第二十話 密着!触手剣豪二十四時
日常回です
触手剣豪の朝は早い。
シラノの一日はあまりにも早く、グランギョルヌールが鳴き出すよりも前に目覚めることから始まる。
「むむむーっ!? むむむーっ!? むむむーっ!?」
というのも夜這いが来る為だ。
シーツをかけた身体の上。少しでも身体を動かしたらぶつかってしまいそうなぐらい近く、豊満な乳房を揺らしながら空中で呻き声を上げる女がいる。空中触手緊縛大殺法される女がいる。
永久凍土の国に降る雨の如き銀髪と、凍てつく氷河じみた蒼白の隻眼。特徴的な黒い眼帯で右目を覆い、氷で彫刻した刃物めいて鋭い美貌の女だ。
というかセレーネである。セレーネだった。
氷めいた美貌が、縁日で売ってる色素マシマシのシロップがぶっかかったかき氷に思えるぐらい台無しに触手に縛られている。なお、揺れるその胸部は豊満であった。
でも両手に三日月めいた鎌剣を忘れぬ辺り、流石の剣鬼である。
…………というか夜這いというか夜襲であった。それも定期的に行われる。警戒を怠ったらシラノは寝首を搔かれるだろう。実際こわい。
「……またか、シェフィールド」
「ふふ……昨日はあれだけのことがあったのに、油断はなさっていないのですね? ええ、重畳ですわ。素晴らしい剣士の心構えです」
「……まぁ、どーも」
触手猿轡を外すと、さっきまでの呻き声はどこへやら。いつも通りの上品な顔に戻る。
なお、両手どころか全身に触手の蔦が絡みついていた。触手が食い込むその胸部は豊満であった。
「……先輩がそっちで寝てるんだから、起こさねーであげてくださいよ」
「ええ。……しかし完全に剣を振るえぬぐらい抑え付けられると、ここからどうするか考えものですね」
「流石に一度で懲りたんで」
「ふふ、いい心がけです」
「……どーも」
一度、手首への緊縛が足りなかったことがある。
熱い吐息を耳元に吹きかけられて目を覚ませば、セレーネに身を添わせるようにのしかかられており、なんと首を〈水鏡の月刃〉で挟まれていた。
いわゆる一つの詰みという奴であった。心地よい目覚めどころか永眠に叩き込まれる類いの。
そのときは暫くそのまま居られてから見逃されたが、もしまた再度同じことがあればセレーネに斬り捨てられてもおかしくない。彼女はそういう女である。色気よりも殺気なのだ。
なお、睡眠時に使用しているのは百神一刀流・八ノ太刀“帯域”――召喚陣を開きながらも何も召喚しないことで、その上を何かが通過した際に時間差で発動するという罠的な技である。
眠っているような意識がない間も触手の力を使い続けろ――そんな修行であった。お陰で悪夢を見る。
「ああ、シラノ様」
「……なんスか?」
「おはようございます。昨日は実にお疲れ様でした」
「……うす」
軽く頭を下げながら、シラノが部屋を後にする。
ふぅ、とセレーネは吐息を漏らした。
同じ部屋の中、仕切りとして作られた極薄の触手壁の向こうではフローが何やら寝言を言いながら泣いている。
昨日のことが堪えたらしい。シラノを一人置いていくのは、よほど夢見が悪かったのであろう。
中空に視線を漂わせ、
「……さて。先に厠に行っておくべきでしたね」
どうしたものかと逡巡しつつ、彼女はフフと上品に笑った。
◇ ◆ ◇
冬の朝というのはいつまでも薄暗い。空を未だに暗幕が覆い、地平線の下の太陽は闇を僅かに持ち上げることしかできない。
星もまだ瞬くことをやめず、名残惜しげに天に輝いている。
肌を刺すような静謐な空気の中、首が隠れる程度まで赤紫色の髪を伸ばした少女――アネット・ア・ブネイは深呼吸をした。
木こりである父は冬の朝を嫌っていたが、アネットは決して嫌いではない。明けきらぬ夜に大地は眠りから覚めず、世の中にたった一人きりになったかの如き錯覚を抱くほどの静寂。そんな気配が好きだった。
それは道行きの賢者からいくつか魔術を習い、冒険者として街に出てからも変わらない。
仕事で何か失敗をしてしまったとき。組んで仕事を受けてた冒険者が嫌な人間だったとき。そんな日の翌日は、彼女は決まってこうして朝の散歩をしていた。十二で仕事を初めてから三年間、ずっと変わらない習慣だ。
ふぅ、と白い吐息を吐く。
最近冒険酒場は忙しい。人手が少ない上に魔物の発生件数も増えているのだ。疲れが抜け切らない内に次の依頼に駆り出される。(任意の上に受注という形であるが仲間が稼ごうとする以上は断りきれない)
でも、こうして一人で歩いていると冷たい空気に癒やされる。頭までも冬の空気のように澄んでいく気がする。少ない人の気配は、どこかアネットの実家近くに似ていた。
意味ある沈黙を満喫して歩く。そんなときだった。
(あれ……? なんだろう……?)
何か物音がする。騒がしいというか、けたたましいというか。
どうかしたかな、と首を捻る。彼女の魔術は様々な薬草の札を持つ形意魔術――札を煎じたり水に溶かしたりする――なので、多少なりとも手当や治療も行える。
ひょっこりと顔を出した。そんな先で――
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
褐色にほど近い暗い金髪の少年が、その髪を汗でしとどに濡らして。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
腹の底からの雄叫びと共に一心不乱に。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
渾身の一撃を一撃どころでなく幾度も振り下ろし続けている。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
極紫色の長大な片刃の剣を天めがけて真っ直ぐに一本構えて、中腰になりながら。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
紫色の触手の束にめがけて。何度も何度も。おぞましい発声を上げながら。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
ズバンとか、ズドンとか。歯引きをしているその刀を振り下ろす度に触手が揺れる。
というか、よく見ると切れている。刃がないのに。力任せに千切っている形なのだろう。
こわい。それが真剣で、それが人に当たったらどうなるというのだろう。こわい。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
左に構えては斜めに。右に構えては斜めに。何回も何回も腰を落としながら、全力の一撃を何回も何回も繰り出している。
いや、そもそも全力って何度も行えるものなのだろうか。全力ってなんだろうか。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
しかもよく見ると空中に何本も触手の線が張ってある。おまけに火花を散らして、どうやらそこには軽い雷が流れているらしい。それが、ほとんど檻めいて彼自身を取り囲んでいる。
必要以上に肩を上げ過ぎたら。腰を落とし過ぎたら。背中を反り過ぎていたら。或いは体が左右に揺らぎ過ぎたら。
そうなると、触手に触れてその雷の餌食になるだろう。つまりあれだ。そのアネットより二つぐらい歳上の彼は、矯正しているのだ。
正しい姿勢以外では自分の痛みになるように。どんなに疲れても痛みで正しい姿勢を取り直させるように。
……これは虐待ではないか。アネットは訝しんだ。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
こう、なんだろうこれは。なんなのだろう。何が起きてるんだろう。
腰を落とした爪先立ちで、足を前後に目一杯開きながら一心不乱に触手を殴りつけ続ける触手使い。
なんたる冒涜的な邪教の儀式たる有様だろうか。ひょっとすると何かを呼び出そうとしているのかと思えてくる。
弾ける電気。唸る剣閃。上がる雄叫び。揺らぐ触手の束。飛び散る汗。跳ねる剣先。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
いつまで続けるのだろう。
見ている方が疲れるぐらい殴りつけている。やはりそういう儀式なのだろうか。全力で神に捧げる奉納をする的な。
捧げられた神様も困惑しないかな、というぐらい鬼気迫る勢いで振り下ろされていた剣がついに止まった。
どうやら終わりらしい。これ以上続けていたら怪我をしやしないかと心配になって来ていたので、これは本当にありがたかった。
……と、思ったら。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
紫電を弾けさせる触手に四方を囲ませて、彼自身めがけて振るわせている。これまたどんな自虐行為なのだろう。
しかもそれを振り下ろす剣で叩き落としている。防御なのか攻撃なのか。攻撃をそのまま防御に使っているらしい。左から振り下ろすか右から振り下ろすかしか技が違わない。
そのまま、とにかく早く。近付く触手を片っ端から叩き払っていた。
「イアーッ! イアーッ! イアーッ! イアーッ!」
何が彼をそうさせるのか。周りを一切見てはいない。ただただ全力で攻撃を捌くのみである。捌くというか潰すというか。
もうそこになんの理屈もなかった。
とにかく敵を倒す。倒される前に倒す。倒されるまでに倒す。倒れるまで倒す。倒すと決めたら倒す。そんな気合しか感じない。
なんたる嗜虐心に溢れた自虐的な苦行だろうか。そう、修行というより苦行である。剣を振るうこと以外にあらゆる目を向けさせないようにそうしているとしか思えない。
もうあれはそういう生き物だ。そんな域まで達しようとする祈りにも思える。蛮神への祈りである。それか死神か。
「……」
帰ろう。
決意したアネットは、何事もなかったかのように引き返した。
◇ ◆ ◇
ワイワイと小規模ながら雑多な活力に満ち溢れる朝の酒場の中、シラノたちはいつも通りの角の席に腰掛けていた。
既に済まされた食事は、木製の平皿となって積み上げられている。
上品な笑みを浮かべて口元を拭うシェフィールドに、両手を合わせて小さく頭を下げるシラノ、そして……顔にも姿勢にも締まりという言葉が欠けていて、とにかくだらしないフロランス。
黒いコートに包んだ上半身を、ぐでっと丸机に投げ出していた。
「なんで起こしてくれなかったのさぁ……」
「こないだ起こしたら『もっと寝かせて』っつってたじゃないですか」
それも布団にしがみついて、である。
引き剥がすのも悪いのでそのままにして、以後フローは誘っていない。なので彼女は今も無事に十時間睡眠を維持していた。
だが、急に弾かれたように身体を起こすとフローは勢い良く人差し指を突きつけてきた。
「いいかい? ボクはお姉ちゃんなんだよ? 師匠なんだよ? 先輩なんだよ? お姉ちゃん抜きで修行をするなんて、それはいけない行為なんだよ? 判るかい、シラノくん?」
「なあシェフィールド」
「うわぁぁぁぁぁあ――――――ん!? 無視するなよぉぉぉぉ!?」
「明日は誘うんで」
「きっとだぞぉ……ぜったいだからなぁ……」
「うす」
潤んだ瞳で見つめてくるフロー。だらしない姉、略してだらし姉。
さて、ならばもっと早起きすべきかと逡巡する。フローはお世辞にも寝起きが良いとは言えない。それなりの時間を取られると思うべきだ。
となれば、セレーネにも一言言っておくべきだろうか。どうせ夜襲をするにしても、せめてもう少し早朝で頼むとか――――と考えつつ、シラノはふと口を開いた。
「先輩、食べカスついてますよ?」
「え?」
「逆です。もちっと下です…………あー、動かないで下さい」
折り畳んだ白い布でフローの口元を拭った。
こんなことに備えてシラノは毎日清潔に保った布を持ち歩いている。最悪なら出血の止まらない傷口や溢れた内臓を縛る為に使うかもしれないし、実際この間は刀を縛り付ける為に使った。
そう、ハンカチやサラシは剣士のマナーである。
「取れたっスよ、先輩」
「…………………………………………ハッ」
「先輩?」
何かに気付いたようにフローは目を見開き、そしておもむろに先ほど終えたばかりの食事の皿に手を伸ばした。
口を結んで首を捻ったかと思うとやけに楽しげな笑みになり、今度は今度で腕を組んで眉間に皺を寄せながら皿を眺めている。
「……」
そして何某かの結論に辿り着いたらしきフローから、屈めと手招きされるままにシラノは腰を折った。
すると、含み笑いのフローはシラノの頬に人差し指を一本。ちょん、と細い指の感触が頬に走る。
そして彼女はシラノめがけて、大輪の花が開くような眩しさの満面の笑みを浮かべてきた。
「……何してんスか?」
「ふっふっふ……シラノくん、駄目だなあ! ほっぺたに食べカスがついてるよ? お姉ちゃんが取ってあげよう! ボクはお姉ちゃんだからね! ふふ、シラノくんは仕方ないなあ!」
「……」
焼けた小麦生地の破片を摘んで、シラノは丁重に皿に返した。
「うぇぇぇぇ……なんでだよぉ……最近シラノくんが冷たいよぉ……お姉ちゃんが嫌いなのかよぉ……なんでだよぉ……」
「見捨てる選択肢がないだけ、優しいんじゃないスかね」
「もっと優しくしてよぉ……酷いよぉ……お姉ちゃんイジメて楽しいのかよぉ……」
「さあ」
改めて空になった皿に向けて「御馳走様」と手を合わせたシラノは、椅子から腰を上げた。
◇ ◆ ◇
「イィィィィィィイァア――――――――――――ッ!」
ズドン、と凄まじい衝撃が大気を揺らした。
研ぎ澄まされたシラノの一閃は魔物の頭頂から腹部までを一息に断つ。そして周囲には、そんな死骸ばかりが転がっている。
本差を為すのは触手野太刀。通常の触手刀よりも遥かに長く、分厚い刃である。それだけに生み出すには通常の触手刀二本を生じさせた後に合わせて再形成する必要があるが、戦い方としてはこれが最適だった。
シラノの腕では多彩な剣術などは使えない。
故に、攻撃も防御も「振り下ろす」という一太刀で事が足りる戦法へと行き着いた。これならば、全ての鍛錬の時間を唯一の技に注ぎ込める。防御を為す攻撃という技に。
全ての敵に触手の技で対処できると限らぬ以上、剣技を磨くのは急務と言えた。
(すげえな、薬丸自顕流……ありがとうな)
やっぱり薩摩隼人はヤバイ。シラノは改めてそう思った。
「修行の成果が出ていますね」
「……シェフィールド」
「ええ、こちらは少しばかり仕事が早く片付きましたので、少々お暇を。……ふふ、お嫌でしたか?」
「いや……」
魔剣使いとしての腕もさることながら、剣士としての腕も立つセレーネである。その仕事も実に最小限の労力で足りたのだろう。
こうなりたいものだ、とシラノは頷いた。
互いに初見での戦いであった為にあの結果となったが、次は判らない。セレーネの魔剣は種が割れてもなお脅威である。
故に己も更に励まねばならぬとシラノは克己心を新たにした。白神一刀流に――シラノ・ア・ローに敗北の二字はあってはならないのだ。その為なら、努力というのも必要経費だ。
「……先輩は?」
「フロー様ですか? ええ、本日はまた事務作業のお手伝いだとか」
「そうか」
昨日の今日だが、結局あれからフローを外への依頼に誘えてはいない。
だが、それも仕方ないとも言えた。増殖する魔物――あの場は切り抜けられたが、次も上手く行くとは限らない。そう思えば、軽率に誘うのは躊躇われるのだ。自分一人に留まらぬ、命懸けという奴は。
「……ところでどうでしょう、シラノ様。また少々、立ち会いを致しませんか?」
「立ち会い」
「ええ、男子は三日で竜に変わると申しますが……研鑽というのも中々に実を結んだご様子。そう決心されるとは、何か貴方様の中でも替え難く得るものがありましたか? ええ、それを是非とも知りたいと思いまして」
「……」
「……となれば、やはり剣かと。生き死にの狭間でこそ、貴方様の存在を確かに感じられますわ」
「そのりくつはおかしい」
軽率に誘ってくる女だった。自分一人に留まらぬ命懸けという奴を。
「……シラノ様は、私のような女のことは知りたくないと? 深く関わる気がないと?」
「いや……俺は何もそこまでは……」
「ふふ、悲しいものですね。……やはりこのように顔に醜い傷のある女は、殿方には望まれぬものなのでしょうか」
「いや……そんなことは――」
何とかフォローをしようと手を伸ばしかけ、シラノは気付いた。セレーネは後ろ手に〈水鏡の月刃〉を隠している。
うっかりと近付けば、シラノの首を掻っ切っただろう。そういう戯れの瞳であった。
「……趣味が悪いぞ、シェフィールド」
「あら。……ふふ、思った以上に私のことを見ていてくれるのですね。とても光栄ですわ」
授業のつもりなのか悪戯のつもりなのか判らないが、セレーネは定期的にこうしてシラノを試してくる。
何が恐ろしいかと言えば、試すつもりが本当に斬り殺すことになっても――それはそれで仕方ないことだと頷きそうなところだ。
「……なあ、今後もうお前と話すのやめてもいいか?」
「いえ……ふふ、嘘は含まれる真実が大事と申しますか。先ほどのも半分は本心ですよ?」
「半分は」
「……もう半分は、恋心――というものでしょうか。ええ、やはり……一度は貴方様に敗れてしまった以上、その時よりもなお強くなったシラノ様を前に立ち会ってみたいと思うのは――女として当然のことですわ」
恋心=武力。
そんな恐ろしい女はお前しかいない。シラノはその言葉を呑み込んだ。
◇ ◆ ◇
そんな風に魔物を斬り、魔物を斬り、魔物を斬り、素振りをし、素振りをし、素振りをし、肉を食い、肉を食い、肉を食う。そうしてシラノの一日は終わる。
健康的な一日だ。剣豪的な一日だ。
これはこれで充実した一日であるが、なんか思っていたのと違うような気もしなくもない。冒険者というより工事労働者のような気がしてくる。
方向性を誤ったか……そう思わざるを得ない。あまり幻想的な感じがしない。一体どこで歯車が狂ったのだろうか。
(魔術……ダンジョン……そうだな、聞くとしたらアンセラあたりになのか?)
少なくとも同じ冒険者たちがそんなものと関わっている、というのはシラノも知っていた。
だがシラノには縁がない。シラノとセレーネには縁がない。シラノとセレーネとフローには縁がない。積み重なるのは実績と魔物の死骸ばかりだ。
このままでは自分はアーサー王伝説に降って湧いたカンフー武僧のようなものではないか。異物感極まりない。
なんというか、こう、折角の魔法と剣の世界だ。満喫したいと思ってしまうのは男として何もおかしくないだろう。当然とも言える。
(旅か……ここでの仕事が終わったら、先輩とシェフィールドと旅にでも出るか……。そうだよな……折角だもんな)
どうせなら、色々なものを目にしたい。そうシラノ自身考えるところであったし、一人だと確実に引き籠もったまま光溢れる世を儚んで終わりそうなフローを連れていくのは多分悪いことではない。
そうだな、と頷いたところだった。
ズバン――と、同室のフローが扉を勢い良く押し開いて帰ってきた。
「シラノくん、シラノくん!」
「なんスか?」
「実は今日、街に買い物に行ってきたんだよ! いやあ、あんまり商人が来てないって聞いたけど、まだちゃんと品揃えもあるんだよ? すごいと思わないかい?」
「そうですね。……あと一応聞くけど、一人で行ったんですか?」
「まさか! キミはボクが一人寂しく街で服を眺めてトボトボ帰ってくる女に見えるかい?」
「……見えないっすね」
街で一人、食べ物屋の前をウロウロしながら結局入れずに帰宅して泣きながら干し肉を食べるタイプだ。
思ったが言わないことにした。武士の情けである。
「ふふん、実は受付の皆と行ったんだ! どうだい? だいぶ打ち解けてきたと思わないかい? ボクは皆と一緒に買い物に行ったんだよ? すごいお姉ちゃんだと思わないかい?」
「そうスか。……それは、よかった」
「なんだよぉ、もっと褒めろよぉー。お姉ちゃんだぞ? 先輩だぞ? 師匠だぞ?」
「そうですね」
ふふん、とけたたましく胸を張ったフローは非常に上機嫌に黒い三つ編みを尻尾のように揺らしながら奥のベッドを目指す。
四人部屋だ。手前にシラノ、その奥にフローである。セレーネは、帰ってきたり来なかったりしている。というか伏撃を企んでいる。
ぽす、と麻袋を投げ置きながらフローがベッドに腰掛けた。なんだか意味深な笑みを浮かべている。嫌な予感を覚えるという、例のあれだ。
「……それで、だよ? せっかく女の子ばかりが集まったということで……実は色々と服も買ってきてね?」
「はぁ」
「ふふ、シラノくん? お姉ちゃんの色気をもっと感じる服が気になって仕方ないかな? お姉ちゃんに悩殺されちゃいたいかな?」
「いあ」
上目遣いでコートの裾を捲り上げようとしたフローが紫色の壁の向こうに消えた。
“甲王・劔”――触手三段シャッターである。境界線の侵略者や婦女子のいる部屋への侵入者も殺せる優れものの壁だ。
「何するんだよぉ! そんなにお姉ちゃんに興味ないって言うのかよぉ!」
「そっすね」
「うぇぇぇぇ……じゃあボクは女の子じゃなくてなんなんだよぉ……珍獣か何かなのかよぉ……」
「……」
「なんか言えよぉ……かわいいって褒めろよぉ……うぇぇぇぇ……言えよぉ……ボクが嫌いなのかよぉ……」
壁の向こうからのあまりにも情けない泣き声に、シラノはポリと後頭部を掻いた。
事務仕事でどの程度賃金が貰えるか判らないが、更にその見習いである以上は察してあまりがあるだろう。前線に出続けるシラノでさえ、全員の食事代と宿代を差し引くとその辺りの露天で肉も買えない額であるのだ。
そんな裏方のフローが、おそらく人生で初の仕事仲間との買い物をした。
それを手酷く突っ撥ねてしまうのは、あまりにも冷たすぎる悪鬼の所業ではないか。ブッダも助走をつけて真空飛び膝カラリパヤットをかますだろう。七度地獄に落ちても仕方がない悪行である。
眉間に皺を寄せたシラノが口を開きかけ、
「……ふふん」
そのとき、パサリという音が部屋に響いた。
パサリ、である。
パサリだ。何が――いや一体何を。いやいい、大体判る。シラノもまた健全な男子である。
「ふふ、どうだい? シラノくんの年頃なら、女の子の服が擦れる音だけでも想像しちゃっていやらしい気分に――」
「いあ」
「触手震わせるなよぉ……防音するなよぉ……なんでだよぉ……ボクの声も聞きたくないって言うのかよぉ……」
「……」
「寂しいよぉ……うぇぇぇぇ……やだよぉ……返事してよぉ……」
女性の生活音にも安心。あなたのプライバシーにも配慮します。異性と同室になってしまう冒険者の女性にも安心!
白神一刀流は伊達ではない。シラノは配慮も考えた触手使いであった。敗北の二字はないのだ。
(さて……)
そしてシラノはおもむろに上着を脱ぎ捨て、上半身を露わにした。
ここからは鍛錬の時間だ。ここからはというか、ここからも鍛錬の時間だ。いつだって鍛錬の時間だ。
努力が得意ではなかった前世とは随分とかけ離れたな、とシラノは我ながら思った。
しかしこれも必要経費だ。この先の戦いでも魔物を斬り捨てる為にも、あらゆる敵に敗北せぬ為にも、シラノ自身が強くならなければならない。強くあらねばならない。
ならばそこに、好きだの嫌いだのというものは存在しない。往くと決めた以上、それは退くべきことや止まるべきことを意味しないのだ。
「イアーッ!」
空中に呼び出した触手鉄棒に飛びつく。
そして腕を縛り吊り、おまけに触手を溶かして手を完全に覆う。これでどう足掻いても鉄棒から離れることはない。
そして、地から足へと触手を巻き付けた。これで下方向への負荷をつけ、身体を引き上げる懸垂の効率を大きく上げるのである。
「ぐ……っ!」
鉄棒が胸につくぐらい身体を引き上げ、そこから足を前目掛けて地面と平行になるように持ち上げる。持ち上げる――いや、腹筋を縮めるのである。部位を意識せよ。
更に脇腹に力を込め、手で窓を拭き掃除するように足を左右へと大きく弧を描くようにゆっくりと動かす。鉄の針金を腹に刺し入れて溶かして、今にも内から引き千切らせんと震えさせるように――熱を伴った重い痛みがやってくる。
かなりの負荷だ。多くの回数は必要ない。今は腹筋を破壊して破壊して破壊しつくして、そして肥大させるべきときだ。
腹筋があれば姿勢が安定する。そして腹の傷でヤワに内臓を零させない。これだけは毎日続けるべきだ。いや、毎日続けていた。
そうとも。これが触手だ。これが触手の真の力だ。
補助にも使えれば、負荷にも使える。
やはり、触手というのは決して女性に対する性的な嫌がらせの為にあるものではない。これこそは、あらゆる戦いに繋げられる力だ。
「……俺は、触手剣豪だ」
決意を込めて声を上げる。負けてはならない。揺らいではならない。折れてはならない。いや、たとえ折れようとも斬らねばならない。
それがシラノの責務だ。シラノがすべきことだ。
この世界の全ての涙を拭うなどと言うつもりはないし、自分はそこまで上等な人間ではない。それができる人間ではない。
だが、負けてはならない。そして、逃げぬと思ったならばそれは退くべきではないというときだ。故に立ち向かわねばならない。
フロランス、エルマリカ、そして魔物から逃げ走っていたあの少女のような――――――。
あんな顔をさせていい筈がない。
そんなことは許してはならない。そんな顔をさせてはならない。誰が許してもシラノ・ア・ローは立ち向かわねばならない。退いてはならない。
戦え――――と己に言い聞かせて、
「その……シラノ様…………そのように触手で身体を包んで、あの……何をしているのですか?」
「見るなよ……今の俺を見るな」
シラノは逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。
触手に密着される剣豪。二十四時というか時間は二十時だが。
ともあれ、これが――――触手剣豪の一日である。
日常回(物理)です




