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第三十一話 お姉ちゃん保護義務違反


 日が明けた翌日であった。

 曇りガラスめいた水晶窓から陽光が差し込む中、それでも僅かに薄暗い石畳の廊下でシラノは両拳を軽く握って垂らしていた。

 やおら、重い扉が開く音が建物に響いた。妙にひんやりとしているからか、音が良く伝わるらしい。

 コツコツと規則正しく鳴るブーツの音がシラノの元で止まる。重力に翻る炎髪と、肩からかけられた狼の毛皮――アンセラである。


「……で、どうだったんスか?」


 ここは、衛士の詰め所であった。

 城塞都市の運営議会の元、都市内の犯罪の取締や警らを行う治安役人。騎士が統治する訳でないこの城塞都市の中では、唯一の官憲であった。

 邪教徒――聞く話によれば数年前、ある邪教徒が城塞都市に立て籠もって魔物を野に放つ騒動を起こしたらしい。今日とて、どこかで懲りずに蜂起を起こす。

 その点からも、今回の事案は国家の手を借りれるものかと想定したが、


「引き渡しはしたわ。……ただ、あの状態じゃすぐには口を聞けないかもって。もう少し喋れる程度に手加減してくれたらよかったんだけど……」

「……」


 まだ、効果は薄いか。思っていたほどの感触は得られなかったらしい。


「……悪いな。俺の分は謝る。だけど、シェフィールド……いや、セレーネだって怪我をしてる。あいつは十分にやった……そのやり方自体に文句はつけないでくれねえか」


 首を振って(にわか)に咎めるような口調になったアンセラを前に、シラノは僅かに見据えながら言った。

 彼女だから、ここまで手際良くやれた。それでも手傷は負ったのだ。


「……判ってるわよ。別にセレーネのことを咎める訳じゃないわ。あの邪教徒どもが軟弱だっただけ。てゆーか頭が軟弱だから邪教になんてハマるのかもね」

「……」

「……にしてもあんた、身内は本当に大事にするのね。セレーネに直接言ってあげたら?」

「……もう、した」

「へえ? 素直に言ったんだ……どうなったの?」


 いたずらっぽく笑みを送ってくるアンセラの目に、顔を反らしながら頭を掻く。

 なんだか勘繰られるようで面映ゆく、あまり好きではない。それは、生前――この場合はあちらの世界――から同じである。

 それでもまだ意味深に見詰めてくるので、暫しの沈黙ののち不承不承に口を開いた。


「だからシェフィ……セレーネって呼ばせられてるんスよ。『もう少し打ち解けた呼び方をされたい』……って」

「ふーん、いいんじゃないの? というか今まで名前で呼んでなかったの可哀想でしょ。冷たいじゃない、仲間なのに。女の子には優しくしなさいよ」

「優しく? ……夜這いしてくる奴に?」


 それもただの夜這いではない。魔剣を持った夜這いである。


「よば……よばばばばっ!?」

「目が覚めたら、上にのしかかられてる俺の身にもなってくれないスかね」

「目が覚めっ!? 上に!? のしかかられっ!?」

「どんなに疲れてても乗ってくる。気を抜くと多分死ぬ」

「疲れっ!? 乗ってくっ!? し、死にゅ!?」

「一度本当に殺されそうになった。起きたら挟まれてた」

「こ、こ、こりょ、こりょしゃ、こりょしゃれ……はしゃま、はしゃ、はしゃまれ……」

「……アンセラ?」

「ひぎゅぷぅぅぅぅぅ……」


 海から引き上げられたナマコがうら若き乙女たちが素足で踏む葡萄酒造りの樽に放り込まれたような悲鳴であった。


「……おい、なあ……大丈夫スか。頭とか……脳とか……」

「あんたのせいでしょーが!? あんたの!?」


 くわっと目を向いたアンセラが、肩を怒らせながら先を歩く。

 街を脅かすならず者による実効支配、そして脳みそが異次元に接続した魔界のお花畑で跳ね回る邪教徒の企み――。

 なんともキナ臭いものだな、とシラノは吐息を漏らした。

 それでもやることは変わらない。剣豪にできることは、斬ることだけだった。

 つまり、何も変わらぬ冒険の日々である。



 ◇ ◆ ◇



 板張りの廊下を軋ませて、緩やかに扉を開いた。

 目的の主は毛布に包まれながら、顔の辺りまでを覆い隠して横になっている。

 何とも弱々しい姿に奇妙な安心感を懐かざるを得ないのが辛いところだが、抱えた麻袋を机に下ろして吐息を漏らす。


「シェフィールド?」

「……」

「……シェフィールド?」

「……」

「……………………セレーネ」

「あら、なんでございますか?」


 何度かチラチラと不貞腐れたように眺められた辺り、どうにも名前で呼べというのは本気だったようだ。

 それでもらしくない動作に、何とも妙な感覚を抱いて頭を掻いた。


「これ、先輩から。……栄養あるもん食べろって」

「あら」

「こんな日の為に、ちょこちょこ貯めてたらしい」

「ふふ……やはり、お姉さんなのですね」

「……まあな」


 差し入れの赤い林檎を手渡すと、寝具に包まれたセレーネは心底嬉しそうに笑う。

 実は水筒に詰めた触手滋養栄養剤(興奮剤の一種だ)も渡されたが、それは丁重に固辞しておいた。情けである。

 というのも、セレーネ本人が嫌がっているのだ。戦いで負った傷を自分以外の力で癒やすのが気にかかるらしい。傷自体は問答無用でフローが塞いでいたが、そんな風にセレーネが拒絶をするのでその後の滋養剤や消毒液などは見送られている。

 寝込んでいるのもその為だった。


「ふふ……まったく、一人ならこんなこともないというのに……。妙な心地ですわ」


 林檎を片手に身体を起こそうとするセレーネの肩を抑え、そのまま寝かせる。

 代わりに袋から他の林檎を取り出した。フローから渡されたそれは、随分と買い込まれているようだった。


「今剥くから、そのままでいいからな」

「……シラノ様が?」

「なんスか」

「いえ。……その、細やかなことをするのは意外と申しますか」

「こう見えても家事手伝いは十何年してる」


 異世界生活十余年、家事見習いは伊達ではない。

 虚空から触手短刀を呼び出し、手に取った林檎の皮を剥きにかかる。男子台所に入らずという格言があるが、ここは寝所なので目を瞑っていただきたい。

 しゃり、と静かな室内に音が響く。

 どこか遠雷のような冒険者たちの賑わいも別の世界のことのように、部屋の中の空気は穏やかだった。

 そのまま、暫し無言で刃を走らせる。ポツリと口を開いたのは、毛布を肩まで引き上げているセレーネだ。


「……ふふ。なんだかこうしてると、子供の頃を思い出すようですわ。熱を出したときだけは母も優しくしてくれて……ええ、少し懐かしいですわ」

「なあ」

「いかが致しましたか、シラノ様?」


 紐を解くように皮を向きながら、手元の刃だけを見て呟くように言った。


「……後悔はないんスか? 普通の生活を捨てて、剣に生きる……死ぬかもしれない……そのことに、後悔は……」

「……ええ。まぁ、たまには――ひょっとしたら家族に囲まれて、今頃子供を胸に抱えるような生活でもしていたかもしれない……そう思うことはありますけど」

「……」

「でも、私はこう生きると決めたのです。……きっと後悔をするとしても、それもまたこの道ですわ。それに今のところ、非常に充実していますので」

「充実、か……」


 笑顔で襲いかかられる身にもなって欲しいが、そう言われるとどうにも弱い。

 殺しにきてはいるが確実に詰みにきている訳でない以上、他に被害が出ないなら多少は目を瞑ってもいいかとさえ思えてきた。


「急にどうされましたか?」

「いや……色々できるのに勿体無いな、って。俺と違って、やろうと思えばなんでもできるのに」

「あら、こんなのは特に望んでもいない能力ですわ。まぁ、役には立っていますが」

「……そうスか」


 まぁ、当人がそう言うなら仕方ない。

 剥き終えた林檎を六つに刻み、乗せる皿を探していたときだった。


「それとも……剣に生きることをやめたら、シラノ様が貰ってくれますか?」


 ふと、消え入りそうな声でセレーネが漏らした。

 氷雨めいて冴えた銀髪と、一つを眼帯の下に押しやった涼しい蒼銀の瞳。残る左目だけを潤ませながら、祈るようにセレーネが見上げてくる。

 氷の女神の如く整った目鼻立ちと、白磁めいて透明な肌。なお、その胸部は豊満である。

 髪を掻きむしりつつ、舌打ちをするように漏らした。


「……剣、見えてるぞ」

「あら」

「なんで結婚する前から未亡人作ろうとしてんスかね」

「ふふ……さて、何故でしょうか?」


 貞淑に微笑むセレーネは、やはり油断ならない剣鬼であった。毛布の下の剣に気付くのがもう少し遅かったら、本気で斬りかかられていたまである。

 自分が寝込んでいるのに人に襲いかかる。やはり頭脳が未知数であった。

 ……とはいえ、


「……まぁ、ゆっくりしといたらどーっスかね。先輩の触手液飲めば早いんだろうけど」

「いえ。戦いの傷は私の傷ですわ。……この痛みも含めて戦い。それを忘れたら……痛みや苦しみを忘れたら、私はただの嵐と成り果ててしまいますので」

「……そうか」


 本人がそう言うなら、やはりシラノに言えることはないのだ。

 せいぜい楽しく冒険をして、寝込んでいるセレーネを悔しがらせるだけであろう。

 ……まぁ、セレーネが悔しがるのはおそらく魔剣との戦いぐらいだ。そうなるとシラノは楽しくない。つまり論理破綻していた。度し難い。

 ひょい、と林檎の皮を持ち上げる。農薬の散布がない以上、これも食用部位だ。キャベツやニンジン、塩漬けの鰯や香辛料と一緒に煮込んでから発酵させるといいソースになる。

 久しぶりに何か料理でもするか、それとも蕎麦でも打つか(蕎麦は小麦よりも一般的だ。なおこの世界では麺にはしない)――と思案していると、


「シラノ様」

「なんスか?」

「いえ……ふふ、呼んでみただけですわ」


 毛布から僅かに憔悴した顔を出したセレーネが笑いかけてくる。

 調子が狂う。大人しくしている剣鬼など、顔と耳と体毛と尻尾と肉球を失った猫めいているではないか。

 鬼の霍乱(かくらん)。なるほど、言い得て妙である。

 ただ、面白くも何ともない。いつだって剣のことばかり論じているのがセレーネ・シェフィールドなのである。


「……また後で薬持ってくるから、大人しく寝てるんスね」

「ええ。……ふふ、一人旅のときはこんなことはなかったので……本当に新鮮ですね」

「……おとなしくな。動くなよ」

「はい。……ふふ、私に兄がいたならこんな感じなのでしょうか」

「……」


 黙したシラノを前に、セレーネは上目遣いで言った。


「その……シラノお兄ちゃん」

「……」

「シラノお兄ちゃん」

「……」

「シラノお兄ちゃん、セレーネ退屈で戦いたいの」

「……やめて」


 妹はセレーネ・シェフィールド。どんな拷問だと思った。



 ◇ ◆ ◇



 さて、と降りた冒険酒場の一階。相も変わらず賑わっていた。

 その中には、杯を傾ける桃色髪の剣士も女を侍らせた美形の青年剣士もいる。その実力が保証されている以上、一度機会があれば共に冒険してみたいが――今はいい。

 フローはまた裏方作業か。なんとなく見回しながら、目当ての人物を探す。

 首ほどまで赤紫色の髪を伸ばした少女。厚手で露出の少ないの服に身を包み、これぞ典型的な魔法使いの冒険者である――というような装いをしている控えめな少女であった。


「あの」

「ふぇっ!?」

「……その、余ってたら薬とか売って貰えないですか。仲間が寝込んでて」

「く、薬ですか!?」

「ああ。……いや、迷惑って言うなら他を探しますけど」


 小動物のような動きである。シラノが一足では近づけない距離感。完全に警戒されている。

 おそらく一歩踏み込んだら一歩逃げ、手を伸ばしたら身を躱す。そんな確信があった。それとも魔法使いとは元来こういうもので、アンセラが珍しいだけなのかもしれない。

 ともあれ――他に理由があるとしたら、シラノが触手使いだということだ。避けられるなら避けられるで無理はない。触手使いで、おまけに直接的に魔物を叩きのめしているのだ。後衛職の彼女からしたら、魔物以上に厄介だろう。

 妙な気まずい間合いの中、踵を返そうとした。そんなときだった。


「い、いえっ! あ、あの……私なんかがお役に立てるなら……その、なんでもします!」

「なんでも」


 腹の底から三日分の勇気を振り絞りました、という声を出された。悲しくはそれでも酒場の喧騒の中ではあまりにもか細い声であったことだが、その心意気は十二分に伝わってくるものである。

 何たる見上げた少女であろうか。歳はシラノよりも二・三歳下であるが、彼女は人として大切なことを決して見失っていないのだ。

 思わず目がしらが熱くなりそうな思いを堪え、努めて無情を保って言った。


「ありがとうございます。……その、お代はいくらっスか?」

「お代!? い、いえ……こんなことではいただけませんよ! それに、冒険者は助け合いですから!」

「……そうか」


 どこまで立派なのだろう。本当に何か胸に熱いものがこみあげてくる。


「え、ええと……」

「……いや、悪い。ありがとう。……その代わり、何かあったら絶対助ける。そのときはなんでも言ってくれ」

「え、あ……はい、そのときは……。あんまり迷惑かけないようにしますね?」

「うす。……あと、迷惑とか思わないんで」


 枚か札が浸った薬瓶を差し出される。形意魔術の一種か――彼女は薬草や毒草に詳しく、その辺りに長けているらしい。そう聞いていた。

 思い描いている魔法のような効能はないが、抗生物質や医薬品のないこの世界においては貴重な薬だ。また、穢れに由来する体調不良――いわゆる状態異常のようなもの――がある以上、彼女のような人材は非常に貴重だった。


「ありがとうございます。……このご恩は、いずれ必ず」

「い、いえ……いいんですよ。私、こういうことだけが取り柄なんで……」

「いえ。立派です。尊敬します。……このご恩は、必ず」

「尊敬……」


 困ったように笑う少女――アネットにもう一度頭を下げ、踵を返す。

 如何にもな冒険者。いつか、あちら側にも行ってみたいものであった。



 ……で。


「イアーッ!」


 こちら側の話。

 吹き抜ける風は寒々しいが静謐で、丈が短い草の満ちた草原は寂しいながらに目が飽きない。お日様だって晴れている。

 そんな絶好の行楽日和の中、シラノは触手を呼び出していた。うぞうぞと、冒涜的にその身を揺らしている。見ていると頭が痛くなってくる。


「うん、上達してるみたいだね。初めに比べると、随分と見違えてきてるよ」

「そうスか?」

「そうだよ! 前に、触手はシラノくんの精神の形って言っただろう? もちろん大掛かりな召喚には詠唱(チャント)が必要だけど、初級の発声(シャウト)は別に声に出さなくてもいいんだ。魂から声を出していられたらね」

「魂から」


 この冒涜的な声を上げる魂。なかなか破壊力のある単語だ。かなり疾走してる。迷走というか。

 だが、言われてみたらそうなのかもしれない。しばしば発声の必要すらなく触手を呼び出し、後々考えてみればいくつかの戦いの内では声など出していては間に合わない僅かな時間で抜刀を放っている。

 そう考えれば、道理だった。触手抜刀は手で放つのではない。魂で放つのだ。


「あとは……そうだね。呼び出すときに予め通り道を考えていたら……そこをなぞるように呼び出せるんだ。どうだい? すごいだろう?」

「ええ。……確かに、呼び出してから縛ってたら効率が悪いか」


 百神一刀流・一ノ太刀“身卜(シンボク)”――拘束を行うその技は、必ず四肢の内の二つを縛り上げろと伝えられている。そして、引き込むのはまず体の中心軸に目掛けてだ。そうされると、人はバランスを崩しやすい。元々身体の内側に引き込む筋肉が強いためである。

 こう考えると真っ当な術理がある以上、やはりある意味では真っ当な流派であった。


「ただ、それだって本来の自分の触手の太さの時だけだからね? 前にも言ったと思うけど、細くしたり太くしたりするっていうのはそれだけでも余計な力を使ってるんだ。だから、そういう余力がなくなっちゃうんだよ?」

「うす。肝に銘じます」

「うん、よろしい。……ふへへ、どうかなぁ? 今の師匠っぽかった? どう?」

「いつだって師匠は俺の師匠っすよ」


 だからこうして触手の技を磨き、少しでもその風評を直さんと尽力しているのであった。


「そうかい? ふふ、そっかぁ……ボクは理想の師匠かぁ……ふふふ……そっかぁ、お姉ちゃん大好きかぁ……」

「……そっすね」

「む、なんだいその言い方は? ボクはお姉ちゃんだぞ? 先輩だぞ? 師匠だぞ? 生意気な言い方をする可愛くないシラノくんの面倒は見てあげなくなっちゃうんだぞ?」

「男にかわいいとか言わんでくださいよ」


 男の子は格好つけなのだ。そう言われて喜ぶのは稀だ。女装でもしてたら喜んだかもしれない。する気はないけど。

 ともあれ――久しぶりに、師の前で技を見せる機会である。

 存分に力を籠め、声を放つ。


「イアーッ!」


 白神一刀流・零ノ太刀“唯能(ユイノウ)”及び“唯能(ユイノウ)(カサネ)”並びに“唯能(ユイノウ)(オロシ)”――超音速の触手抜刀、それを超える三段突き、更に威力を増やした多段斬り。

 一ノ太刀“身卜(シンボク)(グソク)”。二ノ太刀“刀糸(トウシ)穿(ウガチ)”。三ノ太刀“號雨(ゴウウ)(ナダレ)”。四ノ太刀“十能(トノウ)(マガツ)”――。

 五ノ太刀“矢重(ヤガサネ)(コロシ)”。六ノ太刀“甲王(コウオウ)(ツルギ)”。七ノ太刀“無方(ムホウ)(オモシ)”。八ノ太刀“帯域(タイイキ)(クビキ)”――。

 九ノ太刀“陰矛(カゲホコ)(オモテ)”、並びに九ノ太刀“陰矛(カゴホコ)(カクシ)”、重ねて九ノ太刀“陰矛(カゲホコ)(ワライ)”――――。


「……ッ、痛てぇ」


 存分に編み出した技を見せつけたシラノは、肩で吐息をついた。

 以前に比べたら多少なりとも上限は上がっているようだが、それでもやはり頭痛が付きまとう。短期決戦、或いは最早思考の余地なく斬り結ぶ戦いにおいてはそれでも(イクサ)は行えるが――それが長期の、そして思考を踏み外さば死の戦いにおいては致命の欠陥である。

 だがまだ続けようと構えようとすれば、その腕をフローが抑え込んだ。


「せん、ぱい……?」

「駄目だよシラノくん、無理は駄目だってば! いいかい? 前に暴走するって話はしたよね? 触手を使い続けてたら、その分馴染むから暴走をしなくなるよ? でも、無理は駄目だってば……これは君の魂につながってるんだよ?」

「……うす」


 師にこう言われては文句も言えまい。

 仕方なく、腰を下ろした。まるで麻酔なく歯の神経を削られ続けるように、頭痛というのは酷くなってきていた。

 頭を振って汗を拭う。そうしていると、ぽすんとフローが腰かけた。

 烏の羽のように濡れた黒髪と、片側だけを結んだ三つ編み。柔らかに明るい紫色の瞳を見ていると、どうにも前にセレーネが言った美辞麗句を思い出してしまう。

 なんとなく気恥ずかしくなって、拳一つ分距離を開けようとしたときだった。


「……ひょっとしてシラノくん、責任を感じてるの?」

「いや、流石にシェ……セレーネが俺のせいで怪我をしたとは思いません。あいつも怒ると思うし……俺もそこまで自惚れはしないつもりです」

「……」

「ただまぁ……少し迂闊(ウカツ)だったかな、と。今更っスけど」


 ぼりぼりと頭を掻く。

 セレーネは彼女が好き好んで行った話だが、一方でフローを危険に晒したのは紛れもなくシラノの非であった。もし一瞬気付くのが遅れていれば、フロランスは今こうしてここにいない。

 そう思うとあの邪教の男の骨を砕き足りない気がしてくるし、不甲斐ない自分にも腹が立ってくるものであったが……。


「ふっふっふ、なるほど! なるほどなるほど! つまりシラノくんは今しょげてて、お姉ちゃんに慰めて欲しいんだね! このお姉ちゃんに!」

「……」

「おっと何かすっごく冷たい目で見られてるような気がするけど、気のせいだよね?」

「そっすね」


 おもむろに立ち上がったフローが両手を広げた。

 黒いコートに包まれた上に、そこから何も下を履いてないように覗いた白い太もも。あと、贈ったばかりの靴。

 十字架に磔刑にされたキリストめいた謎の姿勢のまま、小さい背丈の彼女はドヤっと胸を張った。揺れた。


「ほら、シラノくん」

「なんスか」

「お姉ちゃんが慰めてあげよう! ボクはお姉ちゃんだからね?」

「や、いらねーっす」


 「ええー」と途端に情けない顔をされたが、ここで安易に慰められる男がいたらそれこそ情けない。

 いや、そもそも慰められる必要はない。これは反省であって後悔ではないのだ。そこまでされる謂れはない。これでも前世では弟妹を持つ長男である。


「大丈夫だよシラノくん。ボクはお姉ちゃんだからね? シラノくんを置いてったりしないんだよ?」

「……別に俺を置いてくなとか思ってねーです。そういう話じゃねーっす」

「ええ!? じゃ、じゃあ逆にシラノくんはお姉ちゃんを置いてっちゃうの!?」

「なんでそうなるんですかね」


 相変わらずころころと表情が変わるというか、話が脱線するというか……。

 つい先ほどまでの真面目な話をぶち壊された気分に任せて――いや一度深呼吸をして沈めて、また話を続ける。


「……結婚でもしたら、そーなるんじゃないっスかね」

「結婚!?」

「です」


 仮の話だけど。


「い、いつ!? 誰と!? お姉ちゃんにナイショで!? ボクには黙ってたの!? まさかボクだけに言わなかったの!? ボクを仲間外れにしてたの!?」

「……将来的にはです」

「な、なんだぁ……よかっ――――ええっ!? 置いてっちゃうの!? ボクを!? 将来的に!? 置いてくの!?」

「そりゃ結婚したら、そっすよ」


 流石に新婚生活に小姑を連れて行くのは憚られた。いや別に今相手がいる訳ではないが。

 嫁入り道具の代わりにお姉ちゃん(自称。血の繋がってないものを指す)持参とはどんな了見だろうか。子持ちバツイチってレベルではない。

 未婚姉付き(自称。血の繋がっていないものを指す)。すごい地雷案件だ。絶対即座に離婚される。

 そんな、初夜で未亡人製造機(対象は自分)のセレーネを笑えない惨状など、明らかによろしくない。


「やだぁ……ボクを一人にするなよぉ……! なんで自分一人だけ幸せになろうとするんだよぉ……お姉ちゃんをいじめるなよぉ……」

「……」

「なんでだよぉ……ボクはお姉ちゃんだぞ? 師匠なんだぞ? 先輩なんだぞ? なんでだよぉ……やだよぉ……」

「……」

「やめてよぉ……ボクを一人にするなよぉ……。ボクを置いてかないでよぉ……やだよぉ……シラノくんと一緒がいいよぉ……もう、一人はやだよぉ……」

「……」


 すぐに捨て犬めいた目になって縋りついてくるフローを前に、吐息を漏らした。

 というかそれは――こう、ちょっと失礼だと思った。

 失礼だ。そうである。そうに違いない。一体、何のために今こうして触手剣豪として戦っているのかと言われたら――――。


「……一人になんてなりませんよ。俺がさせません。そのときは、まぁ……世間的にも触手使いの印象だって良くなってるだろうし」

「え?」

「そういうのが全部終わったらの話っスよ。……約束したんで。二言はねーっす」


 当然、その為でもあるのだ。

 そういう他人に押し付けられた不幸とか、誰かの言いなりにされた絶望とか、長らく背負わされてきた呪詛とか――――。

 そのような因果を断つために、剣を執ったのだ。

 剣鬼になる為ではない。

 剣士として生きるためではない。

 己の悟りと信条によって立ち、決して負けぬ――そのために剣豪を志したのだ。

 ふう、と息を漏らして立ち上がる。

 少し腑抜けた気分になっていたが、これで活が入った。また明日から、剣豪としての路を進むことができよう。


「じゃあ、しばらくは一緒だね!」

「……っスね」

「ふふふ、じゃあボクが触手使いの印象を悪くしたら……シラノくんはずっと――」

「それマジでやったら縁切りますよ?」


 縁というか。腹というか。

 師の不始末は弟子が拭わねばならないだろう。かくなる上は主に剣で。主にというか全て剣で。


「ウソウソウソウソ! ウソだよ! ウソだから! 絶対やらないから! やらないってばぁ!」

「……」

「なんだよその目は! ボクはお姉ちゃんだぞ!? 師匠だぞ!? 先輩だぞ!?」

「……冗談でもそれ言うとか、ちょっと真面目に信じらんねーんで」

「謝るからぁ! ごめん、ごめんねシラノくん!? ごめんね!?」

「……」


 フローが小走りで追ってくる中、足早に歩く。

 流石に今のはいくら師とはいえ許しがたい暴挙であった。冗談ですらこれだが、本気でやられたその日にはきっと首を斬ったのちに追い腹をするだろう。それぐらい信じられない事態だ。


「ちょ……あぶっ!? いたいたいた痛い、シラノくん置いてかないで!? 足ひねったの! 置いてかないでぇ!」

「……」

「ほんとぉ! これ本当だからぁ! 本当なんだってばぁ! ごめん、ごめんねシラノくん! ごめんよぉ……! ごめん!」

「……次ああいう冗談言ったら、本当見捨てますからね」

「わかった、わかったからぁ! お姉ちゃん嫌いにならないでよぉ……ボクのこと怒らないでよぉ……」


 足を投げ出してぐじぐじと泣き叫ばれると、いろいろと外聞があるもののそれ以上に本当にいたたまれない気持ちになる。

 というか、約定であった。

 フローが歩けなくなったら背負う。そう約束して冒険に連れ出したのだ。

 それは修行でもなんでも適応される。されない方がおかしい。約束を破るなど武士の風上にも置けない所業である。それで剣豪を名乗るならすぐに腹を斬って死んだ方がいいとまで思えてくる。そんな奴は死ぬべきに違いあるまい。

 ひょいと背負いあげると、やはり軽い。

 近頃は随分と肉体づくりに励んでいるのもあるが、やはり根本的にフローはあまり大きくないのだ。

 それだけに、彼女のこれまでの苦労を想うとなんとも胸が締め付けられる気分になる。


「うう……シラノくんが怖いよぉ……」

「好きじゃねーんスよ、その手の冗談。……先輩のこれまでを思えば、なおさら」

「うぇぇぇぇ……。……あ、そうだ!」

「……なんスか?」


 ぽにょんと。むにゅっと。

 思いっきり当たっていた。いや、当ててるのか。当てられているのか。当ててきているというのか。当てにきやがったというか。

 来たのだ。確かな弾力がそこにはあった。


「ほら、シラノくんが大好きなおっぱいだよ! 近頃またおっきくなったんだよ? これでシラノくんはお姉ちゃんの魅力にメロメロに――ふぎゃあ!?」

「帰る」

「ま、待ってシラノくん! ごめん! ごめんよぉ……! ごめんってばぁ! ごめん、謝るからぁ………!」

「……」

「本当に動けないんだよぉ……! やめてよぉ……見捨てないでよぉ……お姉ちゃん保護義務違反だよぉ……助けてよぉ……」


 金色夜叉。こう言って伝わるのか。

 背中から落とされたフローは、完全に縋りつく妖怪か何かのように手を伸ばしてくる。ここが江戸時代でシラノが武士なら、迷わずきっと斬り捨てている。


「うぇぇぇぇぇ……お姉ちゃんだぞぉ……一緒にいてくれるっていったのにぃ……ボクのことそうやって置いてくんだぁ……シラノくんの薄情ものぉ……」

「……」

「お姉ちゃんを敬えよぉ……保護義務違反だよぉ……そんな目で見るなよぉ……」


 それにしても自分から保護の手を振り払っていて何を言うのか。

 触手召喚だけではない頭痛がする中、長息と共に腰を折った。




 ほにょほにょと夢見心地で、半ば熱に魘されつつもこれまで聞いた御伽噺――特に敵を斬り捨てるとか首をとるとか一族郎党焼き討ちにするとか――を思い返したセレーネは跳び起きた。

 どばん、と前蹴りが叩き込まれたのだ。扉に。

 はて、こんなときに襲撃なんて仕方ないなぁ。でもちゃんと考えられているなぁ。きっと戦うと楽しい相手だろうなぁ――と剣を両手に取ったセレーネは停止した。


「シラノ様?」


 昼過ぎに薬を差し出していった主が、変貌を遂げているのだ。

 変貌というか。凶行というか。

 主にこう、人攫いの方向に。

 紫色の触手で簀巻きにされた芋虫めいた物体を、肩に担いでいた。


「……いや、これは」

「ふぐぐーっ!? ふぐぐーっ!?」

「……」

「いや……」

「ふぐぐーっ!? ふぐぐーっ!?」

「……」

「……」

「ふぐぐーっ!? ふぐぐーっ!?」

「……」


 その芋虫が動くたびに、触手の縄からはみ出た黒い三つ編みが揺れる。

 あまりにも悲痛すぎるその悲鳴は、これから褥に押し入られて純潔を散らされるか弱き乙女めいたものであり――。


「……その、シラノ様も健全な男性というのは分かりましたけど、ええと…………あまりうるさくしないでくださいね。耳は塞いでおきますから」

「する予定はねえから」


 吐き捨てるように顔を背けながら、シラノはフローのベッドに触手芋虫を投げ捨てる。

 そして、間に展開する触手の仕切り戸。

 何があったのかは知らないが――まぁ、いつも通りの日常だった。










 ◇ ◆ ◇



 日も落ち、宵闇が深まった街並みを少女が駆ける。

 裕福な家庭なら魔術仕掛けの灯火を用意もできようが、闇の中で頼りになる殆どは篝火だ。暖色のその光源を横切りながら、その小さな影は転々と疾走を続けた。

 屋根を蹴りつけ、破風を蹴りつける。棚引くは漆黒の風除け布(マフラー)。闇に紛れるように、その装いは黒で彩られている。

 ただ一つの例外は、闇に冴える銀の長髪。日光の下でなら、毛先につれて褐色に染まっていく銀髪はさながら錆びついていく金属にも見えたかもしれないが――――夜闇の中では、唯一眩きそれは殆ど閃光めいていた。

 小さな靴裏が壁を蹴った。抜き味の刃の如く光に濡れて照り返し、一際強くひるがえる銀髪。

 石畳。踵で衝撃を殺し――――やがて重力を思い出したように、横に靡いた銀髪が揺れ落ちる。


「……」

「来ましたよ。敵です」


 少女が見上げる先にいたのは――――例えるなら、鎧であった。

 少女よりもなお色の濃い黒色のコート。あまりにも武骨な生地の下から、それでも鍛え抜かれた無駄なき頑健な体躯が盛り返す。

 数多の実戦をくぐり抜け、その度に鍛え上げられた漆黒の戦鎧。人が彼を見れば、そう思うだろう。

 そんな質実剛健な男が、武骨な男が、背中に巨大な棺桶を背負った男が、目を閉じて仁王立ちに立ち尽くす。

 不景気と不幸を煮詰めて不機嫌で割ったような深い眉間の皺の下、黒と金とが入り交じる髪の男は一心に瞼を閉じていた。


「何をしているんですか。馬鹿なんですか。死ぬ気ですか。死にますよ。死なれると困ります」


 少女の冷淡な声に、やおら男が口を開く。重低音ながらに僅かに甘く響く、しかしそれを塗り潰すような抑制を感じさせる修験者めいた声だった。


「……祈っていた。救われぬ魂を……せめてその果てに、一分(いちぶ)でも救いがあらんように」

「……馬鹿ですね。祈っても誰も救われません。祈るだけでは何も解決しません。祈りなんて、無意味です」

「それでもだ。だからこそ祈る……祈りたいという気持ちを嘘にしない為に、俺は祈るのだ」


 また瞼を閉じて、男は深い息を絞り出した。騒音の中でも耳朶を打つような声であった。


「そんな価値なんてありません。こんな人たちには」

「……決めるのは私や君じゃない。誰でもない。誰にもそれを決める権利はない」

「なら訂正します。こちらにとっては価値がないです。あと、そろそろ来ます。準備をしてください」


 平静ながらも刺々しい少女の声に、男はコートを開いた。

 革鎧の下、鎖帷子と鎧下を纏ったその厳しい胸板めがけて――少女が小さな手のひらを差し出した。

 触れる。――否、潜った。潜ったのだ。少女の指先が、腕が、その肩までが。


「――〈擬人聖剣(アガルマトロン)義製の偽剣(アルマスノエル)〉」


 男の声に合わせて、ついには少女の姿が掻き消えた。

 否――――合一したのだ。人である男は少女の鎧であり、魔剣である少女は男の筋骨であった。人剣一体――その言葉は伊達や酔狂ではない。

 二人分の体重を合わせて、男が一歩を踏み出した。重い足音。正しくは二人分ではなく、常人八.五人分であった。


(わたし)はノエルと呼んでください。何度もそう言っているでしょう、サシャ』

「……善処しよう。それと私はアレクサンドだ」

『はい、サシャ』


 己の内から響く幼げな少女の声に、男は僅かに頷いた。

 男――――“剣人甲冑”のアレクサンドは俄に肩紐を外し、背負う棺桶を地に置いた。これが常人三人半分。合わせた先程までは、常人十二人分の重さである。

 そして、やおら金の瞳を上げる。彼が見据えるその先には――――魔術札や棍棒、或いは槍などで武装した男たち。

 ノエルが探し、そしてノエルに釣られた者たち。

 そんなならず者を前に――アレクサンドは重々しく口を開いた。


「……許せ。貴殿らのその末期の言葉を、遺す者に届けることすら叶わん。……その非情を、許せ」


 そして、両の手のひらを打ち合わせるに合わせて――背後の棺桶めいた荷箱が展開した。

 大剣、片手剣、刺突剣、湾刀、槍、斧、斧槍、鉄球、鞭、強弓、盾、杭、棍棒――――無数の武器の数々。まるで、人類の武装の見本市の如き装備の群れ。

 開かれた荷箱はさながら両手を広げた罪人か、はたまた十字架めいて――その身に刻印の魔術の鬼火めいた光を灯しつつ、堰き止めるように立ち尽くす。

 堰き止めるのは、はたまた敵か、それともアレクサンドという人間大の巨人なのか。

 やおら手を伸ばしたアレクサンドは、槍を手に取り――言った。


「……淫魔、討つべし」


 睨む先は宵闇――――否、その奥に潜む災厄であった。


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