第二十七話 セレーネ・シェフィールドという女 その一
雪が降っていた。全てが白の下に沈む。記録的な豪雪だった。
その頃の彼女にとっては――――自分にとっては、本を読むことだけが唯一の楽しみだった。
現実の自分は、言われた通りに言われたことをやるだけの人形のような人間であり、その生活は自由や意思というものとは無縁である。
男に気に入られる為に。男に好まれる為に。家の為に男に嫁ぎ、縁故を結び、男を支え、そしてその跡取りを産む。
それが自分という女の人生だと、幼くして悟っていた。
悟ったというか――実際、両親がそう教えていたのだ。そして教わった通りに従順に育った。
人生という言葉には、画一的な生き方に合わせて自分を剪定して行く――それ以上の意味などなかった。次から次へと現れる課題を順々に解いていく、果てしない決まりきった消化作業の如きものでしかなかったのだ。
だから、本を読むのは楽しかった。
その時だけは、自分は自分以外の誰かになれる。決まった型などない個性ある誰かになれる。そんな誰かの人生と一体化し、誰かの記憶を追体験できる。
教養を深める為、と勧められる本の中に幾つか自分好みのものを混ぜ入れた。……今にして思えば、当然ながら父母はそれに気付いていたのかもしれない。
それでも、自由な身にならぬ娘のささやかな望みだと――そう思って見逃してくれていたのだろうか。今となっては確かめようがないが……。
既に勘当された身だ。醜く傷を作り、どこへも嫁げなくなった女の顔などは両親としても見たくもないだろう。
ただ――と思う。
あの、暗く静かな書斎の机が己にとっての始まりだった。
そこがきっと――セレーネ・シェフィールドという女の、原風景なのだろう。
偉大なる戦記を前に胸を高鳴らせ、大いなる英雄譚や叙事詩に心を踊らせ、醜悪な民衆とそれでも輝く英傑に血を滾らせる。
とりわけ心地よかったのは、一騎討ちの倣いがある物語だ。
やはり一騎討ちというものは良い。敵が魔物にしろ、人間にしろ、そこにはただ二つの個がある。二つの個だけがある。
他には何もいらないのだ。どんな栄誉も名誉もしがらみも、何もかもが余計なもので本質には至らない。大切なのは生命だ。
生命が二つ。なんの飾りも嘘もなく向き合う。そして、生き残るのはどちらか一方。
勝者は栄光を手にしながらも死者の分の破滅をも背負い、敗者は何にもならぬ骸として野山に打ち捨てられていく。
そこには虚飾や虚構もない。懸命に生きた、という結果だけがある。
――これだ、と思った。
これが、本物の生き方だ。本物の人生だ。
そう――斬り合いの果てにこそ己という不純物は砕かれ、打たれ、晒され、研ぎ澄まされていく。斬り合いのその果てに残ったものこそが、真なる己なのだ。
いや、己に真などない。
ただ、結果として戦いの果てにこの世に残されたものがあって――それが己の人生の帰結であり、己という存在の結晶であり証明なのだ。
それを生み出すという過程、その行為も何よりも得難いものだ。そこは一瞬でありながら無限であり、無限でありながら一瞬だ。その刹那こそを、己の人生として愛でるべきではないだろうか。
こう生きよなどという命令はない。型はない。生きた果てに結果が伴うに過ぎない。
斬れば判る――ああ、まさしくその通りであろう。
そう。セレーネ・シェフィールドは天啓を得たのだ。
そしてかつて己が家には魔剣が伝わっており、それが混乱や没落の最中に忌むべき他者の手に渡ったというならすべきことは一つ。
その主がより魔剣に相応しいならセレーネは斬り捨てられ、セレーネが相応しいというなら己が手中に収められる。
そこに嘘はない。
たとえ策謀や技術はあれど、それは己や敵という個の集大成だ。卑怯や卑劣という言葉はお門違いだ。戦って、勝つ――――その過程や結果に嘘はない。
本物の、己だけの人生を探しに行こう。剣の果てに見付けよう。
彼女はそう決意した。ならばいざ、すべきは討ち入りであり、取り返すべきは己が家伝の刃であった。
いざや、速やかにその首級を取るべし――――思い立つなりセレーネは腰を上げた。
それが明くる日の、剣鬼セレーネ・シェフィールドの始まりであった。
いつしか雪は止み、それでも空は白く雪の気配を覗かせる冬の日のことだった。
◇ ◆ ◇
「……さて、どうするかだ」
試すこと数十分、一同は車座を囲んでいた。
シラノが全力で猿叫と共に試みてもどうにもならず、ひょっとしたら清らかな婦女子でなければ抜けないのかとフローに任せるも無意味で、ならば触手使いでない男ではどうだとノーメンに託すも駄目。
既に魔剣の主であるセレーネはどうだろうかと試しても、やはり無駄であった。
抜けない魔剣。なるほど、これほどまでにこれみよがしな形で置かれているのに今まで誰も奪っていないというのは、そういうことであったのか。
「なんていうか……“根が張っている”みたいな感触なんだよな、深く、広く……根が」
「それが、この魔剣の能力なのでしょうね」
「能力か……能力……能力なんスね。能力……」
「シラノ様?」
セレーネが、怪訝そうな瞳を向けてきた。
「いや……なんつーか、あの……一応聞いておくけど、選ばれてないとかじゃないスよね……?」
「選ばれる?」
「いや、その……け、剣に……」
「……魔剣は人を選びませんわ。これは戦いの道具ですので。誰がどう使っても、起きることは変わらない――故に何を為すかは当人次第。勿論、その……耐性のない使い手が死ぬとか、そういう話は聞かなくもないですが」
「どっちなんだよ……」
「あと、一部には使い手を選ぶ魔剣もいるとは聞きますね。それと……正しく使い手になったなら、すぐさまにその身の能力がわかるとも」
「どっちなんだって……」
分かってはいたが、剣に選ばれない――と言われると心に来るものがある。やはり男の子なので、それは辛い。
だが、ここは気を取り直した。すべきことがあるならば、止まるべきときではないのだ。
「それで……能力だとして……一体どうするか、だけど」
能力の詳細までは分からないが、人間が大樹を掴んで引き抜こうとしている――それほどの無謀と思えるほどに揺らがなかった。
複数召喚した触手の力で引き抜くか。
そうとも考えはしたが、おそらくは無駄であろう。それに同行者――一般的な魔術士然としたノーメンの手前、剣はともかく全く無加工の触手を見せるのは憚られた。
ううむ、と首を捻る。現状では推理材料が足りない。
「はい、シラノ様」
「なんスか」
「やはりここは台座から完全に砕くべきかと。刺さっている穴を破壊し広げれば、自ずと魔剣も零れ出ましょう」
「……」
すごい御無体な解決方法だ。こわい。
一旦は保留し、フローへと目を向けて見る。フードを被り直された。ノーメンという初対面の人間がいる為か、いざ輪を囲むと緊張するらしい。
「ええと、よろしいでしょうか」
「あ、どうぞ。ノーメンさん」
「その……この遺跡の中に、何やら手がかりになるようなものは残されてはいませんか……と。思ったのですが……」
「遺跡の中……」
確かにそれが正攻法であろう。
だが、おそらくは遥か昔からここに突き刺されていたのだ。正攻法とはありふれたということで、つまり同様の解決方法など既に試し尽くされている。
それでいて未だに刺さっているというのは、遺跡の中に手がかりなど微塵もなかったか、手がかりに辿り着く前に皆が絶命したかのいずれかだ。
「……」
確なる上は台座を粉々に破壊するしかないのか。
いや……ふとシラノは思い至った。というか、何故失念していたのか。
「……なぁ。というかこれって……抜いてもいいものなんスか?」
「というと?」
「いや……罠がないのは判ったけど、抜くと呪われるとか……抜くと何かの封印が解かれるとか……そういうの、ないのかって……」
疑問を口にしてみると、三人から酷く奇矯なものを見るような目を向けられた。
「それはね、シラノくん――」
「シラノ様。魔術というのは発動方式による四つの術式……そして、術式には関連する四つの性質もありますが……大まかには、効果による四つの分類がございます。つまり逆説的に、その四つの効果以外は存在しません」
「ええと……?」
「つまり、魔術や魔剣に呪いや封印なんてものはありませんよ。幻想譚や童話ではありませんので」
繰り出されたのはそんな夢のない言葉であった。
シラノの衝撃を他所に、セレーネは粛々と続けた。
「あ、そ、それでねシラノくん? 効果ってのはね――」
「効果というのは四つ……『生成』『加重』『変容』『転化』です。それぞれにはある程度、大と小がございますが……これは覚えずともよろしいでしょう」
「ええと……」
「つまり――魔力そのものに形や実体などというこの世への影響力を与えること。既にあるものに運動を加えること。既にあるものの形状や状態、強度などを変えること。既にあるものを別のものに置き換えること……ですわ」
「物理的な効果しかない」
何が魔術だ。それでは人の身と意志で自在に操る科学ではないか。
軽く夢が壊された気がする。なんとも言えない目をすると、追撃が入った。
「あら、ならば細かい解説が必要でしょうか? 共律――相似魔術の四性質は『支配』『染色』『変貌』『譲渡』。例えば『支配』とは異なる物質双方に因果関係を作り、これが正の効果となると従属・負の効果となると隷属として現れます。正に目掛ければより高いところに引き上げられ、負に焦点を合わせればより低い方へと貶められることとなる。これを利用し火事の鎮火や逆に種火を広げることの――」
「シェフィールド」
「例えば同じ『転化』であっても、使う魔術の方式によって結果というのは異なってまいります。相似魔術で『転化』を用いると、例えば穢れの浄化の如き、ある程度の纏まりや括りという形での効果。これを活かすと小は物体そのものの類似化、大はその周囲の状況の類似化という形で現れ――」
「シェフィールド」
「形意魔術や或いは感応魔術における転化とは、この中間点であるアンセラ様の例が分かりやすいでしょう。彼女は狼の皮を被ることで己を『二足歩行の狼』と看做し、そして感応魔術により元は狼であったものを用いることで概念を補強。結果として彼女は己の肉体を置き換える『転化』の使い手となりますが、これは広義には再現の意味も持ち合わせており、現れる姿には伝承としての――」
「シェフィールド」
機械めいた早口であった。辞書か。生き字引か。シェフィペディアか。
「あら、なんでございますか。シラノ様」
「……お前なんで剣なんて握ってんだ」
はなはだ疑問であった。どう考えても野山で剣を振り回していていい筈がない、そんな人材である。
ひょっとすると彼女が剣を振るうということは、この世界の魔術の進歩というのを遅らせているかもしれない。
僅かな言葉の端々から、あまりにも高い教養が伺えた。
「なぜ剣を……ですか? あら、そんなものは――好きだから、で十分ではありませんか?」
「……そうだな。今更だったな」
「まぁ、もしも夫が領地を治めるならばその時に助言をできるよう――或いは家計が傾いたとしても内職ができるよう、一通りこのような技能を修めさせられただけでございますので。……所詮は剣に比べると、素人の手慰みのようなもの。たった一度の素振りには及びませんわ」
「……」
なんということだろう。セレーネはハイパームテキお嫁さんフォームの使い手だったらしい。
もし彼女が剣に出会わなかったら、それはそれは至高の奥方となっただろう。その身に詰め込んだ知識を十分に活かし、慈愛と知性に溢れる領主の妻として一家や領民は末永く幸せになったかもしれない。
だがそうはならなかった。剣に出会ってしまったのだから。
無用の長物――今後仮にセレーネが結婚することがあったとしても、即座に彼女自身の手によって未亡人が生まれるのだからこの手の技能は永遠に活かされない。そして彼女自身に活かす気がない。
一体、魔術の神が何をしたというのか。ここまでの仕打ちをされる謂れなどなかった。
何たる無慈悲な剣鬼であろうか。
もう魔術の神はセレーネの夜襲を躱すほどの腕前を持ちながら、夜襲されてもまるで動じずに夫婦生活を続けてくれる夫を探すしかない。
そんな奴がこの世にいるとは思えないが、この世界の魔術の発展の為になんとも頑張ってほしいものである。
「うぅ……ぐすっ……ぐすっ……」
「どうしたんスか、先輩……そんな『得意満面にカナヅチに対して泳ぎの解説をしようとしたら隣の奴にぶっちぎりで滝を逆さに上られた村の泳ぎ上手』みたいな顔して」
「ほっといてよぉ……どうせボクなんかさぁ……うぇぇぇぇ……」
啜り泣くフローは、フードを目深に被って体育座りで土をいじっていた。彼女がこうなるのは、ままあることなのでひとまずは目を瞑ろう。
そして、もう一人の――というか正しい意味での専門家であるノーメンを見ると、呆然と目を見開いていた。よほど衝撃的であったのか。だが無理もないと言える。両手に剣を握って、道中で現れた魔物を意気揚々と切り刻んでいた眼帯の女がこれだ。
正直なところシラノとしても詐欺であると思ったが――まぁ、それはそれだ。
「ええと……んで、ノーメンさん。ここからどうしますか?」
「え、ああ――ええと、その……き、危険はないようだから……依頼した通りに、剣を手に入れて貰えたら……」
「うす。……じゃ、やり方はこっちに任せてください」
専門家がそう言うのなら、と拳を鳴らした。
遺跡に対しては心苦しいが……こうなったら力業という正攻法で挑むしかない。
そう、暴力はいつだって最短の解決法だ。難攻不落のゴルディアスの結び目は剣で断ち斬れとアレキサンダー大王も言っている。万能の魔法の鍵なのである。
「いえ、シラノ様。正確に言うなら危険はありますわ。剣を回路の一部として取り込んだ刻印魔術が仕掛けられていた場合、引き抜くと共に『変容』の効果が切れ――例えば強化していた容器の強度が著しく下ることで中身が噴出するという罠もあり得ます」
「お前は脅したいのか、脅したくないのか」
「……いえ。まぁ、それでシラノ様に死なれたら非常に残念なので、どうせなら今斬っておいた方がよいかなぁ――と思っているぐらいでしょうか」
「……」
「ですが、それも勿体無いなぁ――とも。どうするべきでしょうか……」
少し困ったような笑みで頬に手を当てるセレーネの腰で、〈水鏡の月刃〉はぬらりと光っていた。
まるで笑えなかった。
◇ ◆ ◇
全員がすっかりと距離を取った中、シラノはただ一人剣の台座に向き合う。
〈茨木の異剣〉――この鄙びた遺跡同様、歴史の重みを感じさせる剣であった。柄には枯れ木色の柄紐が結び付けられて持ち手を作り、両刃に波打つ銅色の刀身だけはさながら冬の森めいた寒々しい白で縁取られている。
台座は雨風に角が削れて、その表面も崩れかけている。だが、それでも刀身に錆一つ見えない。この剣が魔剣なのだと、確かに頷けるものであった。
「すみません。……貰っていきます」
頭を二度下げてから二度両手を合わせる。
もしも敵が用いていたならば、躊躇いなく砕いたであろう。だが魔剣が憎い訳ではない。むしろその超常の法理と、作り上げた刀工や歴代の使い手たちには畏怖に近い念を抱いていた。
それだけに、こうして落ち着いて眺められるというのは良い機会であった。本音を言えば少し気持ちが浮ついているというのも、我ながら無理がないだろう。
土中に染み渡らせた不定形――半液状の触手の、幻肢の触感のようなフィードバック――なんとも奇妙な存在しない感覚器からの“触った感触”を受け取りつつ、シラノはもう一度頭を下げた。
これまでここにいた人へ。これからここを壊す人間からの、謝罪と畏敬だ。
「ふぅー……イアーッ!」
地に掌を乗せ、そして叫んだ。
――白神一刀流・合ノ太刀“土蜘蛛”。
さながら地鳴りの如く地が波打ち、地底で爆弾が破裂したかの如き振動が強烈に襲い掛かる。
これこそは奥義――半液状として地面に沁み込んだ触手そのものが召喚陣となり、土蜘蛛の爪めいて無数の触手抜刀を放ちのける大技であった。
根が引き抜けぬならば、その絡みついた根ごと地面を吹き飛ばしてやればよい――実に単純にして明快、そして快刀乱麻を断つ一刀両断の解決法である。
「イアーッ!」
地面から押し出され、宙で回る〈茨木の異剣〉の銅色の刀身を触手で掴み取った。
先ほどまでのあの重い抵抗が嘘とも思えるほどその剣は軽快で、そして軽すぎない。手に馴染むとはこのことか。流石の魔剣である。
さながら雲の縁や木々の輪郭の如く、凹凸に波打った両刃の刀身。
一息に相手を断つというよりも、斬りつけた傷口に幾度と刃を這わせ、大袈裟かつ致命的に広げるための悪辣な意匠にも感じられる。
あるいは、刀身のどの部分で殴りつけても切れ込みをいれるように――だろうか。繊細な斬撃というよりも、力任せに振り切ることを目的とした構造にも見て取れる。
叶うならその力を用いてみたいとも思うが、これはシラノの剣ではない。使い手以外が無暗に振り回すのは憚られる代物だろう。
「ノーメンさん、これを……」
「ぁ――は、はい……! ありがとうございます、これで何とか面目が立ちそうです……! ありがとうございます!」
「いえ」
面目という言葉に僅かに引っ掛かりを覚えたが――ともあれこれで依頼は完遂。手に入れたのだ。
まさにこれこそ一件落着であった。
……代わりに大切なものを失ったかもしれない。主に浪漫とか。男の夢とか。幻想とか。
いつから自分はこんなに夢を失った解決方法を選ぶ男になってしまったのだろうか。その辺り、シラノとしてはいい加減悲しくなってくる。
宝箱を開ける魔法の鍵を探すよりもさっさと爆破して解体した方が手っ取り早い――なんて行為をそのまま実践してしまうなど、もう、かなり末期だ。
「御見事ですわ、シラノ様」
「……ああ、どーも」
「いえ……それにしても、いつのまにこれほどの技を? ええ……まったく、私に隠し事をするなんて薄情ではありませんか。……少し傷つきますわ」
「……」
「まったく、こんな素晴らしい技など……ええ、これは是非とも斬り結んでみたくなるというか……腕試しをしてみたくなるというか……」
「……だから教えなかったんスけどね」
間違いなく斬りかかられる。しかも、おそらく夜襲よりも本気で来られること間違いなしだった。
「シラノくん、シラノくん! ふふ、やっぱり流石はボクの一番弟子だね! ボクの自慢のお弟子さんだよ! これはお姉ちゃんとしても鼻が高いかな! ふふ、ボクはキミの師匠だからね!」
「姉なのか師匠なのかハッキリしてください」
「うん? ボクはお姉ちゃんだよ? 師匠だよ? 先輩だよ?」
「……ああ、はい。うす」
それでもフードが外れることも構わず、全身で喜びを表現して小躍りをするフローを見ているとそれ以上の野暮を言うことは憚られた。
まぁ――一件落着したのだ。当の師匠から無粋であるとか品がないとか言われない限りは、これも立派な触手の技による事件の解決だ。依頼の完遂だ。
もう少し、軽い探索でもしてみるかと息を吐き――
「先輩ッ!」
フローを庇うように飛び込んだ。その華奢な体を抱きかかえ、空中で上下を入れ替えながら下敷きになる。腹の上にフローの体重を感じた。人間一人と地面に挟まれた肺から、着地と共に空気が零れ出る。
そのまま、相手を睨む。
たった先ほどフローが居た空間目掛けて――鋭い刃が振り抜かれていた。そのままなら、彼女の頭部を落として居ただろう。
「……ええと、一つお聞かせ願えますか。依頼人というのは――その、自殺幇助の希望者でしたか?」
両手に〈水鏡の月刃〉を抜き放ったセレーネが、凍える声色で切っ先を向けた。
だが――その人物、ノーメン・ネスキオラはまるで慌てた様子も見せない。
それどころか、薄ら笑いさえ浮かべていた。不健康そうな爬虫類めいた顔が歪み、ノーメンは意気揚々と両手を広げた。
「感謝するよ……君らのおかげで、ワタシも魔剣を手に入れることができた。これは来るべき日にとっての、大いなる戦力となるだろう……その点は素直に感謝するとしよう」
「……どーも」
「だが、貴様ら触手使い……我らが〈永劫に真に貴きもの〉に仇なす愚者め……! 貴様らだけはここで討つ……! 貴様らなど、この祝福された世界にはあまりにも相応しくないからだ……!」
向けられる狂信的な憎悪の目。
その隙だらけの身体目掛けてセレーネが斬りかからぬよう右手で抑え、シラノはゆっくりと立ち上がった。
「……お前、邪教徒って奴か」
「邪教? ふん、歪なのは貴様らだ。我らが〈永劫に真に貴きもの〉の至高さも分からぬ愚物どもが……皆かつてのように審判を受けるがいい! 貴様ら旧世界にしがみつく遺物どもになど、祝福は相応しくない!」
「……」
正気を呑み込まれた。或いは自ら狂気へと身を委ねたか。〈茨木の異剣〉を握った男の瞳からは、既に人間らしい意思の光が失われていた。
ゾっとする。
人間が、こうまでも別の生物の如き目をできるのか――少なくとも未だかつて、シラノの知る内には存在しなかった狂った眼差しであった。セレーネのように理性の中に狂気を宿すのではない。己から望んで全神経を狂乱という麻薬に浸した薬物中毒者の目であった。
だが、
「シラノくん……」
背後から心配そうに見上げてくる――たった今その命を狙われたことに恐怖を感じながらも、何よりも己自身よりシラノを思いやったフローのその目を見れば――――。
グ、と無意識に拳を握り込む。そして気づけば、決断的に一歩を踏み出していた。
「……セレーネ、先輩を頼む」
視線もやらず、左手で背後に庇うようにフローを押す。セレーネが、少し残念そうに吐息を吐いたが知ったことではない。
敵だ。
騙されたとか、利用されたとか――そんなことはどうでもいい。
そんな段階は過ぎた。
その一線を、超えたのだ。
「フン、すぐに貴様らおぞましきものどもは闇に返してやる。いいや、貴様らだけではない……〈永劫に真に貴きもの〉の御姿を崇めず、讃えようとしない全ての人間どもをだ……!」
「……」
「精々、怯えて死ぬがいい! 貴様らに許されるのは藁のような死だけだ! この世で永遠への恩寵を受けるのは我々だ。祝福の教えを受けぬ貴様らではない……!」
歪な笑みを浮かべて、男が剣を構える。
やはり、どう足掻いても素人だ。リアムやセレーネ、或いは最初に邂逅した魔剣使いには及ばない。
だからこそ不気味であった。その魔剣は、痩せぎすの男にそれほどまでに自信を与える代物なのか。それとも他に当てがあるのか。それとも単なる気の違った愚物の戯言なのか。
だが――そんなものは一向に構わなかった。それらは懸念であれど、恐怖ではない。脅威を感じることはあっても、恐怖に怯える必要はないのだ。
即ち――
「その大層な教えとやらに礼儀作法は入っていないらしいな。……魔剣、断つべし!」
「おぞましき血筋が何を言うか……! 我らが信仰へのその不敬……ここで根絶やしにしてやる……!」
――斬り捨てるべし。
「イアーッ!」
シラノは柄を握り、そして即座に地を蹴っていた。
相手取るは邪教の信徒。そしてその手に携えられた古の魔剣。未だその能力は見当もつかぬが――できることは、ただ斬り拓くことのみである。
握り込むは触手の柄。いざや、存分に斬り込むだけであった。