第二十九話 セレーネ・シェフィールドという女 その三
三日月型の刃を持つ双剣――〈水鏡の月刃〉を両手に携えたセレーネ・シェフィールドは単身空を裂く。
そこに加速時間や加速距離という概念は必要ない。能力を使用するということは、即ちその瞬間からの最高速度を意味していた。
空を破裂させ、しかし響かんとするその音に倍以上の差をつける。この時代では技術的に成し得ない――魔術では決して到達し得ない超音速の個人飛行であった。
瞬く間に高度を上げたセレーネは、走り逃げる男の背中を視認した。更にその先には、男と似た装いの黒い外套の集団が待ち受ける。本隊なのだろう。
しかし、彼女に打つ手はない。
片手の剣で傷を弾き飛ばし、もう片手の剣を傷めがけて引き寄せることでの飛翔。魔剣の権能故にセレーネの肉体は無事であるが――だが両剣を利用するその性質上、飛行中の遠隔攻撃は不可能であった。
故に、
「さて」
遠隔攻撃ができぬというなら、ただ近寄って斬り捨てるだけだ。
冬空を激震させる甚大な破裂音が響き、
「――ごきげんよう、お初にお目にかかりますわ。私はセレーネ・シェフィールドと申します」
剥き出しの土の上で、地面から剣を引き抜いた眼帯の彼女は瀟洒に頭を下げた。
礼を失しないというのは重要であった。礼なき敬意はこの世に存在せず、そして敬意なき果し合いには何の食べ甲斐もない。故に、如何なる相手にも礼をすべし。
だが、誰もセレーネへと礼を返そうとはしない。
周囲に降るのは雹めいた土砂の雨。立ち込めるは靄めいた土煙。えぐり飛ばされた赤土の中心に立つセレーネとは対象的に、誰も彼もが呻き上げ地面に蹲っていた。
さながら爆心地であった。
剥き出しになった赤土と、その土砂に巻き込まれた男たちの肉体。呻き苦しみ、誰一人立つことはない。
「ふふ……そんな風に無様を晒していますと、悪い魔女に食べられてしまいますよ?」
「うぅ、ぁ、うぐぅ……」
「おや、ふむ……。……なるほど、どうやら聞こえていないようですね。なるほど……そうでしたか。ええ、いや、知っていましたが……知っていましたとも。ええ」
気恥ずかしさを誤魔化すように瞼を閉じたセレーネにも、男たちは構わず地に倒れ伏して無残な呻き声を上げるばかりだ。
音速の五倍以上での衝突による衝撃波と土石の洪水。
いわば耳元で風竜の吐息を受けたようなものだ。三半規管をその鼓膜ごと破砕され、男たちは揺れる世界の真っ只中に放り込まれた。誰一人、立つことは許されない。
今なら全員、赤子の手を捻るよりも容易く絶命させられる――。
上品な微笑と共に、セレーネは髪を左で結ぶリボンを直した。冴える銀髪の中、そこだけが雪原に吐き零れた鮮血の如く赤い。
そして――片方だけ残った蒼目で未だ晴れきらぬ土煙の向こうを見た。
「……出鱈目な女だ」
魔剣を正眼に構えた男――死屍累々と邪教徒が倒れて呻き声を上げる阿鼻叫喚地獄の只中、簒奪者の彼だけは健在であった。
残念と思うより、むしろそうこなくては――という思いが強い。
男の剣は、セレーネの魔剣よりも古き時代に製造された可能性がある。
一概に古き剣が強いとは言い切れないが、魔剣の材料の“貴”の結晶がより豊富であったのは過去……必然、古い魔剣というのはそれなりの権能を持ち合わせることが多い。
ともすると〈水鏡の月刃〉を上回る可能もある。
ふふ、とセレーネは妖艶に嗤った。
折角の相手だ。素晴らしい相手だ。魔剣の性能が上であれば上であるほど、あとは使い手の腕の見せ所となる。何ともたまらない戦いである。
「ごきげんよう。折角の魔剣であるので――ええ、今の一合で死んでなくて重畳ですわ。もし今ので死なれる程度なら、殺す価値すらなくなってしまいますので」
「狂人め……」
「いえ、恋する乙女ですわ。剣と死地に恋をしているのです。……まぁ、今の一番は別の方でありますので、今回のこれは恋ではないとしましょうか。そこまで軽い女ではありませんから」
ふしだらや移り気はよくない。セレーネは内心頷いた。
ともあれ――折角の魔剣を目の前にしたのだ。ここで黙って見逃す理由はない。昂る感情を吐息として口から漏らした。
「さて――では、貴方も魔剣の使い手というのであればすべきことは分かりますね? 魔剣使いと魔剣使いがこうして生きて向き合っているのです……かくなる上は――」
「ふふ、そうだな。……それほどの魔剣使いなのだ。こう言おう――我らと同じ信心を抱かないか?」
「……は?」
俄かにセレーネは停止した。
「我らの奉ずる〈永劫に真に尊きもの〉は、如何なる価値観をも受容しよう。如何なる価値観も、如何なる身分にも貴賤はない。“月下楼刃”のセレーネ・シェフィールド――或いは“歩く刃鳴”“鬼哭剣士”“滴る三日月”……どう呼べば気が済むかな?」
「……」
「その殺戮者の血……この太平の世の中では、さぞかし暮らしにくいものではないか?」
応えぬセレーネに代わって、男は差し出すように左手を伸ばした。
「どうせなら太平で埋もれるその赤き血……我らが〈永劫に真に貴きもの〉の為に活かしてみるつもりはないか?」
「……まず、太平というには乱れがあると思いますが。この間も外への戦……小さな争いも堪えませんし、あの街ですら些か穏当とは言い難き方々が潜んでいると聞きます」
「ふ……。〈深き魂の奉仕者〉のことか」
「深き魂の……奉仕者?」
訝しむようにセレーネが眉を寄せると、男は打ち切るように首を振るった。
なんらかの含みがある言動であるが――そんな思案を掻き消すように、更に男の言葉が飛ぶ。
「君が我らと同じ列に加わると言うなら、その時知ることになろう。なぁに、それほどの剣の持ち主だ。すぐに君も奉仕者から位階を上げることができよう。そしてそれほどの美貌と肉体ならば、〈敬虔なる守護騎士団〉の覚えもよくなる筈だ。……今の冒険者生活より、よほど豊かに暮らすことができよう」
「……」
「おっと、気を悪くするなよ。褒めているのだ。つまり――それほど君は修行の機会に恵まれる。すぐさま、より上級の位階に進むことができるということだ。……その魔剣も捨てがたいものであるしな」
口ではそう言いつつも、男の目線は魔剣そのものよりも使い手であるセレーネに熱を込めて向けられていた。それも、果し合いの心地よい灼熱の気配ではない。如何とも言い難い、粘りつくような熱気であった。
青と黒を基調とした葬儀屋を思わせる厚手の生地。それでも抑えきれないセレーネの肢体を透かすように、男の目は意味深に見つめてくる。
「この魔剣と同じだ。我らには優れた力が必要なのだよ。……ふふ、そこに差別はない。たとえどのような性格であろうと、たとえどのような境遇であろうと差別はされない。必要なのは我らが〈永劫に真に尊きもの〉を守るための剣であり、盾であり、勇敢な兵だ」
「……なるほど、貴方にとって剣はただの手段ということですか」
「そうだろう? ほかに何に使う? 魔剣とはこの世で最も優れた武器だ」
「はあ」
そういう意見もあるか――些か気勢を削がれたセレーネは残った左目を閉じた。
好きか嫌いかで言えば全く好ましくないが、男のそれも一意見だ。他人がどんな心情を抱いていようとも、そこに是非を論ずる権利はセレーネにはない。
間違いなく自分とは縁のない思想であるが、それはそれで別に構わぬ。他人の人生なのだ。
だが、まぁ……それはどうでもいい。残念であるのは、
「……やはり、想い人以外に手を出そうとしたのがよくなかったのでしょうね」
「なんの話だ?」
「いえ、こちらの話です。さて――折角の御誘いでございますが、生憎とお断りさせていただきますわ。私の命には、先約がおりますので」
「な……」
驚愕に肩を震わせた男が、それでも負けじと一歩を踏み出した。
「その命……命だ! 永遠の命が欲しくないのか? 〈永劫に真に尊きもの〉からの寵愛を受ければ、彼女たちのように永遠の若さと終ることのない命を得られるのだぞ?」
「永遠? ふふ、永遠というならまさに一瞬の斬り合いがそれに当たりますわ。……いえ、永遠ではなく無限でしょうか。生死の狭間にこそ無限はある」
「何を分からぬことを……」
「ふふ、ならいいですわ。縁がなかったということ。私は貴方の思想も性格も不作法も差別は致しません。殺すつもりはありません――死んでもらうまでのことです」
笑いながら、セレーネは〈水鏡の月刃〉を両手に構えた。
最早、殺す価値もない相手だ。望んでいたような果し合いというのは起こりそうにない。となれば、せめて魔剣の味とやらを確かめた上で――この非礼の輩には死んでもらうだけである。
乙女の身体に不躾な目線を送ったのだ。
笑って許せるほどセレーネも淫蕩ではない。貞淑なのだ。あまりに恥ずかしくて死んで貰いたさが募っていた。
「狂人め……!」
「ええ。“月下狂刃”のセレーネ・シェフィールド――それが最も気に入っている二つ名ですので。……さあ、遺言は考えつきましたか? これが最後の機会となります」
それとは別に己が死線に身を晒すことへの高揚に、セレーネは頬を吊り上げた。
いざや――死地である。




