第三十話 剣鬼のその裏
万物が眠りにつくとされる冬のその内にあっても、未だに緑深き森の中で二つの影が相対する。
片や、その身を焦がすほどの憧れと愉悦に正気にして修羅道へ狂った女。
片や、分不相応な願望と妄執に狂い畜生道に墜ちた男。
互いに手にするのは、この世の理の頂点に位置する――魔剣であった。
「ふッ」
銀髪を靡かせ、青黒の影が動く。女性らしい丸みを持った白い太ももの上、レースが縁取ったスカートを揺らしながら円を描くようにセレーネは駆け出した。
手には三日月めいた内刃を持つ鎌剣。
蒼銀の刀身が陽光を弾き――虚空を薙いだ〈水鏡の月刃〉の一撃は、飄と音を立てた。
即座に超高速で飛来する斬撃。傷弾き――既に存在する傷を押し付けるという破壊の結果だけを与える防御不能の魔技である。
余人ならば兆候の見えぬ死の鎌に、その指先に摘ままれて認識すら追いつかず絶命しよう。か弱き肉の身など、吐息を漏らすかの如く容易く摘み取れるからこその魔剣である。
だが、
「フン」
その十五歩先――立ち尽くす黒衣の男はまるで揺らがなかった。
両手に握り、正眼に構えるは胴色の剣。
白く波打った奇矯な輪郭と突角めいて鋭き切っ先を持つ、太古から受け継がれし錆びぬ剣。その銘を〈茨木の異剣〉と云う。
そして、甲高い轟音と共に切痕を身に刻んだのは青く苔むした老樹であった。
その樹皮を塵と飛ばし、か細い木屑の煙を上げた。
無論、セレーネが為したのは警告にあらじ。一太刀――剣鬼が振るう以上、それは致傷や致命でなければならない。狙ったのは首元。尋常に決まれば気道を裂かれ頸動脈を断ち斬られ、男は血の海に沈んでいた筈であった。
「……なるほど、実に便利そうな盾なのですね」
思考で為される危険の分析とは裏腹に、セレーネの内心は楽しげな声を上げた。
破壊の概念を相手に与えるという傷弾き――それは如何なる魔法の盾でも鎧でも防ぐことの敵わぬ一撃である。
それを、防がれた。防がれたと言うべきか、弾かれたと言うべきか。
ともあれ、自慢の攻撃がまるで効果を為さなかったのだ。対する男は身じろぎ一つしていない。それほど容易いまでに、セレーネの技の一つが潰された。
冷徹な頭は脅威に眼差しを定め、高揚する心は驚異に頬を吊り上げる。
なるほど――対するもまた魔剣。相手に取って、十二分に不足なし。
「これが盾だと? いいや、最強の鉾だ。この遺跡で余人に引き抜かれることなく眠り続けたこの魔剣は、我々が調べ上げたこの剣は、まさに最強の一振りだと教えてやろう」
そして、男は侮蔑するかの如く吐き捨て――おもむろに上段に剣を振りかぶる。
瞬間、セレーネは左の剣で空を裂き、その傷から右の剣と己自身を弾き飛ばしていた。耳元で音を超えた証が破裂音を響かせる中、セレーネのいた空間を何かが抉り取る。
直後、雪の上に熱した焼き鏝をなぞらせるように――地面が消えた。
消えたのだ。男の剣の延長線上が、すっかりと削り取られた。無に還った。
睨むが早いか――男目掛けて、宙を薙ぐ四連続の傷弾き。だが全てが甲高い音となり、男の周囲の木々に刻まれるだけだ。
「なるほど……同じ系統の権能ですか」
「同じ? 規模と出力が大きく違うだろう。貴様のような血に飢えた野犬とはな」
「あら、うら若き乙女を野犬呼ばわりとは失礼ですね」
内心、ムと眉を寄せた。
借り物の力でよくも吠える――思いこそすれ、セレーネは口を噤んだ。現に敵を斬り捨てられていないのだ。それは即ち、敵の言にも理があるということ。
もし違うと言うなら見事さっくり二つに斬り分かち、相手の死体を眺めながらそう口にすればいいだけのことである。
できぬ以上は、それは己の非であろう。
「……」
しかし眼帯の奥で、失った虚ろなる目が酷く冷めた眼差しを向ける。
好みとは言い難い。
初めから信仰の為に剣を捧げているのであれば立派な人生であるが……この男は、何らかの拍子に邪教などに出会い狂い、偶然自分の持てるうちの中で最も得手だったものを安直に差し出しているだけだ。
その暴力に研鑽という理念はない。ただそうあるからそうしているに過ぎない。
何の面白みもない存在だ。愉快さとは無縁の存在だ。
怪物が怪物の業を為しても、一体それの何に目を向けろと言うのだろう。どこに敬意を表わせというのか。
セレーネ・シェフィールドは、剣鬼だ。
剣鬼であって、肉切り包丁ではない。
性質のまま群れる羊などどうでもよい。喰らいたいのは、人の身で餓狼に至らんとする戦士である。
「力の差が分かったか? 剣を捨てるなら今の内だ。今ならまだ、人として……女として存分に貴様を扱ってやろう」
「さて、分かりませんね。力の差とは結果となって初めて現れるものではありませんか? 決着がつかなければ力の差など無きに等しい……ほら、斬ればわかる――斬らなければ分からないと申しましょう?」
「……言葉を介しても意は解さないのか、この狂人女が。だが、その外見だけは捨てがたい。這いつくばらせて、くだらない妄想をなくすだけの信仰を注いでやろう」
「ええ、どうぞご自由に。――できるものなら」
目を静かに細めつつ、セレーネは思案した。
やはり生死をかけて斬り合うだけの相手に思えない。なんとも殺す価値がない。
であるが故に、さてどう死なせたものか。これ以上相対するのも些かに不快感がある。どうすべきか。――なんて、そう考えること自体も嫌いではない。
静かなる怒りの反面、セレーネは微笑んでいた。
世には美しさが満ちている。まさしく天地万物に神は宿るのだ。あとはそれを存分に愛でればいいだけ。あらゆる物事には良きところがある。なんとも心が躍るものではないか。
得難きは存分な強敵と、苛烈なまでに突き詰めた一刀。
だが人生は一つの目標に目掛けて全てを擲つものではない。このような寄り道もまた、それはそれで人の命の妙であろう。
「ふ、ふ……」
セレーネは小さく乾いた笑みを浮かべた。
厄介事に出会ったように、男は舌打ちを漏らした。
◇ ◆ ◇
「ふッ!」
ひゅば、と空を斬る一撃と共に甲高い音が上がり、男の周囲の木だけが傷つけられる。
距離を保ちつつも走り抜けるセレーネは、吐息を弾ませながら僅かに思案顔を覗かせた。
既に幾合になろうか。放ち続ける〈水鏡の月刃〉の虚空斬撃が男を捉えることはなく、そして男が中空に剣を振るうたびに地面が抉り取られる。
無敵の盾にして、最強の矛――男の言葉に嘘はない。
その速度こそ常人の振るう剣閃と差はないが、破壊力と防御力に関しては圧巻の一言であった。
大木も、土塊も、石像も植物も、全てに差がなく破壊されていく。この世から削り取られるように――或いは初めから存在しなかったかのように、その全てを破壊に飲み込まれるのだ。
最早疑うまでもあるまい。これが魔剣の能力だ。
(……ふむ。破壊という力そのものを振り回している――そう考えた方が良いらしいですね。破壊であるが故にそれ以上壊れることはなく、そして当てさえすれば強度に関係なく壊すことができる。塗り潰す……という方が正しいように思えますが)
セレーネの斬撃とて――破壊という傷を弾く技とて、おそらくその傷跡よりも小さなものにぶつければこの世から消滅させることになろう。
男はそれを、より大きな傷跡で行っているということだ。まさしくその言葉通り、規模と出力が違うのだ。
同じ系統の力の使い手であるが故にセレーネは気付いた。
男の力も、彼女と同じく中空に傷を作っている。そしてそれを剣に纏わせるのか或いは剣から生じさせているのか――ともあれ、振り回しているのだ。破壊という概念そのものを。
(なるほど。……確かに大した魔剣ですわ。力として欲しがるのも無理もないというもの)
しかし、その大きさや形が見えないのは痛い。
概算では丸太や大樹ほどだろうが……細かく判らぬ以上、どうしても回避というのは大味にならざるを得ず、躱すことに専念すると次いだ二ノ太刀を放てない。そして得意の接近戦を行おうにも飛び込む訳にもいかない。
傷を剣に目掛けて直線的に引き寄せるという特性上、一度左右に弾かれてしまった傷をそのまま男への攻撃に使うことはできない。剣と傷を結ぶ直接上に男がいないのだ。
位置取りを変えようとも、流石に男もそれに気付かぬほどの無能でもなく、セレーネの動きを牽制するように破壊の剣を振るっていた。
結果として、腰を据えて剣を構える男に対してセレーネだけが隙を狙って動き回る――いわゆるジリ貧という奴であった。
「そろそろ諦めたらどうだ? 貴様は殺すには惜しい……」
「そうですか。ならば、貴方が死ぬのがよろしいかと。私は生き残りますわ」
「減らず口を……!」
怒気と共に繰り出された横薙ぎの大振り。
ここだ、とセレーネは空中の傷から己と片剣を弾き背後へ引き――直後に引き戻すように突進。
鍔で刃を噛ませた大鋏を、傷に目掛けて引き寄せた。短距離での最高加速。落下の勢いは加えられぬが、それでも人智を超えた高速で駆動するセレーネは容易く音の壁を突き破り、引き裂かれる空気の悲鳴は衝撃波となって発現した。
圧縮される気体の抗力も、空力が生み出す熱も、魔剣の権能をその身に帯びるセレーネには無縁である。
そう。あくまでも――セレーネにとっては、だ。
瞬く間に土煙が上がり、そして継いで叩き込まれた剣の衝撃が地面を粉塵として巻き上げた。
見えぬものなら見えるようにすればいい。単純な理屈であった。
だが、
「……な」
乱れたリボンに手をやり、飛び退ろうと再度剣を振るおうとしたその時であった。
セレーネの降り立つ足場が崩壊した。生半可な崩落ではない。地を支える支柱そのものを一息に引き抜かれたように、瞬く間に地面が陥没したのだ。
そして、驚愕の間隙を突き――土煙を割いた透明の何かが、セレーネの肉体目掛けて繰り出された。
「……仕掛けていた、という訳ですか」
両の指に力を込めて、セレーネは何とか大鋏で押し留める。
握った〈水鏡の月刃〉の刃の向こう――虚空が、土煙を押し退ける無色の矛先が、大樹めいた直径を持つ破壊の概念が眼前に迫っている。
これが魔剣――〈茨木の異剣〉の持つ特性。宙に刻んだ巨大な傷を、破壊の鉄槌として扱う特性。
同じ権能を持つが故か、それとも僅かながらにでも空に刻んだ傷を弾きつけているからであろうか……〈水鏡の月刃〉の刃は顕在であるが、仮に打ち込まれたならセレーネはそうも行かない。
確実に、この世から肉体を破壊し尽くされるであろう。
「地の“傷の根”を解除した。……私が何も考えずに刃を振るっていたかと思ったか? 既に存分に用意をさせて貰ったという訳だ」
「……なるほど。ご高説痛み入りますわ」
「ふん、その余裕もここまでだ。……〈茨木の異剣〉!」
咄嗟、であった。
咄嗟に身を捻るセレーネの真横を、その二の腕を、土煙を押しのけた透明の先端が――伸びる傷の“根”が抉り取った。
鮮血が舞い、顔を顰めた。これが、男の持つ魔剣の真価。僅かに斬ったシラノの傷を広げ、そして空中に不可視の破壊の盾を作り上げた魔剣の権能。
破壊の――“根”なのだ。
「――――ッ」
〈水鏡の月刃〉の結合を解除し、セレーネは跳んだ。
剣と剣を弾いての高速移動。置き去りにされた蒼銀の鎌剣が地面に突き立ち、その上空を無数の“根”が抉り取る。
そのまま直立していれば、四肢という四肢を貫き穿たれていただろう――踵に力を籠めて土煙と共に停止すると、セレーネは前方を見やった。
煙を押し退けるが故にその全貌があらわになった敵の力の正体。
根幹を為すのは、波打つ刃を持つ胴色の〈茨木の異剣〉――まさしくこれは木の幹だろう。それを中心に広がるのは、空気に刻まれた透明の“傷の根”。
先端部分は人間が三人両手を広げても足りぬほど、方々へと突き出されていた。雄鹿の角めいて強固でありながら、魔物の指めいて禍々しい。その根に絡め取られたならば、常人は瞬く間に息絶えるであろう。
それが、この魔剣の力であった。
(……根から、更に根を張ることもできるようですね。それが地面を抉り進みながら支えていた……思えば最初にあれほどまでに抜けなかったのも、この根の為でしょう)
傷では単なる空虚な欠損である。だが“傷の根”である状態では、それは実態や干渉力を持つ。
それだけでは単に強固な――既に傷である以上それ以上の破壊はできない――盾であるが、真価が発揮されるのは攻撃において。
敵を傷つけるという方向性を与えられた根は、その身に触れたものへと破壊を押し付ける。そうして、いとも容易く万物を破壊してのけるのだ。
セレーネも同じ系統の使い手である以上頷けた。破壊という概念を前には、既存の如何なる防御も役には立たない。
「その腕……そして残る一本の剣だけではもう回避など叶うまい。諦めるんだな。もう逃げ回る時間は終わりだ。傷を刻まれた貴様に勝ち目はないのだからな」
「……」
「さて、命乞いをするなら今の内だ。我らが崇める〈永劫に真に尊きもの〉は懐が深い……私もそれに倣ってみよう。どうだ? 何か私に言うことがあるんじゃないのか?」
優越感を隠そうともせず、外套の男はセレーネを見下ろしてきた。
傷の根という支柱を解除されたことによって、完全に崩れ去った地面。セレーネからは、否応なく男を見上げる形となる。
すっかりと抉り取られた右の二の腕からは血が滴った。そしてこれが男の魔剣に付けられた傷である以上、セレーネはすっかりと生殺与奪を握られたことになる。
しばしの沈黙ののち、セレーネはゆっくりと口を開いた。
「……ええ、そうですね。感謝いたしますわ」
「ほう?」
「ええ。なんとも思った以上に楽しめました――というよりは、今も楽しいと申しましょうか。悪くない心地です」
「何……?」
しかし、その瞳からは理知や冷静という言葉が消えない。
ただ、その奥に蕩けるような情熱と歓喜を携えて――セレーネは笑う。
「ふふ……」
「何がおかしい……!」
「ええ……期待していなかったものが思ったよりも楽しめるというのは、なんとも実に心地の良いことですわ。そして――それに勝つということも」
にぃと残る蒼い単眼を歪ませるセレーネに、男は身震いした。
独眼の闘士には異名がある。“現世と幽世を見定める者”――片目を失ったのではなく、片目は冥府を見詰める為に捧げられたのだという信仰。
そしてそこで気付いた。セレーネの銀髪を束ねていた赤いリボンが――ない。
「まさか……!」
弾かれたように男が顔を上げる。
宙にはばたく赤いリボン。その身に刻んだ魔術の刻印から、繋がれた絵から、鳥のような挙動を行うという魔術の品。民生品である以上、男も当然ながら知っていた。
そう。土煙に紛れたその時に、男が攻撃を仕掛けたそのときに――セレーネこそ既に仕掛けていたのだ。
「貴様、既に傷を移して――」
〈茨木の異剣〉を握り締め、男は防御に出た。いや、防御ではなく迎撃であった。
無敵の盾であり、最強の矛である傷の根。大きく横に張ったその根は如何なる反撃をも防ぎ、そして反撃の芽を完全に潰す。究極の攻撃の化身とも言える魔剣であるが、その速度だけには難がある。
男の持つ如何なる攻撃も、速さではセレーネには及ばない。
逆に言うならこれさえ防ぎ切れば、セレーネは完全なる死に体――そんな意図で剣を振り上げ、
「確かに範囲が違いますが……“大きい”というのは必ずしも“優れた”ということを意味しません。角が大きすぎる鹿は、狼から逃げられないと聞きます。森の中で角が障害となって、詰んでしまうのだとか」
それが、中空で停止した。
剣をまるで振るうこともできない。何かに突っかかるように傷の根が動かず、そして根と繋がる剣までが捉えられている。
驚愕と――そして籠められた恐怖に目を見開く男に、セレーネの優雅な声が響く。
「同じ系統の能力……ええ、やってみたら案外とできるものでございますね。傷を空中で静止させるというのも。傷には弾く力……魔剣には引き寄せる力……ええ、釣り合いはとれる」
奥ゆかしく微笑むセレーネの腕は、握った剣は、男の魔剣ほど揺らいでいない。
単なる能力の出力だけで調整しているのだ。斬撃の固定という現象を。
「な……こ、この――」
「ふふ、“傷の根”を解除されますか? それとも、私の腕の傷を広げてみますか? それも一興……私が傷を弾くのと、その魔剣が力を使うのと――果たして上回るのがどちらか、気になりませんか?」
「ぐ……」
「さあ、いかがですか? どちらが早いか試してみるというのは」
セレーネの妖艶な笑みと、男の舌打ち。
睨み合いは、僅かであった。
「〈茨木の――」
「――――〈水鏡の月刃〉」
叫ぶが早いか。
舞った鮮血。男のその足を、肉食鮫の背びれめいて地を滑る〈水鏡の月刃〉の内刃が斬り飛ばした。
「な――――っ!?」
「……そして答えは『上』ではなく『下』ですわ。貴方のような方は、何も存在しない天を見上げながら果てるのが似合いの最期でしょう?」
男の攻勢に取り零され、地に突き立てられていた〈水鏡の月刃〉の一振り。それは互いの剣を弾く爆速を存分に受け取り、この場の何よりも速く疾走した。
無論、仕掛けるは一太刀にあらず。
その一振り目掛けて、引き寄せるはこれまで刻んだ全ての傷。
空中を裂き駆ける流星めいて――男の全身に叩き込まれる傷の嵐。剣と傷とを結ぶ直線上に巻き込まれた男の全身は、その黒き外套ごと無数に切り刻まれていた。
そして、一閃。
セレーネ・シェフィールドに容赦はない。振りかぶる空での傷を弾き飛ばすと、剣を握る男の右腕を両断した。
「……意趣返し、という奴ですわ。皮肉が利いているのも、悪くはないでしょう?」
上品に微笑みつつ、油断なくセレーネは男を見た。
魔剣使いからは魔剣を取り上げなければならない。
セレーネほどになれば、使い続ければ触れずとも魔剣の力を使うこともできるのだから。
そして結果から言うなら――〈茨木の異剣〉は既に主を失っていた。
出会って日も浅い使い手ではそうもいかなかったらしい。まさしく、掴んだ腕ごと斬り落とされては手も足も出ない――という奴だ。
「ふふ。感謝いたしますわ。では、これにて――ごきげんよう」
最期に一つ。セレーネは軽く跳ね、権能を発動させる。
後方から迫る穴。初太刀の突進で作った爆心地――これもセレーネが作った傷である。つまりは、魔剣の支配下に置かれる対象であった。
瞬く間に己の真下を通過していった穴に、男が落ちる。
あの傷では這い上がれまい。誰かに救われなければ、これにてお終いという奴だ。
殺さぬように加減はした。死なせないように努めた。そこから死ぬのは男の勝手だ。死にたくないなら、初めから戦いを挑まなければいいのだ。今こうなっているのは、全て男の自業自得であった。
「さて。……これだけ手土産もいれば、今回の騒動のお釣りもくるでしょう。ふむ――まぁ、今回はこれで良しとしましょうか」
ゴミ捨て場に放り投げられたように姿を消した男と、辺りで死屍累々と呻く邪教徒。シラノやフローが望んでいたような楽しい探索にはならなかったのは残念であるが、ともあれこれで仕事の形は成した。
シラノが受け取れない残りの報酬は、邪教徒を引き渡す功績で打ち消すとしよう。
思案顔のまま腕の傷を押さえて息を吐き、セレーネは上空を見上げた。
冬の白い空の中、それだけは赤き薔薇の如く色を咲かせている。
手を伸ばそうとして――掌が血に濡れていることを思い出して止める。怪我のある右腕を動かそうかと逡巡したとき、命じるまでもなくそれはセレーネの肩で羽ばたきをやめた。
「……申し訳ありません。囮になどしてしまって」
そのまま肩に止まり続ける、命を持ったかの如き赤いリボンを眺めて独りごちる。
傷など、初めから作っていない。
改めてまじまじと眺めた。普段の装いとは不釣り合いなほどの淡い赤色。色が合わないとも言えるし、それが良く目立つともいえる。魔術の力を持った、意匠に中途半端な実用性が含まれた装飾具。
そう。初めて自分という個人に――セレーネ・シェフィールドに与えられた、誰かからの贈り物。
「……ああ、傷はありませんね。よかった……本当に、よかった」
ほう、と息を吐く。
剣を納めようともせず、しばしセレーネはそのまま安堵を噛み締めていた。




