第二十八話 セレーネ・シェフィールドという女 その二
天に突き立てるが如く蜻蛉をとって、シラノは一息に距離を詰める。
攻撃は攻撃で叩き落す。攻撃は攻撃で潰す。防御は攻撃で押し潰す――必要なのはただそれのみ。他の太刀は要らず。二の太刀は要らず。一の太刀を無限と振るえばいい。
やはり男は素人だ。片手で握る魔剣など、その刃ごと肩口から腕を一刀両断できる。
最早、悔恨の念すら与えぬと射程に収め――一足の距離。
だが、
「な――!?」
飛び込む身体を、まずはその足を何かに打った。止まり切れず、肘を打ち付けて踏鞴を踏んだ。
壁だ。透明の壁のようなものに、シラノの動きは阻まれていた。
オォ、と男の懐に鬼火めいた蒼い炎が灯った。溝の――刻印の刻まれた鉄板。そのことに目を剥くよりも先に、男が空いた左手を突き出した。空いた――否だ。禍々しい火山の絵が描いた絵札が収められている。
「〈我は松明、我は焔――燃えよ飛び岩!〉」
男が詠唱を済ませるなり、飛び出したのは火球であった。
咄嗟に飛び退き身を躱した真横を飛びぬけ、背後の遺跡に直撃し炸裂する。
見た目ほどの火力はないのか、本物の火山弾の如く強烈な発火は起こらぬらしいが……それでも人が受ければ重傷は免れないであろう。
「〈我は松明、我は焔――燃えよ飛び岩!〉」
横に飛んだ。焼け焦げる匂いを残した火球が、またもや遺跡を砕く。遺跡を――かつて暮らした人の跡を。
「〈我は松明、我は焔――燃えよ飛び岩!〉」
さらに飛んで距離をとった、転がりながら身を起こし、静かに呼吸を絞る。距離は八歩。
男の自信の根はなるほど至極単純であった。
魔術士――初めから魔剣の力を使う気はなかったのだ。であるが故に、あれほど無様な立ち振る舞いの素人ですら威勢よくいられたという訳だ。
「これで分かったかね? 貴様ら“外道衆”の、おぞましい邪神の法ではない。これが正しい魔術というものだ。我らが〈永劫に真に貴きもの〉はあらゆるものを許容する。魔剣も、魔術も、何もかもだ……! 魔物を崇め、“貴なる力”を排斥するくだらぬ信仰とは違う。この許しと愛が真理なのだよ!」
はき違えた優越感のまま透明の壁の庇護の向こうで両手を広げる男へと、シラノは静かに目を細めた。柄を握り締めて、肺から吐息を一つ。
集中と共に、触手へと念を送った。
極めて薄く鋭く、そして強度を変化されてあるが――あくまでも触手だ。操作はできる。無論それは、斧を用いて小枝に名前を刻むと言われる程度に極度の集中力と精密さを要求されることだが――壊すだけなら問題ない。
極紫色の刀身に、無数に亀裂が刻まれる。生木を火にくべたかの如く弾け割れる音を響かせつつ、それは瞬く間に刻印めいて刃を埋め尽くす。
「〈我は松明、我は焔――燃えよ飛び岩!〉」
「イアーッ!」
「なっ……!?」
一刀両断。爆発四散。
断つと同時に溝から噴出する高圧の無形の触手は、魔術の火山弾を容易く破壊し元の無形の魔力へと霧散させる。
破壊を以って破壊を塗り潰す攻撃――これこそ触手刀・改メ〈触手刀・“雷”〉。雷電めいた傷を刀身に刻み込んだ、破邪の剣であった。
「く……〈我は松明、我は焔――燃えよ飛び岩!〉」
「イアーッ!」
再びの一刀両断。爆発四散。
魔剣を断てる者が魔術を断てぬ道理はない。振り下ろす初太刀で焼け岩を斬断し、再び蜻蛉に刀をとり直してシラノは言った。
「諦めて武器を捨てろ。これ以上この場所を傷つけるな。……今ならまだ殺しはしねえ」
「殺しはしない? ハッ、殺すのはワタシの方だ! 我が御使いに仇なす触手使いめ……キサマら不浄なる者をここで誅することが我が正義と知れ!」
「……そうか。なら、やってみろ」
最早、是非もなし。かくなるは魔術の障壁ごとその身を一刀の下に断裂すべし。
俄かに柄を握り直すシラノの前で、魔剣を地に突き立てた男が黒いローブの内から何かを取り出した。
「見るがいい……これは亜竜の牙だ! 貴様ら滅ぶべき一族などでは手に入らぬ至高の一品だ! 我ら〈永劫に真に貴きもの〉を奉ずる者の力を持ってすれば、この程度を手に入れるなど実に容易い!」
得意げに両手を広げた男が、人の前腕ほどもある長大な牙を宙へと放った。
だが、落下しない。透明な巨人の掌に包まれたかの如く牙は空中で停止し、そして何かの圧に堪えるが如く震えている。瘧にかかった病人めいてその身を揺らし、巨大な牙は苦しんでいた。
あれは生まれ出ずることへの苦痛だ。生への慟哭だ。死から覚まされることへの咆哮だ――何故だかそう確信する。これが、男の切り札なのだ。
「〈我は深き世を知る者。我は遠き世を知る者。我は昏き世を知る者。いざ、眠りたもう屍よ。後の世にその御姿を表すがいい――――――亜竜顕現〉」
そして――不可視の魔力が色を帯びる。無形の力が方向性を持ち、肉によらぬ真なる奇跡としてこの世に顕現した。
それほどの巨大な牙を収める口腔であれば、そんな口腔を有する肉体が胴とは最早論ずるまでもないであろう。
それほどの、巨体であった。
人間二人が両腕を広げてもなお追いつかぬほどの翼と、馬車をも呑み込めるほどの胴体。死神の鎌めいて鋭き爪と、大地を噛み締める四つの四肢。
黄緑色の冷たい瞳の内、爬虫類特有の縦長の黒き瞳孔がシラノを照準してくる――黒き外套に身を包む男の隣、赤い亜竜がそこにはいた。
類律魔術――感応魔術の“生成”という権能による再現。男は、竜を呼んだのだ。
「ふはは! おぞましい触手め! 邪悪の申し子め! 貴様らなど滅ぶべき一族よ! 竜に飲まれて、ここで今すぐに滅びゆくがいい!」
高らかに声を上げる邪教徒の男へ、だがシラノは目線で応じた。
――いいや、違う。滅びるのはお前たちの方だ。
亜竜が雄たけびを上げた。空気が震え、耳朶が震える。いや、骨に響くのだ。そして多くの鳥がそうするように両翼を広げ――しかし規模が大きく違う――地鳴りを響かせ、一直線にシラノ目掛けて突進を開始する。
悍ましく乱杭歯が生え揃い、人間など容易く一飲みにするほど巨大な口腔。大地を揺らすその疾走と、腹の底から響く大音量の咆哮を前に全身の肌が粟立った。
「イアーッ!」
だが、構わぬ。負けじと召喚発声を張り上げ、抜き放った二刀を空中で合一。触手野太刀を天へと掲げ、迎え撃つべくシラノも疾駆する。
ああ、馬鹿馬鹿しい巨体だ。恐ろしい剛体だ。人間などの矮小な猿など、ただの尾の一振りで絶命するであろう。そう考えると、心底怖くてたまらないが――――巨体は一度見た。一度斬り捨てた。
ならば、何を恐れる必要があるか。斬れば死ぬのだ。斬って殺したのだ。ならば此度も見事その躰へと打ち掛かり、見事首級を斬り落とすのみ。
「イアーッ!」
大口を開けたその亜竜を、幾十本の触手の槍で迎え撃つ。如何な巨大生物であろうと、槍衾を前に止まらぬ道理はなし。
十で不足なら二十を。二十で不足なら五十を。五十で不足なら百を叩き込めばいいだけだ。止まるまで止める。殺すまで殺すだけ。
そして、槍そのものを足掛かりにする。生み出す触手で歩を固め、ただ一息に駆け上がる。
飛ぶは空中。振りかぶるは野太刀――改め〈触手大太刀“雷”〉。
握るはその柄。睨むはその首。そして、斬り下ろすは我が身なり。
「イィィィィイアァァァ――――――――――――ッ!」
――白神野太刀一刀流・零ノ太刀“唯能・颪”。
斬り込む大太刀――その亀裂から刀身全てを炸裂させ、放つは超高速の多重斬撃。盛大な轟音と共に、竜の首を一刀にて斬り落とした。
落下の勢いを宙から生み出した触手で殺し、土煙の中シラノは太刀の柄を光に還した。
「こ、このようなことが……! 貴様……貴様、ふざけるなよ……! 最早ただでは死なさんぞ……!」
「……ご自慢の邪教が教えてくれたのは、価値のない大道芸と情けない無駄口の叩き方だけか。随分と上等な教義だな」
「く、だ、黙れ……! この呪われた穢らわしい一族め! 〈永劫に真に貴きもの〉を貶める不埒者め!」
屈辱感を瞳に籠めた男へ、シラノは決断的に尖った眼差しを向けた。
非戦闘員を――……フローを狙ったのだ。
歩数にして五歩。魔術や魔剣という武器は未だに相手にある。警戒すべきであるが――――一方で関係ないと断じた。ただ斬る。この手合いなど、斬り捨てるのみであろう。
そして、足を持ち上げ――地目掛けて叩きつける。
「イアーッ!」
半径五歩以内。召喚陣が生まれるは地中。
地面を伝わった半液状の触手が、次いだその身からの召喚が、魔術の盾を潜り抜けた鞭として真下から強烈に男の股を打ち上げた。股間を潰した。
――白神一刀流・七ノ太刀“無法”、並びに二ノ太刀“刀糸”、重ねて九ノ太刀“陰矛”。
無論、それに留めない。即座にシラノは駆け出していた。そして――柄を握り締め、放つは一刀。
「イアーッ!」
――白神一刀流・零ノ太刀“唯能”。
超音速の触手抜刀は宙に生じた透明の盾を容易く両断し、破壊の逆流がその大元たる刻印魔術の鉄片を男の懐で爆発四散させた。
魔剣とは魔術の上位である。ならば魔剣を砕く触手の技が、魔術を平らげられぬ道理などない。
斬撃のまますぐさま地を蹴ったシラノと、股間を押さえて這いつくばる邪教徒。男は涙目で指を震わせながら、火球の絵札を構えようとしていた。
「ぐう……貴様ぁ……! 〈我は松明、我は――」「イアーッ!」「うぐぅ!?」
遅い。
一閃。振りかぶった触手刀が絵札を握る腕を折る。峰打ちである。だが、前腕は叩き折った。
「この、呪われ――」「イアーッ!」「あがぁ!?」
更にもう一撃。逆からの振り下ろし。鎖骨を砕く。
「き、貴様だけは――」「イアーッ!」「ふぐぅ!?」「イアーッ!」「おごごぉぉ!? ゆ、許し――」「イアーッ!」「あぶっぅぅ!?」「イアーッ!」「おげぇ!?」
鎖骨に四連撃。生木を折るような音を響かせ――痛みに耐えかねたのだろうか、男は完全に膝を折った。
前蹴りを打ち込んで身体を大の字に開かせる。
おかしな道具はもうない。腹を蹴って背中を返し、剣先でベルトを落とした。更に二度三度腹を蹴りつける。震えて悲鳴を上げるだけで何も起こらない。
隠し持った装備は、おそらくは、ない。
もう一度強く蹴りつけて表に返して、喉元に突きつけた刃を下ろす。
「ゆ、許し……ゆるしてください……あやまります、あやまりますからぁ……」
すっかりと意思が砕かれた男は、情けない瞳を向けて首を振るのみだ。これ以上、いたずらに叩きのめす必要はないだろう。
「イアーッ!」
「ふげぇ!?」
だが念押しとして胴を蹴り飛ばした。男は身体を抱えて蹲った。
……ここから抵抗ができるとしたら大した役者だ。これにて、脅威は去ったということだ。
ふぅ、と腹の底から吐息を吐く。何度か拳を握り、瞼を開き直した。
それで怒りは霧散した。
怒りは我を忘れさせると聞くが、どうやらシラノは異なる性質の持ち主であったらしい。
むしろ怒りは恐怖を忘れさせ、普段の如く死に物狂いにならないが故に状況が良く見えた。そして頭脳は怒りを確実に履行する為の手順を冷静に示す。それに従うのみであった。
しかし、
「……」
折角手に入れた魔剣を男が何故使わなかったのか。
その事に疑問を懐きつつも、流れ弾での怪我はないかと振り返ってフローを確認しようとし、
「イアーッ!」
己に迫る銅色の刀身を触手とともに殴り上げた。咄嗟に払った拳が切れる。
刺突。喉元めがけて繰り出されていた。
ぷぅんと、やけに甘ったるい匂いがする。甘ったるいのに鼻腔を刺すような香りは、断じて自然にあるものではない。
そして、己に向けて〈茨木の異剣〉を繰り出したのは先ほどまでは影も形もなかった――ノーメンと揃いの黒衣の男であった。
「くく、貴様が触手使いか……あと少しでその首を落とせたものを」
「お前は……」
「だが、ここはこの魔剣を得た功労を讃えてやろう。……いずれ確実に滅ぼすにしてもだ」
先ほどノーメンが、何故魔剣を用いなかったのか。
単純である。仲間内で、それほどの地位にいなかったのだ。
目の前のローブの男の実力は上。おそらく、先程の小物より位階も上。何より油断ならないのは……シラノの戦闘をすっかりと見抜いてから襲いかかってきたというその一点だ。
情報の重要さを知っている。それだけで、警戒すべき敵であった。
「……どこから湧いたんスか?」
「類律魔術の応用だ。とは言え魔術士でないこの身では、使い切りの一方通行だがな。……ふ、説明が必要とは。貴様ら触手使い風情に魔術は早いか?」
「そうか。……ところでお前の仲間は、その触手使い風情に情けなく許しを請ったぞ」
「……あまり侮辱するなよ。我らに仇なす“邪なる者”が……!」
フードの奥に隠れて、男の顔立ちは捉えられない。
だが――。油断なくシラノは剣を構えた。眼差しに険を込める。
「……邪教徒が魔剣に何の用だ」
「貴様らには知り得ぬ大義の為よ」
「なるほどな。……骨を折られただけで無様に投げ出す大義の為か」
「貴様……!」
魔剣を握り締める男に怒りがこもる。
来るか。奥歯を噛み締めつつ切っ先を相手の頭部に照準する。だが、意外にも男の身体から怒りが霧散した。
「ふん。今はその時ではない……その首、預けておこう」
「……逃げるつもりか?」
「逃げる? ここはその不敬を見逃してやると言うのだ。〈茨木の異剣〉!」
ゾ、と首の裏におぞけが走った。シラノは飛んだ。
銅色の魔剣と共に、虚空を何かが薙ぐ。何かだ。見えない。だが、シラノの第六感は危険を叫んでいた。
そして、斬撃に合わせて遺跡の一部や地面が抉り飛んだ。
何たる破壊的な光景か。だが、そのまま転がり立ち上がり、極紫色の触手刀を男に向け――放つは触手の技。
「イアーッ!」
――白神一刀流・零ノ太刀“唯能・襲”。
放たれた音速の五倍超の触手三段突きは、影をも断つ光の一閃として男目掛けて突きこまれるが――――だが、空中で何かに当たって明後日の方向に飛んで行った。
男は魔剣をただシラノに向けているだけだ。動きは、ない。
「ふはは、無駄だ。憐れな触手使いが」
「……そうか。なら、この先も試してみるか」
「ふん。……黙れ。我らの〈永劫に真に尊きもの〉にその穢らわしき触手を向け、我らの悲願を奪った愚かな血族が……! だが、容易くは殺さぬぞ……!」
男の剣が、回すように振るわれる。それに合わせて遺跡の一角が削り取られ、崩落が開始された。
物理的に距離を開けられる。一歩を踏み出そうにも、倒壊してくる廃墟の破片を前に駆け出す決意が作れなかった。
「ふははは、次はその不遜な貴様ら触手使いを根絶やしにすると約束しよう!」
崩れ落ちる遺跡の土煙に合わせて、男の高笑いが響く。
触手刀の柄を握り締めるシラノの元へ――――駆け寄ってきたのはフローであった。
「大丈夫!? シラノくん、今治すからね!? ここは危ないから早く帰ろう!?」
宙に現れた虹色の召喚陣から、半液状の触手が左手の傷口に流れ込む。
寄生され己の肉体が作り変えられる――奇妙な快感の中、シラノは決断的に首を振った。
「……いえ、追撃します。今あいつは自分が『してやった』と思ってる。『一杯食わせて』『退いてやった』と……喰らい付くなら今しかない。その油断が命取りだ。このまま喰い殺します」
「ええ、実に賛成ですわ。ですがその前に……シラノ様、触手を噛んでください」
何を、と問い返す暇もない。
「――ふッ」
抜き放たれた〈水鏡の月刃〉が、シラノの左腕の肘から先を跳ね飛ばしたのだ。
「シ、シラノくん!? シラノくん!?」
「ぐ、ぅ………!」
「セレーネさん、シラノくんに何するんだ! いくらキミでも許さないからね!」
「ぐ……が、ぁ……! せん、ぱい……ッ!」
涙目で掴みかかろうとするフローの襟を掴み、無理矢理に背後に引き戻して庇う。
触手刀の柄を握る手に冷や汗が伝った。
乱心なのか。だが、こんな時期に行う女には思えない――そうシラノが目線をやれば、セレーネは満足そうに頷き視線を動かした。
彼女の眼の先の、斬り捨てられたシラノの腕……その傷口が、フローが塞いだ筈の傷口が広がっていた。塞いだそのすぐ下から、あたかも見えない根が張るように破壊がシラノの肉体を侵食していた。
「その傷をご覧になってください。……それがおそらくはあの魔剣の能力。追撃は全く正解ですし、この程度で貴方様が屈したり敗れたりする筈がありませんが……おそらく今のままでは、追撃先で片腕を失っていたでしょう」
「ぐ……」
「どのような能力かはともかく、手傷が致命傷になる武器。一言で言うならば、あまりにも貴方様とは相性が悪いものでありますね。……まぁ、魔剣とは元より初見殺しに秀でた武器でございますが」
やれやれ、とセレーネが溜め息をついた。
だが、シラノは拳を握り地を踏み締めた。
「見逃せって……そう言ってるのか、シェフィールド……。邪教徒に魔剣が渡ったんだ……! 誰かを斬る前に……ここで、魔剣を砕く……!」
たかが片腕だ――。震え上がりそうな痛みの中、そう己へ努めて言い聞かせる。
思考に刷り込む――。確かに平時ならば重症であるが、これは戦いだ。まだ立っている。命はある。負けには程遠く、こんなものは戦端を開いた際の手傷にしか過ぎない。
そうだ。そう思え――。ひたすらに言い聞かせる。
強力な魔剣が邪教徒の手に渡った以上、見逃す理由などどこにもない。腕の痛みは後で考えればいい。誰かが死んでからでは遅いのだ。
邪魔をするなと目を向けると――セレーネは困ったように慈愛の微笑を向けた。
「……ふふ、ええ。追撃は賛成と申しましたでしょう? あのような手合いは調子づかせてはならない。速やかに追いつき、即座にその首を刎ねるのが最上……ですがシラノ様はその手傷――とくれば」
にぃ、と奥ゆかしく口角が上がる。だが、その淑やかな顔の裏には隠しきれない残忍で冷酷な気配。どこまでも凍えた狂気の瞳――スカートの端を摘まみ上げる彼女は、まさしく剣鬼セレーネ・シェフィールドであった。
「――私が斬りますわ。近頃、どうにも手応えがない獲物ばかりでしたので……ここらで一つ、噛み応えのある逸品でも喰らいませんと」
貞淑な笑みのまま、両手の〈水鏡の月刃〉を握りなおすセレーネ。
初めて出会ったときと同じだ。怜悧な美貌の奥に潜んだ獰猛な熱狂。生のやり取りに至上の歓喜を見出す修羅の姿が、そこにはあった。
「お前、初めからそれが目的か……」
「ふふ、そんな目をしないでください。……片腕を落としたことへの咎は、後程いかほどにでもお受け致しますので」
当たり前だ。片腕を半ばから落とされて、内心平穏な人間などいない。
怒りはある。あるが……。
「お前、覚えてろよ……シェフィールド」
「はい。……まぁ、敗れて死ぬかもしれませんが」
「死ぬなよ。勝て。……頼んだぞ、シェフィールド」
「ええ。セレーネ・シェフィールド――〈水鏡の月刃〉、いざ」
百戦錬磨のセレーネ・シェフィールドが追撃を行うなら、断れる道理はなし。
腕を襲う灼熱の痛みを感じつつ、シラノは緩やかに吐息を絞り出した。




