってば! シグネちゃんが知らないだけで!」

「あぅ……」


 剣幕に圧された。

 特異な体質のイングリッドにそう言われてしまうと、何も言い返せる言葉はない。見てきたものが、文字通り違うのだ。

 唸るようなイングリッドと、俯き加減のシグネ。そんな二人の間に入ったのはやはりジゼルであった。


「なーに揉めてんのよ、アンタたち。しゃんとしなさいな!」

「ジゼル……」

「先輩……」

「どうにも弛んでるみたいね……さぁ、ジゼル様の女優の鉄則よ! 言いなさいな! 復唱!」


 立てられた指が、有無を言わさずと二人に突きつけられた。


「えぇと……幸せを見逃さずに感じること……」

「んーと、それを観客に届けること……」

「そして、何よりも自分という人生を楽しむことよ! それがあたしたちの人生の秘訣! いい? まだ舞台は続いてるのよ! 忘れんじゃないわよ!」


 ジゼルの強い笑顔に押されて、二人はまた舞台に向かう。

 そう。幕は上がったばかりだ。

 舞台(ショウ)は、続いているのだ――――。



 ◇ ◆ ◇



 瞬間、だった。

 瞬間、駆け寄るシラノの右の視界が失せた。打ち掛かる己の右眼が灼熱に代わり、右の半分の視野が閉ざされた。

 何を、と思うまでもない。

 それと全く同時に、振り下ろした筈の刀身が右から叩かれ――その剣閃を殺されていた。剣が泳ぎ空を斬り、振り下ろした己は死に体となる。

 そして――リウドルフは待たず。

 右足の踏み込みと共に繰り出された〈石花の杭剣(カレドヴールフ)〉の横薙ぎの一閃が、死神の一撃として左からシラノの頭部目掛けて迫りくる。

 あっけない最期であった。これが立ち会い。これが死合。ほんの瞬きの一幕で、それまでの十余年の生が奪われる。火花の如く、散るのだ。命が。


「――」


 ――否、否、否だ。

 ここが死地だ。ここが死線だ。死を見極めろ。死を恐れよ。だが、死に怯えるな。死から目を逸らすな。

 ここは死地だ。だが、まだ死ではない。

 胸中の魂の咆哮に肉体が呼応した。肉体――肉体となった赫き触手。腹と胸の半ばから放たれた電撃が筋肉を強制的に収縮させ、そしてシラノの頭は迫る刃を潜った。

 あまりに常人離れした挙動。常なる剣豪では決して行えぬその動作。本来不可能なその回避を以って、不可避の死線を潜り抜けた。

 そのまま地で転がり距離をとる。潰された右眼の熱が、そこで初めてどうしようもない痛みとして襲い掛かった。


「ぐ、ぅぅぅ……」


 穿たれた右眼、そして無事の左目から熱い涙が流れ出す。奥歯を噛み締めて己を奮い立たせなければ、その殴りつける衝撃的な痛みに蹲り、或いは意識を手放していただろう。

 目元から血と涙を滲ませ、それでもシラノは剣を執った。左蜻蛉――頭の左側で刀身を立てる位である。その喉元を、右腕が覆い隠す形だ。


「へへ、まだ構えるかい。いいねぇ……本当にお兄さんは狼みたいだ。手負いってのが酷く似合う……手負いでも折れねえってのが、あんたにはよく似合ってるよ」

「ぐ、ぅ……お前、は……!」

「ああ、たまらないねえ……その目。野生のケダモノと一緒だ。死ぬことを意識しながらも最期のその瞬間まで生きようとする……あァ、あんたって男はすげえ奇麗だ。その毛皮を是非ともおれのものにしてえ」


 肩息を吐くシラノの前で、男は恍惚とそう漏らした。

 狂人め。その狂った刃は、シラノが倒れれば寸暇なくジゼルたちに向かうはずだ。その時は今と同じように笑いながら、ジゼルたちを殺すだろう。

 それだけは許してはならない――その一心で腹の底から空気を吐き出し、そして柄を握る指に力を込めた。

 片目だけでの視界では間合いが分からぬ。セレーネほどの剣鬼ならばそれは何の痛苦にもならぬが、しかしたった今右眼を失ったばかりのシラノでは慣れる筈もない。

 剣士としての絶体絶命――当然、リウドルフも判っているのだろう。頬を歪めて、笑いかけた。


「なぁ、狼のお兄さん。あんた……寂しくないかね? 誰もあんたを見ちゃくれない。誰もあんたの最期を見届けちゃくれず、このまま雨の中で死ぬんだぜ?」

「……」

「寂しいよなぁ、狼って奴は。羊とは一緒に居られないんだ。だからここで一人、あんたは死ぬ。そして、おれだけがあんたの死に様を見極めてやるのさ。……寂しいだろう? 看取って欲しいだろう?」


 挑発し、或いは悔恨させるような口調であった。

 たまらない愉悦だと嗤うリウドルフを前に、だが、シラノは決断的に言い切った。


「……俺は見られたいんじゃない。見たいだけだ」

「ほう、何をだい?」

彼女(ジゼル)たちの(ゆめ)を……その笑顔が叶うときを」


 スゥ、と息を吸った。

 忘れるな――己は剣豪ではない。触手剣豪だ。触手こそ呼べぬが、この身は触手使いである。

 あの落下事故の最中、触手の技を使った。だが、ジゼルは無事だった。彼女に影響はなかった。つまり――まだ、触手剣豪としてのシラノ・ア・ローは死んではいない。

 故に、シラノ・ア・ローは負けない。シラノは脆弱な人間かもしれない――だが、


「なら、おれに勝たないと見れないよなぁ?」

「ああ。――白神一刀流に、敗北の二字はねえ……!」


 触手の技は不敗である。

 ならば、触手剣豪のシラノが敗れるわけにはいかないのだ。



 向かい合った姿勢から地を蹴ったのはシラノである。

 間合いは判らぬ。ただ、向かうだけ。手前で剣を放てば空を切り、そして刀身で上を行くリウドルフに斬り殺される。

 先手――先の先こそが自顕流の理合であるというのに、シラノは己が血塗れの右目にそれを完全に殺されていた。

 放つ瞬間を誤れば無残に斬り殺される。そんな位置に追い込まれたのは、他ならぬシラノの方であった。


「ふゥ――――」


 そして、男が動く。男の、魔剣が動く。

 その〈石花の杭剣(カレドヴールフ)〉が踊る。間合いで勝る不可避の魔剣が襲いかかる。

 放たれたのは三の剣閃。先ほどより多き、三の剣閃。

 シラノの右外から襲いかかる袈裟掛け。直線に繰り出される腹と胸への刺突。全くの同時――しかし、構えるリウドルフに動きはない。

 不可避の斬撃。

 数を増した剣の攻勢は、その全てがシラノの肉体へと叩き込まれ――


「イアーッ!」


 だが、止まる。肉に食い込んだ刃が止まる。

 右肩、右胸、右腹――その全てが、その全てに寄生して置き換えられた触手の一切が鋼鉄並みの強度を持った。白神一刀流・六ノ太刀“甲王(コウオウ)”――シラノは己が肉体で敵刃を押し留めたのだ。

 これこそが左蜻蛉の意味。

 剣を握る右腕で首を隠し、そして前に晒すのは右半身。かつてリアムに貫かれたその時から、心臓以外の胴体の急所は触手として置き換えられているのだ。つまり、これで受けるは不死身なり。

 そして、放たれたリウドルフの凶刃が掻き消える。

 即ちは死地。ここが死線。こここそ戦を分ける分水嶺なり――今こそ、斬り込むべし。


「イアーッ!」


 紫電を弾かせ振り抜かれた刃は、しかし――空を切った。

 リウドルフは飛びずさったのだ。

 常なる仕合であれば、後ろに退くより前に進む方が早い。だが、肉体に叩き込まれた三つの剣撃はシラノの突進を殺し、そしてリウドルフの回避を助けた。

 何よりも、リウドルフは構えた剣を放っていないのだ。

 刀身を身体に隠した奇妙な構えのまま、動いていない。ならばそれは、攻撃後の隙がないということであった。

 そして敵は待たない。円を描くようにシラノの視界――潰れた右眼に回り込もうとするリウドルフを前に、シラノも飛びずさった。

 あの不可避の剣閃。間合いにいれば、次に殺されるのはシラノである。


「……」


 ざあ、と雨が降る。

 たった今、シラノの持つ触手の技は――現状使える唯一の決まり手は、不発に終わった。

 その肉体の不思議をリウドルフは知った。ならばこそ、


「さて、残る左目を潰して光を奪って……それからあんたの首を刎ねるとしようか」

「……」

「あの大道具を受け止めた"硬化"か……今の技、知らなかったら終わってたろうねぇ……ああ、あんたはやっぱり怖いやつだ。殺さずに済ませるなんて無理ってもんだねぇ……いいねえ。すごく、キレイだ」


 同じ手は通じない。

 触手を呼べず、片目を奪われ、間合いで負け、そして隠し技も暴かれた。

 降り注ぐ雨に、シラノの肉体から伝わった血が薄れていく。路面に落ちた血液は、すぐさまに薄まって消えていく。


「あぁ……あんたを抱きしめたいねぇ。死ぬ瞬間の獲物の足掻きってのは、たまらなく股間に響くんだ」

「……俺にそんな趣味はねえ」

「そうかい? あァ――じゃあ、アンタの亡骸を抱きしめるとするかねえ」


 肺を膨らませるたびに肩が動く。

 上がった吐息と満身創痍。対するは、十二名のまだ健在な邪教徒と油断ならない魔剣使い。

 つまりこれこそ――絶体絶命の死地であった。



 ◇ ◆ ◇



 愛せない、と言われたことがある。

 こんな世界など、愛せない――と。

 そう言った。老いた母が言った。疲れた父が言った。笑わない男が言った。喋らない女が言った。

 泣き腫らす少女が、打ち破れた少年が、戦士が、領主が、騎士が、大工が、詩人が、職人が――こんな世界なんて愛せないと。

 だって骨に響く痛みは辛すぎて。

 だって肉を打つ悲しみが重すぎて。

 だから心を責める苦しみは抱えきれなくて。

 こんな世界なんて愛せないんだと、誰もが目を伏せている。耳を塞いで、口を噤んで、言いなりに諦めている。


 だから私は歌うのだ。

 私を見ろ――と。

 私だけを見ろと。私の恋を見ろと。

 他の誰でもないあなたに。他の誰でもない私から。

 他の誰かじゃなくて、他でもないあなたに。

 顔を上げろと。ここは眠らない夢だ。ここは醒めない恋だ。ここがお前の望んでいた場所だと――。


 痛みがあるならそれもいい。

 苦しみがあるならそれもいい。

 それじゃ世界を愛せないというなら、それでもいい。


 だけど、閉じていた目を開けと。塞いでいた耳を空けろと。

 何物にも負けない輝きで。何者にも劣らない歌声で。

 私は恋を歌うのだ。


 きっと誰もが目を離せない。誰も無視なんてできない。この私を見なさい、と。

 私は恋を歌うのだ。

 あなたが望んだどんなものよりも。あなたが願ったどんなことよりも。この私が支配してあげるのだ、と。

 私は恋を歌うのだ。

 つまらない現実なんかじゃない。耐えられない理想なんかじゃない。抱えていたその傷も、抱えられないその痛みも愛してあげると――謳うのだ。

 この私が。輝く私が支配してあげるのだ――と。


 だから私は歌うのだ。

 私を見ろ――と。

 私だけを見ろと。私の恋を見ろと。

 他の誰でもないあなたに。他の誰でもない私から。

 他の誰かじゃなくて、他でもないあなたに。

 顔を上げろと。ここは眠らない夢だ。ここは醒めない恋だ。ここがお前の望んでいた場所だと――。


 だから私は歌うのだ。

 私を見なさい――と。

 私だけを見て、私の恋を見なさい。

 そして私に恋をして、そして私が恋する世界に恋をしろと――そう歌う。


 今だけは私に夢中にさせてあげる。

 この場所では全てを忘れさせてあげる。

 だってここにいるのは、他の誰でもない私と、他の誰でもないあなたなのだから――と。


 私は、また世界に恋をする。

 あなたはまた、きっと世界に恋をできる。

 この世界はきっと救いようがなくて、どうしようもないとしても――でも、それでも。


 また明日まで、生きてみていいんじゃないかって。

 そう思わせる為に、私は歌っている。

 他の誰でもない私が、他の誰でもないあなたに歌っている。


 だって、それが恋なのだから――と。



 ◇ ◆ ◇



 雨脚が弱まりを見せる中、シラノは壁を背に右蜻蛉をとっていた。

 その近くには、二人の邪教徒。全身を痙攣させて呻き倒している。

 シラノは流血に歯を食い縛る。右の脇腹と左の肩口に一撃を受けた。そして、魔剣によって胴を斜めに斬り上げられていた。

 リウドルフに一切の油断や慢心はなかった。邪教徒たちが睨み合いに焦れて襲撃するのに合わせて、剣閃を放ったのだ。それがシラノの胴を裂いていた。

 その時の剣閃は四つ。

 増えていた。攻撃のたびに、魔剣の領空を飛ぶ斬撃が増える。次は五つ。まず以って、回避は不可能だろう。

 それが、〈石花の杭剣(カレドヴールフ)〉の能力。

 その刃の及ぶ制空圏――射程距離の内に好きに斬撃を生み出すのだ。その特異な構えは能力の発動の条件か。斬撃を生じさせるときは、必ず刀身を隠す構えのまま動かないでいる。

 不可避の魔剣。次に放たれてしまえば、射程に入ったシラノに成すすべはない。


「まだ諦めないのかい、お兄さん……ああ、聞くまでもないだろうって? ふふ、いいなァ――その目。今までの誰よりもいい。あんた、人を惚れさせるのが上手いねぇ」

「……」

「これで十人……ああ、いよいよ舞台は整ったねぇ。心置きなくあんたを斬れるよ。潰す前に、その目をよぉーく見ときたいねぇ」

「……その、仲間を殺すのか」

「あん?」


 シラノ目掛けて斬り込んできたのは四人。一人は〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉で黙らせ、もう一人は右の雷拳で黙らせた。

 そして残る二人は、死んでいた。その身体を盾にして隠し、リウドルフは刺突を放ったのだ。男たちは背後から貫かれる形で絶命していた。


「あん? いやほら、こいつらは害虫だからな。群れなきゃ何もできねえ……狼みたいな兄さんとはまるで真逆だ。羊が生意気にも狼を気取ってる――なら、死んでも仕方ねえだろう? 望み通り、狼みたいに死なせてやったのさ」

「……狂人が」

「お兄さんには負けるさ。……死地でそんな目をできるのは、人じゃなきゃ狼ぐらいだもんなぁ」


 八人の邪教徒は遠巻きに見ていた。

 近寄れば巻き込まれる――そう判断したのだろう。それは正しい。

 そして最早、どうでもよかった。今倒すべきはこの男……リウドルフを倒さぬ限り、シラノに先はないのだ。

 迫る五つの刃を潜り抜けて、或いは受けきって一撃を当てる――。

 この手の〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉より射程に勝る〈石花の杭剣(カレドヴールフ)〉を倒すには、許されることただそれのみ。

 或いはその外から、自在に伸びる触手の如く敵の間合いを貫くか。しかし――如何にして。


「さぁ、それじゃこの世界への見納めは済んだかい?」

「……」

「まったく……つれないねえ、お兄さんは。魔剣を使って散々楽しんだんだろう? ほら、なら同じ魔剣使いとして――せめて言い残すことはないのかい?」

「……同じ、じゃねえ」


 そうとも、シラノは触手剣豪である。

 触手の(ごう)を背負い、触手の(わざ)を磨き、その身に触手を宿した触手剣豪であった。

 常なる剣豪ではなく、触手の剣術を使うからこその触手剣豪だ。

 いや――――そうだ。


(あァ――――そうだ。俺は剣豪じゃねえ、()()()()だ……!)


 ならばこそ、その身に放てる技もある。

 閉じるは、瞼。残る左目の瞼。


「スゥー……」


 呼吸を鎮めた。

 背後は壁。真向かいには魔剣使い。そして己が握るのもまた魔剣。

 ここが死地だ――そう気を込めた。こここそが死地だ。この死線を潜り抜けねば、勝ちはない。

 目指すならば一直線。それしかできぬ。それしか知らぬ。シラノ・ア・ローにできるのは、ただ正面から敵を切り伏せることのみ。

 ならば、許されるのは前に進むことだけだ。一刀に、全てを乗せろ。


「イイィィィィィィィィイィィィィィアァァァァァ――――――ッ!」


 猿叫と共に地を蹴った。死体を跨ぎ飛び、そして目指すはリウドルフ。

 刀身を隠した構え。その左肩を前に突き出した構え。その制空圏においては、五つの剣閃が放たれる必死の間合い。

 握る〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉の、その刀身で紫電が迸る。右の赫腕に込められたフローの魔力が、シラノの指令が、電撃として剣に満ちる。

 “帯域(タイイキ)”――そして“號雨(ゴウウ)”。条件罠の召喚陣が、触手を呼ばぬ召喚陣が、電撃として間合いを知らせた。

 即ち、踏み越えたるは死線。

 瞬間、放つはただ一振りの刃――――真なる魔剣。真なる秘剣。

 いざや、


「――――――ッ」


 左の薬指で柄尻を押す。

 振り放つ勢いを受け取っている〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉が、左手に押されたその柄が、緩く握った右拳を滑らせる。鍔元を握っていた筈の拳が柄尻まで滑り行く。

 そして咄嗟、柄尻を握り締める右の指。

 その薬指と小指が柄を締め――柄に添えた中指と人差し指が、親指が、梃子の如く手の内で弄び刀身に力を送る。


「な――――」


 リウドルフが目を見開いた。

 応じた〈石花の杭剣(カレドヴールフ)〉が、中空に浮かぶ五つの斬撃が、振り下ろされる〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉の切っ先を迎え撃つ。

 否――()()()()しかできないのだ。

 刀身のその長さに、更に限界まで遠くを握った柄の長さを合わせたならば、間合いを制するのはシラノの剣。〈石花の杭剣(カレドヴールフ)〉ではシラノに致命傷を与えられない。

 そして――剣と剣、刀身と刀身の勝負ならば、


「イィィィィィィィィィアァァァァァァァ――――――――ッ!」


 シラノの“唯能(ユイノウ)(オロシ)”に耐える〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉の内の至上の一振りの硬度は、何物にも負けぬ。

 刀工が籠めた信念に、それを受け繋げたリアムの想いに、それを信じたシラノの剣に敗北はない。

 一閃。

 右手一本。一本だけで成人の膂力に匹敵する触手の膂力が、その剛力を受け取った〈金管の豪剣群(ブルトリングス)〉の刀身が、宙に生じた斬撃の盾を叩き割り――鮮血を生む。

 繰り出した一撃は、まさしく秘剣としてリウドルフの肩口に突き立っていた。


「なんだ、その技は……どんな腕力……してやがる……」

「……同じじゃねえと、言ったはずだ。俺は剣豪じゃない……触手剣豪だ」


 常なる剣豪では叶わぬ境地。或いは、修練の果てにしか辿りつき得ぬ境地。

 触手の力は、触手剣豪は、その域の技まで至ったのだ。

 白神一刀流・(ハズシ)ノ一番“豪剣・金蜻蛉(またたき)”。

 左手で柄尻を押し、鍔元を握る右手を柄尻まで滑らせることで間合いを伸ばす。そんな刀一本を支えるという不条理を許すのは、触手の寄生で力を得た赫き右腕。

 これこそが秘剣――――刀匠に造られたこの世の条理である魔剣を超える、剣豪の創りし()()()()()であった。


「ああ、くそ……やられたねぇ」


 そして刀身を伝わった電撃に、雨に全身を濡らした男が崩れ落ちる。

 残る八人の邪教徒からどよめきが上がる中、シラノは即座に喰らいかかった。こここそ好機――ここを逃しては、この死地は免れぬ。


「イアーッ!」


 上がるは猿叫と悲鳴。

 魔剣使いを打ち倒された男たちに、なすすべはなかった。



 剣を支えに、シラノは激しく肩息を吐く。

 やはり多人数。手傷を負った状態で相手にするのは、些かに無理があったか。

 しかし、硬化させた胴体と右腕のおかげで致命傷は免れた。鎧や盾が如何にして発達したか――そして己の身体を、まさしく腕一本分や胴そのものを鋼の如く使えることが強靭か。

 触手の技の凄まじさを、増分に味わっていた。


「はぁ……あ、あぁ――……ごほっ……」


 だが、右眼は潰され脇腹は剣が抉った。肩や胸にも、少なくない傷を負った。

 なんの手当もしなければ、このまま死に至るだろう。足を引きずり、顔を上げた。

 そんなとき、であった。


「……あ?」


 背後から歓声が上がる。見ればそれは天幕の方であった。いつしか上がった雨の中、こちらまでその熱気が伝わってくるようだ。

 舞台は、成功したのか。それともまだ、盛り上がりの一幕の最中なのか。

 吐息を漏らした。そして、剣で地を押して前に進む。

 こんな血塗られた姿で劇場に入って、ジゼルの夢を穢す訳にはいかなかった。




 ◇ ◆ ◇




 こつこつと、踵を鳴らして道を進む。曲がり角のその先にあるのは、“冒険酒場”と銘打たれた冒険者たちの憩いの場である。

 木戸を押し開けると、甘く広がる酒類の香りと雑多な喧騒が零れ出す。数日前に街を襲った荒天など忘れたように、彼らは夏の熱気めいて騒がしい。

 外套を纏った()()はフードの下で柳眉を顰め、それでも目当ての人を探して酒場を見回す。

 どれもがそれらしいとも思えれば、どれもまた()の仲間とは思えない――。そう、眉間に皺を寄せたときだった。


「うわっ、と、と、と」


 小さな体に書類の大荷物を抱える黒髪の少女が、床に蹴り躓いて体勢を崩そうとしていた。思わず近付き、崩れそうなその山を支えようと手を伸ばした。


「大丈夫ですか?」

「うん? う、ありが……」


 彼女と同じくフードを被った少女が、紫色の瞳で見上げてきて停止した。


「うぇぇぇぇっ、まさかキミ――」

「しーっ、しーっ、しーっ!」


 唇に指を立てて沈黙を促した。応じて少女も大袈裟に頭を振って首肯する。

 今日の彼女は――ジゼル・ア・ルフセーネは、お忍びという奴であった。


「ええと、その……シラノ・ア・ローって冒険者、今……居ます?」

「うん? シラノくん? 今日は魔物退治に行ってるよ? 分かりにくいけど、あれは結構張り切ってたね」

「そう……ですか」


 そして、その目的は外れてしまった。

 会場のすぐ近くで打ち倒された邪教徒たちと魔剣使い。それから、濡れた石畳に点々と残った血――目当ての少年はあの劇の最中も人知れず戦い、そして誰に話すことなく一人で立ち去った。

 公演ののちに、全員で辺りを探した。だけど結局見つからなかった。

 それがまるで無事で今も戦いに行っているとなったら、特に熱心に探していたイングリッド辺りはどんな顔をするだろう――なんて思いながら、ジゼルは吐息をついた。

 やはり、シラノにとってはよくある仕事の一つでしかなかったのだろうか。


「それにしても公演は凄かったねぇ……ドラゴンキメラゾンビセイレーン娘と、空飛ぶ大蛇サメゴーレムムカデ娘と、竜の巫女(メルシナ)と黒騎士があんなことになるなんて……」

「あら、見てくれたの? ふふぅーん。あの劇のどこがよかった?」

「え? それは……うん、そうだね。ドラゴンキメラゾンビセイレーン娘が、歌の力で荒ぶる空飛ぶ大蛇サメゴーレムムカデ娘を鎮めながら抱きしめて一緒に火山に入って、そこで親指を――」


 そのまま、とくとくと魅力を語られる。

 やはり、悪い気はしないのだ。己の舞台を見てもらうというのは。おまけに、楽しそうにしていてくれればなおさらである。

 できることなら……それを、本当に観て欲しい男がいた。

 だが、それは叶わなかった。結局あれから彼は姿を現さず、そして今日にでもジゼルたちの一座は街を去るのだから。

 まぁ、辛気臭い顔はナシだ。たった今目の前で告げられる感想に、観客の笑顔に罪はないのだから。


「まぁ、楽しんでくれたみたいでよかったわ」

「うん。おかげさまで。本当に楽しかったよ! ……ありがとうね、ボクたちを招待してくれたんだろう?」

「招待?」

「うん。シラノくんが、関係者だから――って頼んだって聞いてたけど」

「え」


 ジゼルは思わず息を止めた。

 それに構わず、その少女は可愛らしく小首を傾げた。


「あ、そういえばボクたちが劇から帰ってきた後でシラノくんが言ってたんだけど……『確かにまた世界に恋をしてみたくなった』――って。どういうことかなぁ?」


 ううむ、と顎に手を当てて少女が首を捻る。荷物はとうに近くの机に置かれている。

 それを前に――ジゼルの口からは、自然に吐息が漏れていた。


「ははっ、ほんっと素直じゃないのねアンタ。……でもそれじゃ、私の付き人失格ね」


 リアーネから伝え聞いた言葉。シラノ・ア・ローが、ジゼル・ア・ルフセーネに当てた唯一の伝言。

 それは――




 よく晴れた丘の上に、剣を握る二人は居た。

 右眼を厳めしい眼帯に覆った銀髪のセレーネと、褐色ほどに暗い金髪を汗に濡らしたシラノ。シラノの左目は琥珀色の瞳であったが――逆の片目だけは赤く染まっている。

 ふう、と吐息を吐いて触手野太刀を下す。周囲には、たった今切り伏せたばかりの魔物の残骸が積み重なっている。


「あら……シラノ様、何かいいことでもございました?」

「いや……本当、ちゃんと約束を守ってくれたんだなって」

「約束?」

「……劇はどうだったスか?」

「ええ。まぁ……私は空飛ぶ大蛇サメゴーレムムカデ娘が一万の大軍と戦うところが特に気に入りましたけど」


 セレーネらしい。

 というか、改めて又聞きすると内容を疑う。ドラゴンキメラゾンビセイレーン娘が親指を立てながら火口に呑まれて行ったとか、黒騎士が武器を捨ててかかってこいと言ったとか、ドキドキ許嫁バトルロワイヤルとか、霧に包まれた町からの脱出とか。

 作者は多分ラリってるのだと思う。どうしてラブコメで許嫁が次々にリタイアしていくのだろう。

 とはいえ、そんなラブコメの皮を変わった殺し合いは別にいい。


「……竜の巫女(メルシナ)はどうだった?」

「ええ。かなり声もよく届いていて、動きもよかったですわ。きっと、多くの研鑽を積んだのでしょう。目を見張るものがあるかと」

「……そうか」


 ふぅ、と息を吐いた。

 人一倍失敗していたのだから、人一倍報われて欲しい――そんなシグネも無事に成功を収めたのだ。セレーネがそう言うということは、かなりのことである。

 二人ともが楽しめたのならそれに勝ることはない。


「……」


 あの時、リアーネに言ったことは単純だった。

 『もしもまだ触手使いのことを嫌わないと言ってくれるなら』『仲間の触手使いと、もう一人の為に席を確保してほしい』――シラノが言ったのはそれだ。二人の名を告げ、劇を見れるように手配を頼んだ。

 そして無事、公演三日目の舞台を観劇したということだ。

 リアーネはちゃんと伝言を伝えてくれて、ジゼルはしっかりと手配をしてくれた。

 それだけで報われる思いだった。特にフローも実はそういうものに興味があったようで、全身で喜びを表現していた。まぁ、些か宥めるのに苦労するものであったが……おまけのようなものだ。


「ふむ。……なんだか今日は魔物も多いですね、シラノ様」

「うす。まぁ……問題ねえっス」


 恋する乙女は無敵だとジゼルは言ったが――。

 どうやらそんな気持ちを、少しでも受け取ってしまったらしい。

 頬が緩むのを引き締める。ここは死地だ。ここから先は死地で――いつだってそうとしか戦えないだろうが。


「イアーッ!」


 今ばかりは、この剣は不敗ではない。――無敵なのだ。

 ジゼルたちの道中の無事を祈って。少しでも彼女たちが危険から遠ざかると信じて。ここで一体でも多く倒せば、その分彼女たちの安堵に繋がると願って。

 天高く突き立てた右蜻蛉で、シラノは一直線に吶喊を行った。


 空は青く、世界は眩しかった。


◆「アイドルズ・ネヴァーモア・リグレット・カワイイ」 終わり◆

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